第十四話 出瑞童子はどこどこぞ
朝から山を登ってきた義郎と鈴音が本宮に到着したのは、正午を少し過ぎた頃だった。
鳥居をくぐった所で数人の巫女たちに応対され、麓から運んできた御神酒入りの五升樽と三升瓢箪を渡す。
巫女たちが容器を調べ、中身を減らした痕跡が無い事を確認すると快く境内へ招き入れられた。
「想像以上にさびしい所ね……こんな山奥に住み込みでお勤めなんて、私だったら耐えられずにおかしくなってしまいそう」
「俺は騒々しい麓の仮宮よりも、こっちの方が落ち着いていいな。故郷の稽古場を思い出すよ」
社の人間に聞こえないようそっと囁く鈴音に対し、義郎は境内を見回しながら満足げに答えた。
出瑞大社本宮は麓の仮宮の荘厳華麗さとは趣きを異とする、霊山の奥地にふさわしい神さびた佇まいであった。
境内の立地は、悠久の時を経て流水で削られた断崖の下。荒々しい山肌がすぐそばに迫り、麓の仮宮と比べると猫の額ほどに狭い。むき出しの地面はよく踏み固められているが、四方の端は深緑に侵食されて境界が曖昧となっている。
施設は礼拝と奉職者の定住に必要な最低限しか設けられておらず、建材の檜は風雨に晒されてとうに色褪せ、持ち味の強い芳香も失せていた。
しかし建築物に埃の堆積はなく、老朽化による破損や腐敗も見受けらない。常に掃き清められ、何世代にも渡って丁重に管理されてきたのがわかる。
長い年月を耐え過ごして生じた風化は、かえって侵しがたい威厳を醸し出していた。
もしかしたらこれらの施設群のいくつかは、大社の創建以来ずっとここに存在しているのかもしれない――源主神からこの豊瑞穂の国土を譲り受けた初代大国主尊が、かの女神を偲び神酒を捧げるために大社を建立したという、人代の始まりの時代から。
境内の脇を流れる御手洗川で手足を清めた二人は、社務所で記帳してから一間に通されて、ようやく腰を下ろす。白湯と塩辛い握り飯を頂いて一息ついた頃、一人の老翁が挨拶にやって来た。
「ようこそおいでなさった。拙僧がこの出瑞大社の長官を務めている別当(兼任者)にございます」
彼は神職ではなく仏僧であった。白い浄衣ではなく黒い法衣を身に纏い、頭は烏帽子をかぶらず剃髪している。老僧は手に握った数珠を擦り合わせながら、参詣者二人に合掌した。
「宮司ではなく、お坊様が神社を治めておられるのですか……」
義郎がやや面くらった体で確認すると、別当は「左様です」と頷く。
「出瑞山にまします源主神は、龍女菩薩の化身であられますからな。神社としての祭事は当然の事として、御仏の供養を欠いては片手落ちというもの。ゆえに大社に仕える神職の中から菩提心を発した者が仏門に入って社僧となり、本宮の一画に建てられた仏堂で勤行しておるのです。その宮寺を預かる住職が大社の長官を兼任するのが、尼公殿下による神仏一体の御神託が降りて以来の伝統でして」
「なるほど」
神仏を同一の存在と捉えて同じ場所で祀るなら、神事と仏事の両方を行うのは自然な成り行きである。その上で高度な学識を修めた僧侶が責任者となるのは道理に適った話だ。
別当が簡単に説明した、神職と僧侶が同居する出瑞大社の組織構成に義郎は納得を示した。
「出瑞権現さまの霊験を求めて山に入る修行者は数多いが、在家の善男善女が本宮に来訪したのは正月以来じゃ――それも若夫婦とは、実にめでたい」
喜色満面を浮かべる別当の最後の一言に、茶で喉を潤していた鈴音が思わずむせる。口元を押さえてけほけほせき込む少女の横に座す義郎は、誤解を丁重に解いた。
「いえ、我々はそれぞれの志があって本宮へ参り、偶然にも山中で出会って道連れになった次第で、拙者とこちらの御前は何か特別に親密な、そういった関係ではございません」
「おっと、失礼。これは早合点しましたな……若い男女の出瑞詣でといえば十中八九、子宝祈願なもので。何しろ出瑞権現さまは一万以上もの神々を産み、名のある王子神だけでも八十柱を数える多産の女神ですから」
「こ、子宝……」
鈴音は羞恥に染めた顔を俯け、黙り込んでしまう。義郎は慌てて話を変えた。
