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八年後

 時間がかなり飛びます。

 袁紹と公孫瓉が本格的に戦争を始まってから八年もの月日が流れた。

 それほどの時間をかけて争っていた両者は、易京城の陥落とともに公孫瓉が一族もろとも自殺したことをもって、袁紹の勝利という結果に終わった。


 このようにして公孫瓉の勢力が滅亡したことによって、ついに袁紹は河北の統一を達成した。






 この間に起こったことはいろいろとあるが、すべてを語るとなると量が膨大になるため、重要なことをかいつまんで説明していこう。


 まず袁紹が冀州牧となった年の翌年、公孫瓉が袁紹の領地に攻め込んできて本格的に公孫瓉との戦争が始まった。

 当初は冀州から青州にかけての地域で争いが起こり、勝ったり負けたりの状況がしばらく続いていた。そこから二年近くかかった戦いの末に、袁紹軍が勝利を収めて領地の防衛に成功した。


 ただし、この争いには中原の情勢も密接に絡んでいた。その当時、袁紹は曹操や劉表りゅうひょうと、公孫瓉は袁術えんじゅつ陶謙とうけんとそれぞれ協力関係にあった。そうした中、中原において袁術が大敗して本拠地から逃げ出すということが起こり、それによって公孫瓉の攻勢が下火になるということも袁紹の勝利に関係している。そのように河北での戦争は、中原の戦乱とも間接的に関わりながら行われていた。


 また、このように戦争に集中できた要因として、董卓の死があるだろう。

 朝廷を牛耳っていた董卓であったが、その専横ぶりが激しくなっていた。そのせいで、朝廷の人々や自身の配下であった呂布に裏切られたことによって、ついに倒されてしまったのであった。このことが起きたのは、公孫瓉が侵攻を開始した直後であり、そのために河北と中原での戦乱が拡大したのだ。


 袁紹が防衛に終始していた時期には、主にそのようなことがあった。その後もたびたび戦争が起きる時期が続いていたのだが、数年が過ぎると変化が見られた。それまでの時期しばらく戦争が続いた影響か、比較的戦争の少ない小康状態になった時期が訪れた。

 小康状態とは言ってもそれは前後の年と比べた場であるため、戦争は時々起ってはいたのだが、それでも少なかったことは間違いない。


 そのためこの時を利用して時の皇帝である献帝けんていが董卓軍の残党のいる長安から脱出し、逃避行をおこなっていた。その後その一行を迎え入れたのは、歴史の通り曹操であった。




 またこれは袁煕個人の事情となるが、この期間に甄氏との婚礼を執り行った。

 妻となった甄氏は、史実通りの人物であったようだ。婚礼の儀式が終わって初めて正面から見た妻の顔は、袁煕がこれまで見たことがある中でも間違いなくいちばんきれいだと胸を張って言うことができるほどの美人であった。

 顔が整っていることによって、気が強そうだと感じさせる部分もあるが、普通の男ならそんなことなど気にしないであろう程に美しい。まだ十五歳くらいのはずだが、時代がそうさせたのかあどけなさもなくなっており、百人いれば百人が美しいと言ってもおかしくないであろう。袁煕の場合は初めてまともに彼女を見た際には、しばらくの間ただただ見とれてしまったほどである。

 その後再び戦乱が激しくなるまでの時期、袁煕は妻との時間を作って距離を縮めていこうとした。しかし、後々のためにひそかに行動していたり、袁煕の母が体調を崩してその看病を甄氏が中心となりすることに決まったりしたことで、それは叶わなかった。

 それでも、必要以上に妻を大切にしていこうとした袁煕であった。それによって、一時はうまくいきそうな雰囲気ができていた。

 しかし、時間がたつにつれて微妙な関係へと変わっていったのだが、そのことは時代の流れに関係がないため、ここではおいておく。




 そのような時期が過ぎると再び戦乱が激しさを増してきた。

 河北では袁紹軍が本格的に公孫瓉に対しての攻撃を開始し、中原では曹操と呂布や張繍などとの争いが激しさを増していた。

 ここで曹操と争っている呂布は、董卓の殺害後に起きた争いに敗れた後に中原に行き、そこで勢力を拡大させていた。呂布は主に袁術や陶謙の勢力であった領土の一部を奪っていたこともあり、曹操との争いが起こっていた。一方の張繍は、呂布がいなくなった後に起きた董卓の配下たちによる争いから自ら逃れる形で中原へと流れてきた。そこで劉表と同盟を結んで勢力を伸ばしていたことで、曹操との争いが起きていたのである。


