プラットホームの忘れ物(後半)
第二章:プラットホームの忘れ物(後半)
3. 月曜日のノイズ
月曜日の市役所は、週末に溜まった澱を吐き出すかのように騒がしい。
窓口の番号案内が機械的な音を鳴らし、コピー機の回る音、キーボードを叩く乾いた音が重なり合って、独特の湿り気を帯びた空気を作り出している。
美紀は、住民税の納付に関する書類の束と格闘していた。
「佐伯さん、ちょっといい?」
隣の席の課長が、分厚いファイルを抱えてやってきた。五十代後半の、いかにも「地方公務員」を絵に描いたような保守的な男性だ。
「この、駅前の再開発計画の資料、まとめておいてくれるかな。近々、県の担当者が来るから」
「再開発……ですか?」
美紀が資料を手に取ると、そこには駅前にある古い商店街を取り壊し、大型のショッピングモールを誘致しようとする十年前から燻っている計画の続きが記されていた。
「ああ。不便だなんだって市民からも苦情が多いだろう? 街を新しくして、若者を呼び戻さないといけない。何もないこの町を、少しはマシにしなきゃならんからな」
「何もない」
その言葉が、昨夜の涼の言葉――『光の宝庫』という響きとぶつかり合い、美紀の胸の中で不協和音を奏でた。
「……課長は、今の駅前の景色、嫌いですか?」
思わず口から出た言葉に、課長はきょとんとした顔をした。
「嫌いも何も、ただの古い町並みだろう。佐伯さん、君だって都会に憧れてる口じゃないか。不便なのは嫌だろう?」
美紀は曖昧に微笑んで、視線を資料に戻した。
これまでの自分なら、迷わず「そうですね」と頷いていただろう。この町の不便さを呪い、都会にある「洗練された便利さ」こそが正解だと信じて疑わなかった。
けれど、今朝、駅のホームに立った時、美紀は無意識にベンチの足に施された鉄の細工を眺めていた。涼のスケッチブックに描かれていた、あの複雑で美しい影の正体を探して。
昼休み。美紀は一人、市役所の裏手にある小さな公園のベンチで、コンビニのサンドイッチを頬張っていた。
スマートフォンの画面には、都会で働く友人・絵里からのメッセージが届いている。
『美紀、最近どう? こっちは仕事が山積みで、昨日は終電逃してタクシー帰り。もう、この生活も限界かも。たまには空気の綺麗なところに行きたいな』
美紀は、返信を打とうとして指を止めた。
いつもなら『こっちは空気しかないよ(笑)』と自虐気味に返していたはずだ。
けれど、今の美紀の指先が綴ろうとしたのは、もっと別の言葉だった。
(空気の綺麗なところ、じゃなくて。ここには、もっと違う何かがある気がするの)
結局、送信ボタンを押せずに画面を閉じた。
三十五歳の自分が、昨日会ったばかりの、名前もよく知らない青年の言葉に影響されているなんて、誰にも言えるはずがない。それはまるで、思春期の少女が秘密の恋をしているようで、ひどく気恥ずかしく、同時にひどく危険なことのように思えた。
4. 境界の再会
午後五時、定時。
美紀はいつも以上に素早く身支度を整え、市役所を後にした。
自分でも何に急いでいるのか分からない。けれど、昨日の夕暮れが、自分を呼んでいるような気がしてならなかった。
駅に続く道を歩く。
空は、昨日よりも少しだけ雲が多い。
美紀は、昨日までは気に留めなかった「音」に耳を澄ませてみた。
風が田んぼの苗を撫でる音。遠くで踏切が鳴り始める前の、かすかな金属の震動。
それらすべてが、涼が言っていた「光」の断片のように思えてくる。
駅のホーム、三番線。
美紀は、いつもの位置から少し離れた、あの木製ベンチを見つめた。
そこには、今日は誰も座っていない。
(……あんなの、偶然だよね。彼だって、たまたま通りかかっただけかもしれないし)
どこか安堵し、どこか落胆しながら、美紀はホームの端まで歩いていった。
