第二十三話 舞え舞えかたつむり
まず、鈴音が無伴奏で今様を歌った。澄み渡る美声が洞窟を賑やかに震わせ、天井の大穴を突き抜けていく。
舞え舞え かたつむり
舞わぬものならば 馬の子や牛の子に
蹴させてん 踏みわらせてん
まことに美しく舞うたらば 花の園まで遊ばせん
(角だせ槍だせ、かたつむり。言うことを聞かなければ、仔馬や仔牛に蹴らせるぞ、踏み割らせるぞ。私を存分に楽しませてくれたなら、花の園へ連れて行ってあげよう)
(かたつむりとは、源主の前に立つ俺たちの事だろうか……)
そんな思いを抱きながら、義郎はゆっくりと腰を上げた。水干の長い袖が揺らめく。
上等な練絹の水干はさらさらと肌触りがよく、慣れない義郎にはかえって落ち着かないものがある。けれども懐に入れた匂い袋の甘く爽やかな白檀香が、鈴音の支えを強く意識させた。
深呼吸して平静を取り戻すと、腰に差した舞扇を刀に見立てて、居合抜きの構えを取った。肩の力を抜いたゆったりとした動作で、眼前に座す主賓の源主に害意の無い事を示しつつ、鈴音の陽気な歌声を待つ。
出瑞に参るには
西と東のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の 道なれば
西も東も 遠からず
(都から南方の出瑞山へ参詣するには、西回りと東回りのどちらが近く、どちらが遠いのか。慈悲深い女神様の下に参る道なのだから、どちらを選んでも苦しい道のりではありません)
万の神の 験より
出瑞権現 頼もしき
変若の清水 受けたなら
姥桜にも 葉が生える
(万の神の示す奇跡と比べても、源主よりありがたいものはない。神宝の変若水をその身に受け入れれば、姥桜にも葉が生える――歯無しの老婆も若返るという)
源主を褒め称える神歌と共に、義郎は腰から扇を抜き放ち、大きく一歩踏み出した。鈴音が一句歌うごとに、義郎が大地をだん、だだんと踏み鳴らす。彼のそれは鈴音の軽やかな足運びとは趣を異としており、天地を揺さぶる太鼓の乱打に似ていた。
剣術の所作としては隙だらけだが、派手で見応えのある身振りで右へ左へ立ち回る。握る扇を一上一下に振る度に「やっ」と鬨の声をあげる度、洞窟の冷たく陰湿な空気に熱い息吹が吹き込まれるのを感じた。
師匠から剣術のみならず、武芸十八般を一通り指南されていたのが大いに役立った。閉じた扇を小刀や十手など小型の得物に見立てて、ここぞというときに扇をばっと開いたならば、鉄扇術の妙技がきらりと光る。手に握るのは無害な竹骨扇だが、演武さながらの迫力が漲っていた。
「……」
義郎の男舞を鑑賞しながら、源主は無言で盃を傾けていた。喜んでいるとも不愉快とも判断しがたい、人形のような無表情で舞人を凝視してくる。その圧するような視線を浴びせられた義郎は、己の技量に不安を抱いて一瞬固まりかけた。しかし己の底を露呈するだけと思い直し、鈴音と呼吸を合わせることに心を砕く。
竜女の御前の 湧き水は
駒が飲めども なお尽きぬ
婿は聞かねど 若宮に
八十王子あり 若ければ
美女うちみれば
一本葛にもなりなばやと思う
本より末まで縒らればや
切るとも刻むとも 離れがたきは我が宿世
(美女を見れば、一本のつた葛にもなりたいと思うよ。根元から蔓の先まで彼女に絡みつきたいものだ。たとえ切り刻まれようとも、美女から離れがたいのは我が宿命さ)
鈴音の選曲は霊験を讃える神歌から打って変わって、艶っぽいものに移行していた。男女の情愛を直裁に、恥じらいも見せず軽妙に歌い上げる鈴音の態度には、舞台慣れした貫録を匂わせた。
(これではまるで、俺が源主を口説いているみたいだな……)
猥雑な春歌で舞わされる身としては、内心で苦言を呈さずにはいられない。
とはいえ、奔放な女神の嗜好にはたしかに好ましいかと思われた。なにしろ目の前の蛇神は、人間が"在家の五戒"や"五常の徳"を唱えるよりも遙かな太古から現世に存在していたのである。せいぜい五十年も生き永らえば上出来の我々人間とは、全く異なる生き方をしているのだ。
「……」
源主はただ黙々と盃を重ねる。嫌な表情は見せなかったが、かといって思わせぶりな態度でもない。ことさらに反応して、演者に甘い顔をするつもりはないらしい。
演目が続くにつれて、当初からの不安がゆっくりと鎌首をもたげ、舞人を苛み始めた。
