第二十六話 明鏡、名刀、瑞の珠
2015/12/9
引用した詩を一首差し替えました。
義郎を目覚めさせたのは、鼻孔を突く煙の臭いと、ぱちぱち弾ける炭火の音だった。濡れた身体を撫でる空気が、ほのかに暖かい。彼は首を回して、自分が仰向けに寝ている事を知った。
「鈴音ー、義郎が起きたよ」
「あら、本当ですか若龍さま」
身を起こした義郎が最初に見たのは、木炭を赤々と焚き上げている小さな火鉢だった。炭火の上で鉄瓶が湯気を立てており、その周囲では竹串に刺した餅があぶられている。
火鉢を挟んだ対面に鈴音が座って暖を取っていた。彼女の膝には、公家装束を着た若龍王子がちょこんと乗っている。
「義郎、おはよー」
「え、はい、おはようございます」
手を振って挨拶してくる若龍王子にとりあえず会釈する義郎。一方、鈴音はつんとそっぽを向きながら毒を吐く。
「全く、鈴音御前のお歌を所望しておきながら居眠りなんて失礼しちゃう。女より先に寝る男は嫌われるわよ」
「ああ、すまない……ところでこの状況は?」
「若龍さまが色々なお道具を用意してくださったから、私が火を起こしたの。お白湯飲む?」
「お山の湧き水を汲んだ、綺麗でおいしいお水だよ!」
火鉢の傍には銭斑模様の風呂敷が広げられており、着火道具の火口箱や炭桶、火箸のみならず、飲み水の入った器や紅白の丸餅を積んだ盆が並べてあった。鈴音は素焼きの湯呑を手に取ると鉄瓶で沸かした湯を注ぎ、義郎に差し出した。
受け取った義郎の手の中で、ざらついた土器を通して湯のぬくもりがじんわりと広がる。一口二口と飲み下す毎に喉から腹の底へと熱が流れ込んで、冷えた身体が芯から癒された。
「ああ、生き返る」
「義郎も元気になった?」
ほっとため息をつく義郎の傍に若龍王子が近づき、気づかわしげに問いかけてきた。
「ええ、王子神さまが火鉢を用意して下さり助かりました。かたじけのうございます」
「良かった! でも、そんなに畏まらなくていいよ。困ってる友達を助けるのは当然でしょ?」
「友達……ですか?」
「全力で喧嘩したけど、仲直りして一緒に遊んだから、もう友達!」
若龍王子は義郎へ元気いっぱいに飛びつく。胴にぎゅっとしがみつくとさらに背中をよじ登り、終いには肩まで登りつめて肩車の恰好になった。
「義郎すっごく強かったよ。何をやったらそんなに強くなれるの? 僕の攻撃、なんであんなに避けられたの? ねぇねぇ教えてー」
「日々の鍛練と師父の教えの賜物ですが、門外不出の事柄も多いので軽々しくお話するのは……」
「えー、そんなこと言わずに教えてよ。僕も義郎みたいに強くなりたい!」
義郎の肩に居座る若龍王子は駄々をこね、後頭部にしがみ付いて烏帽子を無遠慮に弄ったり、足をじたばたさせて抗議してくる。当の義郎からすれば鬱陶しいことこの上ないが、無邪気にまとわりつく子供をむきになって引きはがすのも大人げなく思われて弱った。
難儀する義郎を見かねて、鈴音が助け舟を出す。
「若龍さま。お餅が焼けましたよ、食べませんか」
「食べる! 紅いのちょうだい、紅いのっ」
途端に若龍王子は義郎から離れ、鈴音が差し出した餅に飛びつく。ちょうど三つ焼けていたので、三人一緒に食べた。
若龍王子は焼きたての餅を咥えて引っ張りながら、はふはふと頬張った。あっという間にぺろりと一つ平らげると、鈴音を見上げて今さら思い出したように言う。
「あ、もちろん鈴音も友達だよ! お遊戯教えてくれたもん!」
「まぁ。王子神さまとお近づきになれるなんて、身に余る光栄ですわ」
「それに、義郎の妻だし」
その一言に、餅を含んでいた義郎は思わず喉を詰まらせかけ、白湯をすすっていた鈴音は顔を背けてむせた。
「けほ、けほ……なんですかいきなり!?」
「あれ、二人って夫婦じゃないの? 人間の男と女が二人でお参りしにくる時って、みんな赤ちゃんが欲しいってお願いするんだけど」
「あ、赤……」
言い淀んだ鈴音が、装飾の剥げた舞扇をさっと開いて朱色に染まった顔を必死に隠す。本宮で出瑞大社の別当と相対した時と同様、沈黙した彼女に代わって義郎が訂正した。
