方針決定
荀彧が袁煕の配下の一人となってから一月ほどが過ぎた。
袁煕は本来その期間はある程度自由に過ごせるはずであったのだが、父である袁紹に帰順していたはずの於夫羅が張楊を人質にして反乱を起こしたことによって、忙しいものへと変わってしまっていた。
現在の袁煕は一応官職にはついているが、仕事がほとんどないために時間が余っていたのだ。しかしながら、袁紹が冀州牧となって時間があまり過ぎていない中での反乱だったことで、人手不足になってしまい袁煕までが仕事に駆り出されていたのである。
ここで袁煕が仕事をあまりしなくても良い官職についているのは、周りからの評価の表れである。
その袁煕まで忙しかったのであるから袁紹の勢力が本当に危険だったのかと聞かれれば、それは違う。たとえ人手不足であったとはいえ、そこまで危うい事態とは言えない程度ではあったのだ。それでも官職についている者たちは普段以上に働く必要はあったのだが。
それはともかく、実際の反乱自体は麴義の軍勢によって速やかに鎮圧されている。
では何故袁煕までが忙しかったのかというと、父である袁紹から仕事を多く与えられたからであった。袁紹としては自分の息子の一人がどのくらい使えるのか見極めるためにこの機会に多くの仕事を任せてみたというのが、この一月袁煕が忙しかった本当のことの真相である。
このような機会が与えられたのは、今ならばたとえ失敗してもそれを取り返せるだろうという計算もあってのことなのだが、この件での袁煕の働きは袁紹の想像以上であった。そのため袁紹の中での袁煕の評価が多少は高まったのではあるが、それでもまだ兄弟の中では最低の評価であったことに変わりはない。
それでもこの後、袁煕の官職がより実務的なものに変わったのであるが、それは余談であろう。
そのようなことがあったため、袁煕はあれ以来荀彧と会うことができていなかった。
それでもこれからの行動を決める必要があるために何とか時間の調整をしていき、この日になってようやくお互いの都合を合わせることができたのであった。
「すまない荀彧、待たせてしまったようだな」
「いえ、私も来たばかりですので。それにしても、やっと話し合いの場を設けることができましたね」「全くだな。この一月は荀彧だけでなく私の方も忙しかったから時間を合わすのがより大変だったが、なんとかこの場を用意できてよかったな。さて、時間もないことだし今日はすぐに本題に入りたいのだが構わないか?」
「そうしましょう、と言いたいのですが、それよりも先に他の袁煕様の配下の方と会わせていただいてもよろしいですか?」
やっと荀彧に会うことができて気が急いていた袁煕は、荀彧にそう言われて前回自分が言っていたことを思い出した。
「そうだったな、先にそちらから済ませておこう」
そう言った袁煕は一旦外に出て行き、待たせておいた配下の者を呼んでくると、再び荀彧のところへと戻って行った。
「この三人が私の配下の者だ。『おいお前たち、この中に入ってこい』」
袁煕がそう言うと、中に三人の人物が入ってきた。
その三人は、一人は獣のような雰囲気をまとわせている髭もじゃの大男、一人は存在感が薄く三白眼が特徴の中肉中背の男、もう一人は小柄でまだ少年と言った方が正しいと思わされるような童顔をした男であった。
「荀彧よ、この三人が私の配下の者だ。その獣のような大男は尹牧、存在感の無い男は田脩、最後の子どもが馮裕と言う名だ。覚えておいてくれ。さあ、お前たちもそれぞれ荀彧に自己紹介をせよ」
袁煕がそう言うと、まずは大男が話し始めた。
「荀彧殿、俺の名は尹牧で歳は十九だ。元々は青州に住んでいたが、いろいろあって袁煕様の配下になった。今は近くの村にある自警団の人々に対して武術を教えている。これからよろしく頼む」
それが終わると、今度は存在感の薄い三白眼をした男が話し出した。
「荀彧殿、私は田脩と言います。年齢は恐らく十七です。昔はいろいろと人に言えないこともしておりましたが、袁煕様に拾っていただき足を洗いました。今は昔の伝を使って情報を集めて、それを袁煕様に伝えるのを仕事としています。これからよろしくお願いします」
そうして二人目も終わると、最後に少年のような男の番になった。
「荀彧殿、僕の名は馮裕と言って今は尹牧さんがいる村の老人から文字を教えてもらっています。それと一応言っておきますけど、僕はもう十四歳なので子供じゃないですからね。僕は商人の息子だったんですけど事情があって今は若様の配下です。そういうことですけど、これからよろしくお願いしますね」
「わざわざありがとうございます、尹牧殿、田脩殿、馮裕殿。私は新たに袁煕様の配下となった荀彧と申します。こちらこそ、これからよろしくお願いいたします」
三人の挨拶が終わったことを確認した荀彧も、そのように三人に対して挨拶をした。
それを見ていた袁煕は、顔合わせはひとまずこれで問題ないと判断して次の話題を切り出した。
「さあさあ、顔合わせも終わったしこれからの行動について話し合おう。荀彧、この際この三人も話し合いに加えたいと思うのだが構わないかな?」
「そうですね、今日の話は彼らにも大いにかかわるでしょうし、構わないでしょう。では早速これからどう動いていくのかについて話していきましょうか」
荀彧のその言葉を皮切りにして、袁煕のこれからの行動についての話し合いが始まった。
具体的な話の内容については細かくなってしまうためにここでは省くが、簡単に言うと袁煕が荀彧と初めて話した時に伝えていた計画の、より詳細な部分についてどうしていくかということが決められた。
