第十六話 青蓮の眼で御覧ぜよ
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出瑞山の主源主神が鎮座する聖域、滝御簾の岩屋御所。
その大滝と滝壺の洞窟に対面する形で横たわる岩舞台は今、塵一つ無く清められている。岩舞台の四方には榊が立てられ、注連縄が渡されて舞台と周囲の空間を仕切っている。
川原の石を積み上げた祭壇には、義郎と鈴音が麓から運んできた計八升の神酒が一斗樽に収められ、神饌と共に供えられていた。
御所に参内した一行の内、楽党は舞台の横に敷いたむしろの上に楽器を携えて座し、その他の者は襟を正して祭壇の前に整列していた。参詣者の二人はその前列に立つ。
祭壇の前に立った巫女長が両手で巻物を広げ、抑揚を抑えた厳かな声で祝詞を奏上している。
「――清き心の誠を先とし、神代の古風を崇め、正直の根元に帰依し、邪の末法を捨てて、今神道の妙なる行を祈願奉り、諸々の願い事を成し就くせんと、中原国の女鈴音と、億里国の男深山義郎の、産土神を共に御神の御傍へ招き給い、捧げし業前を御照覧し給えと申す事の由を、畏み畏みも申す」
巫女長の長々とした祝詞の奏上が終わり、奉納神事が始まる。
「それでは、まずは私から」
先に名前を挙げられた鈴音が粛々と前に歩み出て、注連縄を跨いで履物を脱ぎ、足袋で岩舞台を踏んだ。
舞台に立った鈴音は滝に向かって深々と神前の礼を取る。挨拶代わりにまず一首、無伴奏で今様を歌った。
花の都を 降り捨てて
くれぐれ参るは おぼろげか
且つは権現 ご覧ぜよ
青蓮の眼を 鮮やかに
(華やかな都への未練を断ち切って、心細くもここまで参ったのは、並大抵の信心からではございません。この上は神様も、その仏眼でしかとお見届けください)
滝水が轟々と落ちる濁流音の只中においても、その澄み渡った歌声はかき消される事無く、谷の間を幾重にも反響する。
尾を引く山彦が絶えるのを待って、鈴音が胸元から扇を抜いて花のように開くと、それを合図に楽座に着いた巫女長が神楽の音頭を取る鞨鼓を打ち鳴らし、出瑞山の神々へ捧ぐ大合奏が始まった。
三管三鼓二弦、八種の楽器の精妙な音が谷間を満たし、見事に調和して周囲のの空間を清浄に塗り替えていく。笛が音律の世界を創造し、そこに鼓が波紋を投じて、弦が一定の調子を保って他の起伏を明らかにする。
かくして滝の轟音をものともせぬ音曲の小宇宙が完成した時、鈴音はその中にすっと足を踏み入れ、優雅に舞い始めた。
男装の舞人は荘厳で複雑な音色の中から、三種の鼓の音だけを巧みに拾い上げる。
三鼓の拍子に合わせて純白の水干の袖を振り上げ、あるいは緋袴に包んだ細足を滑るように運んで旋回した。
手に持つ扇のゆらめく様は、さながら蝶か花びらか。時に静かにゆったりと、かと思えばすばやく力強く。
緩急付けてくるりくるりと立ち回り、冷たく固い岩の舞台をたん、たん、たたんと踏み鳴らす。
神前に歌舞音曲を捧ぐ鈴音の背中を見守る義郎は、先ほど会ったばかりの楽党とのぶっつけ本番で、よくこれほどに息を合わせられるものだとしきりに関心していた。
(ふーむ。こうして間近で観察すると、舞の立ち振る舞いにはどこか、武術に通じるものがある……)
義郎が特に注目したのは、鈴音の姿勢と足捌きだった。
彼女の背筋は常にまっすぐ伸びて、毅然と胸を張っている。その一方で肩は自然体で余計な力が入っておらず、腕の動きも滑らかだ。どんな圧力を受けても竹の様によくしなり、決して折れそうに無いその威風が、少女を身の丈よりも大きく印象付けている。
下半身は中腰を維持したまま摺り足で足を運び、必要以上に足を宙に浮かせない。動いている時も止まっている時も、間接は絶対に伸びきらず縮みきらず、抜き差し自在なゆとりを保って、次の一瞬にも打たれるかもしれない鼓拍子へ即応できるように備えている。
