表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/55

第三十話 葵御前の鈴音供養・上

 桃塚の里は、中原京の近郊にある湖とその周辺の地名で、古くはもも塚と書いた。


 南方の出瑞山を源流にもつ八俣川やまたがわを主流に、複数の河川が低所に集まって生じた湖は、上流のどれか一つでも氾濫すれば十中八九洪水の被害を受けた。

 その度に湖畔は身元不明の溺死体で溢れ、多数の無縁塚が築かれたために"ももの塚"が並ぶ湖と呼ばれたのである。都人からは永らく死霊の巣食う水難の土地と忌まれ、漁村が点在する他には無縁仏を弔う寺がいくつか建つ程度の、ひどく寂しい場所だった。


 だが歴代の大国主尊の不断の治水工事によって水勢が安定し、湖が都と地方を結ぶ水運の要衝として機能し始めると、様相は一変する。


 諸国を渡って芸を売り歩いていた遊女の一座が、往来の増えた水運の人夫や、渡し船の乗客を当て込んで湖畔に常駐するようになったのだ。

 最初は周辺の寺院が鎮魂の法楽のために寄宿所を設けて召し抱えていたが、やがて遊女たちが自ら宿を営み初め、都と地方を結ぶ官道に軒を並べて大規模な宿場を形成した。


 自らを天女と自称する遊女たちは、仙果とされる桃を湖周辺に植樹し、桃園と湖畔を眺望できる座敷を設えた。趣向を凝らした幻想的な空間で、多芸多才な美女たちの機知に富んだもてなしを楽しめる遊びの里は、風雅を好む都の貴人の心をたちまち掴んで評判を呼ぶ。

 不吉な百塚の名はいつしか桃塚と雅に改められて、当世一の花柳界となったのである。


 梅雨入りの気配を感じ、桃の木々がたわわに実を結びつつある、五月初旬。日暮れの宿場のあちこちから遊女の歌声や管弦の音色が響く中、一艘の渡し船が喧騒を厭うように船着き場を発った。


 夕日を浴びて茜色に染まった、桃塚の淡海あわうみ。船は波立つ湖面を浮き沈みしながかいを漕いで行き、やがて狭い陸地に辿り着く。桃塚湖に浮かぶ無人島で、鬱蒼と生い茂る森の中に水死者鎮魂の仏堂が建つ事から、御堂島と呼ばれている小島だった。


「お堂に着いたぜ、葵姉さん」


 船を岸辺に寄せた壮年の水夫かこが下船を促すと、たった一人の船客が弱々しく、頼りなさげに立ち上がる。


 葵と呼ばれた女客は、年の頃二十半ば。長く垂らした髪の艶といい、白粉や紅を施した化粧映えといい、その辺の百姓女など比べ物にもならない、優れた容貌の持ち主だった。鮮やかな錦の衣を重ね着して紅の袴を穿き、鼓を収めた櫃を抱えたそのいでたちは、まぎれもなく桃塚の名物たる遊女の一人である。


 目も眩むような晴れ着に身を包む湖上の天女――だが彼女の表情は伏し目がちで、暗い憂愁に沈んでいた。


「ありがとうございます……すみません、毎度毎度、私一人の参籠さんろうのために船を出して頂いて」


 しきりに頭を下げて謝辞を述べる葵御前に対し、水夫が制止するように言った。


「いいってことよ。同じ桃塚の住民のよしみさ……それに、幼い鈴坊すずぼうを長者さまが引き取った頃から知ってる身としちゃあ、あの子の弔いを疎かにはできんよ」

すずちゃんのためにありがとうございます。お陰様で、七日ごとの追善供養も今晩で最後です。名残惜しいけれど、とうとう四十九日を迎えましたから……」

「ああ。明日からはきちんと振り切って、自分のお勤めに専念しな。死人を悼むのは悪い事じゃねぇが、引きずられすぎるのも良くねぇ……世間では、鈴坊は天界だか竜宮だかに行った事になってるんだしよ」


 水夫は櫂を浅瀬に突いてもたれかかり、黄昏時の湖面を見つめながら深いため息を吐く。悲しみや憤り、呆れといった感情が複雑に混じりながら漏れ出ていた。


「……長者さまは情けが薄いお方だ。自慢の養い子がいなくなっちまったのに、お線香の一つもお上げにならんとは。それどころかお偉いさんと口裏合わせて、桃塚を売り込む出汁にしちまうだなんて」

