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龍神縁起 ~立派な神様のお供しよう~  作者: もぐら
第一章 出瑞(いずみ)編
19/55

第十九話 出瑞山の神隠し

2016/4/17

義郎と女の相対場面を一部修正。

 滝の中から突然飛び出してきた人影は、跳躍の勢いに任せて軽やかに宙を駆け、大蛇の横たわる岩舞台へひらりと舞い降りた。ゆっくり立ち上がると義郎よしろう鈴音すずねへ向き直り、瀕死の大蛇を庇う形で対峙する。


 義郎は鈴音を背中に隠しながら折れ曲がった血刀を構え直し、奇怪極まりない方法で現れた闖入者ちんゆうしゃに厳しく凄む。


「貴様は何者だ、その化け蛇の仲間か!?」


 二人の前に現れたのは、銭模様の金彩刺繍を施した十二単じゅうにひとえを羽織った、都の宮廷や公家屋敷の奥に座っていそうな女官姿の女だった。ただし、貴婦人というものは常に扇で顔をひた隠すのが作法と聞くのに、彼女は堂々と素顔をさらして全く恥じる様子がない。


 齢は二十の半ばだろうか。その佇まいは外見の若々しさに反して老成した威厳に満ちている。女にしては身の丈高く、地面の高低を差し引いても確実に義郎を上回っていた。

 繊細な氷細工のように麗しい顔立ちは、男女を問わず見る者を釘づけにしてしまう。春先の淡雪を思わせる色白の肌は、一点のしみどころか黒子すら見つからない。ふくらはぎまで垂らした艶やかな黒髪の豊かさは、清水で溢れる大河の如し。


 人跡稀なる山奥で一際異彩を放つ華やかな衣を身に纏い、人外染みた美貌と威圧感を漂わせる妖しげな女は、義郎の誰何すいかを完全に黙殺して、代わりに探るような眼差しでじっとりと見つめ返してくる。それだけで義郎と鈴音は、暗く深い水底へ引きずり込まれるような息苦しさを感じた。

 目の前の男女が気圧されていると察した女は、もはや注意を払うに値しないとばかりにふいと背中を向けてしまった。


 義郎と鈴音は、突然現れた怪しげな女が今にも襲いかかって来るのではと気を張っていたのに、逆に放置されて肩すかしを食らってしまった。けれども迂闊に近づこうとはせず、しばし女の動向を窺う。


 女は背後の二人を完全に無視して、死にかけの大蛇に寄りそうと慰めるように語りかけた。


「ずいぶん苦しめられたようですね。全く可哀想に……」


 大蛇の額をそっと撫でながら、全身に刻まれた刀傷の痛々しさに胸を痛める。十二単の袂から竹の水筒を取り出すと、栓を抜いて大蛇に咥えさせた。

 

「これを飲んで楽におなり」


 弱り切った大蛇は縋りつく様な目で貴婦人を見上げながら、促されるままに竹筒の中身をごくり、ごくりと飲み込んでいく。


 その様子を見て、義郎が呟いた。


「……あの女、化け蛇の死に水でも取っているのか?」


 彼女の行為は、臨終間際に死者の蘇りを願って水を含ませる『末期の水』に見えた。この謎めいた美しい女人は、今まさに黄泉路へ旅立たんとする怪物の最期を見取ろうとしているのだろうか? そう捉えると、真紅に染まった岩舞台の凄惨な情景さえもがどこか幻想的に思われて、強く哀れみを誘った。


「待って、よく見て義郎。蛇の様子がおかしい……」


 けれども、義郎の傍らにいた鈴音が彼の袖を強く引いて違和感を訴える。貴婦人の甲斐甲斐しさについ見惚れていた義郎は、鈴音に促されて改めて大蛇へ意識を向けた。その瞬間、彼も異変に気づいて我が目を疑う。


「なんだあれは……傷が消えていく?」


 これは一体どういう事なのか。大蛇が水筒の中身を飲みほしてから間もなく、全身の出血がぴたと止まり、無数の刀傷がみるみるふさがっていくではないか。その尋常ならざる再生ぶりは、例えるならば大蛇の肉体の時間が戦いの直前まで巻き戻っていくかのようだった。

 女は最期を看取っていたのではない。一体いかなる妖術の成せる業か、致命傷の大蛇をいとも容易く蘇生させていたのだ。


「貴様、やはり化け物の仲間か! まとめて討ち取ってやる!」


 死力を尽くしてようやく弱らせた怪物が復活しつつあると知った以上、もはや傍観などしていられない。義郎は刀を振り上げて勢い良く踏み出した――踏み出そうとした。


「すでに治療は終わりました。そなたらもしばらく大人してもらいましょう」


 義郎がじりっと一歩踏み込んだその時、女は岩舞台の上からたちまち地を滑り駆け抜け、一呼吸を終えぬ間に義郎の眼前へ立ちはだかった。

 恐ろしいほどの美貌がいきなり肉薄して、黒真珠色の瞳の中に肝を潰した男の表情をくっきりと映す。女の吐息が男の鼻にかかった。

 魅惑的な美貌が唐突に距離を詰めてきた事で、義郎は思わず生唾を飲んで固まってしまう。


(何故だ……この女に見つめられると息が上がって、頭がおかしくなる……)


