第二十一話 龍の末の子、若龍王子
義郎と鈴音は燐光に導かれるままに、暗闇の中をひたすら歩いた。複雑な構造の鍾乳洞を上へ下へ右へ左へ、四苦八苦しながら延々と歩き続け、このまま永遠に闇の中をさまようのではと不安を抱き始めた頃、やっと光の届く場所に出られた。ただ残念ながら、出口ではなかった。
そこは洞窟の侵食で頭上の地表が陥没して生じた、吹き抜けの広場だった。天井にぽっかりと空いた大穴から夜空が仰げる。雲ひとつない快晴だが、地面がひどく濡れているから雨上がりだろうか。満月の淡い光が洞窟に射し込んでいた。
広場の中央に、義郎たちを襲ったあの大蛇が寝そべっていた。白い鱗が月光を浴びて、銀色に美しく輝いている。
「きゃっ!」
不意に怪物に出くわして鈴音が思わず悲鳴を上げたが、むしろ驚いたのは相手の方らしかった。義郎たちに発見された大蛇はびくりと身をすくめると、すぐさま背を向けて明かりの届かない横穴へ潜り込んでしまう。姿が見えなくなった後も、しゅるしゅると遠ざかっていく音がしばらく聞こえた。
別の方向から、逃げる大蛇を呼びとめる声が届く。
「これ若龍王子、お待ちなさい。ここに母上がいるのだから怖がらなくて良いのですよ」
振り返れば、月光の当たらない壁際に源主が座っていた。輝かしい仏身から十二単の女官姿に戻り、手頃な岩を脇息の代わりにしてもたれかかっている。
傍らには奉納神事で供えられていたはずの一斗酒樽が置かれており、湛えられた神酒を盃で掬い飲みしていた。
「ああ、行ってしまった。全く、そなたらにすっかり怯えてしまっている。あんな目に遭わされては無理もないが」
源主はわざとらしく大きなため息をつきながら、義郎と鈴音をじろりと睨む。二人が辿りつくまでの時間を酒で潰していたらしく、顔は赤らみ目が据わっていた。
女神の射抜くような眼差しにたじろぎながら、義郎は単刀直入に尋ねた。
「源主さま……聞き間違いでなければ、今あの大蛇に母と名乗ったようにお見受けしますが」
源主は当然だといわんばかりに肯定する。
「ええ、そうですとも。あの子の名は若龍王子。わたくしが数年前に産んだばかりの、愛しい末の子ですよ。人の子供に化けては宮を抜け出して遊んでいるから、出瑞の民は勝手に出瑞童子と呼んでいるようですがね」
「若龍王子……出瑞権現の末の子」
やはりあの大蛇は地元の人々が噂していた山童・出瑞童子であり、しかも大社に祀られる神々の一族だったのだ。
義郎はそれと知らずに神の幼子と戦い、打ち負かしていた己の所業に驚くと同時に、とんでもない事をしでかしてしまったと今更ながらに気付いた。
「……あの、あなたさまが母親であられるなら、父親はどなたなのでしょうか?」
鈴音が恐る恐る、半ば興味本位で尋ねた。
「ふむ、あの子の父親ですか」
女神は腕を組んで思案し、間を開けてからこう言った。
「さぁ、一体誰なのやら。何しろわたくしを求めて訪ねてくる男神は絶えないから、慰めた相手の顔や名前などいちいち覚えていられませんよ」
「な、慰め……」
歯に衣着せぬ赤裸々な告白に、鈴音は顔を朱色に染めて沈黙してしまう。
仏の化身を名乗りながら目の前で堂々と酒を呑み、色好みを隠さない女神の言動には義郎も閉口するばかりだった。
「しかし、そのような些末なことはどうでもよろしい。国神の長たるこのわたくしが産み落としたのは揺るぎない事実なのだから、高貴な血筋を示すにはそれで十分です」
源主はきっぱりと断言して、さらにこう続けた。
「そうですとも、あの子はわたくしの腹から、共に生まれる兄弟なしに一つ子で生を受けた。わたくしの産む子らに一つ子は珍しいから、これはいずれ八十王子たちをも凌ぐ傑物となるに違いない……そう直感したからこそわたくしは、あの子を立派な神に育て上げるために我が山で隠し育てていました。男神との交わりを絶ち、人界からも可能な限り遠ざけて、清浄無垢に健やかに育つよう慈しんでいたのです――そなたらが我が山に訪れるまでは」
源主の手中で盃が砕けた。同時に吹き抜けの天井から顔を覗かせていた月が雲に覆い隠される。快晴だった夜空はたちまち厚い黒雲に埋め尽くされ、ごろごろと唸っていまにも雷が落ちそうな悪天候へと様変わりした。水を司り雨雲を操る、出瑞山の女神の感情に呼応しているとしか思えなかった。
「久方ぶりに良き歌声が響いたかと思えば、まさかあの子がふらふら近づいて見顕された挙げ句、生死の境をさまよう憂き目に遭うとは。わたくしまで姿を現すのは避けたかったが、あそこで割り込んで変若水を飲ませなければ今頃どうなっていた事か……よくも我が子を誑かし、狼藉を働いてくれたな!」
勢い良く立ち上がった源主は、義郎たちに嵐のような怒号を浴びせた。女神の口が開くたび、頭上で閃光が瞬き、雷鳴が轟いた。
