第二十八話 神への臣従
※2016/5/14 一部改訂。話の大筋は変化なし。
言葉を失っている義郎と鈴音に、源主がもう一度告げた。
「わたくしはそなたらの武力と芸能を高く買っています。いにしえの荒彦と賑姫には及ばずとも、我が子を心服せしめたのは凡夫のなせる事ではない。神に通ずる技の片鱗を披露したそなたらを、若龍王子の旅を助ける従者に任命します。もちろん、若龍の使命成就の暁にはそなたらの功績を高く評価し、並々ならぬ褒美を授けましょう」
改めて言い渡されても、当の二人は戸惑うしかない。ようやく神の怒りを解いてささやかな宴が開かれ、土産に宝まで下賜されたのだから、このまま平穏無事に帰して貰えるとばかり思っていた。その矢先に王子神の荒神退治の共をせよという無理難題を押し付けられるなどとは、露ほども想像していなかった。
「義郎、鈴音……お願いだから一緒に来て。僕ひとりじゃ無理だよ……」
母神に突き放された若龍王子は義郎たちにとぼとぼ歩み寄り、縋りつくような目でじっと見上げてくる。
義郎と鈴音は互いの顔を見たが、やはり両者ともに「どうしたものか」という困惑が面に表れていた。自分たちを頼って来る幼子の様子は痛ましい事この上なく、できれば手をさしのべたい、守ってあげたいという気持ちを抱かせる。しかしかといって、同情心だけで安請け合いできる事柄でないのも明白である。
無言の目配せと逡巡の末、まず義郎から口を開き、慎重に言葉を選んで源主に発言した。
「……王子神さまにお仕えするというのは、人の身に余る光栄と存じ上げますが、若輩者にすぎぬ拙者には、荷が勝ちすぎると思われます。神のお望みに背くのは大変畏れ多い事と承知しておりますが、どうか慎んで辞退させて頂きたく願います」
義郎に続いて、鈴音も頷き同調する。
「私も彼と同意見です。ご期待をかけて頂きまことに有り難いのですが、か弱い女の身では到底この大役を全うできないと思われます」
断りの非礼を詫びて深々と頭を下げる二人。拒絶された若龍が悲嘆の眼差しを注ぐのを感じて、後ろめたさにちくちくと胸を痛めつけられる。
それに耐えつつ、ゆっくり面を上げて源主の顔色を伺うと――女神はぎらりと目を光らせていた。
「ほう……そなたらはわたくしの目が曇っていて、人選に誤りがあると申すのですか」
荒ぶる神に高圧的な態度で詰問されて、再び怒りを買うのを恐れた二人は慌てて言い繕う。
「いえ、決してそのような事は……大事ゆえに、慎重に判断したいのです。故郷の義父と相談するために、この件は今一度保留にして下山させてもらえないでしょうか。後日、改めてこちらへ参上して結論を申し上げたいと思います」
「その……私は遊君として奉公している身ですので、養い親の許しを得ない事にはお引き受けできません。私も一旦桃塚へ戻って、長者さまの指示を仰ぎとうございます」
「……はぁ、どうやらそなたらは大きな勘違いをしていますね」
芳しくない返事に源主はわざとらしく深いため息をつき、ひどく落胆して嘆いた。
「わたくしは頼んでいるのではなく、命じているのですよ。そなたらが若龍への服従を誓わぬまま、即刻我が山を出たいと望むのなら……残念ですが、ここでの出来事は全て忘れて貰いましょう」
源主が呟くや否や、義郎たちの身体に異変が生じる。
「う、ぐぅ……頭が!?」
「熱くて……い、痛い!」
突然、義郎と鈴音がそれぞれ頭を抱えて倒れ伏した。頭痛と表現するにはあまりにも苦しい、焼けるように熱い激痛が二人の頭を苛み始めた。それは小さな火種が薪の中に落ちて燃え広がるように、徐々に勢いを強めていく。
「義郎! 鈴音! どうしたの!?」
ばたりと倒れて苦しみもがく二人を見て、若龍が絶叫する。そして傍らで涼しい顔をしている源主を見上げると、十二単の袖に縋りついて強く抗議した。
「母上、二人に何かしたの!? 殺さないって約束したじゃない!」