 このようにして再び本格的に始まった争いは、河北の戦争では袁紹が率いる軍が公孫瓉の本拠地である幽州を攻めていた。また、この時期に袁紹から青州に派遣された袁譚によって、青州への攻撃も同時に行われていた。このようにして攻めていった袁紹は、次第に公孫瓉の勢力を削っていった。

 中原においては曹操が一度は張繍を降伏させたものの、張繍配下の賈詡かくの計略によって敗走させられ、長男の曹昂そうこうを含む多くの人材を失うということがあった。それでも、その翌年には呂布を倒すなどして着々と勢力を拡大させていた。


 このように一応は協力していた袁紹と曹操であったが、この頃にはすでに関係は冷え切っていた。袁紹には公孫瓉、曹操には張繍という明確な敵が残っていなければすでに敵対していてもおかしくないような関係になっている。

 また先に説明したように、張繍と同盟を結んでいた劉表は元々は袁紹と曹操の双方と協力していたのだが、袁紹と曹操の関係が悪化した後に曹操ではなく袁紹との同盟を選んだため、張繍に味方して曹操と敵対しているという状況が成立していた。


 このような中で、袁譚が青州において公孫瓉に勝利を収め、青州を完全に袁紹の領土にしていた。このことなどもあって、袁紹が公孫瓉を倒して河北の平定を成し遂げた。またその出来事から少し遅れて曹操の方も張繍を再び降伏させることに成功し、中原を支配下に置くことに成功していた。そしてこれは、袁紹と曹操が協力するためにあった前提がなくなったことを意味していた。そのことによってすでに両者は敵対関係になっており、これから遠くない未来において激突することが必至の状況となっている。


 ちなみに袁譚が青州を統一すると、曹操から青州刺史に任命されている。このことは後継者争いにも影響するのだが、今はまだ関係がないことである。


 


 そのようにして時間が流れ、現在は冒頭で紹介した部分へとつながっている。つまり現在の袁紹は、過去の協力者であった間柄から敵対する勢力へと変化してしまった曹操と、黄河を挟んで対峙している。


 







 このように時代が動いていった八年の間、袁紹軍の一員としての袁煕は主に裏方として活動していた。その活動としては、軍事物資を各地から集めたり、集めたそれらを前線へと送る仕事の一部を担うということが多かった。


 その一方で八年前に決めた予定に沿った動きもひそかに続けてきており、自身の配下の数・質ともに向上させることに成功していた。


 まず田脩のような情報収集のための人材だが、三十人程度の人数を確保できていた。

 現在でも袁煕に報告するのが田脩だということは変わっていないが、人数の増加に伴い集めることができる情報の範囲と質がかなり上がっている。現在では、河北のことについてはかなりの精度の情報が早期に集まるようになっていた。つい先ごろにあった公孫瓉の滅亡という情報についても、袁煕は戦争終了後のかなり早い段階で入手していた事から見ることができていた。


 次に文武を担う人材の育成についてだが、尹牧と馮裕については経験値を除けば、優秀と言える人材へと成長していた。もちろん、この先していくことになるであろう実務においてその知識を生かし、活用できなければ本当に役に立っているとは言えないが、そのための土台ができていたのだ。


 ほかには、新たな人材も得ることができている。

 新たに何人かの人材が配下に加わってくれていたのだが、その中で一番の収穫と言えるであろう人物は、やはり郭嘉かくかであろう。

 郭嘉は歴史において曹操に軍師として仕え数々の功績を上げたのだが、若くして亡くなってしまっている。もし彼が赤壁の戦いが起こった時代まで生きていたら、赤壁においての曹操軍の敗戦はなったであろうとまで言われている程の人物だ。

 袁煕が郭嘉を登用したのは、彼が袁紹に仕えようと冀州へとやって来た時のことである。袁紹に仕えようとして来たのはいいが、荀彧と同じように袁紹と話をして仕えるに値しないと考え、ほかの人の所へ行こうとしていた。そこへ郭嘉と同郷の荀彧を通して袁煕が声をかけ、郭嘉がほかの土地へ行く前に会うことができたのだ。

 そうして袁煕が会ってみた郭嘉という人はぼーっとした雰囲気をまとっており、見た目からはとても頭が切れる人物には見えなかった。しかし少し話してみると、実際にはとても頭の切れる鋭い人物であろうことが感じ取れた。

