プラットホームの忘れ物(前半)
第二章:プラットホームの忘れ物(前半)
1. 境界線の対話
「あ……」
美紀の喉から、掠れた声が漏れた。
見知らぬ誰かの内面を覗き見てしまった後ろめたさと、持ち主が目の前に現れたことへの驚きで、指先が微かに震える。慌てて閉じたスケッチブックの表紙が、パチンと乾いた音を立てた。
「すみません、勝手に……。ベンチに置いてあったので、その、確認のために」
差し出したスケッチブックを受け取る青年の指は、驚くほど細長く、それでいて節くれ立っていた。
「涼と言います。……中、見ちゃいましたよね」
涼と名乗った青年は、責めるような風でもなく、どこか遠くを見るような瞳で美紀を見つめた。その眼差しは、先ほどスケッチブックの中で見た、あの熱を帯びた色彩とは対照的に、ひどく穏やかで、透明だった。
「はい。……あの、すごく綺麗だったので。ここ、私の毎日通っている駅なんですけど、あんな風に見えるなんて、思ってもみなくて」
美紀は自分でも驚くほど素直に言葉を紡いでいた。普段、市役所の窓口で繰り返す定型文のような会話とは違う、心臓の奥から直接汲み上げたような言葉。
涼は、受け取ったスケッチブックを愛おしそうに撫で、小さく微笑んだ。
「そう言ってもらえると、救われます。この町の人は皆、ここには何もないって言うけれど。僕にとっては、光の宝庫なんです。都会の、あの、押し付けがましい輝きとは違う、静かな、でも消えない光」
ガタン、ゴトン。
二人の会話を切り裂くように、上り列車がホームに滑り込んできた。
強い風が吹き抜け、美紀のスカートを揺らす。電車のドアが開き、数人の乗客が吐き出され、また数人が吸い込まれていく。
美紀は、自分がこの電車に乗らなければならないことを思い出した。これを逃せば、一時間後の最終電車を待つことになる。
「あ、私、行かなきゃ」
美紀は背中のカバンを直した。涼はホームに佇んだまま、軽く手を挙げた。
「佐伯……さん、でしたっけ。さっき、名札が見えたので」
「ええ、美紀です。佐伯美紀」
「美紀さん。また、ここで会うかもしれませんね。僕はもう少し、この町の夜を歩いてみます」
電車のドアが閉まる直前、美紀は車内から彼を振り返った。
暗いホームの街灯の下、涼の姿は夜の闇に溶け込みそうなくらい淡かった。けれど、彼が抱えているあの黒いスケッチブックだけは、確かな重みを持ってそこにあるように見えた。
電車が動き出す。
窓ガラスに映る自分の顔は、先ほどまでとは少しだけ違って見えた。
頬が微かに上気し、瞳に小さな光が宿っている。
それは、三十五歳の「普通の会社員」が、平穏な日常の中で決して見せてはいけない、危うくて、それでいて甘美な「変化」の兆しだった。
2. 余熱を抱いた食卓
駅から自宅までの十五分。
いつもは足取り重く歩く夜道が、今夜は妙に短く感じられた。
街灯の下を通り過ぎるたび、頭の中で涼の言葉がリフレインする。
『僕にとっては、光の宝庫なんです』
何もないと思っていた。
娯楽施設もなければ、最新のトレンドを追える店もない。
けれど、涼が見せてくれた世界では、錆びた看板や、雑草の茂る線路脇が、物語の断片のように輝いていた。
それは、美紀が三十五年間、見ようともしなかった地元の姿だった。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、いつものように古い木の香りと、出汁の匂いが混じり合った実家の空気に包まれた。
「おかえり。遅かったわね、電車一本遅れたの?」
居間でテレビを見ていた母親の和子が、顔を上げずに言った。
「……うん、ちょっと駅で。ご飯、まだある?」
「あるわよ。温め直しなさいね」
美紀は台所に立ち、一人分の食事を並べた。
肉じゃが、ほうれん草のお浸し、豆腐の味噌汁。
いつもなら「またこれか」と溜息をつき、スマートフォンのSNSを眺めながら機械的に口に運ぶ夕食。
けれど今夜は、箸で持ち上げたじゃがいもの柔らかさや、味噌汁から立ち上る湯気の白さに、ふと目が留まる。
(これも、誰かにとっては『光』なのかな)
そう思うと、長年「退屈の象徴」だと思っていた母の手料理が、急にかけがえのないもののように思えてきた。
和子が、自分を育てるために、何千回、何万回と繰り返してきた「普通」の営み。
自分が「普通」で「何もない」と嘆いていた毎日は、実は誰かの献身と、穏やかな時間の積み重ねの上に成り立っていたのではないか。
「美紀、どうしたの? 箸が止まってるわよ」
和子が心配そうに覗き込んできた。
「……ううん、なんでもない。美味しいよ、お母さん」
「あら、珍しい。そんなこと言うなんて、何かいいことでもあった?」
いいこと。
それは、三十五歳の独身女性が母親に報告するような「いいこと」ではない。
例えば、昇進したとか、結婚を前提とした出会いがあったとか、そういう分かりやすい成果ではないからだ。
拾ったスケッチブックに感動し、自分よりずっと年下の不思議な青年に名前を呼ばれた。
そんな、泡のように消えてしまいそうな出来事。
「別に。ただ、ちょっと疲れてるだけ」
美紀は自分の中にある小さな高揚を、誰にも悟られないように大切に仕舞い込んだ。
自分だけの、秘密。
この街で生きていくための、密やかなお守り。
食後、自室に戻った美紀は、ドレッサーの前に座った。
化粧水を手に取り、肌に馴染ませる。
鏡の中の自分を見つめる。
明日もまた、六時三十分に起きる。
明日もまた、市役所の窓口に立つ。
けれど、明日の自分は、昨日までの自分とは少しだけ違う視点を持っているはずだ。
涼が言った「ここにしかない光」。
それを見つけることができたら、私のこの「不便で単調な毎日」も、少しは愛せるようになるのだろうか。
都会へ行くことへの未練が、完全に消えたわけではない。
けれど、今夜は初めて、この静かすぎる田舎の夜が、自分をやさしく守ってくれているような気がした。
美紀はスマートフォンの電源を切り、暗い部屋で一人、窓の外に広がる山々のシルエットを眺めた。
深い闇。けれど、その向こうには、明日の朝陽が待っている。
三番ホームで出会ったあの青年の横顔を思い浮かべながら、美紀は吸い込まれるように眠りについた。
明日から始まる新しい一週間。
それは、彼女の人生の「第2章」が、静かに幕を開ける瞬間でもあった。