責める眼差しで問いただす我が子に、源主は飄々と答えた。
「ええ、殺しませんよ。ただ、彼らはそなたが人の芸能に惑わされ、人の武力に屈し、人に頭を下げて許しを乞うた姿を全て見ています。人界へ帰した後に、出瑞山の神に打ち勝った武勇伝を人々に誇り、そなたの生き恥を吹聴しないなどと、どうして言えるでしょうか。ここでの出来事を口外しないように処置を施しておかなければなりません」
「じゃあ、一体何してるの!?」
「あらかじめ彼らの血の中に注ぎ込んでいたわたくしの毒を目覚めさせ、頭の中を適当に溶かしているのです。死ぬほど苦しいでしょうが、加減しているから死にしません。ただ、四六時中涎と糞尿を垂れ流して呻くしかできない痴人になるでしょう」
「そんなの、殺すよりもずっとひどいよ! お願い、荒神退治は僕が独りで頑張るから、二人を無事に還してあげてよ!」
「若龍、そなたを降せる力を示した彼らを、野放しにはできないのです。我ら出瑞権現への臣従を拒むならば、後日の敵となる恐れがあるのだから……他の神々に抱き込まれる前に排除しておかなければなりません」
「そんな、そんなのって!」
「若龍。母は愛しい我が子の身を案じているのです。そなたのためなら、わたくしは誰に恨まれようが一向にかまいません。たとえ、そなた自身に疎まれたとしてもね……」
酷薄な源主の語りと、泣き叫ぶ若龍の悲痛な懇願を耳に入れながら、地に伏した義郎は激痛の中でわずかに残っている思考力を働かせた。
(今、なんと言った……? 源主の毒が、すでに俺たちの身体に……?)
義郎は何かを悟ったように、しびれ始めた手を懸命に動かして首筋を確かめる。そこには、滝の前で源主に二本の牙を突き立てられた時の咬み跡が、しっかりと残っていた。
「義郎……毒ってもしかして、滝で咬まれた時の……もう消えたのかと思っていたけど……」
息絶え絶えに呼びかけてくる鈴音も、自分のうなじに手を這わせている。彼女も同じ結論に至ったらしい。
「そうです。あの時注ぎ込んだわたくしの毒は、そなたらの体内で血と混じり合い、ずっと潜伏していたのですよ。わたくしは胸三寸で毒を操り、そなたらをどろどろの肉粥に出来るのです」
二人の仮説を源主が肯定した。にんまりと笑みを作った口の中から、あの二本の毒牙がちらりと姿を見せている。
義郎が牙を刺すように睨んで憤った。
「この……曲がり根性の、蛇畜生! その気になればいつでも始末できたのに、散々人を弄びやがって……!」
残る気力を振り絞って、源主への憎しみを吐き散らす。しかし、源主はそんな彼の態度を全く意に介さない。
「しかし、そんな絶望の淵にあるそなたらにも、たった一つだけ希望が残っている。わたくしが岩屋の奥で自ら仕込んだ、この秘蔵の酒です」
鷹揚な所作で、足元に置いていた酒壺の封を解き、一升ほどのそれを片手で掲げてみせる。清らに澄んだ酒がなみなみと湛えられたそれを皆に見せつけるように掲げて、こう告げた。
「美酒の決め手は、何よりも水の質。この酒はわたくしの秘宝たる変若水を贅沢に用いて仕込んだ、正真正銘の取って置き。わたくし好みに酒気を強くしたので若返りの力は薄まったが、二人で分けて飲み干せば現在の苦痛は取り除かれ、先刻までの健康な肉体を取り戻せるでしょう。これをそなたらに与えても良い。ただし――言いたいことは、わかりますね?」
返答を促す源主の顔は、とてもゆったりとした穏やかな笑みを浮かべており、殺してやりたいほど憎たらしかった。
(このあばずれ女神……!)
心の中でも怨敵への悪態を吐きつつ、義郎は焦点の定まらない目を動かし、ふらつく首を回して鈴音の様子を伺う。小柄で華奢な彼女はすでに衰弱著しく、源主の言葉が耳に届いて理解していたとしても、もはや言葉を紡げないようだった。今ここで決断できるのは、義郎だけだった。
(俺はともかく、鈴音を無事に還すためには……!)
