表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍神縁起 ~立派な神様のお供しよう~  作者: もぐら
第一章 出瑞(いずみ)編
25/55

第二十五話 深山隠れの恋心

「なぁ、鈴音すずね)源主(みなもとぬし)が息子を着替えさせにいったのに、俺たちを濡れ鼠のまま放置してるのは、うっかり忘れたんだろうか、それとも密かな嫌がらせだろうか」

「さぁねぇ……」


 雨上がりの広場の、比較的水たまりの少ない壁際で義郎よしろうが胡坐をかいている。その隣では、義郎から返された水干を着こんだ鈴音が、自分の両膝を抱きながら俯いていた。

 岩屋御所の主が戻ってくるまで待人となった義郎と鈴音だが、その間二人は肌寒い思いを味わされていた。

 大量の雨水を浴びた彼らの衣は、ずっしりと重みを感じるほどに水を吸収してしまっていた。湿った布が肌に張り付いて、暗い洞窟の冷気を徐々に浸透させてくる。

 健康な若者二人はしばらく耐え忍んだが、やせ我慢にも限度があった。


「おい、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」


 珍しく口数が少ない鈴音の様子に、不審を抱いた義郎が顔を覗き込んだ。

 面を上げた鈴音の顔は白粉が落ちているのにうっすらと青白く、唇は紫がかっていた。


「身体が寒いの……」


 少女の華奢な身体は、冷気に体温を奪われて弱り始めていた。ずぶ濡れなのは義郎と同じでも、山育ちの武芸者と都の舞姫では体力に差があった。

 肌に張り付いた衣が男女の身体の線をかすかに浮かび上がらせ、互いに目を逸らしがちにしたために気付くのを遅らせてしまった。


「参ったな、火を焚こうにも燃えるものがないし……」


 焦った義郎が周囲を見渡して暖を取る方法がないか探していると、鈴音が細指で義郎の袖を掴みながら囁いた。


「お願い義郎……私を抱いて」


 懇願された義郎は、思わず振り向いた状態で数秒固まった。青年の顔を見上げながら、女が言葉を重ねて頼み込む。


「抱きしめて、暖めて……身を寄せあった方が、寒さを凌げるはず」


 身を縮めてかたかたと震える切羽詰まった様子からは、その発言に深い意味があるとは考えにくかった。


「あ……ああ。分かった」


 意図を解した義郎は頷くと、鈴音を怖がらせないようにゆっくりと背後へ座り、そっと懐に抱き寄せた。


「……これでいいか?」


 鈴音は最初のうちはうんともすんとも言わず、冷えた身体を萎縮させて震えているばかりだった。だが湿った衣越しにじんわりと、義郎の体温が伝わってくるのが背中に感じられるようになると、幾分か血色が良くなっていく。強張った身体の力を抜いて後頭部を男の胸板に預けた彼女は、安らぎの笑みを浮かべて頷いた。


「うん……義郎、あったかい……」

「そ、そうか」


 少しずつ元気を取り戻し始めた鈴音に、義郎が語りかけた。


「源主が帰ってきたら、早くお暇してここを出よう。本宮まで戻ればゆっくり身体を休められる」

「そうね……あおい姉様も心配しているだろうし、早く無事を知らせないと」

「養生したら、ここで何が起こったのか大社の人たちに説明して……まぁ信じてもらえないかもしれないが、とにかく説得して神域参拝の御朱印を貰おう。そうすれば晴れて下山だ。ようやく帰れるな」


 出瑞山の女神と対面したと熱弁しても、山で遭難した挙句気が狂ったとでも思われるかもしれない。だが参拝の証拠である御朱印を手に入れれば、胸を張って師匠の下へ戻り、免許皆伝を認められる。鈴音もまた、桃塚の長者の代参としての顔が立つ。