すると、線路の向こう側、古い保線小屋の陰に、一人の人影が見えた。
使い古されたパーカー。肩にかけたキャンバスバッグ。
涼だった。
彼は、線路を跨ぐ跨線橋の上から、沈みゆく太陽を見つめていた。
手には、あの黒いスケッチブックが開かれている。
美紀は躊躇したが、気づけば彼の背中に向かって足を踏み出していた。
「……涼さん」
声をかけると、涼は驚いた様子もなく、ゆっくりと振り向いた。
「美紀さん。お疲れ様です。……また、お会いしましたね」
彼の微笑みは、昨日よりも少しだけ「こちらの世界」に近いものに感じられた。
「まだ、この町にいたんですね」
「ええ。今日も、この跨線橋から見える影を追っていたら、あっという間に時間が過ぎてしまって。……見てください。今、あの錆びた看板にだけ、最後の日差しが当たっているんです」
彼が指差した先には、すでに営業を止めて久しい古い薬屋の看板があった。
塗装は剥げ、文字も判別できない。けれど、その斜めから差し込む黄金色の光を受けた瞬間、看板の表面に残る細かな凹凸が、まるで月面のような幻想的な陰影を描き出していた。
「……本当だ。あんなに、綺麗だったなんて」
「物の価値は、誰が決めるんでしょうね。古くなったから、不便だからという理由で消されてしまうものの中に、一番美しい記憶が宿っている気がするんです」
涼の言葉は、今日、市役所で聞いた「再開発」の話と残酷なまでに対照的だった。
「私、今日……この駅前の再開発の資料を作っていたんです。ここを取り壊して、もっと新しくて、便利な場所にするために」
美紀は、吐露するように言った。
「私の仕事は、あなたが『綺麗』だと言ったものを、消す手伝いをすることかもしれません」
涼は、スケッチブックをゆっくりと閉じた。
そして、美紀の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「美紀さん。消える前に、気づけたのなら。それは、まだ手遅れじゃないってことじゃないですか?」
その言葉は、美紀の心の中にあった「35歳の限界」という分厚い壁に、小さな、けれど決定的な亀裂を入れた。
都会に行かなければ変われない。
結婚しなければ幸せになれない。
便利な場所に住まなければ価値がない。
そんな、誰かが作った尺度に自分を当てはめようとして、息苦しさに悶えていたのは、自分自身だったのではないか。
「私に……何ができるんでしょう。ただの、事務員なのに」
「あなたは、この景色を、僕と同じように『綺麗だ』と言ってくれた。それだけで、十分じゃないですか」
涼は、キャンバスバッグから一枚の紙を取り出し、美紀に差し出した。
それは、彼が今日描いたばかりのスケッチだった。
そこには、市役所の窓から見える、あの何気ない風景が描かれていた。
けれど、その中心には、夕日に照らされて窓口に座る、一人の女性のシルエットがあった。
「これは……」
「今日の午後、市役所の近くを通ったんです。窓際で、一生懸命に書類を見つめている美紀さんの姿が見えて。その姿が、この町の一部として、すごく美しかったから」
美紀は、その紙を震える手で受け取った。
そこに描かれていたのは、自分が「平凡で、何者でもない」と蔑んでいた、自分自身の姿だった。
けれど、涼の瞳を通した自分は、こんなにも静かな気品を湛え、この場所に根を張って生きている。
不便なこの町で。
単調な毎日を、必死に生きてきた自分。
「……ありがとう」
美紀の目から、一雫の涙が溢れ、スケッチの端に滲みを作った。
三番ホームに、列車の接近を告げるアナウンスが響く。
けれど、今度の電車は、ただの「帰宅の手段」ではなかった。
新しい景色を、自分の足で歩き始めるための。
そして、この町で「自分にしかできないこと」を見つけるための、祝祭のファンファーレのように聞こえた。




