∧双極∧
犬耳族の赤塚四郎には弟がいた。弟も同じ犬耳族だったが、血のつながりはない。数年前の冬に、橋の下で震えているのを見つけたのだ。
同属のよしみもあり家族の元に連れて行った。
「お前一人でも苦しいってのに」
そう困りつつも笑顔で弟を受け入れた父は、去年の春に街のチンピラどもに暴行されて死んだ。
遠くの国との戦争に負けて三年がたつ。外国から新しい文化や宗教が入ってきて、古い文化を一蹴してしまった。それから坂を転げ落ちるかのように、この国はどんどんひどくなっていく。戦争に勝っていたら、なにかが違ったのだろうか。
家族を食わせるためには、四郎が働かねばならなかった。
下働きをしている電気店で、今日はスクーターを一台直した。
仕事に厳しい店の親分も、近頃は四郎を信頼して仕事を任せてくれる。このご時勢に、犬耳族がまともな仕事にありつけているのは、これ以上ない幸運と言ってよかった。
屋根と壁のある職場で働ける! 入ってくるのも上品な客ばかりで、四郎を蹴ったり、唾を掛けたりすることは無い。恵まれた環境にいると同時に、隙間風の通り抜ける掘っ立て小屋で待つ弟にときたま申し訳なくおもう。
弟の着る物はボロで、履いている穴空き長靴は川で拾ったものだ。通りを闊歩する人間達の生活と自分達をときどき比べては、弟がやりきれない思いを抱いているのを四郎は気付いていた。不満を口にせず、それどころか裸足で歩く兄を心配すらする。幼いのによく出来た弟だと四郎は思う。
「犬耳族の成人は健脚だから、むしろ裸足であったほうが歩きやすいのだ。お前は子供だから、足を保護した方がいいのだが」
と、弟には聞かせていた。彼ら以外の犬耳族とくらべても、四郎のように裸足で歩く犬耳族はごくわずかであったのだが。
弟の分まで稼がなければな無いことを負担と思ったことはない。むしろ仕事帰りに買うコロッケを頬張り明るく振舞う弟に、何度となく心を顕れただろうか。誰かを幸せにしてくれることは、あなたを幸せにしてくれる。戦時中に病で死んだ母の言葉だ。あの荒みきった時勢であったが、この言葉のお陰で、四郎も父も兄たちも、犬耳族らしさを失わないでいられた。
働いている間だけでも弟を店につれてきてもいいのだが、弟は臆病で、重度の人間恐怖症だった。四郎と会う過去に何かあったのだろう。一度この店に連れてこようとしたが、人間の多い商店街はいやだといって聞かなかった。
四郎には「にいたん、にいたん」とよくなつき、何でも言いつけを聞く弟の、珍しい抵抗だった。それでも連れて行こうと無理をしてしまい、弟は逃げ出し、そのまま五日ほど家に帰ってこなかったのだ。
帰ってきた弟は泣きはらしており、服もぼろぼろだった。四郎には心配のあまり怒りもしたがそれを抑え、ともかく弟を落ち着かせ、和解することができた。弟にどこに行こうとしたのか尋ねると、人のいない所を探し、結局山に行こうとしたのだという。
近くには大白山という高く連なる連峰があり、冬になれば名の通り雪で真っ白になる山だった。逃げ出した弟の決意は固かったが、山は近くにあるようにみえて、いくら向かって歩いてもたどり着くことは出来なかったそうだ。
とうとう山の麓かと思える場所までくると、大層寂しい場所だった。どこからか人間の少女がでてきたとき、人間嫌いの弟も、怖いと言うよりもむしろホッとしたほどだという。
しかしその少女は「この山にはヌシがいるぞ。お前みたいな子供が入れば、ぺろりと飲み込まれてしまうぞ」と弟を脅かした。すっかり尻尾を丸めてしまった弟は、兄が恋しくなって町へと戻ってきたのだ。ともかく、四郎にとっても弟にとっても、お互いはかけがえの無い存在のようであった。
仕事が終われば弟の待つ橋の下へと走る。給料は日払いで、親方の奥さんがお土産にとコロッケをくれた。
温かいうちに届けようと四郎は町を走ったが、それがいけなかった。角を曲がろうとしたときに、町の不良たちにぶつかってしまったのだ。