義郎は屈辱をぐっと噛み堪えて、無駄に聞き返されたりしないよう、はっきりと宣言した。
「ち、誓う……! 俺も、鈴音も、若龍王子のしもべになる! だから、それを、早く!」
必死の嘆願を聞いた源主は我が意を得たりと朗らかに微笑み、酒壺を若龍に持たせた。
「良い返事ですね。若龍や、持って行ってあげなさい。そなたの最初の人助けですよ」
「う、うう……!」
義郎達を助ける命の水で満ちた壺を持たされた若龍は、複雑な胸中を感じさせる泣き声を上げつつ、子供の身には重い壺を抱きかかえて、転ばないように慎重に、かつ急いで二人の下へ駆け寄った。義郎の方が若干近くにいたので、まず彼に与えられた。
義郎は差し出された酒壺を両手で掴んで顔を突っ込み、がぶがぶと身体へ流し込む。二、三度息継ぎしながら鯨飲するのを、若龍王子がはらはらと見守っていた。
「はぁっ、はぁっ……鈴音! お前も呑め!」
源主の言葉通り、酒壺の半分近く呑んだ頃には、肉を溶かす蛇毒の苦痛が嘘のように消え去り、身体の自由も回復していた。反面、鼓動の激しい状態で大量の酒を一気飲みしたせいで、早くも強い酩酊めいていを感じ始めている。自分が意識を保っている間に、鈴音も蘇生さなければならなかった。
「さぁ、ほら、早く!」
義郎は足をふらつかせながらも鈴音に寄り添い、手に持つ酒壺を差し出した。
「うう……はぁ……くぅ……」
しかし、心身ともに疲弊した鈴音は、呻きながら焦点の合わない目線を宙に泳がすばかりで、一向に酒を呑もうとしない。見かねた義郎が、酒壺を彼女の口に押し付けて喉奥へ流し込ませようと試みるも、口の端から貴重な酒をだらだらとこぼしてしまう始末。独力で飲むにはもはや手遅れだった。
「くそ、こうなったら……」
義郎は酒壺をくいと傾け一口含むと、鈴音の唇を自分のそれで塞いで、彼女の口内へ解毒の神酒を流し込んだ。
「けほ、くほ……」
むせて吐き出そうとする鈴音の無意識の抵抗を、彼女の後頭部を抱いて押しとどめ、ゆっくりと嚥下するのを待つ。口の中の液体を大人しく飲み干したのを確認すると、それを酒が尽きるまで繰り返す。
義郎が文字通り目と鼻の先にある鈴音の表情を伺うと、脂汗を滲ませ苦渋を刻んでいた顔が穏やかな血色を取り戻し、虚ろな瞳に生気が蘇って回復していく様子がまじまじと分かった。
「……よ、義郎……? え、私、なんで……」
もう少しで酒が底をつくという頃、鈴音がようやく意識を回復した。自分が義郎に何をされているのか状況を認識して、明らかに狼狽えている。ただ、表情に怯えや嫌悪の色は無い。
一方で義郎はいよいよ前後不覚の域に陥り始め、鈴音が自力で動けると見るや「全部呑め」と酒壺に彼女の頭を押し込んで無理矢理飲ませる。鈴音もまた酔いが進んでおり、混乱しつつも義郎の為すがままに身を任せた。
「ぷはっ……ああ、もう……駄目」
酒壺を空にした鈴音は呟いてくたりと倒れる。顔は紅色だが吐息は安らかで、毒気ではなく酒気によるのは明らかだ。絶命の危機は過ぎ去っていた。
「なんとか……助かった、か……」
鈴音の無事を見届けて安堵した義郎もまた、緊張の糸がふつりと切れ、反動で強烈な倦怠感に襲われてくずおれた。
後に残ったのは、二人の手を握って嗚咽を漏らす若龍と、そんな我が子を慈しみの眼で眺める源主、神の母子二柱のみ。
「それでは、若龍の事をくれぐれも頼みましたよ、出瑞権現の忠実なるしもべ、義郎と鈴音よ。ふふふ――」
「う、うう……ごめんね義郎。ごめんね鈴音。僕のせいで二人まで巻き込んで……ごめんね、ごめんね――」
源主の冷徹な笑いと若龍王子の謝罪を聞きながら、義郎と鈴音の意識は泥酔のぬかるみへと沈んで行った。