 これほど間近で異性とじっくり見つめ会った経験など無い武骨者に対して、動じるなと言うのは無理な話かもしれない。しかし先刻大蛇を斬り伏せた剛胆者でありながら、今の義郎はあまりにも平静を欠いてしまっていた。あたかも、間近に迫った妖女自身が禍々しい瘴気を放ち、それに当てられて熱に浮かされているようだった。


「おやおや、あれほど勇ましく戦った豪の者にしては、ずいぶん初々しい事。ふふふ……」


 たじろぐ異性の胸中を見透かした妖艶なる貴婦人は、たおやかな両手を働かせて白魚のような細指を相手の身体に這わせた。刀を握る手首を片手でそっと包み込み、もう片方の手を首に回して、逞しい肩に手を置く。男の広い胸板に女の柔らかなふくらみを押しあてつつ、瑞々しい舌先でちろちろとうなじを舐めてくる。


「うっ……」


 前後の脈絡なく抱擁と愛撫を受けた義郎は、未知にして抗いがたい不思議な感覚に当惑する。

しっとりした餅肌の心地よさと、髪や衣から漂う嗅ぎ慣れない薫りが理性をかき乱す。背中に隠れている鈴音のあっと息を飲む声さえも、遠い彼方の小鳥のさえずりのように感じた時――女が舌を引っ込め、義郎の首筋にがぶりと齧りついた。


「ぐあぁぁぁ!」


 不意に噛みつかれた義郎は、肉に歯を突き立てられる鋭い激痛と同時にもう一つ、別の違和感を覚えた。噛み傷から体内に液体を注ぎ込まれる、得体のしれない感覚だ。焼け付くような痛みと痺れが彼を襲い、おぞましさと共に全身を侵食していく。


 貴婦人姿の妖女は義郎に噛みついたまま四肢を柔軟に絡ませ、もがき苦しむ獲物を縛め続けた。義郎の抵抗が弱々しくなるとようやく顔を離し、嬲るような笑みを送る。

 彼女の上顎からは、刀の如く反り返った鋭い牙が二本突き出ていた。その牙先には黄色い液体が滴っている。


「安心しなさい、毒で動けなくしただけです。死ぬほど苦しいが、加減してあるから死にはしません」

(毒……だと)

「義郎!」


 一部始終を見ていた鈴音が、やっと声を絞り出して叫んだ。義郎はなんとか首を曲げて少女の顔を視野に入れたが、その蒼白さは化粧だけでは説明がつかなかった。


(鈴音、逃げろ……) 


 そう言いたかったのに、身体の痺れが呼吸をも困難にしており、口は泡を飛ばすばかりで言葉がでなかった。思考は明滅を繰り返して徐々に衰え、視界も霞みがかっていく。


「さて、お次はそなたの番ですよ」

「ひっ……」


 恐怖に固まる鈴音に妖女が見せたのは、牙をむき出した狂相にはあまりにも不釣り合いな、菩薩のように穏やかな笑み。衰弱した義郎からすっと身を離すと、今度は鈴音に狙いを定めた。

 解放された義郎はもはや立つ事もままならず、膝から崩れ落ちてうつ伏せに倒れ込んでしまう。ずきずきと脈打つ首筋の激痛だけを鮮明に感じながら、急速に薄れてゆく意識の中で鈴音の悲鳴をかすかに聞いた。


   ◆


 妖女は二人の男女を文字通りの毒牙にかけて地に転がすと、岩屋御所の方を向いて呟いた。


「さて、残るは巫女だけか」


 女は岩屋御所を覆う大滝を見上げながら、鷹揚に片手をかざした。

 すると滝の勢いが目に見えて衰えていき、皆本川みなもとがわの清流が途絶えてしまった。岩屋御所を隠していた滝水のとばりもたちまち失せて、洞窟の入り口に身をひそめていた巫女たちの姿を晒す。

 滝が消えて突然の静寂が訪れた峡谷に、巫女たちの驚嘆が波紋を打った。


「そんな……皆本川が止まった?」

 

 豊瑞穂の大地を潤す出瑞山の水流が途絶えるなどという異変は、大国主尊だいこくしゅそん豊瑞穂とよみずほを創業してこのかた、一度も聞いた試しがない。それこそ遥かなる神代かみよの伝説にしか前例を見ない、正真正銘の天変地異だった。


 滝越しに妖女の凶行を覗き見ていた巫女たちは恐怖ですっかり縮こまり、身を寄せ合って震えるばかりで洞窟から出ようとしない。


 その様子を見た妖女は、手をかざしたまま指をわきわきと動かし、掴み取るような仕草を見せた。

 すると静まりかえった滝壺の水面から、幾本もの水柱が立って蛇のようにうねり伸び、驚き叫ぶ巫女たちを次々と絡め取ってしまった。水の蛇は彼女らを岩屋御所から引きずり出すと妖女の前に並べ下ろし、役目を終えた途端に形を崩して大地にぶちまかれた。

