第二十話 神代の宝をたずさえし者
「起きて――義郎、お願いだから目を覚まして!」
「う、ううん……」
覚醒した義郎が最初に認識したのは、仰向けに倒れた自分を揺り起こしながら、必死に呼びかけてくる少女の声だった。周囲は真っ暗で、傍に置かれた油皿の灯火が彼女の憂い顔を仄かに照らしている。暗がりの中でもくっきりと輪郭の浮かぶその美貌は、薄化粧を施した鈴音御前のものだった。
「義郎! 私よ、鈴音よ! 分かる?」
「ああ……聞こえてる」
「良かった……生きているのね。動ける? 噛まれた傷の出血は止まってるみたいだけど、苦しくない?」
「噛み傷……そうか。たしか俺は、いきなり現れた鬼女に噛み突かれて、毒か何かを食らって気絶したんだな……」
鈴音の問いを受けた義郎は、思い起こした出来事を呟いて状況の整理に努めた。
「化け蛇と戦った時の打ち身がまだ痛むが、それ以外は大丈夫だ……おまえこそ平気なのか」
「私も大丈夫よ、なんともないの。むしろ、何の異常もないのが不気味なくらいだわ……あの気を失うほどの激痛が、今は尾も引かずに消え失せているなんて」
「確かに不可解な気もするが……異常がないのを疑ってもを埒が明かない。それより、俺の刀が見つからないんだが、知らないか」
起きてから微妙に身体を軽く感じて落ち着かない心地がしているのだが、自分の身体をまさぐるとすぐ原因に気がついた。愛刀が無くなっているのだ。気絶する直前に落とした事は記憶しているが、帯に差していた鞘まで抜き取られていた。今の義郎は全くの丸腰だった。
鈴音がためらいがちに首を振ったが、半ば予期していた答えだった。
「残念だけど見ていないわ。多分、あの怪物が隠したんじゃないかしら」
「畜生、やっぱりか!」
こればかりは義郎も本気で悔しがった。決して業物ではないが、師匠から授かって以来起居を共にしてきた、大事な古女房だったのだ。大蛇との戦いで使いものにならなくなったとはいえ、いざ手元から失われると半身をもがれたような思いに胸を締め付けられた。
握りこぶしで地面を殴り、痛みで激情を抑えながら自分にこう言い聞かせる。
「……何の気紛れか知らないが、寝ている間に命を取られなかっただけでも幸運に思うしかない。今のところはお互いの無事を喜ぼう」
「ええ、そうね……ああ、良かった。あなたが生きていて本当に良かった。こんな真っ暗闇に一人ぼっちで残されたら、私、私……うう」
鈴音はしきりに頷いて同意したが、言葉尻は萎れていた。闇の中で一人だけ正気付いているのが、相当心細かったらしい。義郎の無事に安堵した途端、目元からぽろぽろと涙が溢れ出して、水干の袖で顔を覆ってとわっと泣き出した。
堰を切った涙の洪水が顔を洗い、化粧を流し落として素顔を露わにする。泣きはらして顔をくしゃくしゃにしても、彼女の生来の美質は損なわれる事がなかった。むしろ平素の勝気な態度には見られない儚げな様子が、魅力を一層引き立てている感すらある。
歌道では美しい光景として桜の散り際と雲に隠れた満月、そして涙に袖を濡らす美女を挙げるという。なるほど確かにその通りかもしれないと、義郎は場違いな事を考えた。起きたばかりで、思考力がまだ回復していなかった。
鈴音はしばらくの間恥も外聞もなくわんわん泣いたが、次第に疲れてすすり泣きへと変わった。義郎もようやく頭が冴えて来たので上体を起こし、少女が落ち着いた頃会いを見計らって状況を尋ねる。
「ここには俺とお前しかいないのか? 大社の巫女たちは? そこの油皿はお社の燈明に見えるが」
鈴音は首を横に振った。
「……分からない。目を覚ましたらすでにここにいて、近くにはあなたしかいなかったの。燈明も最初から火が点いたまま置いてあったわ。きっと誰かが私たちだけ連れ去って、ここに閉じ込めたのよ。誰かと言っても、あの化け物女の仕業でしょうけど」
「となるとここは、山の妖怪のねぐらか」
「一体ここはどこなのかしら……まるで地獄だわ」
ゆっくり立ちあがった義郎は、燈明のわずかな光源を頼りに周囲を見渡す。頭上を岩の天井が覆っている事から、どうやらここは洞窟らしいと見当を付ける。直立しても頭をぶつける心配がなく、適当にうろついてもなかなか壁に行き当たらない、実に巨大な空洞だった。
