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「ごめんなさい」
気付けば時は放課後。
体育の授業でボールを頭にぶつけ気を失い教室に帰らなかった私を心配した沙紀が保健室に寄ると聞き、稲葉君もついてきたらしい。忘れ物に気づいて戻った沙紀より一足先に保健室に辿り着いた稲葉君に私は三つ指ついて土下座する。本当は床でやろうと思ったのだけれど当の本人に止められた。普段穏やかな人が真面目に怒ると怖い。普通の人より迫力が増すと今知った。
「俺に謝られても困るけど……何か困ってるなら話くらい聞くし。自傷行為はやめてくれ」
「いやでもこれは必要なことなんだよ」
「自分で自分を傷つけるのに必要な理由なんてないでしょ。見てるこっちが痛いからやめて」
「いな」
「わかった?」
ぎろりと睨まれ口を噤む。
後ろでにやにやと笑う沙紀は口を挟まないことに決めたらしい。彼女が遅れて保健室に入ってきた時は私と稲葉君がベッドの上で戦っていた。主に頭をパイプにぶつけようとする私と止める彼というおかしな構図だったけれど、面白いと思っただろうことは間違いない。
「とにかく、疲れてるなら今日は勉強休んで良く寝た方がいい。送っていくから」
「え?!い、いいよ大丈夫っ」
「どうせ通り道だし。俺の家梅田薬局過ぎたところだから汐見の家と案外近いよ。知らなかった?」
「知らないし!っていうか悪いし遠慮します!」
「だから悪くないって。……汐見さ、今日1日自分が変だって気づいてる?いつもはしない居眠りしたり寝ぼけて俺の名前忘れたり体育でボールぶつけたり…は珍しくないかもだけど、」
「いやそこは否定しよう」
「うんそれは難しい。…しかも挙句にベッドに頭ぶつけようとして俺に土下座って」
誠に面目ない。
並べたてられると益々肩身が狭く感じられ言葉に詰まって項垂れる私に稲葉君は苦笑する。
「それと、この間俺が寝てた時は汐見が助けてくれたのに、今日はフォローできなくてごめん」
「えっ……いや、それこそ稲葉君のせいではないのでお気になさらず」
まったく覚えてない自分の行為に感謝を示され狼狽える。
たまたま隣り合っただけの私のたぶん気まぐれに、返せなかったことを謝るなんて律義な人だ。
ただこうして話していても、今日以前の繋がりを示唆されても、相変わらず記憶にない自分が辛い。
そしてふと思う。私ってばもしかして軽い記憶障害だったりしないだろうか。つまり稲葉君限定の。
あれでもそんなことってある?
話に聞く記憶喪失が現実にあることだというのは知っている。
実際目にしたことはないけれど、よく聞くのは、必要最低限の生活知識以外を忘れるだとか、自分が誰であるかを忘れるだとか、そういう話。特定の人物に関することのみ忘れるなんて話はあまり聞いたことがない…ない気がするけど、あってもおかしくないんじゃないだろうか。
―――むしろ本当に病院に行った方がいいのかも?
考えたら少し血の気が引いた。
顔色が悪くなったのが傍目にもわかったのか、間近にいた稲葉君に続いて沙紀までこちらを覗きこんでくる。
「千花、やっぱり帰った方がいいよ。なんか青白いもん。今日おばさん家にいるの?」
「ううん…あ、でも晴樹君がいると思う」
「ああ、じゃ大丈夫だね。帰ってゆっくりして、勉強は元気になってからだよ」
「うん……」
胃が痛くなった気がして素直に頷いた。
帰り仕度をして制服を整え部屋を辞す。職員室にいるらしい保険医には沙紀が伝えると言ってくれたので稲葉君の後について帰ることにした。
帰り途はなんとなく無言。
先に稲葉君が歩き、私がその後を1歩半あけてついていく。
家が反対方向だから無理だけれど、本音を言えば彼ではなく沙紀に送って欲しかった。
稲葉君のことを覚えていない私にとって、彼は知らない人だ。その人に家に送ってもらうというのは少し怖いと思う。でも私が覚えていないだけで、彼は隣席のクラスメイトで、同じ委員をしている人だ。以前自分が助けられたのにお返しに助けることができなかったことを気にする心優しい人。
そう思うと今度は覚えていないことを申し訳ないと思う気持ちが強くなる。
具合の悪い私を送ってくれるような気遣いができる人に、私が覚えていないことを伝えれば、彼はきっと傷つくだろう。でもそれを表にだすまいとしそうな気もする。そもそも信じられないに違いない話だろうけど、彼は信じようとしてくれるんじゃないだろうか。
稲葉君の人となりを知っているとは言えないけれど、僅かの交流の中だけでも彼はこんな人ではないかと思ってしまう程度には、人がいいと感じている。
なんていうか、気のせいでなく胃が痛い。
自分の痛さ加減とか、申し訳なさとか、それから、本当に記憶障害だったらどうしたらいいのか、とか。
考え始めたら止まらなくて歩みはどんどん遅くなる。
考え込んで足が止まりかけ、我に返って早足になって、そんなおかしな歩き方をしているというのに、気付けば稲葉君との距離は変わっていない。
それは彼が私に合わせてくれているからであって。
背中を向けているけれど、ずっと気にしてくれているからなのだとわかる。
いかんちょっと鼻がつんとした。
「…稲葉航はいい男だねぇ」
「は……?」
色々誤魔化して呟いた言葉は独り言のつもりだったけれど前を行く彼には聞こえてしまったらしい。
さすが私が望んだゲームの攻略対象、と続けた言葉は拾われなかったようだが、怪訝な顔で振り向いた彼に見せる表情に困ってしまった。
「汐見、やっぱり熱でてきた?」
「いやー大丈夫大丈夫」
「ちょっと触ってもいい?」
「大丈夫だいじょ…は?」
「額。とりあえず俺のと比べてみよう」
「えー、それはどうだろう」
ちょうど信号で止まったのを機に1歩半の距離を詰めてくる稲葉君。
親切心はわかるけれどもそれはちょっとどうだろう。
思わずのばされる手から頭を引いて避けると、少しむっとした表情。
「汐見、逃げても熱は下がらないんだぞ」
「いやわかってるけどそうじゃなく」
「往生際が悪い…ほら、諦めて」
「いやだって測っても測らなくても変わらないでしょ」
「そういう問題じゃないだろ」
「そういう問題だよ……というか、稲葉君の方熱高いに決まってるし。顔少し赤くない?」
私はどちらかというとまだ血の気がひいてると思うし、と加える前に、稲葉君が固まった。
あれ、と思う間もなく彼の顔が赤くなる。ふと何かに耐えるように口を引き結んだ彼をつい間近で見つめていると、気付いた彼がふいと横を向いてしまった。
何かあったようだけれど一体何があったのかはわからない。
ひとまず下ろされた手に内心ほっとして、邪気がないって凄いなと思う。
目を上げるとちょうど信号が変わったのが見えた。
裏も表も読みまくってしまう私にはできない芸当を彼は無意識にしてしまうらしい。
何故か名前を呼んでも振りかえってくれない彼の手に触れるのは躊躇われたので、稲葉君の袖をひいて青信号を教えてあげた。