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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

片耳のノイズ

作者: Key
掲載日:2026/04/26

いち

「……ねえ、聞いてるの? あんた、この白紙、いつまで放っておくつもり?」

母親の低く湿った声が、リビングの冷たい空気と一緒に私の背中に突き刺さる。テーブルの上に放り出された、進路希望調査の紙。私は一切、口を開かなかった。

テレビの中では、朝のワイドショーが「夏休み直前! 家族で楽しめる最新レジャー施設」のニュースを流している。画面の向こう側、原色に彩られたプールサイドで、リポーターの女性が「この夏最高の思い出を!」とカメラに向かって、ひどく記号的な笑顔を振りまいていた。画面の中の青い水面はあんなに輝いているのに、私の手元にあるのは、何一つ埋めることのできない空っぽの白紙だけだ。

将来。やりたいこと。なりたいもの。そんな大層な言葉、私のどこを探したって見つからない。

母親の叱責を背景音に、私は無言でその紙を掴み、ポケットにねじ込んだ。逃げるように家を飛び出した瞬間、暴力的なまでの熱気が全身を刺した。

自転車を漕ぎ出す。行き先なんてない。

ただ、テレビが押し付けてくる「普通の幸せ」や、正論で私を刺してくる母親から、一秒でも早く遠ざかりたかった。

坂道を下るにつれ、視界の端に青が混ざり始める。

この街の海は、テレビで見るような「思い出の場所」なんかじゃない。ただひたすらに広く、無関心で、深い。

ペダルを漕ぐ足が重くなる。ふと、心臓の鼓動に混じって、あの音が聞こえてきた。

「カン、カン、カン、カン」

まただ。何度も、何度も、私の耳の奥で繰り返される遮断機の音。

踏切なんて二年も前に撤去され、電車も来ない廃駅へと続く道。

辿り着いた廃駅のホームに立つと、圧倒的な海の気配に気圧された。目の前の海はどこまでも続いている。どこへだって行けるはずなのに、私はこの錆びついたレールの端っこから一歩も動けない。

海に吸い込まれて、跡形もなく消えてしまえたらいいのに。

「……あ」

潮風で熱くなった目を細めたとき、視界の隅に「白」が混じった。

錆びついたベンチ。一人の女の子が、最初からそこにいたかのような顔で座っていた。

潮風に吹かれて、彼女の白いワンピースの裾が波打ち際で踊る泡みたいに揺れている。

彼女は膝の上に、今ではあまり見かけなくなった古い型のミュージックプレイヤーを置いていた。プラスチックの筐体は少しだけ色が褪せているけれど、大切に扱われてきたのがわかる。そこから伸びる白い有線のコードが、彼女の耳へと繋がっていた。

目が合った。

彼女の瞳は、凪いだ海の色によく似ていた。深くて、何を考えているのか読み取れない、静かな青。

私が言葉を失って立ち尽くしていると、彼女は表情一つ変えずに、耳元からイヤホンを外した。彼女はその片方を私の方へと差し出す。

「……聴く?」

その声は、寄せては返す波の音に混じって、消えてしまいそうなほど小さかった。

私は吸い寄せられるように、彼女の隣へ歩み寄った。錆びついたベンチに腰を下ろすと、彼女との間に、微かな、でも決定的な「冷たさ」を感じた。

受け取ったイヤホンを耳に差し込む。

プレイヤーの中から流れてきたのは、水底に沈んだピアノを誰かが弾いているような、ひどく不明瞭で、けれど胸を締め付ける旋律だった。

「……これ、なんていう曲?」

私が尋ねると、彼女は答えず、ただ水平線の向こうを指差した。

ふしぎな感覚だった。

彼女は私の名前を聞かなかった。学校での孤立も、白紙の進路希望調査の理由も、何一つ問い詰めてこなかった。ただ隣に座って、半分ずつの音楽を共有する。耳の奥で鳴り続けていたあの不快な踏切の音が、ピアノの音色に溶けて、すうっと消えていくのが分かった。

――ここなら、息ができる。

「明日も、いる?」

帰り際、私は自分でも驚くほど縋るような声で訊いていた。

彼女はゆっくりとこちらを振り向き、小さく、でも確かに頷いた。

その瞬間、私の中でこの廃駅は「逃げ場所」から「帰るべき場所」に変わった。

私の夏休みが、音を立てて動き始めた。

さん

それから、私の夏休みは「廃駅」を中心に回り始めた。

坂を下る途中、相変わらず「カン、カン」とあの幻聴が聞こえてくるけれど、駅に着いて彼女の姿が見えると、その音は止んだ。

お互いに何も聞かない。ただ隣に座って、片方ずつのイヤホンでピアノの音を聴く。その適当な距離感が、今の私には何よりも心地よかった。

「……これ、食べる?」

ある日、私は駅前の商店で買ったソーダアイスを差し出した。二つに割れるタイプのものだ。

彼女は「ありがと」と小さく笑って、それを受け取った。

二人で並んで、ぬるい潮風に吹かれながらアイスをかじる。私の手元ではアイスがどんどん溶けて滴り落ちていくけれど、彼女は相変わらず涼しげな顔をして海を見ていた。

夜。私たちは立ち入り禁止の柵を越えて、学校のプールに忍び込んだ。

昼間の熱を蓄えたコンクリートの匂い。月光を反射して揺れる水面。

彼女はプールの縁に座り、白い足を水に浸していた。

私はその隣に座り、水面に揺れる自分の足先をぼんやりと眺めた。

ポケットの中には、何度も折り畳まれて縁が擦り切れた「進路希望調査」が入っている。今の私にとって、そんな紙切れよりも、イヤホンから流れるピアノの旋律と、隣にいる彼女の体温だけがこの世界のすべてだった。