 当初の目的をようやく達成できると喜んでいる義郎の胸元で、鈴音が小さく相槌を打つ。俯いているので、義郎には表情が見えない。


「そうね。お山をおりて……そのあとは私たち、それぞれの場所へ帰るのね。まるで夢のような一日だったわ……」

「ああ、こんな出来事はもう一生訪れないだろうなぁ」


 安堵して楽観的になっている義郎は、同意する鈴音の声に一抹の寂しさが含まれている事に気付かなかった。


「ねぇ、東国へ下る前に桃塚の宿に泊らない? 私が直々におもてなしてあげる。この鈴音御前とお近づきになったなら、故郷で自慢出来るわよ」

「生憎、見ての通りの素寒貧でな。遊ぶ金はないんだ」

「いいのよお代なんて。ただ、命の恩人にお礼がしたいの。何日でも好きなだけ逗留してくれて構わないわ。一番格の高いお座敷で美酒美食を出して、私がつきっきりでお世話してあげる。ねぇ、少しくらいいいでしょう?」



 義郎は出瑞へ至るまでの旅路の間、多くの夜を草枕の野宿で過ごし、運良く家屋を見つければ薪を割って納屋を借りていた。だからその魅力的な提案に「飯……ううむ」と少し迷いかけたが、すぐに思い直した。


「……申し出はありがたいが、やはり寄り道せず真っ直ぐ帰るよ。故郷では、先生が山で庵を結んで帰りを待って下さっているはずだ。息子が旅の途中で遊びに耽って、親を待たせるのは考の道に反する。それに年老いた義父が一人で水を汲んで柴を背負う日々を過ごしていると思うと、どれだけ贅を尽くしたもてなしを受けても心から楽しめる気がしないんだ」

「そう……それなら、無理に引き止めてはいけないわね」


 男の固い意志を見てとって、さっと身を引く鈴音。だがその名残惜し気な声を聞くと、きっぱり断った義郎も後ろ髪を引かれてしまう。


「礼というなら、ここで俺のために一つ歌ってくれ。それで十分だ」


 代わりに自分のための歌を所望すると、しょげ込んだ鈴音の声にぱっと元気が宿った。


「それくらいならお安い御用よ。どんな歌がいい?」

「俺は歌の事はよく知らないから、お前が一番好きな奴を頼む」

「ええ、よくってよ。鈴音御前のとっておきの一曲を披露致しましょう」


 快諾した鈴音は、天井穴から顏を覗かせる満月を仰ぎながら呼吸を整える。義郎の腕の中で、格別に精妙な歌声が夜空へと澄み登っていった。


 常に恋するは

 空には織姫たなばた 流星よばいぼし

 野辺には山鳥やまどり 秋は鹿

 流れの公達きんだち 冬はおし

(常に恋して生きるものといえば、夜空の織姫に、夜這いの名を持つ流れ星。峰を隔てて独り寝するというヤマドリの夫婦。秋に相手を求めて鳴く牡鹿。川辺の貴人――すなわち遊女。冬は互いに寄り添って羽に降りた夜露を払い合うという、おしどりの夫婦だよ)


「どう? お気に召して頂けたかしら」


 得意気に感想を求める鈴音。だが、背中を預けている義郎は沈黙を保ち返事しなかった。


「義郎? ――きゃっ!」


 鈴音が怪訝に思って振り向こうとした時、不意に義郎の上体が前のめりに傾ぎ、彼女を背中から押し倒す。そしてそのまま男の体重を少女の上に預けてきた。


「ちょっと、何するの!?」


 いきなり義郎に押し倒された鈴音は、その大胆な行動に狼狽して下敷きになったままじたばたともがく。


「ま、待って。たしかにお礼がしたいとはいったけど、こんなの唐突すぎるわ! 私たち、昨日今日出逢ったばかりなのよ。それにまだお参りを終えていないのだから精進潔斎を保つべきでしょう。ましてや御神域に居るのだから不埒な振る舞いは慎むべきで……神様たちが戻ってきたらどう説明するの、幼い王子神さまに何してるのって尋ねられたら……ええと、その…………せめて優しく――」


 そこまでまくしたてた所で、鈴音はふと気づく。義郎はのしかかったきり、微動だにしない。鈴音を組み伏せず、水干の襟元や袴の下紐に手をかける素振りもなかった。

 鈴音が息を殺して動向をうかがっていると、やがて規則正しい静かな寝息が真上から聞こえてきた。


「ぐぅ」


 義郎は鈴音を押し倒したのではなく、眠りこけて寄りかかってしまったのだった。こんこんと熟睡する彼の意識は、鈴音が這い出るために力一杯身を起こし、仰向けにひっくり返されても全く目覚める気配がなかった。