 そのため袁煕が配下に加わらないかと誘ったところ、郭嘉の方も袁煕と話してみてこの人ならばと思ってくれたらしく、郭嘉が配下として加わることになったのだ。

 郭嘉が配下になろうと思った理由の中に、袁煕の配下に荀彧がいたからというのも多少は含まれていたらしいのだが、とにかく配下にはなってくれたのでよしとしている。


 そうして郭嘉を配下に加えた後にも、荀彧の伝を使って杜襲としゅう陳羣ちんぐんといった人材を袁煕の配下として迎え入れていた。

 袁煕は二人が在野にいる内に荀彧にその二人を呼んでもらい、そうして会いに来てくれた二人と話をして配下の一員となってもらっていた。

 あまり多くの人を呼べない状況の中で袁煕が特にこの二人を選んだ理由は、荀彧の話から考えて軍略よりも民政に関してその力を発揮してくれそうだと思ったからである。

 二人を呼ぶ以前から袁煕の配下となっていた荀彧と郭嘉や、袁紹の下から連れてこようと目論んでいた田豊と沮授に加えて、時間をかけて育てていた馮裕といった文官の中で、民政の方が得意だと思われる人は荀彧と馮裕のみであった。そのうえ、荀彧は軍略にも通じているためそちらにも力を使ってもらいたい、馮裕は経験不足であった事情などもあって、民政に長じていそうな人材を優先して加えたのである。


 このような経緯で配下となった三人であるが、現在は杜襲と陳羣には主に外交を、郭嘉には主に袁紹の配下の者への働きかけをさせていた。

 外交については曹操との戦いを見越して、杜襲を荊州の劉表に対して、陳羣を涼州の馬騰に対してそれぞれ接近させておいた。とはいえ、あからさまに行動して妙に思われても困るので、劉表や馬騰の配下の者に近づくのみに留めておくようにはしておいたが。

 一方の郭嘉には、郭嘉と同郷の人であり現在袁紹に仕えている郭図かくと辛評しんぴょうに近づかせていた。

 ここで同じく同郷の荀彧ではなく郭嘉に動いてもらったのには理由がある。それまで仕事が多かった荀彧の負担を減らすためでもあったが、荀彧は兄である荀諶の下で日陰暮らしをしていると表向きにはなっていることも理由である。このような立場として暮らしている荀彧が袁紹配下の郭図や辛評に近づけば、変な噂が流れるであろうことが考えられた。ところが郭嘉の場合、この時代において名がほとんど知られてはいなかったこともあり、同郷のよしみで近づいたところで怪しまれにくいだろうと思ったのだ。

 このような理由もあって郭嘉にはその二人に接近してもらい、後々のための準備をさせていたのだ。


 このほかに袁煕が配下として加えた人に、蜀の五虎大将軍の一人として有名な趙雲ちょううんがいた。

 趙雲は初め公孫瓉に仕え、そこで当時は公孫瓉の下にいた劉備りゅうびの下に配置されて青州で袁紹と戦っていた。しかしその最中に故郷である冀州にいた兄が亡くなってしまい、そこで喪に服すために故郷に帰っていたのだ。

 そのことを田脩の情報網を使って調べた袁煕は、趙雲の兄の喪が明けると何度も彼に会いに行った。以前は公孫瓉の下にいたこともあってなかなか配下になってはくれなかった。それでも時間を作って何度も会いに行く中で、袁煕の考えや人柄を知ってもらい、五回目に訪れた時にやっと口説き落としたのだった。

 ………この際に三顧の礼とはならなかったことを袁煕自身は個人的に残念に思っていた。それでも趙雲を配下に加えることができたといった結果には十分満足していたため、不満ということではなかったが。

 そうして配下に加えた趙雲は、体格は大きく顔は男らしく、まさに立派な武人といった風貌を持っていた。しかし粗野というわけではなく、大人の落ち着きを感じさせてくれる人であった。

 趙雲は配下に加わった後、自主的に義勇兵を集めて時が来るまでその訓練をしてくれていた。

 それをするにあたって都市などで行うわけにはいかなかったため、趙雲の故郷に近い村で自警団のような形を取りながらではあった。それでも趙雲が鍛えているためなのか、十分に精強な兵へとなっているようである。

 たまに勉強の息抜きのために尹牧が趙雲がしている訓練に加わっていたようだが、次の日には必ずぼろぼろになっていた。それでも勉強の息抜きにはなっているようで、その後の表情はいつもすっきりしたものへと変わっていたが。




 そのような八年を過ごした袁煕は、鄴において袁紹の帰還を待っていた。

 袁紹が鄴に帰還するということは、いよいよ幽州と并州の刺史が任命されるということでもあった。そのどちらかの刺史として袁煕が任命されれば、ついに自身の拠点を持つことができるのである。

 袁煕としては、歴史から見ても刺史に任命されるのは間違いないと思ってはいた。それでも不確定要素を減らすために最後の仕上げをしながら待っていると、ついに袁紹軍が鄴へと帰還してきた。


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