地下水が滴り落ちる湿り気に満ちた洞窟内には、氷柱を思わせる石柱が天井から無数に垂れ下がり、地面には似た形状のものが筍のように伸びていた。それらは一見刺々しく見えるものの、岩肌はよく磨かれた宝玉のように滑らかで光沢がある。
明るい日の下では決して目にできない奇妙な景色を目の当たりにして、鈴音が死者の住む地底の国ではないかと疑うのも無理のない話だった。
しかし、義郎はそう思わなかった。油皿をゆっくりと地面に置くと、怯える鈴音をやんわりと諭す。
「いや、ここは鍾乳洞だな。地下水が染み出る洞窟の奥地には、鍾乳石という氷柱のような石が生えている事があるんだ。俺の住んでいた山岳にもそういう場所があって、石薬を採りに出入りする山伏に案内してもらった事があるから、間違いない」
「じゃあ、ここはあの世ではないのね。私たちだけここにいるのも、毒を受けたはずなのに苦しくないのも、死んであの世にいるからかも知れないと思ったけど、違うのね?」
鈴音が念を押して確認してくる。あまり動じていない義郎の態度を頼もしく思い、幾分か落ち着き始めたようだ。義郎は力強く頷き、確信を持って言い加えた。
「ああ、俺たちは生きてるんだ。しかもこの威容を見るに、ここは出瑞山の地下に違いない。これほど立派な鍾乳洞はそうそうあるものじゃないが、湧き水に恵まれている出瑞山なら、ありえる光景だろう」
「ちょっと待って……出瑞山の洞窟?」
義郎が述べた見解に、鈴音がはっと息を飲む。
「ねぇ、ここが岩屋御所の中って可能性はあるのかしら」
「最有力候補だな。あの入り口からして内部は相当広いだろうし、滝の真下だから水脈が通っているはず――どうした、鈴音」
鈴音はしばし思案げに黙りこくった後、再び不安な表情を見せながらこう切り出した。
「義郎、突拍子の無い出来事が立て続けに起こって、今まで頭が回らなかったけれど……冷静に考えてみると、この状況はおかしいと思わない?」
「今更何を言ってるんだ。山に入って怪物に出くわすのが普通であってたまるものか」
「そういう事じゃないの。よく聞いてよ」
鈴音は義郎の耳に顔を寄せると、周囲に声が漏れるを憚るように声を潜め、慎重な口ぶりでこう述べた。
「そもそもあの大蛇と女は、岩屋御所から姿を現したわ。私たちが閉じ込められたここも岩屋御所の内部だとするなら……出瑞山で最も尊い神様が祀られている御神域を自由に出入りしている怪物たちは、一体何者なの?」
「……神域と言っても、洞窟そのものは単なる地形だ。肝心の神仏が久しく姿を見せなければ、無法の鬼が居着く事もあるだろう。徳の高い坊主が開いた寺だって、住職がいなくなれば盗人の根城になるんだぞ。ましてや悪魔が、不在の主に遠慮するものか」
「でも、山の神様は悪鬼悪霊が人里に降りないように手懐けて、眷属として召し使うというわ。あいつらは、いえ、あの方々はもしかすると、出瑞権現の御所を守る御遣いなんじゃ……」
「おい、大社の巫女にも叱られたじゃないか。滅多な事を……」
二人が口論を始めた、その時だった。
「そうですよ。わたくしをそんな下等な連中と一緒にしないでもらいたい」
若々しくも威厳に満ちた、聞き覚えのある女の声が洞窟に響き渡った。
二人は会話を中断して、声の聞こえた方にはっと目を向ける。さらさらとした絹ずれの音が静かに近づいてきた。
暗闇からゆらりと現れたのは、あの女官姿の妖女であった。白雪の美顔と金糸で飾った十二単が、火明りを照り返してはっきりと浮かび上がり、満月のように輝いて見える。
「貴様っ!」
その姿を認めた途端、義郎は今度こそ不覚を取るものかと、先手を打って妖女に立ち向かった。
得物は取り上げられたが、素手でも敵を殺傷できる技を修めているのが武士というものである。相手の懐に踊り込むや否や、相撲・柔術の秘術を尽くして組討にかかり、背後を取って羽交絞めにしてしまう。
その間、当の妖女は全くの無抵抗だった。そればかりか、涼しげな顔で義郎に振り向き、他人事のように話しかけてくる。
「先刻のお返しですか。けれどもそんな乱暴な抱き方では、添い伏す雌の子に嫌われますよ」
「黙れ鬼女! このまま首をへし折ってやる」
義郎は妖女の首を腕で挟んだまま、ぐっと力を込める。女の細首からみしりと、骨のきしむ感触が……全く伝わらなかった。
代わりに妖女の首が、肩が、腰が、手足が、ありえない方向にぐにゃりと曲がり、義郎の拘束を内側から緩ませて、するりと抜け出してしまった。