 巫女たちが岩屋御所から追い出されると、すぐに崖上から堰を切ったように滝水が溢れ出して、皆本川は本来の流れを取り戻した。

 ずぶ濡れになってぐったりする巫女たちに、妖女が頭上から言葉を投げる。


「そなたら、立ちあがってわたくしの顔をみなさい」


 起立と注目を命じられた巫女たちはもたつきながらも指示に従い、及び腰で建ち並ぶ。そして大蛇を背にして足元に義郎と鈴音を転がしている、不気味な妖女と対面を強いられた。

 先頭に立つ巫女長が腰を低くして妖女を見上げ、震える声で恐る恐る伺う。

 

「あ、あなたさまは一体、いかなる鬼神であられるのでしょうか……?」

「わたくしが何者かなど、そなたらが知る必要はありません。ここで起こった事など、今から全て忘れるのですから」


 きっぱりと言い終えるや否や、妖女の瞳からかっと稲妻の如き強い閃光が発せられた。真正面から拝していた巫女たちは眼光をまともに受けて一斉に立ちくらみ、刈り取られた稲のようにばたばた倒れていく。


「ああっ!」


 その中で巫女長はなんとか転倒を避け、膝を着くに留まった。強烈な光を間近で浴びた衝撃か、意識がひどく朦朧としていた。地べたに這いつくばる周囲の巫女たちも、同じようにうんうんと唸っている。

 妖女は巫女長の傍に屈みこむと、教え諭すような口調で囁いた。


「良いですか――そなたらは二人の参拝者を岩屋御所まで案内し、"何事もなく"神事を終えました。しかし帰り際に激しい雨に襲われ、舞人の女が足を滑らせて皆本川に落ちてしまいます。とっさに武士の男が助けようと、無謀にも川へ飛び込みました。しかし彼も激流には抗えず、二人とも激流に飲まれてしまったのです。そなたらの捜索も空しく、彼らは消息を絶ってしまった。ここで起こったのは山の中なら何も珍しくない、ただの"不幸な事故"だったのです――分かりましたね?」

「……はい…………私たちは二人の参拝者を岩屋御所まで案内し、何事もなく神事を終えましたが、その帰りに雨が降って――」


 巫女長は囁かれた言葉を反復しながらよろよろと立ちあがり、他の者もそれに倣って起き上がり始めた。誰もが一様に目を虚ろにしており、明らかに正常な思考力を欠いている。死んだ魚の様な目で妖女の言葉を輪唱する様は、不気味としか言いようがなかった。


 その様子に妖女は満足し、谷の出口を指差して巫女たちに帰還を促す。


「ふむ、よろしい。それでは散らかった物を片づけて、暗くなる前に速やかに本宮へ戻りなさい。参拝者の男女を襲った"不幸な事故"について、社の者たちへきちんと説明するのですよ」

「はい、分かりました……」

「ああそうそう、ついでに酒樽も川に流された事にして、ここへ置いていくように」


 巫女たちは糸で吊るされた人形のようにふらふらしながらも、指示通りに動きだした。先ほどの戦闘であちこちに散乱した祭具や楽器を集めて――ただし神酒を湛えた酒樽は残して――荷物をまとめると、倒れている義郎と鈴音など眼中に入れず整列して粛々と帰っていく。その静けさはまるで葬列のようだった。


 岩舞台に座す大蛇は、己に一瞥もくれず目の前を通過していく巫女たちと、それを見送る妖女を交互に見比べた。大蛇の何か言いたげな様子を見て、妖女が諭すように語りかける。


「これでいいのです。大社の巫女たちさえ無事なら、出瑞の民が騒ぎ立てる事はないでしょう。人は巫女や坊主が失踪すれば祟りだ呪いだのと大仰に怯えるが、浪人や芸人とかいう流れ者の一人や二人が溺れ死んだと伝え聞いた所で、いちいち気にかけたりしないものです。さて、そなたもそろそろ動けるでしょう。色々と言いたい事はあるが、まずは身体を洗ってほらで休みなさい。わたくしはそこに寝転がっている者どもを連れていくから」


 言い終わらぬ内に、出瑞山の上をにわかに黒雲が覆い尽くし、ざぁざぁと大雨が降り始めた。春の暖かく柔らかな雨粒が、大蛇と岩舞台にこびり付いた血糊を優しく洗い落としていく。

 雨水でみそいだ大蛇の身体には、もはや刀傷の痕跡など一切残っていない。今の状態を見ても、先ほどまで生死の境をさ迷う深手を負っていたと信じるものは誰もいないだろう。その後、大蛇は命じられたままに岩屋御所の奥深くへ潜り洞窟の暗闇へ没した。


 妖女は春雨を浴びた衣がしとどに濡れるのも意に介さずしばし佇み、足元に横たわる若き男女を冷たく見下ろしていた。


「目を覚ましたらまず、我が子に恥をかかせたそなたらの愚かさを、じっくりと教えてあげよう……」

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