「人界に降りた悪神は人が討ち、神域を侵した悪人は神が罰するのが、わたくしと大国主の定めた国譲りの盟約である。神の領域たる山で神の子を害したからには、然るべき報いを受けてもらおう。巫女どもは我が通力で、そなたらが溺れ死にしたと思い込んでいる。今頃大社では、社僧どもが読経してそなたらの冥福を祈っているだろうよ。外から助けが来るなどと思うな、大人しく神罰を受け入れよ!」
先ほどまでの穏やかな口調は消え失せ、すさまじい剣幕でまくし立てて、荒ぶる神の本性をむき出しにする。義郎は歯を食いしばって顔を強張らせ、鈴音は顔を青ざめさせた。
「酒で気を紛らわそうとしても、そなたらへの憎悪は一向に鎮まらず、湯のように沸きあがるばかりだ。どうしてやれば、この激情が晴れるだろうか。手足をもいで蛇と同じように地べたをのた打ち回らせるか。それとも股から石柱に串刺しにして、時間をかけてたっぷりいたぶってやろうか。わたくしの腹の中で生きながら溶け行く方が好みか? いずれにせよ、楽に死ねると思うな!」
「あ、ああ……」
いかに残虐な殺し方をすればうっぷんを晴らせるか、わざわざ口上して怯えさせながら吟味する女神。震える鈴音の表情を見た義郎は、とっさに膝をついて頭を垂れ、怒り猛る神に奏上した。
「……出瑞権現さま、この度の責は全て拙者にあります。王子神さまを殺そうとした直接の下手人ですし、鈴音御前の歌舞に誘われた王子神さまを拙者が暴いて追い詰めなければ、あのような事にはならなかったはずです。武芸者として殺生を生業とする拙者の罪は言い逃れできませんが、無力な芸人を見逃しても後の災いにはならないはず。拙者はいかなる裁きも甘んじて受けますから、どうか慈悲の心で彼女だけはお許しお願い申しあげます」
「ふん。みっともない言い訳でも並べあげるかと思ったが、存外殊勝な態度だ……そうだな、そなたが己の腹をかっさばいて生き胆を酒の肴に献上するというならば、聞き届けてもよいぞ」
「……御意」
「切腹には刃物が要るな。そなたの刀を返してやろう。あの刃こぼれしたなまくらで身を切り刻み、存分に痛みを味わうがいい」
義郎が額に脂汗を感じながら面を上げたその時、鈴音が義郎より前に出て、両手を地に着けて叫んだ。
「お待ちください権現さま、そもそものきっかけを作ったのは私です! 彼は皆を守ろうとしただけなんです! 私が舞い歌って王子神さまの気を引かなければ、このような事にはなりませんでした! 義によって動いた彼は帰してあげてください!」
義郎は彼女の肩をつかんで一喝する。
「おい、やめろ鈴音! 刃向かったのは俺だけだ。俺が潔く死ねばお前は助かる。頼むから、武士の散り際を止めてくれるな!」
一方の鈴音は、義郎の手を振り払うと涙目で喚いた。
「あなたこそ、死なないでって約束したのに、簡単に翻さないで! 私だって、命の恩人を見殺しにして助かってもちっとも嬉しくないわよ! 」
「男たるものが女子供を犠牲にして、自分だけおめおめと生き延びる道理があるか。俺に生き恥を晒させるつもりか!」
「男って、どうしてそうすぐに死にたがるの! あなたが腹を切ったら、私は目の前で自分の舌噛み千切るわよ!」
「このわからずやが……」
「――ああ、ああ。全く仲のよろしいこと」
二人の口喧嘩を、源主が煩わしげな声で遮る。必死にかばいあう二人を見て、いささか気勢をそがれた感があった。
女神は座り直し、大きくため息をついてからこう言った。
「……どちらも心根は悪人ではないらしい。今一度考えてみるに、此度の事はそなたらが示し合わせた謀ではなく、いわば不幸な行き違いである。愛し子に害を加えられて心底憎たらしいのは確かだが、のこのこ出てきた我が子の未熟さも責めるべきかもしれない。何よりわたくしの宮を拝するためにやってきた敬虔な若人たちに、酌量の余地も与えないのはいささか無慈悲だ。だから一度だけ、挽回の機会を与えよう。酒の肴に、何か芸でもしてみせよ。わたくしを楽しませて鬱屈した心を晴らすことができたなら、そなたらの罪を水に流しても良い」
思いがけぬ言葉に、義郎と鈴音は揃って深く頭を下げた。
「御慈悲を賜り、かたじけのうございます」
鋭い眼光で二人を見下ろしながら、源主は忠告する。
「言っておくが、わたくしは荒彦と賑姫の神楽を嘉納して以来、長きに渡って人の芸を見届けてきた。ゆえに目は肥えていると自負している。わたくしの御前で披露する許しを得ておきながら、つまらないものを見せたならば――」
源主は二股に分かれた長い舌を伸ばして、舌なめずりした。唇の隙間から二本の毒牙を覗かせながら、短くこう告げるのだった。
「その時は二人仲良く、酒の肴になってもらおう。せいぜい頑張るように」