彼らはもともと犬耳族に容赦しない奴らであったし、美味そうな匂いのするコロッケや給料袋を懐に抱える四郎を見逃す道理はどこにもなかった。
たちまち四郎は足が立たないほどに暴力を振るわれ、服と命をのこして、あらゆる物を持っていかれてしまったのだ。仰向けに倒れていた四郎が気が付いたとき空は紺色になっており、腫れあがった顔を夜風が撫でていた。殴られた腹が痛んだが、それよりも、くやしくてくやしくて、どうしようにもできない気持ちが毒蛇のように腹の中でぐるぐると回っていた。
くやし涙がこぼれ落ちてくると、泣いてしまったことが一層悔しくなる。暗い空を仰ぎ寝転がったまま、腕を目に当てて、感情の波がすぎていくのを待つしかなかった。
ひたり
なにか温かい物が額にのせられる。おどろいて腕をどけると、しゃがみこんで四郎の様子を伺う人間の女がいた。
「怪我だらけね。大丈夫?」
女は優しく言った。心地よい声で、不思議だった。四郎を殴った手も、いま額に当てられたても、同じ人間と言う動物の手だ。なのになぜ、あの不良たちの拳は硬く、一方でこの女は手が柔らかいのだろう。なくしてしまったコロッケの香りを思い出させる、心をくすぐるようなあたたかい手だった。
女は名前をウズと名乗り、個人的な治療院の女医をしていた。彼女の店で消毒液と包帯で処置をしてもらい、それにくわえて簡単な食事はどうかとまで提案された。四郎は恐縮し、そこまでしてもらうわけにはいかないと、礼だけを言って弟のいる家に戻った。弟は腹をすかせていて、四郎もそうだった。遅くなった成りゆきを四郎から聞いた弟は、人間に飯を奪われたのだから、その人間の女が飯を出すのは当然なのだ、と言った。たしかにそれも一理あるのだが、しかし四郎は、ウズの前でずうずうしく振舞うのが嫌で仕方なかったのだ。その晩は、水で溶いた冷たくて薄いコーヒーが二人の夕飯だった。
数日後、電気屋から帰る途中で再び町の不良たちと出くわしてしまった。
彼らにとって四郎は、もはや割りのいい獲物であるらしかった。大勢にかこまれ、四郎でなくてもどうすることも出来ない状況である。
四郎は土下座をし、せめてお金の半分は取らないでくれと頼んだ。自分には腹をすかせた弟がいるし、腕を折ったりしたら明日から仕事が出来なくなってしまう。不良たちはにやにやと面白がりながら、土下座する四郎を見ていた。そこに出てきたのが四郎に見覚えのある女だった。
彼女はきっと男たちを睨みつけ、
「やいやい、男どもがよってたかって殴る蹴るなんて、みっともないことをするな」
と威勢のいい啖呵を切る。
そこからは「どうしようもないクズども」だの「絞った雑巾」「あずき豆」だのという言葉を使った罵詈雑言を不良たちにぶつけた。
激昂した不良たちが女に襲い掛かったが、女はひらりひらりと舞うような動きで男達を避け、それどころか四郎がぽかんとするうちに美脚をはためかせて不良たちをとっちめてしまったのだ。
「ふん、弱い奴ら」
彼女はつまらなそうに言い、四郎の襟元を掴んで立たせると「男が土下座をするな。金を払うから見逃せなんてみっともない」ときついことを言った。
四郎は女に助けられたことが情けなくてしかたなかった。「前に続き、今日も世話を掛けた」と四郎が礼を述べると、女は人違いだと言う。
どうやら彼女はウズの双子の妹で、サズというのだそうだ。
サズはさんざん四郎の不甲斐なさを攻めた後に、自分が武道を教えてやろうかと提案した。さきほどの快勝を目のあたりにしたばかりであったので、サズの誘いは四郎の心に響いた。しかしやはり、なぜか彼女に対しても情けを掛けられるようなことはしたくないという気持ちが勝る。
四郎が断りを入れようとするまえに、サズが「ただし、教えてやる分、うちで丁稚をして働け」と言う。
施されるだけではなく、なにか自分も見返りをできるということが、四郎の心を軽くした。すこしだけ考えた後、四郎はサズに武道を習うことに決めたのである。