「いや、拙者共はそれぞれの願立てでお参りに来た道中、たまたま道連れになっただけです。夫婦ではありません」
「あれ、でもさっき僕が戻って来た時まで、鈴音が義郎を――」
そこで鈴音が慌てて叫び、若龍の言葉を遮った。
「ほらほら若龍さま、またお餅が焼けましたよ! 赤と白のどちらがお好みですか?」
「両方ちょうだい!」
若龍王子は膨らんだ二色の餅を受け取るとどちらから食べようか迷い、悩んだ末にくっ付けて一つの大きな餅にした。すると今度はその塊を伸ばしたりひねったりして色を混ぜる遊びに夢中となり、先ほど言おうとした事などすっかり忘れてしまった。
「なぁ、最後なんか言おうとしてなかったか。鈴音が俺になんとかって……」
「さぁ、よく聞こえなかったわ。でも、もう忘れてるみたいだから大したことじゃないのでしょう」
鈴音は扇を仰ぎつつ涼しい顔で義郎の追及を受け流す。彼が二の句を継ぐ前に、餅にかじりついている若龍王子へ強引に話題を振った。
「若龍さま、こうして火に当たっているだけでは退屈してしまいますし、御馳走になったお礼に鈴音は歌をお聞かせしたいと思います。どのようなものが好みですか?」
「えっと、なんでもいいよ。でも、聞いたことないのがいいな」
「でしたら、これはいかがでしょう。山復た山―-」
鈴音が歌い出し、格調高く切れの良い声が朗々と洞内に響く。
山復た山 何れの工か青巌の形を削り成せる
水復た水 誰が家にか碧澗の色を染め出だせる
優美なその節回しに、義郎と若龍王子はそろって聴き入った。豊瑞穂の伝統的な短歌とも流行りの今様とも異なる、異国情緒を感じさせる調子である。
「これは……異国の詩か」
「正確には異国風ね。豊瑞穂の詩人の作だから。その昔、さる博士の子息が文章学の試験で『山水』という題を受けて作った詩よ」
「詳しいな……遊女なんかやっているのがもったいない学才だな」
「あら、遊君だからこそ詳しいのよ。上品で繊細な殿上のお方たちは、教養深い才女との語らいを楽しむものですから」
「ねぇねぇ、今のお歌はなんて意味なの?」
「『あの山脈の青々とした断崖は、いかなる名工が削り出したのだろうか。あの深い川底の紺碧色は、いかなる職人が染め出したのだろうか』――という意味です。清水豊かな出瑞山にぴったりでございましょう?」
「うん! ええと――」
若龍王子は早速覚えたての詩を活き活きと復唱した。
山復た山 何れの工か青巌の形を削り成せる
水復た水 誰が家にか碧澗の色を染め出だせる
「わたくしです」
いきなり詩句の問いかけに答える声が届き、皆を驚かせた。暗闇から衣擦れの音を立てて、ゆらりと姿を現したのは誰あろう、出瑞山の主にして豊瑞穂に清流を巡らせる水の女神、源主の御方であった。彼女は片手に酒壺を提げ、反対の手には大きな包みを抱えていた。
ようやく戻ってきた岩屋の主の前で、義郎と鈴音は畏まって居を正そうとしたが、「そのまま楽にしなさい」と制されて大人しく従う。
「母上、新しいお歌を教えてもらったよ!」
一方、若龍王子はぴゅうっと真っ直ぐ母神に駆け寄る。
「ええ、上手でしたよ。ふむ、余所者の歌か……」
源主は酒壺を下ろし、空いた手で我が子の頭を撫でながら、何か思い出すようにぶつぶつ呟く。そして「これが良いか」と一人で結論づけると、鈴音と若龍に触発されて一首吟じるのだった。
蝸牛角上 何事をか争う
石火光中 此の身を寄す
富に随い 貧に随いて 且らく歓楽せん
口を開いて笑わざるは 是れ痴人なり
(人はかたつむりの角の上のように狭いこの世の、火花のように儚い一生で何を争うのか。富める者は豪勢に、貧しき者もそれなりに、今生くらいは酒を飲んでゆっくり楽しもうではないか。あれこれ心配ばかりして、心の底から笑う余裕のない奴こそ愚か者だよ)
その詩を聴いて、鈴音が賛嘆の声をあげた。
「まぁ、それは異国の詩聖が詠んだ本物の異国詩ですね。こういっては失礼ですけれど、豊瑞穂の秘境にひっそりと暮らしていらっしゃる女神さまが、遠い異国の詩歌を諳んじ遊ばすとは考えにも及びませんでした」
「海を隔てた余所者たちは我が国に好ましくないものばかり持ち込んでくるけれども、中には例外もあるのです。とりわけ心地よい音色には、いかなる障壁をもってしても妨げられない抗いがたき力が宿っていますからね」
