見知らぬ青年の影(前半)
第三章:見知らぬ青年の影(前半)
1. アーカイブの中の記憶
火曜日の朝。市役所の執務室は、昨日までと変わらない蛍光灯の白い光に包まれていた。
しかし、美紀のデスクの上にある「駅前再開発計画」のファイルは、昨日よりもずっと重く、異質な存在感を放っているように感じられた。
(消える前に、気づけたのなら……)
涼の言葉が、耳の奥で静かに鳴り続けている。
美紀は、目の前のパソコン画面に入力すべき「老朽化による取り壊し対象物件一覧」という文字を、どうしても打つことができなかった。そこに並んでいるのは、単なる建物の名称ではない。あのスケッチブックに描かれていた、光と影の物語の一部なのだ。
「佐伯さん、例の資料、進んでる?」
課長がコーヒーカップを片手に通りかかる。
「……課長。この計画に使われている建物の写真、もう少し古いものはありませんか?」
「古いもの? そんなの、記録用の白黒写真くらいだろう。何に使うんだい」
「今の状態を比較するだけじゃなくて、この場所がどういう役割を果たしてきたのか、もう少し詳しく知っておく必要があると思って」
自分でも驚くほど、声が震えていなかった。
課長は「真面目だねえ」と苦笑しながら、地下の資料室の鍵を寄こした。
地下の資料室は、カビと古い紙の匂いが充満していた。
美紀は、埃を被った段ボールを一つずつ開けていく。そこには、この街が「不便な田舎」と呼ばれる前、まだ活気に溢れていた頃の記録が眠っていた。
昭和四十年代。まだ電車がこの街の主要な足であり、三番ホームが人々の出会いと別れの中心だった頃の写真。
そこには、今よりもずっと多くの人々が笑い、ベンチに腰掛け、空を見上げている姿があった。
涼が描いたあのスケッチと、数十年前に撮られたこの写真。
時代は違えど、そこには共通する「何か」があった。それは、そこに住む人々が、自分の街を当たり前に愛していたという、静かな証拠だ。
(私たちは、何を捨てようとしているんだろう)
ただ「新しい」という理由だけで。ただ「効率が良い」という理由だけで。
美紀は、気づけば一人の老婆が営んでいた小さな駄菓子屋の古い写真に見入っていた。その店は、再開発計画では真っ先に駐車場になる予定の場所だった。
2. 雨の日の静寂
午後から降り始めた雨は、夕方には本降りになった。
地方の雨は、都会のそれよりもずっと重く、周囲の景色を深い灰色に沈めていく。
美紀は傘を差し、水溜りを避けながらいつもの駅へと向かった。
(今日は、いないよね)
こんな雨の中、スケッチをしているはずがない。
そう自分に言い聞かせながらも、視線は無意識にあの跨線橋を探していた。
しかし、橋の上に人影はない。
美紀は少しだけ肩を落とし、改札を抜けようとした。
「……冷えますね、美紀さん」
低く、けれど通る声がした。
振り向くと、駅舎の隅にある、今は使われていない小さな売店跡の軒下に、涼が立っていた。
彼は、雨に濡れた大きなキャンバスバッグを抱え、少しだけ寒そうに首をすくめていた。
「涼さん! こんな雨の中で何を……」
「雨の日には、雨の日にしか見えない光があるんです。アスファルトが鏡のようになって、街灯の光がどこまでも伸びていく。それを見逃すのが、もったいなくて」
彼の瞳は、やはりどこか浮世離れしていた。
美紀は自分の持っている大きな傘を彼に差し出した。
「入ってください。風邪を引きますよ」
「すみません……。ありがとうございます」
狭い傘の中で、二人の肩が触れ合うか触れ合わないかの距離になる。
美紀は、自分の心臓の音が雨音よりも大きく響いているのではないかと焦った。三十五歳になって、こんなに胸が騒ぐことがあるなんて、思ってもみなかった。
「……涼さんは、どうしてこの町に来たんですか?」
思い切って、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「都会で、絵を描くのをやめたからですよ」
涼は、遠くの街灯を見つめたまま、静かに語り始めた。
「僕は、東京でコマーシャルアーティストとして働いていました。広告や雑誌のために、誰かが求める『正解』の絵を描く毎日。速く、美しく、消費されるためだけの絵。気づいたら、自分が本当に何を描きたかったのか、分からなくなってしまったんです」
彼の言葉の一つ一つが、美紀の胸に突き刺さる。
自分もまた、市役所という組織の中で、誰かが決めた「正解」を繰り返すだけの毎日だった。
「ある日、仕事の途中で倒れて。目が覚めたとき、もう白いキャンバスを見るのも怖くなっていました。そんなとき、偶然この町の古い駅を通り過ぎる電車に乗っていたんです。窓から見えた、あの三番ホームの、なんてことのない夕暮れ。……そのとき、初めて思ったんです。ああ、ここなら、誰も求めていない、僕だけの絵が描けるかもしれないって」
涼の手が、バッグの中のスケッチブックを強く握りしめた。
「だから、僕はここに来たんです。逃げてきたと言えば、そうかもしれません。でも、僕にとっては、ここが唯一の『居場所』なんです」
雨脚が強まり、傘に当たる音が激しさを増していく。
美紀は、彼を包み込む「孤独」と「強さ」の両方を感じていた。
彼は、三十五歳の自分が持てなかった「自分の足で立つための勇気」を、傷つきながらも手に入れようとしていた。
「涼さん。私……今日、資料室で昔のこの町の写真を見たんです」
美紀は、自分が感じたことを言葉にしようと必死になった。
「あなたが描いた絵は、昔の人がこの町に感じていた愛情と、繋がっている気がしました。だから……あなたの絵は、単なる『逃げ』なんかじゃないと思います」
涼が、ゆっくりと美紀の方を向いた。
雨に濡れた彼の睫毛が、街灯の光を反射してきらりと光った。
「……美紀さんは、不思議な人ですね」
「えっ?」
「僕が欲しかった言葉を、いつも一番いいタイミングでくれる」
彼は少しだけ照れたように笑うと、バッグから小さな包みを取り出した。
「これ、さっきの駄菓子屋のおばあちゃんから貰ったんです。美紀さんも、一つどうですか?」
それは、この町で昔から作られている、素朴なハッカ飴だった。
美紀が口に含むと、鼻を抜ける冷涼な香りと、懐かしい甘さが広がった。
「……美味しい」
不便な町。何もない町。
けれど、そこには確かに、人々の息遣いと、繋いできた時間がある。
美紀は、自分の心が、この雨の夜に少しずつ洗われていくのを感じていた。
「明日も、ここで会えますか?」
美紀が問いかけると、涼は力強く頷いた。
「ええ。描きたい場所が、まだまだたくさんあるんです」
電車がホームに入ってくる。
美紀は傘を涼に預け、走って改札を抜けた。
振り返ると、彼は雨の中で傘を差し、美紀が見えなくなるまで見送ってくれていた。
その夜、美紀は久しぶりに和子と長く話をした。
隣の家のみっちゃんの二人目の話ではなく、この町に昔あったお祭りの話や、今は無くなってしまった映画館の話。
和子は驚きながらも、どこか嬉しそうに昔語りをしてくれた。
「美紀、あなた最近、なんだか顔つきが変わったわね」
「そうかな?」
「ええ。なんだか、昔みたいに目がキラキラしてるわ」
鏡の中の自分は、相変わらず三十五歳の普通の女性だ。
けれど、心の中には、雨上がりの空にかかる虹のような、淡いけれど確かな期待が芽生え始めていた。