「ええと、それで……拙者は武芸を、鈴音御前は芸能を奉納しに参ったのですが、大社本殿の岩屋御所という洞窟はどこにあるのでしょうか。境内を一見したところ、それらしき場所は見当たりませんが」
「権現さまの御所はここからさらに上方にありまする。距離はさほどでもないが、より一層険しい道となりますゆえ、しばしここで身体を休めなされ。社の者が案内する都合上、できれば参詣はお二人一緒に済ませて頂きたいのですが、よろしいかな」
義郎が承諾する一方で、沈黙していた鈴音が「あの」と手を挙げて意見した。
「私も異存ありませんけれども、今のうちに舞の支度をしたいので、一間お借りできませんか? それと囃子方の方々にご挨拶を……」
「もちろん喜んでお貸ししましょう。管弦もすぐに準備させますぞ」
鈴音の嘆願を別当は快諾し、巫女たちに彼女を奥へ案内するよう命じた。
「ありがとうございます、別当様。それじゃまた後でね、深山殿。覗いちゃだめよ」
「誰がするか。さっさと済ませろよ」
行李を担ぎ直した鈴音は、義郎をからかいながら別室へ消える。
そして、後には義郎と別当の二人だけが残った。俗人と坊主の二人きり。
(……あ、まずい。この流れは)
「さて、婦人の支度は何かと時間が掛かるもの。あちらの用意が整うまで、拙僧がしばし龍女菩薩さまの広大慈悲の一端をお説きいたしましょう」
鈴音に置き去りにされた義郎は、彼女が戻って来るまでありがたい説法を延々と聞くはめになった。
◆
「――例えるならば、仏法というものは降り注ぐ雨のようなもの。雨は一度に大地を覆って草木を分け隔てなく潤し育てるが、雨を浴びた草木の育ち方は千差万別。竹は竹として真っ直ぐ伸び、松は松として針を伸ばす。竹が曲がって伸びる事はなく、松が紅葉を散らす事はない。同じ一味の水を平等に浴びても皆が同じ形になるという事はなく、各々の生まれ持った性質に基づいて伸びてゆく。それと同様に、仏法は誰に対しても差別なく教えを説くが、聞く人によってその受け止め方は異なるのです。素直な人は正しく理解して悟りに近づくが、傲慢な人は解釈を捻じ曲げて非難する事を楽しむ。自ら救いを求めない人には、仏の慈悲も届かぬのです。そこで仏は方便を用いて一人ひとりの理解力に合わせて教え方を巧妙に変え、段階を踏んで悟りに近づくよう促します。本邦において、諸仏は神々の姿で現れては様々な方便を用いて教化してきました。我が出瑞山にまします権現さまは、飢える者には慈雨をもたらして木の実を恵み、悪事を働く者には雹を降り注いでこれを戒め、実に巧妙な方法で人々が正しい道へ歩むよう働きかけて、云々」
(鈴音、早く戻って来ないかなぁ……)
義郎は姿勢を正して出瑞別当の説法を聴講していたが、内心では退屈をかみ殺していた。『相手の理解力に合わせて教える』なら、剣法になぞらえてくれれば武芸者の義郎はもっと耳を傾けたに違いないのだが、あいにく別当は荒事と無縁の高僧である。
不信心ものでなかなか説法にのめり込めない義郎の耳は、外で神事の準備をしている若い巫女たちの会話を拾っていた。
「ねぇ、お供え物の牡丹餅がどこに行ったか知らない? 厨の棚にしまっておいたのに、さっき見たら無くなってたの」
「また? 先月も似たような事あったじゃない」
「そうなのよねぇ。お社の誰かが盗み食いしてるなんて疑いたくないんだけど……」
「ねぇ、それって出瑞童子が食べたんじゃない? お山に時々出るって噂の、あれ」
「またそんな根も葉もない与太話を真に受けて……どうせ烏か狐がかっぱらったんでしょ」
「でも無くなるのは甘い物ばかりで、お米や干物には手をつけてないのよ。獣や鳥だったら見境なく食べるんじゃない?」
「うーん、確かに動物の仕業にしては、全然散らかってないんだよね……今度とりもちでも仕掛けてみようか。動物が出入りしてるならその場で捕まえられるし、人間が盗んでるなら跡が残るはず」
「名案ね。それで何も掛からずにまた無くなったら、いよいよこれは出瑞童子の犯行で決まりよ。神様だったら、人間の罠なんかお見通しのはずだもん。あ、そうだ。隠れて見張っていれば会えるかな?」
(出瑞童子……神様?)
