第十三話 神は仏になりにけり・下
「――その後、豊瑞穂の諸国の神社で『我もまた諸仏の転生なり』という神託が次々と降りました。神と仏が同一の存在となれば、もはや廃仏も何もありません。人々はご先祖さまも極楽浄土へ行けるよう神々に助けられていたと諭されると、神仏を分け隔てせず熱心に拝むようになりました。かくして豊瑞穂は神仏和合の国となったのでございます。めでたしめでたし――これが出瑞大権現こと源主神が『龍女菩薩』と呼ばれ、神でもあり仏でもあると言われる由縁よ。おわかり?」
「それって要するに、口八丁手八丁で丸めこんだ体の良い成りすまし……いてっ」
義郎の抱いた率直な感想は、鈴音に錫杖で肩を軽く叩かれて遮られた。
「あらあら。深山殿が何を仰りたいのか、愚鈍なわたくしには皆目分かりませんけれど、神々のおられる山での不遜な物言いは災いの種ではなくて?」
「……突っ込むべき部分が満載過ぎるだろ。絶対に君が適当に話を盛ってるよな。そんな胡散臭い内容が、まともな書物にそのまま載ってるものかよ」
「あらすじと結論は捻じ曲げてないわ。宗教書に記されているとってもありがたい逸話から、格調高い美辞麗句と小難しい理屈を抜いただけよ。神仏ごった煮が当たり前の今日、お坊さんも神主さんも昔のぎすぎすした軋轢なんて好んで語らないから、知る人は少ないけどね」
「そりゃあ講釈しないわけだよ。なんちゅうありがたみの無い、無茶苦茶な話だ」
義郎は宗教者たちが沈黙して隠している、荒唐無稽な宗教史を知って嘆息した。
「あら、そんな無茶苦茶なお話からも、少しくらい教えられる事はあるんじゃないかしら。こんな風に」
鈴音は語った縁起譚を擁護して、今様を一首詠む。巧みな喉使いで静寂と荘厳を表現しながら口ずさんだのは、仏法の尊さを称える法文歌だった。
神は仏に なりにけり
などか我らも 仏ならん
三身仏性 具せる身と
知らざりけるこそ あわれなれ
(人ならざる神が仏になったのに、仏陀と同じ人の身に生まれた私たちが、仏に成れぬ道理があるだろうか。誰もが悟りを拓く資質を秘めているのに、それに気づかずつまらない事に執着して苦しむのは悲しいものだ)
「人々が仏を崇拝するか否かで争っていた時、尼公さまから仏法を説かれた源主は、仏は『崇める』ものではなく一人ひとりが目指して『成る』ものだという本質を理解して教え諭した――そういう捉え方はできないかしら? 龍女の生まれ変わり云々はともかく、かつては稀人を憎んで人間を滅ぼそうとした荒神が、異国の救世の教えに歩み寄ったのは印象的な事だと思うわ」
「……まぁ、何とかも方便というから、結果的には美談……なのか?」
どうにも素直に頷けない義郎は、しきりに首を捻る。彼の困惑する様子を、鈴音はにこやかに楽しんでいる。
「さて、お侍さんが一つ賢くなった所で……ようやく本宮に近づいてきたみたい、石段の果てに鳥居が見えてきたわよ。お山の中にあるせいか、麓の仮宮と比べるとずいぶん慎ましいけど、苔むしていて風流ね。もしかしたら、お宮が建てられた時代からずっと同じ鳥居が建っているのかも。さぁ早く登って、こんな重い御神酒はお酒好きの龍女さまにお渡して、さっさとお参り済ませて帰りましょう」
「神は仏に……」は『梁塵秘抄』から法文歌二首を組み換え改変。
※以下、読み飛ばして問題ない補足。
明治以前の日本にあった神道と仏教が混ざり合った宗教観・神仏習合は実際はもっと段階を踏んでいて、時代によって神仏の位置づけや上下関係が入れ替わっているのですが、作中での神仏の関係は今回描写したような認識です。
作中の読経や龍女成仏の話などは、『華厳経』『般若心経』『法華経』等から引用。
なお、龍女菩薩という仏尊は現実では信仰されていません。神社神道もそうですが、作中に登場する仏教は豊瑞穂世界の架空宗教なので、「悟りによる苦からの脱却」という命題以外は、インドのお釈迦さまが説いた教えと同一とは限りません。ただ一応、『法華経』には私たちとは異なる世界にも仏教が広まっていると説明されているので、その解釈に則ります。
※2015/6/6 訂正
龍女は『善女龍王』という仏教の神として、現代日本ではあまり有名では無いもののきちんと信仰されていました。事前の十分な下調べを怠って誤った情報を書いた事を謝罪致します。けれども特別性を強調したいので、この物語では自分が勝手に創造した『龍女菩薩』で通したいと思います。