「……歌ってる間に寝ちゃったの? ……はぁ、勝手に勘違いして大騒ぎして、馬鹿みたい」


 鈴音は呆れと安堵と落胆を交えたため息をついた。

 鈴音は義郎の側に座り直し、彼の寝顔をじっと見下ろす。しばらく眺めた後、固い岩を枕にするのは良くないだろうと思い立ち、彼の頭を両手でゆっくり持ち上げて、自分の膝の上へ静かに乗せた。


「今日一日、ずいぶん頑張ったものね……お疲れ様」


 労いの言葉をかけながら、男の固い髪をそっと撫でる。


「さっきまで凍えていた私が義郎のお世話になって、今度は私があなたを膝枕……全く逆ね」


 奇しくも、先ほどとは正反対の立場になっているこの状況におかしみを覚え、鈴音はくすりと笑う。

 いつまでそうしていたろうか。一向に起きる気配を見せない義郎の寝顔を眺めながら、鈴音はぽつりぽつりと独り語りした。


「……昔、荒彦大御神すさひこおおみかみさまはこの出瑞山で源主に立ち向かい、その武勇を讃えられて豊瑞穂とよみずほに君臨する大国主尊だいこくしゅそんとなった……その蛇神の息子に勝ったあなたも、ゆくゆくは勇名を天下に響かせるのでしょうね。相応しい主君に仕え、自分の領地を得て、家を興し、そして奥方を迎えて、一族郎党を養って――時運に恵まれれば、都へ上って館を構えるかも知れない。その時、あなたは桃塚へ遊びに来てくれるかしら? 私をお座敷へ呼んで、お情けをかけてくださるのかしら――」


 そこで鈴音は息を詰まらせ、小さく身体を震わせた。俯いて首を振り、「いいえ、きっと違う」と自問自答した。


「参道の石段の問答であのように答え、今も道義を貫いて誘いを振り切ったあなたが、妾に現を抜かして奥方を悲しませるとは思えない……あばた女を宛がわれたとしても、決して疎んじることなく内助の功に報いようとするでしょう。たぶん、そういうひとだわ……」


 鈴音は目頭に熱を感じた。とっさに両手で顔を覆うと、雨や地下水ではない滴が指の間からこぼれ、白袖を濡らした。


 元来、遊女は様々な束縛から無縁の存在である。定住して耕作に勤しむことなく、貢物を納めたり労役に着く義務を課されない。気の向くままに各地を渡り歩き、関所や渡し船では交通料を免除される。

 宮仕えの女官と巫女にのみ許されているはずの緋袴を穿いて見せびらかし、それでいて咎められないのは、彼女らが常人の枠から外れた、権力の外側に生きる存在であることの証明だ。


 しかしそんな浮かれ女にも、豊瑞穂の全ての女と同様に慎まなければならない戒めがある。それは"女から男に愛を求めてはならない"ということ。色恋を売り物にする遊女といえど、いやだからこそ、男の人生に自ら踏み込もうとするのは分を越えた振る舞いだった。

 意中の相手と添い遂げたいと願うならば、男からの呼びかけを待ち望むしかない。


「どうしよう、胸が苦しい……これが世に言う、"磯のあわびの片思い"なの? 男女のしきたりが恨めしい……声をかけられるまで気持ちを打ち明けられないなんて、一方的で残酷すぎる」


 やり場のない辛い激情を、鈴音は歌に乗せて吐き出した。遊女の教養として頭に叩き込んでいる数千首の古歌の中から、今の心境の代弁に相応しい一首をそらんじる。声は細々と、切なくかすれていた。


 我が恋は 深山みやまがくれの 草なれや しげされど 知る人のなき

(私の恋心は、深い山で人目につかぬまま茂る草なのでしょうか。どれだけ想いを募らせても、彼はそれに気づかないのです)


 鈴音は芽生えた想いを涙と共にぐっと堪え、感情の波が治まるまで一生懸命耐え忍んだ。その甲斐あって、若龍王子にゃくりゅうおうじが火鉢を抱えて戻って来る頃には、表情も声も平静を取り戻していた。

・『常に恋するは……』は『梁塵秘抄』より。

・『我が恋は……』は『古今和歌集』より小野美材の作。

追記)

2017/10/09 『常に恋するは……』の訳を一部間違えていたので修正。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