「見て、月が沈んでる」

彼女が指差す水面には、歪んだ銀色の月が浮かんでいた。

波紋ひとつない水面に指を触れると、月は頼りなく形を崩していく。

ピアノの旋律が、夜の静寂に溶けていく。

「明日も、またここで」

そんな言葉にしなくても伝わる約束だけが、私たちの間には積み重なっていった。

よん

カレンダーの数字が、無情にも「八月三十一日」を指していた。

セミの鳴き声は、死に際のような激しさを増し、空気は焦げ付くような熱を帯びている。

私はいつものように坂道を下っていた。

けれど、今日聞こえるあの音は、今までとは違っていた。

「カン、カン、カン、カン」

耳の奥で鳴り響く踏切の音が、これまでになく大きく、生々しく心臓を叩く。

廃駅に着くと、彼女はいつものベンチに座っていた。けれど、その姿は夏の強い陽射しに透けてしまいそうなほど、頼りなく見えた。

「ねえ」

私は彼女の隣に座り、絞り出すような声で切り出した。

「明日、学校に行きたくない。……ねえ、一緒に逃げようよ。二人で、この街を出よう」

すがるような私の言葉を聞いて、彼女は少しだけ目を見張ったあと、哀しそうに、ひどく哀しそうに微笑んだ。

彼女は答えず、ただゆっくりとイヤホンを耳から外し、私に手渡す。

それを受け取ろうとした私の指先が、彼女の冷たい手に触れた瞬間――脳内にノイズのような映像が濁流となって溢れ出した。

二年前の、あの夏。

クラスの誰かが言い出した「あの子、無視しようよ」という言葉。私は自分がターゲットになるのが怖くて、見て見ぬふりをした。

そんな私に、彼女は放課後、こっそりメッセージを送ってきたのだ。

『今日の夕方、二人でこの街を出よう。海沿いの駅で待ってる』

さっき私が口にしたのと同じ言葉。

でも、私は行かなかった。親にバレるのが、周りから浮くのが怖くて。

私は彼女からのメッセージを無視して、クーラーの効いた涼しい部屋で、くだらないテレビ番組を眺めていた。あの日も外では、今日と同じ暴力的なまでの夏空が広がっていて――。

彼女はあの夕方、電車が来なくなったこの廃駅で、来ない私をずっと一人で待っていたんだ。

「……あ、あぁ」

私は、イヤホンを握りしめたまま、その場に崩れ落ちそうになった。

目の前にいる彼女が、許すような、でもきっぱりとした拒絶の目で私を見ている。

「あんたは、ここに来ちゃダメだよ」

彼女の声が、初めてはっきりと私の鼓膜を打った。

次の瞬間だった。

「カンカンカンカンカンカン!!」

狂ったように踏切の警報音が鳴り響き、ありもしない赤い光の点滅が視界を覆う。

同時に、来るはずのない電車の凄まじい轟音が、地鳴りのように足元のホームを揺らした。

鉄の塊が空気を引き裂くような暴力的な突風が吹き荒れ、私はたまらず目を強く瞑ってベンチにしがみついた。

――ガタンゴトン、ガタンゴトン!

悲鳴のようなレールの軋む音。私のすぐ目の前を、巨大な「何か」がものすごいスピードで通り過ぎていく気配。

そして――ふっと、風が凪いだ。

耳鳴りだけを残して、轟音も警報音も嘘のように消え去った。

恐る恐る目を開ける。そこにはただ、ひたすらに広く無関心な青い海が広がっているだけ。

錆びついたベンチに、彼女の姿はもうなかった。

耳の奥で鳴り響いた遮断機の音が止むと同時に、不自然なほど冷たかった風が、生温かい潮風へと変わった。

ゆっくりと目を開ける。

目の前には、ただひたすらに広く、無関心で、深い海が広がっているだけだった。

錆びついたベンチに、白いワンピースの彼女の姿はない。

ただ一つ。

ベンチの上には、あの古い型のミュージックプレイヤーと、白い有線イヤホンだけがポツンと残されていた。

私はそれに手を伸ばし、震える指で拾い上げる。

プレイヤーの裏側には、かすれて消えかかった油性ペンの文字で、私のイニシャルが書かれていた。

イヤホンを耳に当てる。

けれど、もうあのピアノの旋律は聞こえなかった。代わりに聞こえてきたのは、「ザーッ」という無機質な砂嵐のようなノイズだけ。

波の音が、私の吐息をあっさりと飲み込んで消していく。

私はプレイヤーをポケットの奥深くにしまい込み、立ち上がった。

振り返らずに、坂道を上る。

背中を焼き焦がすような太陽の下、私の耳にはもう、ありもしない踏切の音は聞こえなかった。

ただ、自分のスニーカーがアスファルトを蹴る、重くて確かな足音だけが響いていた。

夏が終わる。

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