「長者さまを悪く仰らないでください。あのお方は、鈴ちゃんがまだ生きているとお考えなんです……出瑞の神さまに召されて、人々の前に姿を表さないだけなのだと」

「神隠し、ね……まぁ、俺も桃塚の住人だ。遊君ねえさんたちの商売には口を挟まねえし、長者さまの御言葉には従うさ……おっと、そろそろ日が隠れちまう。かみさんが心配すっから、俺は失礼するぜ。犬ころ一匹いねぇ小さな島とはいえ、夜は用心しろよ。朝の一番で迎えを出すから、それまでお堂に籠ってな」

「ええ、帰りもよろしくお願いいたします」


 水夫が静かに漕ぎだし、対岸の宿場へ戻っていく。御堂島に残された葵は、船が遠ざかって見えなくなるまでそれを見送った。


 葵は仏堂へ上がると、七日ぶりに訪れる堂内に積もった塵埃を丁寧に掃き清め、日没と共に灯明を点す。本尊である龍女菩薩りゅうにょぼさつ像に香と水を手向けて静かに合掌した後、用意した鼓を打ち鳴らして仏讃の法歌のりうたを厳かに奉じた。


 桃塚ももつか湖の水面に波紋を作らんとする勢いで響く鼓と、月夜を一層物憂げに感じさせる儚ない歌声。相反する二つの音質が調和して、湖より深く、波より激しい悲しみを表現する。


 狂言綺語きょうげんきごの あやまちは

 仏をむるを 種として

 あらき言葉も 如何いかなるも

 第一義だいいちぎとかにぞ かえりなる

(長らく詩歌の遊びにうつつを抜かし、修行をなおざりにしていました。今まで磨いた業前で仏を称揚することで、今までの不品行をかえって悟りを拓くための礎にしたいと思います)


 女人にょにん五つの 障りあり

 無垢の浄土は うとけれど

 蓮華れんげし濁りに 開くれば

 龍女も仏に なりにけり

(女には成仏する上で五つの障害があり、清浄から遠い穢れた身だと人は説きます。けれども汚泥の中から蓮華が花開くように、穢れ多き龍女は教えを受けてたちまち悟りを拓きました。同じ女の私たちが、成仏できない理由はありません)


 仏は常に いませども

 うつつならぬぞ あわれなる

 あかつき音せぬ 道場に

 ほのかに夢に 見えたまう

(仏はいつも私たちを見守ってくださいますが、目に見えないからこそ一層尊く思われます。夜明けの道場で瞑想する人の静かな心の中に、おぼろげに立ち現れなさるのです)


「ふぅ……」


 いくつもの法歌を奏した葵は、やや疲労の色を浮かべた面持ちでため息をつくと、鼓を肩から降ろして小休止した。


 気が付けば夜は更け、小窓から見える月はすでに空を昇り切って山の端を目指し始めている。水鳥たちの互いを呼び合う鳴き声も絶え、小島に打ち寄せるさざ波だけが静寂を乱していた。


 葵は仏前に座り込み、灯に照らされた龍女菩薩像の尊顔を拝した。葵を見つめ返す、菩薩の包み込むような慈悲の相。しかし、まもなくじわりと目頭が熱くなって直視できなくなる。


「う、う……」


 葵は涙があふれ出す顔を袖で覆うと仏前にうつ伏せて、嗚咽を漏らしながら鬱屈した思いの丈を吐き出した。


「船頭さんにはああ言ったけれど、やっぱり長者さまはひどいわ。鈴ちゃんの死を悼むどころか、里の売名に利用するなんて……それは、これから世に出る妹弟子たちを後押しする、鈴ちゃんの死を無駄にしないための心配りなのはわかってる。けれど……身内の不幸を口さがない世間の娯楽に供するなんて。しょせん、私たちは使い捨ての玩具でしかないの? 世間の男たちに弄ばれた揚句、老いさらばえれば放り棄てられて……いっそ尼になって、こんな辛い憂き世から離れたい。でも、年期奉公も明けていない身でそんなの許されるわけもなし」