サズの住まいはウズの病院の置くにあり、サズが四郎を連れてきたのをみてウズはおどろいているようだった。
丁稚と言うからには住み込みで雑用をこなすと言うことになる。人間恐怖症の弟は、やはり人間のあつまる病院に住むことを嫌ったが、四郎が必死にたのむとしぶしぶということを聞いた。
医院のある周辺は商店街ほどにぎやかに人が集まるわけではなかったし、傷をこしらえながら義理の家族のために働く四郎の苦労を、弟は心配してもいたのだ。
四郎は朝一番に起きて朝食を用意し、仕事に出かけた。夕までは電気屋で働き、帰ってきてからはサズの稽古を受けた。昼間の間、家のこまごまとしたことは弟がしていたようであった。意外なことに、人間恐怖症の弟はサズともウズにすぐに懐いた。犬耳族が本来持つ屈託の無さは、人間に良いように利用されてしまう原因の最もたるところであったが、四郎としては弟が変にすれるよりも、本来の犬耳族らしく、素直に育ってほしいと思う気持ちがあった。もっとも弟は、通院する人間に対しては姿すらみせることはなかった。
サズの稽古はただの武道とは違うようで、たんなる精神統一のようなものの他に、神道の僧がするような修行のようなことすらやらされた。決して生易しい鍛錬ではなかったが、怪我をしてもウズが優しく手当てをしてくれた。
一度、四郎は不思議に思い「なぜ犬耳族にこんなにまで肩入れをしてくれるのだ」と聞いたことがある。二人は答えず、四郎に微笑みかけるだけだった。
性格は一見正反対の性格に思える姉妹は、時々にして、まるで同一人物であるかのように、同じ動作をおなじ時にした。姉妹二人は仲も良く、何も話さなくとも通じ合っている風がよくわかった。
しかし、四郎が絡むとウズはサズに「無理をさせすぎる」と怒り、サズはウズに「四郎に必要なくても触りすぎているのではないか」と不平を言った。四郎は自分の存在がどうやら二人に軋轢を生んでいるのではないかと感じることがあったが、その理由が思い至らず、したがって対処法に困ることが常だった。
ウズは四郎を手当てしながら、打撲に効く薬草や有効な治療方法を教わった。一部の方法は医術と言うよりもまじないの類であったが、効果は目に見えてあった。サズとウズから教わることは四郎にとっては有用なことばかりで、「寝るのがもったいない」と四郎が感謝すると、二人は顔を見合わせて笑いあう。そうやって二人が仲良くしている様を見るのが四郎には嬉しかった。
サズに習う瞑想の合間や、ウズにもらう薬で眠っている間、懐かしいけれども見知らぬ光景を思い浮かべることが時々会った。四郎は軍人のような服を着ている人間で、場所は神殿のような厳かな場所だった。社のような建物の中には女性がおり、四郎がやってくると嬉しそうに駆け寄ってくる。男は女の柔らかい手を握ると、寂しそうに出征があることを告げるのだ。
「ワダツミ様。私は次の戦いで、遠くに行かねばなりません」
「そうですか……ご無事でいてください」
「はい。あなたのために、きっと帰ってきます」
「しかし私は不安でなりません。いま別れてしまうと、次は二度と会えないような」
「はっはっは。私が戦争に行くたびに同じことを仰いますね。大丈夫。またここに戻ります」
二人の会話を聞きながら、不思議なことに四郎は、旅の先に悲しい最期が待っていることを知っていた。男は戦いの途中に、凶弾に倒れるのである。初めてこの夢を見たときは、ぼんやりとしていた。しかし、二度三度見るうちに、夢の細部までがどんどんと明確になってくる。それどころか、男が帝国軍人であることを始めとした彼の人となりを思い出し、かつては自分がその男であったことを理解する。男は、国の守り神であるその女とひそやかに恋路を重ねていた。
神である国母と、単なる一軍人の恋は許される物ではなかったが、しかし二人の心は人知れず燃え上がったのである。その恋を知った誰かが阻止しようとしたのか、それとも純粋に戦死であったのかを四郎は知らない。ともかく運命は残酷であったとしかいいようがない。遠い場所で、自分の体が冷えていく間際、愛する女神に死ぬことも伝えられず、彼女を残して死ぬ無念さを覚えている。
