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家に着いて鍵を取り出したところで呪文なしに外開きの扉が開かれた。つまり額に扉が直撃した。
「汐見、大丈夫?!」
「あれ、千花?」
「晴樹君…」
じんじんと鼻ではなく額が痛むのは少し前のめりだったから。決して鼻が低いからという理由ではない。と思いたい。
恨めしげな眼差しで扉の先の人物を見つめると、驚いた顔で扉と私を交互に見やった晴樹君が苦笑する。
「悪い、気付かなかった」
言いながら額を優しく撫でる。強く触られると痛いのだけれど、力加減が絶妙で、痛みというより癒されているように感じられたのでつい大人しくなってしまう。知っている顔に会って少し落ち着いたのもあるんだろう。私の肩の力が抜けたのがわかった。
「……あの、俺、稲葉といいます。稲葉航です」
「え?ああ、中西晴樹です。どうも。もしかして千花を送ってきてくれた?」
「はい……汐見さん、今日ボールが頭にぶつかって、それに体調も崩してるみたいなので、休ませてやってもらえますか。今日は勉強もさせないでもらいたいんですが」
「そうなの?おい千花、大丈夫なのお前」
「大丈夫」
「それにしては体温低いような……」
晴樹君の手が額から首に移動する。小さい頃から熱を測る時やリンパの状態を見る時は額か首で判断するので晴樹君の手は遠慮がない。位置を変えて何度も触れる手が擽ったいのだけれどどこか懐かしく嫌がる言葉を出しながらも振り払えずに体を任せる。
「……あのっ!」
「うん?」
「あの、失礼ですけど、中西さんは、汐見とはどういう……」
「ああ、えーとなんだろ、友達?幼馴染?はちょっと違うか…兄貴分、が正しいか?」
「弟分のが正しい気も……」
「可愛くないこと言ってんじゃねぇぞ?」
「んがが」
「えーと、まあ、千花とはそんな感じで、親同士が仲良くて昔からよく一緒にいたから兄妹みたいなもん。今は俺の大学が近いからここで居候中」
余計なことを言った口を抓まれて私は声が出せないまま。
稲葉君が控え目に「汐見さんは体調が悪いので」と改めて伝えてくれた言葉に手が離されるまで挟まれ続けたため唇の上下が微妙に痛い。
「ありがとね稲葉君」
妙ににこやかに彼に手を振る晴樹君の言葉で我に返り、私も慌てて頭を下げた。
「稲葉君本当にありがとう。色々迷惑かけてごめんなさい」
「ううん…大丈夫。それより早く治してね」
また明日、と続けた彼の背中が少しだけ寂しそうに見えたのは、やっぱり罪悪感のせいだろうか。
意図して忘れたわけじゃないのだよと伝えられるのはいつなのか、少しだけ胸が痛んだ。
具合が悪いことを理由に早々にベッドに押し込められた私だったけど、怖いものを怖いままにして終わるのも怖くて、部屋を去ろうとする晴樹君を引きとめた。
家に入る前は朗らかだったのに気付けばどことなく不機嫌になってる晴樹君に首を傾げつつ、話を聞いて欲しいと頼む。
いやだからなんでそこで半目になるの。
しかも大きな溜息とか、ちょっとそれいくらなんでも長すぎません?
「体調悪いんだから寝ろっての。今日は家庭教師なしでいいし、話なんていつだって聞いてやるんだから」
「今がいいんだよ」
「ったく色気づきやがって……まだ中学生だろうが」
「晴樹君?」
「あーもう、わかったよ。ほら話せ。とっとと話してさっさと寝ろ」
どこか憮然とした様子で先を促す晴樹君。
どこがどうして機嫌が悪くなったのか。最近人の心の機微が読みきれないことが多すぎる。
ちょっと待ってろと告げた晴樹君がレモンティと白湯を持ってきてくれる。なんというか、自分の好みと寝る前であるという事情をわかった上で動いてくれる人がいるというのは有難いものだ。さっきは弟分だと言ったけれども完全に兄貴だと思い直す。むしろ実の兄じゃないからこそ優しいものなのかもしれない。
「あのさ、よくわかんないんだけど、私ちょっとおかしいかもしれないんだ」
自分のテリトリーと見知った相手に心のガードがだいぶ緩んだようで、本音に近い声が出た。
「大丈夫お前はいつでも変だ。……それで、何でそう思ったわけ?」
前半の言葉に眉を顰めたけれども続いた晴樹君の声は優しく苦笑が交じる。私の内側に沈んだ痛みが少しだけ溶けだした気がしてほうっと息が漏れた。
「今日クラスメイトの1人が突然知らない人みたいに見えたんだ」
「うん」
「知らない人みたい、っていうか…知らないって思ったの。この人誰なんだろうって」
「うん」
「周りの皆はその人のことを知ってるんだけど、私だけはわからなくて。……最初は寝ぼけてるのかと思ってたんだ。記憶が混乱してるのかもって。でも」
どれだけ考えても彼の姿は記憶になかった。
代わりに乙女ゲームのキャラクターの1人であることを思い出した。
それを言葉にしていいのかわからなくて私はカップを握りしめる。
私は今本当に目覚めてる?今相談している晴樹君は本当に現実の晴樹君?やっぱり記憶障害が発生してる?
