王佐の才を持つ者
冀州の州都である鄴へと至る道沿いにある小さな町の中にある宿に、ある一団が逗留していた。
その者達は長旅の影響なのかどこか疲れを感じさせる様子ではあったが、それでもその時代において十分に裕福だと言えるような衣服を身にまといっていた。すべての者がどこか上品なたたずまいであり、普通の庶民とは一線を隔てた雰囲気を漂わせていた。
やがてその町へと入った袁煕は事前に調べたおいたその町で評判の料亭へと赴いた。それから配下の者に先ほどの一団の中にいる一人の人物を招待してくるように申しつけて使いに出すと、静かにその時が来るのを待っていた。
「若様、先ほど言われていた人物を連れてまいりました」
「そうか、分かった。ここに通してくれ」
部屋に通すように伝えると、配下の者の先導で会うことを待ちに待っていた人物が入ってきた。
その人物とは、史実において王佐の才を持つ者であると評され、曹一族の魏建国において最も功績があるとされている人物である、荀彧であった。
「本日はお招きありがとうございます、袁煕殿。私は豫州潁川郡に居りました荀彧と申します。どうかお見知りおき下さい」
「いえいえ、いきなりお招きして申し訳ありません。私はこのたび冀州牧となりました袁紹が二男、袁煕と申します。よしなにお願いいたします」
「袁煕殿、今の私は流浪の身にすぎません。そのような丁寧な言葉など必要ありません。どうか気軽にして下さってかまいませんよ」
「いやいや、年長者を敬うのは当然のことですのでお気になさらず。それよりもまずは食事といたしませんか?何しろここはこのあたりで最も評判の料亭らしいですので満足いただけると思いますよ」
「そうなのですか。ではお言葉に甘えて食事をと行きたいのですが、この並びですと私の座る場所が袁煕殿と同列になってしますのですがよろしいのですか?」
「もちろんですとも。荀彧殿のご高名はかねがね窺っておりましたし、問題などありませんよ。気にせずにおかけになってください」
「分かりました。では食事といたしましょうか」
そうして、まずは食事をとることになった。
食事が始まると、袁煕は軽く会話をしながら荀彧の人となりを観察していった。
荀彧の第一印象は、これぞイケメンというものであった。顔立ちがすらりと整っており、その表情は深い知性を感じさせる。それでいて人当たりも良く、うまく会話をつなげてくれてだんだんと話に引き込んでいってくれる。
顔も人格も良く、そのうえ頭も抜群にいいというのはどれだけ勝ち組な人間なんだ、と思った袁煕であった。しかし、現在の自分の容姿も良い部類に入るだろうとも思っていたこともあり、そこまでひがむことにはならずに済んでいた。
ひとまずそのことは横に置くとして、この荀彧という人がとても優秀な人材であるということは、この短い間で袁煕にもよくわかった。
しばらく食事を楽しんだ後終わりが近づいてくると、配下の者たちを下がらせて二人きりにさせてから本題へと入っていった。
「荀彧殿、ここの料理はいかかでしたか?」
「はい、なかなかに楽しめましたよ」
「それは良かった。ここをわざわざ探しておいたかいがあったというものですね」
「………ところで袁煕殿、本日招いていただいた理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「………そうですね、そろそろその話をいたしましょうか。では単刀直入にお伺いいたします。荀彧殿、どうか我々の所に来てはいただけませんか?あなたのような人材が是非とも欲しいのです」
そう言うと袁煕は相手に向かって頭を下げた。
「袁煕殿、どうか頭をお上げください。もしよければ私を袁紹殿の配下としたい理由をお教えいただけませんか?」
「ああ、申し訳ない。私が言ったのはそういう意味ではなくて、私のつまりこの袁煕の配下として来てはいただけないかということなのです。」
こちらがそう言うと荀彧は少しだけ眉を動かしたが、すぐにそれを隠して言葉を続けた。
「袁煕殿の配下にですか?ということは今回招いてくれたのは袁煕殿が独断でおこなったことだということですか。………それにしてもどうして袁煕殿は私を自らの配下としたいのですか?どの道我々の一団が鄴に行くことくらい分かっていたでしょうし、どの道袁紹殿がそこで私を配下に加えようとするでしょう。そう考えると今回のことをする必要などなかったのではないかと思われますが?」
そう言った荀彧は、こちらの反応を窺うかのような表情を見せながらこちらの答えを待っていた。
(これは間違いなく試されているんだろうな。史実でも確か袁紹を主として認めずに曹操の下に行ったんだったし、こっちが仕えるのにに値するのか見極めようとでもしてるんだろう。ったく、こういうのは疲れるんだけど荀彧を曹操に渡したくはないし、できるだけのことはしないといけないよな。とりあえず、自分の言葉は慎重に選んでかないと……)
「先に一言謝っておきますね。今回のことは父上とは関係ないことを先に伝えるべきであったところを、荀彧殿にお伝えしていなかったことをお詫びしておきます」
そう言うと、いったん立ち上がって相手の下座に回ってから頭を下げた。