くやしくて、くやしくてしかたがなかった。あの時最後に、男が呟いた言葉はなんであっただろうか。「お前は無事でいてくれ」と、そう言った気がする。
夢が徐々に現実と変わらないほどに感じられるようにり、いつしか目を覚またびに涙を服用になった。寝床から出て、朝食を作り、いつものように仕事へ向かう。親分に言いつけられた仕事は螺子式時計の修理だった。電子部品を扱っていない分、いつもとは都合が違って難しいのだ。手を動かしていると、いつのまにか今朝見た男の風景が単なる夢でしかないような、ぼんやりとした実感へとかすんでいった。病院へと帰り、サズに武術を教授してもらう。
彼女の鍛錬はいつものように酷しかったが、何故かサズが愛しくてたまらなかった。何度も気づかれないように彼女の顔を盗み見るうちに、夢で見た女の面影が、サズにあることにはっと気が付いた。するととたんに、夢であったような光景が、さきほどの実体験であったかのように胸に迫ってくるのである。鍛錬に身の入らない四郎をサズは叱咤していたが、彼女が愛しくてたまらなくなった四郎はぎゅっとサズを抱きしめた。もう会えないと思っていた人に会えた、その気持ちが四郎に「ああ、白蛇さま。また会えました」といわせた。
その言葉にサズは、驚き、それから四郎の胸に顔をうずめて「遅い」と、いつもの彼女らしくない、涙ぐんだ声で答えた。
しばらく二人は無言で抱きしめあっていたが、ふとサズが顔を上げて遠くに行こうと言った。
彼女が言うには、敗戦してしまってから、新しい神が外国から入ってきて、この国の神はみんな大白山に追いやられてしまったのだという。
かつて国母であった神は、山の麓で想い人の匂いをつけた子供にあった。子供は町に戻ったが、神である自分は山を出ることができない。そこで自分をいくつもに割って人間の形を作り、そのなかで男に会いたいと想う気持の強い二つだけを町に出したのだそうだ。その二つがサズとウズである。
もともとは同じ形と、同じ心を持っていたはずが、町でべつべつの暮らし方をするうちに違う心を持ってしまった。サズは、ウズを自分と認めながらも、ウズが四郎と二人だけでいるのを許すことができないのだという。そしてその気持ちはウズも同じなのではないか。サズは、自分とウズのどちらかを選んで、どこかへ連れて行ってくれと頼んだ。四郎は今にもサズをつれて飛び出したかったが、一方でウズのことを考えるとこの場所が離れがたくもあった。
夕餉の時間となり、ウズと顔を合わせると、彼女も四郎の様子の変化から何が起きたのかを察したらしい。サズとは違う言葉で、優しく、しかしやはり「私かサズか、どちらかを選んでください」と言った。彼女への愛しさも募る四郎はたちまち、サズとウズのどちらを選べばいいのかわからなくなってしまった。彼女達のどちらも軍人の自分が愛していた女神であり、同時に犬耳人である自分を導いてくれた恩人であった。二人共が同時に神として畏ろしく、師として尊く、そして女として愛しい。
悩みぬいていると、そのとき、弟が兄の様子に心配し「にいたん、にいたん」と気を使った。弟の手が四郎の腕に触れた瞬間、昔に死んだ軍人の魂は立ち去り、四郎の心は純粋に四郎にもどったのである。
四郎という者は、人間ではなく犬耳族の若者であり、軍人ではなく電気屋の下働きであり、サズやウズは親切な知り合い以上の者ではない。守るべき弟がいて、明日行くべき職場があることを、四郎は知っていた。彼女達よりも、自分がいるべき相手は、ぼろぼろの服と穴の開いた長靴をはいている弟なのではないだろうか。四郎は立ち上がって申し訳ないと二人に頭を下げた。それからまた軍人の亡霊が来ないうちに、この病院から去った。
この国が戦争に勝っていたら、なにかが違ったのだろうか。少なくとも、弟には会えていなかったに違いない。