まず、情報収集については河北の情報を優先するということが確認された。しかし、この仕事を担うのは基本的には田脩になるのだが、現在の状況だと田脩に万一のことがあったらそれだけで情報収集機能が滞ってしまう。そのため、これに関してはまず人材の確保を進めていき、万一の状況に対する備えを整えることを優先するということが話し合われた。
したがって、しばらくの間は田脩の情報収集力が落ちてしまうことになるのだが、そのことを覚悟したうえで人材の登用、育成に力を注ぐことに決まった。
その代わりとして、河北の情報収集についてはしばらくの間、荀彧が独自の伝を用いて代替することも同時に決めておいた。ついでということで、伝を用いる際に荀彧が将来袁煕の配下に加えたいと思える在野の人物がいたならばできるだけ接触しておき、時期を見て登用するための布石を打っておこうということも決めておいた。
その次に話し合ったのは、人材の登用や育成についての計画である。 先ほどの話で情報収集のための人材の獲得を優先することが決まっていたため、まずはそれだけに集中して進めて行こうということになった。
これには、現状で文官や武官を増やしてもお金の問題やしてもらう仕事がほとんどない、といった大きな問題があるために、今すぐに人員を増やしていくことは愚策であるという現実も背景としてあった。
これは荀彧に当たってもらう人材についても同様であるため、残念ではあるが実際にそれらの人物を登用できるまで時間がかかってしまうだろう。
それと人材の育成については、ひとまず尹牧と馮裕の二人を鍛え上げていくということになった。というのも、自分のやり方をすでに持っていてすべきことが分かっている田脩とは違って、この二人にはまだまだ学ばなければならないことがたくさんあるためだ。
まず尹牧は個人の武術についてはとにかく、将来的には軍を率いることができるようになってもらいたい、という願いを袁煕が持っている。そのため、時が来るまでには『孫子』や『呉子』といった兵法書を読んだりして、軍を率いるための知識を最低限でも身に着けてくれなければ話にならないからだ。
また馮裕にしても商売に密接にかかわる算術などには長けていても、政治のこととなるとどうしても知識が足りていなかった。そのため彼にも時間をかけて、政治についての詳細な知識を植え付けていく必要があったのである。
これらのことが決まった後は誰が彼らの教師となるかが問題であったが、それについては荀彧が一族の人の中から教師となる人を探してくれるという話になったので解決した。
最後に話したのは、父の勢力の中にいる接近しておきたい人物のことである。
これについては最も詳しいであろう袁煕が最初に是非とも近づきたい人を三人挙げて、とりあえずはそれらの人物から近づいていくことになった。
袁煕が近づきたい人として名前を挙げた三人とは、『田豊』、『沮授』、『張郃』のことである。
袁煕は歴史から考えても、この三人が父の配下の中では人格、能力ともに秀でていると考えていた。
話の途中で荀彧から、田豊は性格が上の者に逆らうためもっと良く考えて決めた方がいいと再考を勧められた。しかし、能力的には抜群であるし上に立つのが自分ならばその言動についても我慢できるだろうから問題ない、ということを袁煕が話したため、荀彧もそれならばということでその三人と接触していくことが決まった。
ほかの人材については、誰も能力か人格のどちらかが基準に達していないだろうという結論になり、現段階で接触していく人はその三人だけとなった。
そしてこちらから彼らに近づいていく人物は、田脩ということに決まった。
これが袁煕や荀彧ならば普通に近づけるのだろうが、その場合はどうしても周囲の人に知られることになる。そうなって変に勘ぐられては困るため、田脩しかそれをできる人がいなかったのだ。
しばらくの間は田脩が個人的に近づくのみに留めるが、こちらも時期を見て田脩の背後に指示を出した人がいることは伝えようという結論に落ち着いた。
こうして、どうにか袁煕たちのこれからの行動方針が決定した。
余談になるが、この時の仕事の配役についての話を仕切っていたのが荀彧だったことで、しばらくの間は人員の配置・整理を行うのが荀彧の役割だと暗黙の内に決まってしまった。そもそも現在それをできる人が荀彧のほかにいないということもあったことと、荀彧としても後で面倒になるよりましだと考えて自らその仕事を受け入れようとしたこともあって、話し合いにすらならなかったためここで示しておく。
このようなことを決めて話し合いが終わったのだが、袁煕としては少々心苦しい結果となった。
理由としては決定した役割の場合、田脩と荀彧に対する負担が大きくなってしまうからだ。
決まった仕事を見ると、田脩には人材育成と袁紹配下の三人の人物への接近、荀彧には情報収集と人員の配置・整理という仕事があることになる。そのため袁煕は、二人だけ多く働かせているような感情を抱いてしまったのだ。
しかし袁煕がそう思っていたとしても、そのようにするしかなかったということも理解していた。そこで、彼らのためにもできるだけ早く自分の力をつけたいと考えながら、その場から帰って行った。
いろいろと考えながら帰っていた袁煕は、帰った後に袁紹から突然言われることに大いに驚くことになるのだが、この時の袁煕はそのようなことがあるとは思ってもいなかった。
ここで一応説明しておきますが、尹牧、田脩、馮裕の三人は架空の人であり、実在した人ではありません。
また、冒頭の話で官職名を書いていませんが、それは話を進めるうえで影響がないということと、立場が下の方の官職であることが理由です。
しばらくするとちゃんとした官職名も出てくるようになるので、この話ではその部分はそういうものだとでもしておいて下さい。