そして相手に断りを入れて席に戻ると、質問に対しての返答を始めた。
「私が荀彧殿を配下にしたい理由を一言で申せば、現在起こっている戦乱の世を終わらせたいがためでございます。私がこの戦乱の世を鎮め、新たな時代を作っていくにあたって、あなたのような方を配下にできればこれから先のことを有利に進めていけます。そして、私が新たなの時代を築いていく上でかかるであろう期間を短縮することもできるでしょう。またそれによって失われてしまう命の数を減らすことができるだろうとも考えました。このような理由により、私はあなたを欲しいと思ったのでございます」
ここで袁煕が口にしたこの言葉はおおむね事実である。
これまで袁煕として生きていた時間の中で、自らの記憶にある歴史と照らし合わせながら将来長く生き続けるための方法を考えてきていた。その結果、自分自身が生き残るにはそうすることが最も手っ取り早く、確実であるという結論になったのだ。
一時期は、うまくすれば官渡の戦いの後も曹操の下で降伏して生き続けれるのではないかと思ったりもしていた。実際の歴史の中で、そうやって生き残った張繍や張魯といった人もいたためである。しかし途中で、この二人は袁家よりも家格が確実に下であり、元々の勢力も小さかったことを思い出した。さらにその二人は自身の能力を認められていたことも生かされた理由であったため、自分は曹操の下では生き残れないと思い直したのだ。
仮に袁煕にそれなりに能力があると認められたとしても、それは逆効果であろう。なぜなら、袁家の血筋でそれなりに優秀な者が生きていては、その者の意志とは関係なく曹操への反乱の火種になる恐れが大いにできると考えられる。つまり、生かしておいたところで問題しか残らない。
したがって、現時点で曹操に降るという選択肢はなくなっている。そうすると生き残る最適の方法としては、袁煕自身が天下を安定させるといった結論に落ち着いたのだ。
したがって、根本となる理由はいささか利己的ではあるのだが、先ほど述べた言葉は結論から考えると事実となるのである。
一方その言葉を聞いた荀彧はというと、先ほどの言葉から袁煕という人の本質を感じ取っていた。
(なるほど、そういうことですか。まさか袁家の兄弟の中で最も評価の低かった人物からこのような言葉が聞けるとは、いやはや驚きましたね。つまりこれまでの評価は彼が自ら生み出した虚像であり、彼の本来の姿は全く違っていたということですか。ひとまず、これで会ってから感じていた人物像とこれまで聞いていた彼の人物像の間にあった違和感はかなり解消されましたね。まだこれだけでははっきりとはしませんが、なるほどなるほど意外と面白そうな方ではありそうですかね。)
そのようにある程度袁煕の人物像を推察した荀彧は、次の言葉を待っていた。
「それと、どうして私が父上ではなく私の配下にしようとしたのかでしたね。その理由といたしましては、父上に仕えてもあなたの才が十全に発揮されるのは難しいだろうと思っていることがあります。父上は確かに優秀ではあるだろうとは思います。しかし、自分の親についてこのように言うのはどうかとは思うのですが、重要な場面での決断力が乏しい面があると考えています。また父上自身がそれなりに優秀であるがゆえに、自分の考えとは違う優れた意見が出たとしても聞き入れられないでしょう。そうなれば行動の詳細についてはともかく、方針を決めるにあたって配下の者たちは父上の考えに追従することしかできません。したがって荀彧殿のように優秀な方がいたとしても、その利点を十分に生かせないであろうと思ったのです。それ故に、父上ではなく私の配下となってもらえないかと思ったのでございます」
「そういうことですか。それにしても、実の父に対する見方としては少々厳しいのではありませんかな?」
「それについては私としても思うことはありますが………現実は現実として考えていかねば一族が滅んでしまいますから。それにまだ早いかもしれませんが、このままいけば後継者問題も起きそうな雰囲気になっていますからね。慎重に判断しなければなりませんよ」
そこまで聞くと、荀彧は少しの間思考の海に沈んだ。
(彼のした評価はかなり現実的な見方と言えるんでしょうね。袁紹殿については先の連合軍の総大将としての働きなどからあまり期待はしていませんでしたし、実の息子が言っているのですからあながち外れてはいないでしょう。それでも最終的な判断は実際に会ってからでなければできないのでとりあえずは保留になりますか。今は袁紹殿のことはともかく、目の前にいる彼が仕えるに値するかどうかになりますが現在の所は及第点といった程度でしょうか。まあ私の基準での及第点というのは一般的に考えるとそれなりに優秀であることは間違いないという意味にはなるでしょう。とはいうものの、彼の場合は袁紹殿や曹操殿などと違って現在当主という立場に就いていないという致命的ともいえる遅れがありますからね。これから先の行動方針を聞いてしっかりとした道筋が見えなければ話にもなりませんし、これからもよく見極めていかねばならないですかね。)