(畜生、今仕損じた……)
乱拍子の心得で鈴音の節回しに足踏みを重ねる義郎の舞は、初舞台にしてはなかなか上出来だったが、流石に阿吽の呼吸とまではいかない。いかんせん素人であり、完全無欠を求めるのは土台無理なのだ。ほんの一瞬の拍子の踏み違えを、二度三度と重ねるにつれて焦燥が募っていく。
もちろんそんな心境は面に出さず、彼は何食わぬ顔で舞い続けた。だが感づかれてはいないかと、一回りするたびに源主を流し目でちらりと見ると、鉄面皮に宿る眼光が鋭くなっていくように思えてならない。
(このまま続けて本当に良いのか……この状態で)
不安がいよいよ強まり、周囲の陰気にあてられて心根が萎縮しそうになった、その時だった。
暗闇の奥から、ぺたぺたと足音が聞こえてくる。子犬が駆け出すのに似た弾むような軽やかさで、小さな人影が広場の中央に飛び出してきた。
「ぼくも混ぜてっ」
突然躍り込んだのは源主の息子、若龍王子だった。義郎たちに襲い掛かった恐ろしげな大蛇ではなく、最初に遭遇した時と同じ、見目麗しい公家童子の姿で王子神は現れた。
清浄な白絹の半尻装束を着た若龍王子は裸足で地面を踏みしめ、義郎と源主の間に割りこんだ。足元に飛び込んできた童子を危うく蹴飛ばしかけた義郎が固まっていると、少年はその場でくるくると独楽のように旋回した。
その場にいた皆が、あっけにとられてしんと静まり返る。
楽しげに回っていた若龍王子は、場の静けさに気づくと動きを止めて、首を傾げながら義郎を見上げた。
「あれ、もう終わっちゃったの?」
「ええと……」
義郎が答えあぐねていると、氷の無表情で神楽を見物していた源主がさっと立ち上がり、息子を一喝した。
「若龍! さっきはみっともなく逃げ出しておいて、なにゆえ戻ってきた? それにどうして、わざわざ人の形をとっているのだ」
問い詰める母親に、息子は屈託のない笑みで返事した。
「人間の楽しそうなお遊戯が聞こえてきたから、こっそり観に来たの。そうしたら、もうあの痛い金物を持ってないみたいだから、一緒に遊びたくなったんだ」
喉元過ぎれば熱さも忘れるのか、丸腰と分かった途端に義郎への恐怖もけろりと失せたらしかった。
「遊ぶだと? その者どもはそなたを殺めようとしたのだぞ。さんざん痛めつけられたのが憎くないのか」
源主の鋭い指摘を受けて、若龍王子は何か思い出したようにぽんと手を叩き、今度は人間たちに向き直った。
「あ、そうだ。まず二人に伝えたい事があるんだった。えーと、義郎と鈴音だっけ」
「は、はい」
「……なんでしょうか」
いきなり名指しで呼ばれて、畏まる二人。瀕死の憂き目を見た少年神からすれば、自分たちはいくら憎んでも憎み足りない存在のはずである。一体どんな恐ろしい報復をされるのかと、身構えずにはいられなかった。
だが、予想は意外な形で裏切られる。
「さっきは怖がらせてごめんなさい。もうしないから、許して」
「えっ……」
驚くべき事に、若龍王子はぺこりとお辞儀して、しおらしい態度で謝罪したのだ。思わぬ行動に二人が言葉を失っていると、王子神はゆっくり頭を上げ、「だめ?」と様子を伺ってきた。
義郎がなんとか言葉を紡ぎ、疑わしげに尋ねる。
「いや、その……どうしていきなり?」
「人間に見つかったら母上に怒られると思って、最初は皆殺しにしようとしたけど、もう母上にばれちゃったしやらなくていいかなって」
子供特有の無邪気さと片付けるには残虐すぎる発言に鈴音が凍り付いているのにも気づかず、少年はさらにこう続けた。
「それに、母上がいつも言ってるんだよ。『強きが上に立ち、弱きが下に着くのが世の慣わし』だって。僕は義郎と喧嘩して負けちゃったから、僕の方からお願いするのが『世の慣わし』だと思うんだ。もう義郎と鈴音を怖がらせないって約束するから、二人も僕をいじめないでよ。ね?」
(この子は丸腰の俺たちに一矢報いようともせず、むしろ自分からへりくだって和解を望むのか……)
勝敗を真摯に受け止め、恨み言の一つもこぼさずに潔く引き下がる王子神の振る舞いに、義郎は大きな器を感じた。人ならざる存在ゆえの非情な一面が垣間見えるものの、清浄無垢に慈しんで育ててきたという源主の言葉に偽りはないのだと思った。
