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三番ホームの遺失物  作者: 久遠 睦


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三番ホームから吹く風(第二部)

第十章:三番ホームから吹く風(第二部)


5. 境界を越える表現者たち


午後二時。芸術祭の熱気は、三番ホームから駅前商店街、そして町外れの古いアトリエ倉庫へと、毛細血管のように広がっていた。

美紀は、溢れかえる人波を縫うようにして、臨時のインフォメーションデスクと化した駅舎の待合室に戻った。そこにいたのは、当初予想していた「珍しいもの見たさの観光客」だけではなかった。

「佐伯さん。……驚かないでください。あちらの方、現代写真家のエリック・シュタイン氏です。わざわざ成田から直行したそうで……」

広報担当の健太が、興奮で声を震わせている。

美紀が視線を向けた先では、世界的な名声を持つ写真家が、古びた給水塔の錆びた質感に魅了されたようにシャッターを切っていた。それだけではない。都内の有名ギャラリーのキュレーターや、新進気鋭の彫刻家たちが、不便なはずのこの町の路地裏を、まるで宝探しでもするかのような真剣な眼差しで歩いている。

「佐伯さん、お話があります」

一人の女性が美紀に声をかけた。日本を代表する陶芸家として知られる彼女は、美紀の目を真っ直ぐに見つめた。

「私は、都会の完璧なスタジオを解約する決心をしました。ここにある『不完全な美しさ』と、あなたが守ろうとしたこの空の下で、土を捏ねたい。……この町のアトリエ・レジデンス、第一号の入居者として私を認めていただけますか?」

一人、また一人と、本物の芸術家たちが美紀のもとを訪れ、この町を拠点に活動したいと申し出てくる。

彼らが求めていたのは、補助金や便利な設備ではなかった。表現者としての魂を震わせる「真実の風景」と、それを命懸けで守ろうとした「佐伯美紀」という一人の女性の意志だったのだ。

「……もちろんです。ここは、誰もが自分の『光』を見つけられる場所ですから」

美紀は、何度も目頭が熱くなるのを堪えながら、彼らの名前を新しい町の記録簿に刻んでいった。

かつて「何もない」と嘆いていたこの町は、今、世界で最も濃密な「何か」が生まれる場所へと変貌を遂げようとしていた。


6. 三番ホームの幻影


陽が傾き始め、線路がオレンジ色の長い影を引き始めた頃、美紀はふと、喧騒から逃れるように三番ホームの端へ向かった。

そこには、涼が去る間際に残していった、あの巨大なキャンバスが展示されている。

人物の描かれていない三番ホーム。

観客たちはその絵の前に立ち、自分の人生を重ね、自分だけの登場人物を心の中に描く。

「……素晴らしいわ。作者はどこにいるの?」

そんな質問を、今日だけで何十回受けただろうか。そのたびに美紀は「今は不在です」と、心に空いた穴を確認するように答えてきた。

(涼さん。あなたはこれを見ていますか?)

この成功も、この芸術家たちの集いも、すべてはあなたが最初の一筆を入れてくれたから始まったこと。

美紀は、絵の中の空っぽのベンチを見つめた。

視界が微かに滲む。

彼がいなくても、町は再生した。彼は役割を終えたのだと、自分に言い聞かせようとした。

けれど、心の一部は、依然としてあの雨の夜の駅舎に取り残されたままだった。

その時だった。

ザッ、という、砂利を踏む確かな足音が、美紀の背後で響いた。

展示を眺める観客の足音とは違う。迷いがなく、それでいてこの場所の空気を確かめるような、懐かしさを孕んだ足音。

美紀は、心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じた。

振り返るのが怖かった。もし、見知らぬ誰かだったら。その期待が、絶望に変わる瞬間をこれ以上味わいたくなかった。

「……美紀さん」

その声が、風に乗って届いた。

低いけれど、透明で、耳の奥に残っていたあの独特の響き。

美紀は、ゆっくりと、祈るような気持ちで振り返った。


7. 過去の清算、そして帰還


そこに、彼は立っていた。

いつもの着古したパーカーではない。都会の冷たい風にも耐えられるような、仕立ての良い黒いコート。

けれど、その瞳に宿る、この町の空と同じ深い静寂は変わっていなかった。

「涼さん……」

美紀の声は、言葉にならずに消えた。

涼は、自分の絵の前で立ち止まっている美紀に歩み寄り、少しだけ申し訳なさそうに、けれど清々しい笑顔を見せた。

「……勝手にいなくなって、すみませんでした。どうしても、やり遂げなきゃいけないことがあったんです」

「やり遂げなきゃいけないこと……?」

涼は、自分の右手を美紀に差し出した。

かつて、東京で「描く機械」にされていた時、震えが止まらなかったその手。

「東京へ戻り、黒澤さんの助けも借りて、すべての過去を清算してきました。……藤代涼介としての契約、残された作品の利権、そして僕を縛り付けていた画廊との関係。……すべてを『終わり』にしてきました」

涼の言葉に、美紀は息を呑んだ。

彼は逃げ出したのではない。もう二度と「藤代涼介」という偽りの像に追いかけられないように、自らの足で戦いに行っていたのだ。

「もう、あそこには何も残していません。……僕の筆も、僕の魂も、すべて自分の手に取り戻しました」

涼は、ホームの向こう側に広がる夕暮れの景色を見渡した。

「美紀さん。あの雨の夜、あなたが僕の手を握ってくれたから、僕は自分の過去と向き合う勇気を持てたんです。……僕が今、ここにいるのは、逃げてきたからじゃない。自分の意志で、この町を、そしてあなたを選んだからです」

三番ホームに、列車の接近を告げるアナウンスが響く。

けれど、今度の音は、彼を連れ去る音ではなかった。

美紀は、溢れ出す涙を拭おうともせず、涼の胸に飛び込んだ。

三十五年生きてきて、誰かの体温がこれほどまでに力強く、自分の人生を肯定してくれるものだとは知らなかった。

「……おかえりなさい、涼さん」

「ただいま、美紀さん。……さあ、続きを描きましょう。今度は、二人の物語を」

涼の腕の中で、美紀は感じていた。

不便で、何もない、空が広いだけの町。

そこはもう、彼女にとっての「終着駅」ではない。

新しい風が吹き抜け、数えきれない色彩が混じり合い、誰もが「自分という名の芸術」を奏で始める、世界で一番自由な「始発駅」なのだ。

二人の頭上には、あの日と同じ、広い空が広がっていた。

けれどその色は、昨日までのどんな夕焼けよりも鮮やかで、明日への希望に満ち満ちていた。


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