第十一話 遊びの君が望む恋・下
「棄てられても、怨まず死ねる……? 普通は、死ぬまで絶対に棄てない男じゃないのか」
首を傾げる義郎に答えず、鈴音は逆に問い返した。
「たとえばの話だけど、あなたが奥方と何人かの妾を養っていて、主君の命令で一人を除いて他の女全員と離縁する事を迫られたら、誰を手元に残す? 『心から想う最愛の一人を選ぶ』とか、『主命に背いてでも全員守る』なんて浮ついた理想論じゃなくて、一家の主としての現実的な判断を聞かせて」
義郎は顎に手を当てて考えた。自分が複数の女を囲う様子は想像できないが、財政の緊縮や風紀の取り締まりなどで、そのようなお触れが下知される事はありうる。いずれ家を興せば無縁の話とも言いきれないので、仮定とはいえ真面目に思慮した。
「ふむ……独り身だからどうしても抽象的な結論になるが、ただ一人を残すとなればやはり、本妻を選ぶだろうな。同じ屋根の下で暮らす家族を守るのは当然の考えだし、とりわけ一緒に家を切り盛りする伴侶を捨てて泣かせるのは忍び難い。第一に、色欲に溺れて妾を選んだと他人に誹られれば、面目を失って末代までの恥……あっ」
率直な意見を述べていた義郎は、目の前の遊君が"本妻"と"妾"のどちらになりうる女かという事実に途中で思い至り、口をつぐんだ。
良識ある家ならば、男に媚びを売って生きる底辺の商売女を、情けから身請けして妾に囲う事はあっても、正室に据える酔狂な真似はしない。
鈴音は身を売った事は一度もないと誇っているが、世間は氏素性の知れぬ芸人の言葉など真に受けない。昨日の河原舞台に立った彼女へ聴衆が注いだ、好奇と蔑みの視線はその証左である。
鈴音は言葉に詰まった義郎をあえて追及せず、淡々と肯定する。
「そういうこと。結局、男の人が身を挺して守る女は奥方お一人でしょう。共に手を携えて家を支え、墓の下へ至るまで手を引いて歩む、愛欲を越えた深い契りを結んでいるのだから。でも遊君とその旦那の絆に、そんなものはないの。男が私たちに求めるのは、家の都合で宛がわれた奥方が相手では味わえない、惚れた腫れたの自由な恋愛……つまるところ、お遊びだから。好き嫌いでしか繋がっていない間柄だから、女がどれだけ相手の愛を祈っても、男のお情けが尽きればそれでおしまい。女遊びに飽きた旦那は何食わぬ顔で、奥方が辛抱強く待つ古巣へ戻るのでしょうね。悔しいけれど最初からそういう関係だし、奥方を妬むのが筋違いなのもわかってる。因果応報の理に照らせば、出世してからすり寄ってきた若い浮かれ女よりも、槽糠の妻こそ最後に報われるべきだわ」
感情を理屈で押し殺す鈴音は、一度深く溜息をついてから言葉を続けた。
「――どれだけ想い慕っても、決して誰かの"大切な一番"にはなれない身の上なのだから、せめて裏切られても後悔しない相手を選びたいの」
「なんというか……達観しているんだな。年齢不相応に」
黙りこくっていた義郎は、やっと言葉を絞り出した。「そうかもね」と頷く鈴音。
「桃塚にいるとね、嫌でも耳年増になるの。軽薄な男のその場限りの言葉を真に受けて、周囲の忠告に耳を貸さず身を滅ぼしていく姉さまたちの背中を見れば、我が身の振り方を考えずにはいられないわ。宿の皆が寝静まった深夜に、ふと起きて耳を澄ますと、遠くからこんな歌が聞こえてくるのよ……」
鈴音は深く息を吸い、今様を口ずさんだ。
我を頼めて来ぬ男
角三つ生いたる鬼となれ さて人にうとまれよ
霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ
池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け
(私をその気にさせておきながら、訪ねて来ない薄情な男め。醜い鬼となって、人に嫌われるがいい。冷たい水田に立つ水鳥になって、足を凍えさせるがいい。浮草となってあてなく世間を漂い歩き、浮浪者に堕ちるがいいさ)
さめざめとした声音と、哀愁を帯びた節回しが森の静寂をかき乱し、奥山の谷底へ沈むように消えていく。
義郎はあまりに物哀しいその調べを聞いて、月を眺めながら涙で袖を濡らす女の痛ましい姿を想起させられた。
昨日神を讃える喜びの歌を奏でたのと同じその唇で、今日は心を凍らせる恨み節を吐いてみせる鈴音の芸達者ぶりは、全くもって見事としかいいようがなかった。