自分でも嘘みたいだと思う話を人に伝えるのは酷く難しいことなのだと今更ながらに実感する。
単なる妄想だと笑い飛ばしてほしいのか、一緒に病院にいって欲しいのか、自分の望みもよくわからなくなってくる。
ぐるぐるしだした私に気づいたのか、晴樹君の手が頭に乗った。
そのまま、ぽん、ぽんと軽く叩かれる。
「落ち着け。あー……まあその、なんだ。人ってのは立体でできてるわけだから。初めて見る面なんてのは戸惑うのが普通だし、認識が変わったからって自分を責める必要はないと思うぞ。それが好意か嫌悪か知らないが、…それもそいつの一部だから。知らないことは悪いことじゃない。これから知ればいいわけだから。千花は千花の思う通りでいればそれでいいんじゃないか」
「……えっと、それは私はいないと思ってたけど実はいたんだってことを責めなくていいってこと?」
「そんな感じ」
「で、でも、いくら考えてもやっぱり知らない人なんだよ。今日ちょっと話をして、いい人だって思うんだけどまだちょっと怖いって思っちゃう。でもそんなの失礼だとも思う。私頭おかしいんじゃないのかな。やっぱり全然覚えがないとかおかしいよ」
「それが多面性ってやつだって」
あれ、待ってこれってちゃんと通じてる?
したり顔で頷く晴樹君がもどかしく焦ったような声で言い募る。
「そうじゃなくて、元々の覚えがないんだよ!私1人だけそうだからつい変なこと考えちゃうの。実はあの人が宇宙人だとか、皆洗脳されたのに私だけされてないんだとか、馬鹿な妄想だってわかってるけどそういうことの方が納得できるとか考えちゃう。じゃなきゃやっぱ記憶障害なんだよ。特定の人のことだけ忘れるとか、晴樹君はあると思う?やっぱり私病院に行くべきだよね?」
「は……?いや、待て待て!千花ちょっとお前落ち着けっ話が思い切りずれてるぞ」
「ズレてないよ!稲葉君が乙女ゲームのキャラクターの1人としか思えないとかおかしいじゃん!クラスメイトだった覚えもないし、友達だった覚えもないんだよ?!やっぱおかしいでしょ?!うんおかしいっ私頭おかしいよっそうだよし病院いこう!晴樹君も行こう!!」
お願いついてきて!!
言いながら興奮してきて最後には拳を作ってふりあげていた。
呆気に取られたような顔でこちらを見上げてる晴樹君を無視して起き上がる。
病院に行くならまず着替えねば。パジャマのままはさすがにまずい。
「やっぱ脳神経外科かな、精神科も視野に入れるべき?保険証ってどこだっけ……」
ボタンにかけた手が震えなかなか外せない。ああ、その前に晴樹君に部屋を出ていってもらわなくちゃ。
心当たりを端から思い浮かべていた時、晴樹君の手が私の手を覆った。他人の温もりが私の手に移って、冷えた手が少しだけ温まったような気がした。
「……本当に惚気話じゃないんだな?」
「え?」
「稲葉ってやつの違う面をみて、その、ときめいたとかって話じゃないんだな?」
「……何の話?」
「はー…千花、とりあえずも一回頭から。順を追って話せ。」
「え?は?で、でも、」
勢いづいた今でなければ病院にいけるかわからない。
まごづきながらそう答えると、その時は必ず自分も一緒に行くからと晴樹君が強く請け負ってくれた。向けられた真っ直ぐな眼差しは迷いがなくて、よくわからないながらも私は漸く本当の安堵を覚えた。