 鼓を懐に抱いて、しくしくと項垂れる。その楽器は鈴音と共に出瑞参りへ出た折に道中の巡業で用いた、可愛い妹弟子との思い出の品であった。


「けれども、何よりも許されないのは私。鈴ちゃんが死んだのは、私のせいだわ……」


 葵は仏前に供えた花を見つめながら、目の前にいない少女に懺悔した。


「私が出瑞詣でに付き添ったのは鼓打ちだけではなく、鈴ちゃんが行きずりの男と間違いを犯さないようにと、長者さまからお目付け役を言い含められていたの。でも内心では、鈴ちゃんに桃塚の外で素敵な出会いがあればいいと祈っていた。だからこそあの日、一人でお山に登らせたのよ。御神酒を背負って神域を目指す参拝者に、不真面目な男はいないはずだから……でも、私が目を離したせいでこんな事に。ごめんなさい鈴ちゃん……」


 聴く者とていない寂しい仏堂の中で、後悔と自責の念に駆られるまま、つらつらと呟く。


「可哀想に……これからが人生の華だったのに、いい人も見つからないうちにいなくなるなんて」


 そう嘆いた時、不意にある事を思い出して葵は仏像を見上げた。


「そうだ……たしか、鈴ちゃんを助けようと川に飛び込んで、一緒に行方不明になってしまったお侍さんがいたと、お宮の巫女が言っていたわ。見ず知らずのあの子を、我が身も省みず救おうとしてくれたのだもの。きちんとお弔いしなければ失礼ね――」


 葵は改めて居を正し、鼓を構えなおした。左手で持った鼓を右肩に乗せると、右の平手でその鼓革を打って、演奏を再開する。身体を震わせる力強い響きが、鈴音たちの逝った異なる遠い世界へ届く事を祈りながら、葵は名も知らぬ若侍に哀悼の短歌を詠んだ。


 別れに 頼るの無き 早乙女さおとめの 手をとりたまえ 死出しでの連れ人

(死んだ女は、初めて契った男に手を引かれて三途の川を渡るそうです。でも恋も知らずに亡くなった乙女には、渡しを頼める人がおりません。彼女を助けようとして道連れになってしまった不運なお方よ。どうか三途の川の瀬でもう一度、あの子に手を差し伸べてくれませんか)



南無龍女大菩薩なむりゅうにょだいぼさつ、南無龍女大菩薩。女人成仏、畜生成仏、即身成仏を成し遂げた智慧ちえと神通力を以って、一切皆苦の穢土えどに生まれし我らを、とりわけ迷える死者を、安楽なる無垢の浄土へ転生させたまえ。南無龍女大菩薩、南無龍女大菩薩……」


 葵は最後に、夜を徹した念仏行に臨んだ。内密の弔い故に坊主は呼べず、これまで芸事に専念していた彼女は写経の機会にも恵まれなかったから、鎮魂の経文を読むことができない。自力で行える追善供養はやり尽し、もう出来ることと言えば、数珠を揉みながら仏の名をひたすら唱えて褒め称え、その慈悲を乞うのみであった。

 だが夜通しの勤行の最中、葵は自身の肉体に気怠さを覚えて、焦りを感じ始める。


(いけない、眠気が……あの子のための、大事なお勤めなのに)


 草木も眠る丑三つ時という頃合いである。激しく鼓を打って演奏した上に、人の耳目がないのに気を緩めて泣いた葵は、すでに体力を消耗していた。呼吸の落ち着いた今になって疲労が表に現れ、強烈な睡魔が鎌首をもたげ始めた。


「南無龍女大菩薩、南無龍女大菩薩、南無――」


 肉体の怠惰な欲求に打ち克とうと、葵は念仏に専念する。しかし単調な繰り返しはかえって思考を鈍らせた。次第に目はかすみ、頭は重くなり、うつらうつらと揺れるのを止められなくなる。やがて意識は曖昧となり――


 ふと気が付くと、葵は見覚えのない場所にいた。


(ここは……?)


 周囲は暗いが、頭上に見える満月の月明かりで、ここが夜の帳の降りた森の中だと分かる。起伏からして、どこかの山の麓だろうか。


――えーん、えーん。


 葵がぼんやり立ち尽くしていると、どこか遠くから泣き声が聞こえてきた。誰かいるのだろうかと思い、声のする方へ歩いていく。


 不思議な事に、いきなり闇夜の森に放り出されているこの不可解な状況に対して、戸惑いや恐れは全く感じなかった。

 法歌三首は『梁塵秘抄』より引用。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