「……私は人を怨む恋なんてして、人生を棒に振りたくない。だからこうみえて、男を見る目は慎重なつもり。白拍子としてちやほやされているからこそ、悪い男に捕まらないよう用心しているの」
(行きずりの娘に男の好みを尋ねたら、女芸能の闇を垣間見てしまった……)
思いがけず若い遊女の悲壮な人生観を吐露された当の義郎は、藪を突いて蛇を出した心地であった。
流石に深く語り過ぎたと気づいたか、不意にはっとした鈴音の瞳には、気まずげな色があった。しかしそれも一瞬の事、ふっと微笑を浮かべ、茶化しながら締めくくる。
「山の気に当たったせいかしら、ついついお喋りが過ぎたわね……まぁ、小娘の戯言と思って忘れてくださいな。どのみち、やせ浪人のあなたには縁のないお話だから。錦織の帯の一つも気前良く贈れそうにない、甲斐性無しの男なんてこちらから願い下げだもの。運良く奥方を迎えられたら、貧しいなりに大事にしてあげなさい」
「余計なお世話だ。足止めてないでさっさと行くぞ」
むっとした義郎は力強く錫杖を突きならして山道を踏みしめ、参詣を再開する。やや遅れて鈴音の錫杖も鳴り出して、後に着いてくるのが分かった。
二人はしばらく無言のまま歩き続け、錫杖の音だけが痛いほど耳に響いた。
「……」
鈴音のお喋りをあれほど煩わしく感じていたのに、ぱったり止んだ今となっては義郎も居心地の悪さを覚えずにはいられない。自分の何気ない一言が原因となればなおさらだった。
いたたまれなくなった義郎は、二人の間に漂う気まずい雰囲気を強引にでも払拭しようと頭を巡らせる。とはいえ、昨日今日会ったにすぎない二人に、共通した話題など多くない。
だからひとまず、共に目指している出瑞大社の信仰についての、かねてからの疑問を口にした。
「話は変わるが、出瑞大社の祭神は源主という蛇神なのに、何で龍女って呼ぶんだろうな。やっぱり蛇の親玉だからか」
「そんなの、源主さまが龍女菩薩さまだからに決まっているじゃない」
何当たり前の事を言ってるの、と言わんばかりの口振りで鈴音が返す。けれどもその答えでは、義郎の疑問は増すばかりだった。
「菩薩? 菩薩は仏の事だろ。源主は神だ」
「神さまであり、御仏でもあるのよ。だから出瑞権現って呼ぶんでしょ……まさかあなた、遙々東国くんだりから岩屋御所へやってきたのに権現の意味とか、出瑞大社と仏法の深い縁をまったく御存じないの?」
信じられない、といった声で鈴音に問い質され、さっぱり御存じない浪人は正直に答える。
「師匠に『免許皆伝の前に神々の長のとこへ挨拶しにいけ』って言われたからお参りしに来ただけだ。こちとら武芸一筋で、軍神は丁重に拝むが、宗教はよく知らない」
開き直る義郎に、鈴音がため息をついた。
「あなた、安産祈願のつもりで道中安全のお守り頂いてくる類の人ね。そんな浅学じゃ、出世しても恥かくだけよ」
開いた口がふさがらないといった体で呆れられ、義郎はさっきとは別の意味でばつが悪くなる。
「……匹夫の無知を嗤うくらいなら、慈悲の心でご高説の一つでも垂れてくれよ」
「あら。東国武者は気が荒いと聞いていたけど、女に学を乞うなんて案外度量が大きいのね。そういう姿勢、嫌いじゃないわ。名を惜しみ恥を知る武士の、一時の恥を忍んでのお頼みとあればよろしくってよ」
浅学なる匹夫の願いを、鈴音は慈悲の心で快諾した。
「由来、芸能は古く神代まで遡り、神々を喜ばせて幸いを祈ったのがこの道の始まりと伝えられます。神仏の縁起を知らずして遊君を名乗るは笑止千万、言語道断。名山高僧の博学明才には及ばねど、一言一句語れぬ能無しでもありませぬ。出瑞山の蛇神たる源主神がなぜ龍女菩薩と仰がれるか、僭越ながらその由緒をお説きいたしましょう」
長々と能書きを垂れながら、知識自慢する人に特有の得意げな笑みをぱっと顔に咲かせた鈴音の様子に、義郎は内心で安堵した。
(多少やかましくても、やっぱり陽気な方が良いな……)
「今は昔の物語、豊瑞穂に初めて仏法が伝わりし時、大国主尊これを尊んで厚く敬い、民草に慈悲の光明を賜わらん。なれど諸国に、異国の教えを憎む人あり。彼ら、我が国を愛するがあまり、かえって世を乱せり――」
鈴音が歩きながら滔々と語る、源主の縁起とは次のようなものだった――
「我を頼めて来ぬ男……」は『梁塵秘抄』より引用。




