神は言っている。支配など望んでいないと。
「神」の代理人を名乗る人たちっていうのは、ほぼ例外なくこう言います。
「神の定めた戒律に従って生きる事こそが最善の道である」
と。
でもね?
考えても見てください。
徹底的に規律や戒律に従って生活するっていうのは、楽しいと思いますか?
規律や戒律に縛られた生活の最たる物って、要するに刑務所な訳ですよ。
あなたはそんな生き方をしたいですか?
『人間は生まれながらに罪を背負っている』
という原罪を説く一部の宗教では、人の生涯を償いに費やすべき物であるかのように扱います。
だけどね?
原罪を償う事が人の生きる意味であるなら、罪の意識を抱いている時にこそ最大のパフォーマンスを発揮するようにできているはずだと思いませんか?
実際には、罪の意識があると脳も筋肉も萎縮してしまい、人のパフォーマンスは大幅に下がります。
前回の「ァア♪分かってくれとは言うけれど♪」でちょっとだけ触れましたが、人が高い能力を発揮するのは楽しんでいる時です。
にもかかわらず、パフォーマンスが下がることを承知の上で、「罪の意識を抱いて生活しろ」というのは非常に不自然です。
神っていうのは、不自然なあり方を要求するものなんでしょうか?
もう1つ。
同じく前回触れた通り、規則や戒律で人を管理しようとするのは、人間を規格品にしようという試みです。
その試みが成功して、統一規格の人間しかいなくなったとします。
統一規格ってことは、弱点や欠陥があればそれも全人類共通っていう事ですね?
そうすると、疫病1つ、精神攻撃一発で人類絶滅ってこともあり得ます。
神ともあろうものが、万難を廃してそんな脆弱な存在になれっていうのだろうか?
そもそも、人間の側から『神が何を望んでいるか』なんていう事を推し測ろうとするのはナンセンスですネ。
だって、神を支配しようとするに等しいんですもの。
「これが神の思し召しだ」
なんて言う人が居たとするでしょう?
結局のところ、その人にとって都合が良い事を、神の名を騙って押し付けているだけなんです。
「自分としてはこう思う」
とか、
「自分はこうして欲しいんだ」
ってはっきり言えば良いのにねェ?
『神』という虎の威を借りないとなにも言えない気の毒な人たち。
それが神の名を利用している人たちです。
生命というシステムを厳密に解釈していくと、『神が人間を支配している』とか『神に従わない者には罰が与えられる』というのはあり得ない事が分かって来ます。
なぜかって?
誤解される可能性を承知で断言してしまいましょう。
知的生命体その物が、神の端末であり分体だからです。
「神は神自身に似せて人間を作った」
と言われるでしょう?
あれは読んで字の如く全くその通りの意味で、神が千差万別様々なあり方を一度に経験するために作ったのが知的生命体なんです。
だから、神はあなたに、他人とは違ったいろんな経験をして欲しいんです。
成功はもちろん、失敗する事も含めて。
もしあなたが、万難を廃して聖職者のような人生を送ってみたいと思うのでしたら、それはそれで結構な事です。
私は推奨しませんが、強いて止める事もしません。
何事も経験する事が大切です。実際どんな物なのかやって見てくださいな?
この辺りはねェ?
「神との対話」とか「ホ・オポノポノ」とか、あるいは「九識論」とかをすんなりと受け入れられるかどうかによって判断が違って来ます。
ま、信じられなくたってあなたがあなたの人生を生きるのに特に支障はありませんけどね?
あなたの人生をあなた自身の手で編み上げる事に関心があるようでしたら、この先も読み続けて見てください。
ところで、救いの手というのは「これが神からの贈り物だ!!」なんていう分かりやすい形では差し伸べられてはくれません。
なぜかって?
分かりやすいって事は騙り安いって事でもあるからですよ。
次回は多分そんなお話。