鈴音の賞賛に対し、源主はわずかに相好を崩して穏やかに語る。
「さぁ、歌を肴に早速一献……と行きたい所だが、わたくしが素面でいる内にまず引き出物を持たせましょうか」
「引き出物?」
「我が子の目も眩むような笑顔を拝ませてくれたそなたらの功を評して、褒美を授けたいのですよ。ほら」
源主が片脇に抱えていた包みを解くと、中から一枚の銅鏡と一振りの刀が姿を現した。
「鈴音にこの明鏡を与えよう。日々から己の姿を見つめて、研鑽に努めなさい。また義郎には、取り上げた刀を返してあげよう。力を頼みとする雄の子が牙をもがれたままでは、みっともなくて下山できまい」
義郎と鈴音は思いがけない女神からの贈り物を拝領して、それぞれに手渡された物をじっくりと拝見した。
「まぁ、なんて素敵な鏡……まるで満月みたいだわ」
両手で銅鏡を持った鈴音が、うっとりとした感嘆のため息をついた。鏡面は一点の曇りもなく滑らかに磨かれており、少ない火明かりでも良く輝きを返して舞姫の美貌を余さず映す。本人を直接見るのとはまた違った趣があり、夜の湖畔に映る月のような澄み渡る美しさを湛えている。鏡の裏には龍の夫婦が仲睦じく絡み合う文様が鋳られ、中心に『映真鏡』と銘打たれていた。
「これが俺の刀……本当に?」
帰ってきた愛刀を検めた義郎は、地味な拵えこそ以前と変わらないものの、抜き放った刀身が似ても似つかぬ業物に変じている事を瞬時に見抜いた。刀身は三日月のように反り返ってぎらぎらと月光を照り返し、切っ先からは冷気さえ感じられる。毒蛇を想起させる、猛々しくも流麗な威容を誇るその凶器が、欠けて折れ曲がり武器として用をなさなくなったはずの己の腰の物だと言われても、にわかには信じがたかった。
喜びと困惑が混じった複雑な表情を読み取って、源主が言い添える。
「返すついでに我が通力で修復して、熨斗を付けてあげました。達人は道具を選ばぬというが、やはり相応の逸物を持つべきでしょう。そうですね……わたくしが蘇らせた刀だから、"朽縄"とでも名付けましょうか」
驚きつつも納得した義郎は生まれ変わった愛刀"朽縄"を鞘に納めて源主の御前で捧げ持ち、「ありがたく頂戴いたします」と伏して拝する。鈴音も満面の笑顔を作った口元を扇で隠すのも忘れて、明鏡を胸に抱いて「一生の宝物です。大事にいたします」と謝辞を述べた。
「ふふ。やはり施しをするのは気分が良い。持つ者と持たざる者の上下をはっきりさせる、上に立つ者だけが味わえる贅沢ですね」
源主は満足げに頷くと、今度は足元に垂らした十二単の裾に潜り込んで遊んでいる若龍王子に語りかけた。
「さて若龍、そなたにも渡すものがある」
「なになに? お菓子? 玩具?」
「もっと良いものだよ。これからのそなたに必要なものだ」
源主は懐から環状の物を取り出して、衣の裾から這い出てきた我が子の首にかける。
水晶で作られた数珠だった。氷が石化したのではないかと疑わせる神秘的な瑞玉の環がきらきらと目に眩しく、ちりちりと耳に心地よく擦れ合って皆を釘付けにする。
煩悩を滅する百八の珠のうち、八つの大きな親珠には一文字ずつ字が刻まれており、『出瑞権現若龍王子』と読めた。
「数珠……? なんで僕に必要なの?」
「若龍。これから言う事をよくお聞き」
源主はしゃがみこんで息子の両肩に左右の手を置き、目線の高さを合わせてしばし沈黙した。相変わらずの無表情であったが、義郎たちには我が子を見つめる母親の目に、どこか一抹の憂いが浮かんでいるようにも感じられた。
しかしそれもわずかな間の事。源主は意を決して力強くはっきりと、このように宣言した。
「龍女菩薩の化身、源主神の御言をもって、若龍王子に宣す。これより我が山を降りて、豊瑞穂の諸国へ修行の旅に出よ。そして苦しみ悩む衆生に救済の慈悲をもたらし、己の社を持つ立派な神になるのです」
『山復た山……』は大江澄明、『蝸牛角上……』は白居易の作。共に『和漢朗詠集』から引用。
白居易の詩は当初別の詩を引いてましたが、こちらの方が相応しいと思い差し替えました。