鈴音の舞の動きは、絶対不動の大地にしっかりと根を下ろしながら、周囲の動きに応じて身体を自由に働かせる、剣法の理合いにも適っているのだ。
(武と芸は、どこか道を同じくする所があるのかもしれない……武術は敵の命を奪うために身体を鍛えるが、芸能は観衆の心を捉えるために妓芸を磨く。同じ身体全体を駆使する技術でありながら、目指すものは対極なんだ――相手を恐れさせるか、喜ばせるか)
などと義郎が哲学めいた思索にふけっている事など、鈴音は露知らず、その間にも神楽は続く。
谷風が幾度か強く吹いて、先ほど見た山桜の花弁が岩舞台の上にひらひら降って来た時、鈴音はすかさず歌を詠み上げた。
雨降らす 源主よ 御覧ぜよ 我舞い降らす 桜吹雪を
(雨を恵む女神の御前で私が披露いたしますのは、桜吹雪の舞でございます)
鈴音が神を讃える歌を詠むと、巫女長が終わりを告げる急拍子を打ち始め、それで神楽は仕舞いとなった。
舞い終えた鈴音は滝に向かって再び頭を下げ、岩の舞台を静かに降りて義郎の傍に戻ってくる。
「桃塚の宿を代表する鈴音御前の奉納舞は、いかがだったかしら」
「うーむ。上手くいえないが、神に届く芸能とはこういうものをいうのかな、と思った」
腕を組んで率直に下した義郎の評価に、鈴音は意表を突かれたという表情を見せる。
「あら……たいていの男はまず『天女が舞い降りたようだ』とか『これぞ三国一の傾城』だとか、歯の浮くような美辞麗句並べて口説いてくるのだけど、あなたは伎芸の業前を純粋に見るのね。けど、女に『綺麗だったよ』の一言もないなんて、本当に気の利かない男ねぇ」
などと「褒め方がなってない」と逆に批評してくるが、その声の上ずり具合は満更でもない様子だった。
「さ、お次は深山殿の番よ。私、こんなに立派な太刀を佩いてるけど荒業はさっぱりだから、貴方の演武を刀芸の参考にしようかしら」
「俺の剣術は大道芸じゃないぞ。全く……」
ぶつくさ言いつつ、義郎は刀を腰から鞘ごと引き抜いて右手に提げた。
咄嗟に利き腕で抜き放つのを防ぎ、上位者に害意のない事を表明する、武門における神前の作法だ。
そのまま進み出て履物を脱いで岩舞台へ上がり、高らかに名乗り上げる。
「無双直伝深山流、深山義郎ッ!」
そして鈴音と同様、滝に向かって深く頭を垂れた。
頭を上げるまでのわずかな間、義郎は心中で精神統一を図る。
(落ち着け義郎、みっともない剣術踊りで先生の名を貶めるなよ。これは演舞だ、目の前に打ち込む相手がいると想定しろ。俺の目の前には今、人間が立っている……)
そう念じてゆっくり面を上げ、刀を帯に差しながら正面を見据えた時――目の前に、本当に人が現れた。
滝裏の岩屋御所の入り口に、白い人影が見える。影は岩壁に身を寄せ、滝水越しにじっとこちらを見つめていた。
一瞬義郎はたじろぎ、強く念じたあまりに幻影を見ているのかと己が正気を疑った。しかし何度瞬きしても人影は消えない。やがてこちらの凝視に気づいたのか、影は岩陰にすっと身を潜めた。
「深山殿、どうかしたの?」
その挙動を不審に思った鈴音が義郎の背中に声をかけた。
「滝の裏に誰かいる」
ぽつりと呟いた義郎は舞台を飛び降りて草鞋を履きなおし、滝壺の岩屋御所へと駆け出す。
「え? あ、ちょっと! そっちは御神域よ!」
「御所は禁足地です、立ち止まりなさい! 狼藉を働くつもりならば大社の掟に従い、厳罰に処しますよ!」
鈴音の驚きと巫女長の制止を背中に受け、義郎は振り返って叫んだ。
「洞窟の入り口に人影が見えたんだ! こんな山奥に潜んでいるとなると、物狂いの野人かもしれない。婦人を近づけるのは危ないから拙者が確認しにいく。後でいかなるお咎めも甘んじて受ける故、ご容赦いただきたい!」
そして答えを待たずに猿の如き俊敏さで荒地を飛び渡り、滝壺の脇に回り込むと岩屋御所の暗闇に足を踏み入れた。
・『花の都を振り捨てて……』は『梁塵秘抄』より引用。