「王子神さまがそれで納得なされるなら、拙者どもに異存はありませんが……なぁ、鈴音?」
「え、ええ……願ってもないお言葉です」
「許してくれるの? 良かった! じゃあ仲直りだね!」
義郎たちが承諾した途端、若龍王子は喜び勇んで二人の周りを跳ね回る。飾り気なく思うがままに振る舞うその様はいかにも子供らしかった。その様子を観て、義郎と鈴音はほっと胸をなで下ろす。
だが、この一幕を快く思わない者がいた。
源主の白い御御足が、傍らの酒樽を勢いよく蹴倒して中身をぶちまけ、樽の横腹をばきりと踏み割った。わなわなと震える手から玉杯が落ちて、がしゃんと音を立てて割れる。
義郎たちは身をすくめ、跳ねる若龍王子もぴたと動きを止めて母を見た。
「これがそなたらの見世物か?」
源主の低く抑えた声に呼応して、ごろごろと唸るような音が轟く。頭上の大穴から覗ける夜空が、たちまち厚い黒雲に覆い尽くされていった。淡い月光が遮断され、代わりに眩しい雷光が瞬き出す。
「愚かにも人の戯れに再び誘い出され、あげくに許しを乞う我が子の惨めな姿を、わざわざわたくしに見せつけたかったのか?」
閃く稲光が源主の顔を照らし出した。
氷像の如き冷たい美貌はもはや崩壊していた。豊かな黒髪が逆立って、幾千もの蛇のようにうねっている。目はぎらぎらと血走り、牙を剥き出した口が耳まで裂けていた。匠が技巧を凝らして鬼女面を作っても、これほどに恐ろしい造形は再現できそうにない。
「ち、違います。私たちはそんなつもりでは……」
女神の剣幕に、鈴音がかたかたと震え出す。義郎はかろうじて身を動かして烏帽子を脱ぎ、跪いて言上した。
「権現さま、どうかお聞き入れください! 拙者どもはあなたさまの御心を和らげる事に一心で、王子神さまを招きよせようという意図はありませんでした。ましてや頭をさげさせるなど。これはその……岩舞台の時と同様の、はからずして起こった手違いなのです」
源主は鬼の形相をさらに歪めて、露骨に嘲笑った。
「はっ! つまりそなたらは同じ過ちを繰り返したわけだな。仏陀すら三度目には声を荒げるのだぞ。荒ぶる神の前で二度目があると思っていたなら、とんだ大間違いだ!」
源主が怒号を吐くと同時に、出瑞山のどこかで落雷の轟音が聞こえた。
「情けをかけて挽回の機会を恵んでやったのに、この救いがたい愚物どもが! 我が胃袋に収めて糞に変える前に、雷の裁きで焼き清めてやる! それだけではない。そなたらは死して後、二度と人の身に生まれ変わることはないであろう。ある時は蛙に、またある時は鼠として生を受け、蛇の糧として生まれ変わり死に変わり続けるのだ。五十六億七千万年後に未来仏が降臨して全ての衆生を救うその日まで、量る事も数えることもできない永劫無限の生き地獄を味わい続けるがいい!」
矢継ぎ早に重ねられる呪詛と共に、天候はみるみる悪化していく。頭上から洞窟へ嵐が吹き込み、穴の直下の義郎と鈴音、そしてそばにいた若龍王子を強風が襲った。
「若龍! 裁きの神雷に巻き込まれたくなければ、さっさと奥へ戻るがいい!」
「うわぁっ。僕たち仲直りしたのに、なんで母上が怒ってるの?」
当の王子神は、自分の行動がきっかけで事態が悪化した事を全く理解しておらず、ぼんやりと立ち尽くしていた。
お前さえ出てこなければこんな最悪の事態には……と忌々しく思う義郎だったが、純粋な気持ちで和解を望んできた子供をなじる気にはなれず、今はただ物事の巡り合わせの悪さを嘆く事しかできなかった。
「くそ、まさかこんな横槍が入って台無しになるとは……俺たちの命運もここまでか」
もはや舞台の失敗は明らかだった。努力が水泡に帰し、がっくりと絶望に打ちひしがれる義郎――そこに鈴音がすっと寄り添い、雷鳴の隙間を縫って耳元でささやいた。
「いいえ、終わっていない……私たちにはまだ、女神を鎮められる最後の希望が残っているわ」
「なに?」
聞き返す前に、鈴音は身を離していた。そして彼女は、若龍王子の前に屈み込んでこう提案したのである。
「若龍さま。仲直りの印に、私たちとこれから楽しいお遊戯をしませんか」
若龍王子は目をぱちくりさせながら、白拍子女を見つめ返した。
『舞え舞えかたつむり……』『美女うちみれば……』は『梁塵秘抄』よりそのまま引用。
他、固有名詞があるものは部分的に改変してます。




