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三番ホームの遺失物  作者: 久遠 睦


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見知らぬ青年の影(後半)

第三章:見知らぬ青年の影(後半)


3. 静かなる反旗


水曜日の朝。市役所の第三会議室には、どんよりとした重い空気が漂っていた。

「駅前再開発推進会議」――。

机の上には、コンサルタント会社が作成した豪華な完成予想図が広げられている。ガラス張りのビル、どこにでもあるチェーン店が並ぶ駅ビル、機能的だが個性のないロータリー。

「……以上の通り、この計画が完了すれば、わが市の利便性は飛躍的に向上します。若い世代の流入も期待できるでしょう」

コンサルタントの若い男性が、自信たっぷりにプレゼンテーションを締めくくった。

会議室に並ぶのは、課長をはじめとする市の幹部たちだ。皆、深く頷き、「これでようやく、この街も『まとも』になる」という安堵の表情を浮かべている。

その末席で、美紀は昨夜見たハッカ飴の包み紙を、ポケットの中で小さく握りしめていた。

「何か、意見のある者はいるか?」

課長が形式的に問いかける。いつもなら、ここで美紀は「特にありません」と答え、議事録をまとめる作業に戻るはずだった。それが、三十五歳の「普通の会社員」としての、最も賢明で安全な振る舞いだからだ。

(でも、このままでいいの?)

脳裏をよぎるのは、涼の描いた、夕日に染まるあの錆びた看板。

地下資料室で見つけた、かつてこの町を愛した人々の白黒写真。

そして、自分自身の空っぽだった毎日。

美紀は、震える右手をゆっくりと、けれど確かに上げた。

「……あの、佐伯です。一つ、よろしいでしょうか」

会議室中の視線が、一斉に美紀に集まる。課長が意外そうに眉を上げた。

「なんだ、佐伯さん。君が発言するなんて珍しいな」

「この計画案にある、三番ホームの改築と、駅前の商店街の全面取り壊しについてです。……利便性を追求するのは素晴らしいことだと思います。でも、この案には、この町が積み重ねてきた『記憶』への配慮が欠けているのではないでしょうか」

会議室に、冷ややかな沈黙が流れた。

「記憶?」コンサルタントの男性が、鼻で笑うように問い返す。「佐伯さん、失礼ですが、記憶では経済は回りませんよ。今、市民が求めているのは不便の解消です」

「不便を解消することと、歴史を根こそぎ奪うことは別だと思います」

美紀の声は、自分でも驚くほど静かで、力強かった。

「昨日、資料室で昔の写真を見ました。この町の駅前は、かつて多くの人で賑わい、そこにはこの町にしかない『温かさ』がありました。今の計画のように、どこにでもある都会のコピーのような街にしてしまったら、一度壊したものは二度と戻りません。……ここにある、何気ない風景に価値を見出している人だっているんです」

「佐伯さん、もういい。君の言っていることは感情論だ」

課長が苦々しく遮った。「会議を続けよう」

美紀は、ゆっくりと座り直した。

心臓が激しく鐘を打っている。顔は火が出るほど熱い。

隣の席の先輩が「余計なこと言わなきゃいいのに」と小声で呟くのが聞こえた。

けれど、不思議と後悔はなかった。

「波風を立てないこと」だけを美紀のルールにしてきたこれまでの人生で、初めて「自分の意志」を外の世界に解き放ったという、痺れるような解放感が全身を駆け巡っていた。


4. 三番ホームの共犯者


定時を過ぎると、美紀は逃げるように市役所を出た。

職場での空気は、その後、目に見えて冷ややかになった。けれど、美紀の足取りは驚くほど軽かった。

昨日までの「不便な帰り道」が、今は「自分が守りたい景色」に変わっている。

駅に到着すると、雨上がりの空には、薄い藍色のカーテンが引かれ始めていた。

いつもの三番ホーム。

ベンチに座っているのは、もう涼だけではなかった。

そこには、スケッチブックを開いた涼と、その隣に並んで座る、昼間の会議で否定されたあの駄菓子屋のおばあちゃんの姿があった。

「あ、美紀さん! 見てください、おばあちゃんから昔の駅の話を教えてもらっていたんです」

涼が少年のような笑顔で手を振った。

おばあちゃんは、皺の刻まれた顔をほころばせ、美紀を見上げた。

「役所のお姉さん、あんたも大変だねえ。でも、このお兄ちゃんが描いてくれる絵を見るとね、自分の生きてきた時間が無駄じゃなかったって思えるんだよ」

美紀は二人の隣に腰を下ろした。

「……私、今日、職場で少しだけ戦ってきました。再開発の話に、反対の意見を言ったんです」

涼が、描く手を止めて美紀を見た。

「美紀さんが?」

「ええ。たぶん、明日からは職場での居心地が悪くなると思います。でも……言わなきゃいけないと思ったんです。あなたの絵を見てしまったから」

涼は、夕闇の中で少しだけ目を細めた。

「ありがとうございます。……でも、無理はしないでくださいね。僕のせいで美紀さんが辛い思いをするのは本望じゃない」

「私のせいですよ」

美紀は笑って、夕焼けに染まる線路を見つめた。

「ずっと、今の自分にできることは何だろうって悩んでいました。でも、特別な才能がなくても、この景色を守りたいと願うこと、それを誰かに伝えること……それくらいなら、今の私にもできるかもしれないって」

涼は、スケッチブックの新しいページに、さらさらと鉛筆を走らせた。

「美紀さん。今、あなたが言ったことこそが、この町に一番必要な『光』ですよ」

三番ホームに、列車の接近を告げるアナウンスが響く。

おばあちゃんが「またね」と手を振り、改札へと向かっていった。

ホームに残されたのは、美紀と涼、そして描きかけのスケッチ。

「涼さん。もしよろしければ、あの古い資料室で見つけた写真、今度見に来ませんか? あなたが描く景色と、昔の景色を重ねてみたら、もっと素敵なことが起きる気がするんです」

「……いいですね、それ。ぜひ」

電車がホームに滑り込んでくる。

美紀は電車に乗り込み、窓越しに涼を見た。

涼は、完成したばかりのスケッチを掲げて見せた。

そこには、先ほどまで三人で座っていたベンチと、その背後で静かに、けれど力強く輝く街灯が描かれていた。

タイトルはまだない。

けれど、そこには間違いなく、35歳の美紀が初めて手にした「自分の物語」が始まっていた。

都会に行けば、もっと多くのチャンスがあったかもしれない。

けれど、この不便な、空が広いだけの町で。

一人の青年と出会い、忘れかけていた記憶を掘り起こし、自分の声を上げる。

それは、どんな華やかな都会のキャリアよりも、今の美紀の心を熱く燃え上がらせていた。

ガタン、ゴトン。

動き出した電車の振動が、美紀の体に伝わる。

「単調な毎日は嫌だ」と嘆いていた自分は、もういない。

明日は何を伝えよう。明日はどこを歩こう。

美紀は、窓に映る自分の顔を真っ直ぐに見つめ、小さく微笑んだ。


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