そうして考えをまとめていった荀彧は、新たに袁煕に対して質問をぶつけた。
「では次にあなたのこれからの展望についてお聞かせいただきたい。私としても、これを聞かないことには仕えるかどうか決められませんのでね」
「分かりました。荀彧殿を私の配下にできたならば、私としてはしばらくの間は雌伏の時間としたいと考えています。そうするとあなたにも多大な負担をかけることになると思うため申し訳ないのですが、それが現在の私の考えです。雌伏している間にすることは、情報収集や父上の配下の中の特に優秀であると思う人物への接近、そして新たな配下の獲得と育成を中心に据えたいと思っています。ですが、私がこれらのことをしているという情報が広まらないように気を配りながら行いたいとも思っております。最終的には父上が河北を統一すると、私に一州を与えられると思っているので、そこを足掛かりにして天下を目指したいと思っております。まあ、父上が天下を収められれば言うことはないのですがそれが困難であると仮定して、うまく周囲を取り込み拡大していきたいと思っております」
「………分かりました。その展望に関することでいくつか質問してもよろしいですか?」
「かまいませんよ」
「ありがとうございます。最初の間はおとなしくしておくのは良いでしょう。しかし、そうしているうちに袁紹殿が河北を統一することが前提となっていましたが、その根拠をお尋ねしたい。河北には公孫瓉殿の勢力もおり、情勢はいまだにはっきりしていないと思いますが?」
ここで袁煕が一瞬言葉に詰まったのを見て荀彧は少し疑問を持ったが、詰まったのは一瞬であったこともあった。そのため荀彧はそのことをいったん置いておき、袁煕の話に耳を傾けた。
「それについては確かに現状では五分、もしくは公孫瓉殿のほうが優勢であるかもしれません。しかしながら相手陣営には名のある人材がほとんどおりません。それに対して父上の方は冀州を取ったばかりで、慌ただしくしています。ですがその一方で、冀州を取る際に兵を損ねていないために軍事力は増大し、同様に人材も名のある者がそれなりに集まっております。項羽と劉邦の故事からも分かるように、より優秀な人材を持つ勢力の方が有利なのは明らかであり、したがって父上が河北を統一すると考えました」
「そうですか………。では次です。仮に袁紹殿が河北を統一したとして、どうしてあなたが州を与えられると考えているのですか?こう言ってはあれですが、現在のあなたの評価はお世辞にも良いとは思えませんが」
「それについては父上の性格から判断しました。父上は物事を考えすぎる傾向があるようで、それが人々への猜疑心につながっている面が見受けられます。そのような面がある以上、州の統治を任せられるのは一族の者のみとなるでしょう。そうすると、一番使えないと考えられている私であっても州をもらうくらいのことはできるだろう、という推測になります」
この質問に関しては何か思い出すようにしながらもすぐに答えていたことと、今の時点で判断するのは客観性に欠けると考えたために記憶の端にとどめるだけにしておいた。
「ではもう一つだけ。袁紹殿が亡くなれば一州から勢力を拡大させるとしていましたが、それについてのより詳細な展開をお教え願いたい」
この質問では、完全に答えに詰まってしまっていた。荀彧としては今までの回答がそれなりに考えられてはいたと判断していたので、この質問でこれほど詰まるとは思ってもいなかった。そのため現在頭を振り絞って考えている様子を見ると、かなり予想外なことだと感じていた。
この質問には何か他のものと違いでもあったのかと考えようとした荀彧であったが、ちょうどその時に袁煕が話し出したことで、まずは話に集中することにして言葉を聞いていった。
「それについては初めに速やかな河北の再統一を目指します。それまでの時間を使って人を集めておき、多方面に軍を展開することを可能にしておきます。そのうえで味方にできるところは調略し、倒さねばならないところは倒し、一年以内での再統一を成し遂げます。また、その間に中原から敵が来ないようにするために独自の伝を作っておき、中原を牽制しておいてもらうような措置を講じておくことも必要になるでしょう。そうして河北を統一し地盤を固めたのちに中原へと侵攻し天下へと兵を進めていく、これが私の考える一州から天下を目指す方法になります」
「………あなたの考えはよくわかりました。話をお聞かせいただきありがとうございました」
「こちらこそ、急にお招きしたにも関わらず長い時間付き合って下さりありがとうございました。それで、私の配下になる件については考えていただけましたか?」
「それについてはひとまず保留とさせていただきたい。後日必ず返事をいたしますので、本日の所はこれでご容赦を願いたい」
「………分かりました。配下云々の話はまた次の機会にすることといたしましょう」
「ありがとうございます。では、本日はこれで失礼させていただきます」
「どうかお気をつけてお帰り下さい」
このようにして袁煕と荀彧の二人による話し合いは終わりを迎えた。二人はそれぞれ自分の居るべき場所へ向かって、なるべく目立たぬように帰っていった。