「ほら、こんな風に」
「なっ……」
義郎が驚くその間に、正面に向き直った妖女は緋袴の片足を高く振り上げた。裾から垣間見えた裸足の踵が、鳩尾を勢いよく蹴飛ばした。胴の急所を強かに踏みつけられた義郎は「ぐふっ……」とうめきながらよろよろ後退した。
「義郎! 大丈夫!?」
うずくまる義郎を、とっさに鈴音が駆け寄って支える。
鈴音は義郎の上体を助け起こしながら、彼を蹴飛ばした妖女を気丈に睨む。
「……あなたは一体何者なの? それにここはどこ? 何が目的で私たちをさらったのか、答えて頂戴!」
女は腕を組んで鷹揚に頷いた。
「ものを尋ねるなら自分から名乗れと言いたいところだが、既に知っているから良しとしましょう。想像通り、ここは岩屋御所の中ですよ。そなたらは今、歴代の大国主すら上がった事のない出瑞山の聖殿にいるのです」
その物言いに、神域を軽んじる態度は感じられなかった。やはり単なる無法の悪鬼ではないようだ――そう思った鈴音は言葉遣いを正して伺う。
「……それではやはり、あなたは畏れ多き山の女神様の御所を守る御遣いなのですか?」
その問いに、女は眉間にしわを寄せて不愉快を表した。
「愚物めが。わたくしが何者であるか、それを示す物を既にその目で見ているのに、全く理解していない。ならばもう一度みせてやろう」
腹立たしげに言うや否や自分の指の爪を咥えて、ためらいなくべりっと噛みちぎってしまった。鮮血がぼたぼたと溢れ出て滴り、赤い肉が見えて痛々しい。
それを見せつけながら、女は袂から竹水筒を取り出して一口あおる。
すると出血がたちどころに止まり、はがれた爪もにょきにょきと生えて、傷跡を残さず再生した。大蛇に水を含ませて蘇生したのと全く同じ現象が、目の前で再現されたのである。
まだ水を湛えている竹筒を高々と掲げて、妖女が誇らしげに告げる。
「これぞ我が神宝、変若水の力。飲めば肉体が若返り、衰えた老人はありし日の活力と月の巡りを回復し、今日欠けた手足も昨日の壮健な姿を取り戻す。この奇跡を見ても、まだ分からないのですか」
義郎と鈴音は、目を大きく見開いて竹筒を凝視した。
「変若水……だと」
「国譲りの伝説に伝わる、不老不死の秘宝……それでは、あなたはもしや、あなた様は――」
その時だった。天井から滴る地下水が一粒、油皿の上にぽつりと落ちて灯火を消し去ってしまう。唯一の光源が失われた洞窟は、たちまち無明の暗黒に閉ざされてしまった。
しかしその一瞬の後、義郎と鈴音の目の前に火明りよりも強烈な光が発生して視界を埋め尽くした。
「くっ!?」
「きゃぁ!」
地底に太陽が生じたかのような圧倒的な光量を間近で受けた二人は、目が眩んで一時何も見えなくなる。だが徐々に視力が回復すると、自分たちの目の前に妖女とは全く異なる人影が立っているのが分かった。
それは黄褐色の薄衣をまとった若い女人で、金銀珠玉の腕環や首飾りで全身を彩っていた。右手は印を結び、左手に水がめを抱えている。髪を結いあげた頭には龍を象った宝冠を頂き、美しく整った顔立ちが目を細めて柔和に微笑む。何よりも異質なのは、彼女の肌そのものが黄金に輝き、自らが放つ無尽蔵の光明で洞窟を満たしている事だった。
義郎と鈴音はその威容にただ圧倒され、胸中に浮かんだ言葉を異口同音に呟いた。
「仏さま……?」
目の前の女の容姿は、寺院に安置されている仏像――とりわけ菩薩像にそっくりだったのだ。
呆然とする男女を見下ろしながら、金色肌の女人が口を開く。先ほどまでそこにいた妖女と全く同じ声だった。
「そう。わたくしは龍女菩薩の化身、源主神。出瑞山に降りた大権現にして、八百万の神たちの長である」
神宝と仏身を示し、正体を明らかにした妖女――源主の尊顔は微笑を絶やさなかったが、瞳には平静ならざる力強い感情がみなぎっていた。
「ついてくるがいい。そなたらを我が宮へ招いた理由を教えてあげよう」
源主はとんと地面を蹴ってふわりと宙へ浮きあがり、曲がりくねった洞窟内の鍾乳石を巧みに避けながら、輝きを伴って遠ざかっていく。その軌跡には燐光が漂い、暗闇に道しるべを残していった。
取り残された義郎と鈴音は顔を合わせ、互いの困惑した表情をしばし見た。だが最後には黙って頷きあい、恐る恐る神の導きに従うのだった。