義郎が耳をそばだてていた時だった。外で騒ぐ巫女たちに気付いた別当が腰を上げ、縁側に立って一喝する。
「こら、お前たち! 口ばっかり動かさんで、早く祭礼の準備をせんか!」
「きゃっ」
「ごめんなさーい」
怒鳴られた巫女たちは逃げ出すように作業へ戻った。別当は義郎に向き直ると面目なさげに禿頭をかく。
「いや全く、恥ずかしい所をお見せしてしまいました。なにぶん、このような人気のない所に住み込みで奉職しておるので、若い衆は事あるごとに騒ぎたがるのです。箸が転がるだけで笑う年頃の娘どもの不作法、平にご容赦頂きたい」
「いえ、このような山奥にも関わらず活き活きとお勤めしている姿には感服いたします。ところで、先ほどの巫女たちが語っていた出瑞童子とは? 神がどうとかいってましたが」
義郎の質問に別当は「ああ、聞こえてしまった」と額に手を立て、ためらいがちに語った。
「……地元の氏子たちが好んで語るので、隠してもおのずと耳に入る事でしょうな。あの娘どもの話していたように、時々供え物の菓子や果物が忽然と消えるのです。それだけなら動物か不心得者の仕業と判断するのですが……その他に山中において、不思議な子供の姿がしばしば目撃されましてな。黄昏時に山を降りていたら、遠くで崖をすいすい登る男子を見たとか、社僧が夜中に仏堂でお籠りしていると、読経を真似る子供の声が森から聞こえたとか……それで口さがない者が、出瑞山の王子神が化けて出たのだと言い始めたのです。先ほど申しあげたように、女神さまには一万柱以上の子がおられるから、その中にいたずら者もいるだろうと」
「なるほど、出瑞山に現れる怪童だから出瑞童子と」
「ええ。いわゆる山童とかいう妖怪の類ですな。山奥にはよくある怪談です。しかし我々にとって、大社で祀る神々を山の怪奇と結び付けられるのは気分のいい話ではありませぬ。旅の方よ、出瑞山の外ではくれぐれも出瑞童子の名を出さぬようにお願い申し上げますぞ」
強く念を押す別当に義郎がこくこく頷いていると、また外がきゃあきゃあ騒がしくなった。
見れば境内の真ん中に鈴音が立ち、巫女たちが彼女をぐるりと囲んで黄色い声を上げている。
「おや、どうやら女子の支度が終わったようですな。説法はここまでにいたしましょう。拙僧は仮初にも仏門の徒ゆえ、神事には関わらぬのがしきたり。御所への案内は巫女たちに任せます。若者たちよ、道中お気をつけて。汝らの前途に、出瑞大権現の慈雨が降り注がんことを」
◆
別当に促されて社務所を出た義郎だったが、鈴音を囲む女たちの輪に男一人で飛び込むのは気が進まず、彼女らの様子を遠巻きに眺めた。
「都ではこういうのが流行ってるんですか?」
「まるで男の人みたいね」
「でもかっこよくて素敵!」
神楽の楽器や供物の膳を携えた巫女たちは、境内に現れた当世流行りの舞人の姿に色めき立っていた。
「ふふ、そう? これでも巡業用の、装飾が控えめな方なのよ。とびっきりの一張羅を持って来れなくてごめんなさいね」
白拍子の衣装に袖を通した鈴音の美しく煌びやかな事は、あたかも天女を地上で目の当たりといった風情である。衆目を涼しげに浴びる気取った佇まいが、男装の麗人の凛々しさを一層引き立てていた。
「深山殿ったら、なにぼけっと突っ立ってるの。見惚れちゃった?」
薄白粉の上に眉墨と口紅を引いた鮮やかな美貌が、義郎を見つけて呼びかける。鈴音は飛び立つ白鶴を描いた金泥の扇子で口元を隠し、目元に笑みを作って返答を求めた。
「ああ、女ってのは化けるもんだな」
先刻までの地味な旅装と対比しての言葉だったが、鈴音は頬を膨らませてぷいと顔を逸らし、露骨に不満を表明する。
「褒めてるつもりだろうけど、言葉を選びなさいよ。その言い方だとまるで、私の素顔が見るに堪えないみたいじゃない。失礼しちゃうわ」
「え? ああ、すまない……白拍子の格好はたしかに奇麗だが、俺としては普通の、女らしい衣装の方が似合うと思う」
「あら、鈴音を自分好みに着飾らせたいとお望み? 相応のお代を頂けるなら、やぶさかではございませんことよ」
「……いや、それは……」
どう返したものかと窮して目を泳がせる義郎の様子を、鈴音がくすくす笑って面白がる。
「本当にからかい甲斐のある人ね。さて、用意も整ったのだし早速参りましょうか」
「全く、道中は軽口を慎めよ――それでは社の方々、御所までのご案内お願いいたします」
二人は巫女たちに伴われて、いよいよ出瑞山の最奥神域、滝御簾の岩屋御所へ向かうのだった。




