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三番ホームの遺失物  作者: 久遠 睦


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錆びたシャッターの向こう側(後半)

第六章:錆びたシャッターの向こう側(後半)


4. 誤算のパノラマ


展覧会が最高潮を迎えていた頃、市役所の一角にある「再開発推進室」の空気は、凍りついたような静寂と、爆発寸前の焦燥が入り混じっていた。

「……どういうことだ、これは」

コンサルタントの渡辺が、タブレット端末をデスクに叩きつけた。画面には、SNSでトレンド入りしている「#三番ホームの遺失物」というハッシュタグと共に、溢れんばかりの人で賑わうあの寂れた駅のライブ画像が映し出されている。

「ただの事務員の私的な活動だと聞いていたはずだ。なぜ、テレビ局の取材クルーまで動いている?」

「わ、私に言われても……」

推進課長は、額の汗をハンカチで拭いながら狼狽していた。

「佐伯には厳重注意をしました。担当からも外したんです。まさか、あんな無人駅にこれほど人が集まるなんて、誰も予想できるはずがないでしょう」

渡辺は窓の外、普段と変わらないはずの町の通りを眺めた。そこには、普段は見かけない県外ナンバーの車や、スマートフォンを片手に駅の方角へ歩いていく若者たちの姿があった。

彼らが信奉していた「データ」と「効率」という神様が、一枚のスケッチと、名もなき市民たちの「記憶」という非科学的な熱量に、音を立てて屈服させられようとしていた。

「この町には『何もない』のが売りだったはずだ。だからこそ、まっさらな更地にして、都会のシステムを植え付ける価値があった」

渡辺の声には、隠しきれない苛立ちが混じる。

「だが、あの女……佐伯美紀は、あそこに『価値』を作り出してしまった。いや、眠っていた価値を掘り起こしてしまったんだ」

「渡辺さん、このままでは、来週の県知事への報告が……」

「分かっている! だが、これだけ注目されてしまった以上、強引な取り壊しは逆効果だ。……チッ、あの女、三十五にもなって、余計なことをしてくれたものだ」

彼らにとって、美紀は「管理しやすい歯車」であるべきだった。だが、その歯車が勝手に熱を持ち、巨大なシステムそのものを狂わせ始めたのだ。


5. 祭りのあとの祈り


午後九時。最終列車が去り、三番ホームに再び静寂が戻ってきた。

山崎さんが「お疲れさん」とぶっきらぼうに言い残して、駅舎の戸締りに向かう。

美紀と涼は、並んでいつもの木製ベンチに腰を下ろしていた。

足元には、数えきれないほどの足跡。記帳ノートには、数冊分にも及ぶびっしりとした名前とメッセージ。

「……終わっちゃいましたね」

美紀が、心地よい疲労感の中でポツリと言った。

「いいえ、始まったんですよ。美紀さん」

涼は、展示台から外したスケッチの束を愛おしそうに抱えていた。

「今日、あんなにたくさんの人が、この町の景色を見て笑ったり、泣いたりしてくれた。あの人たちの胸の中に、この町はもう『不便な田舎』としてではなく、『大切な場所』として刻まれました。それは、どんなに偉い人が図面を書き換えても、消せない事実です」

夕闇が二人を包み込んでいく。

駅舎の古い電球が点灯し、オレンジ色の淡い光がホームに落ちる。

「涼さん、私……怖かったんです。自分がやっていることは、ただのわがままで、みんなに迷惑をかけているだけなんじゃないかって。でも、今日、おばあちゃんたちが絵を見て『生きててよかった』って言ってくれた時、初めて、自分の三十五年の人生が、この場所に繋がっていたんだって思えました」

都会へ逃げることも、誰かに選ばれるのを待つことも、もう必要なかった。

自分が見ている景色を信じること。それだけで、世界はこれほどまでに美しく、自分に優しくしてくれる。

「美紀さんは、もう『普通の会社員』じゃないですよ」

涼が、真っ直ぐに彼女の横顔を見つめた。

「あなたは、この町の『語り部』だ。僕の絵に魂を吹き込んでくれたのは、美紀さんの言葉です」

美紀は、熱くなった目元を指で拭った。

「……また明日、ここで会えますか?」

「ええ。明日は、今日描ききれなかった、あの跨線橋から見える街灯を描くつもりです。美紀さんも、また仕事帰りに寄ってください」

二人の間に流れる時間は、恋という言葉で片付けるにはあまりに深く、戦友という言葉で呼ぶにはあまりに甘やかだった。

不便で、何もない、空が広いだけの町。

そこは今、二人にとって世界で一番、自由な場所になっていた。


6. 月曜日のレボリューション


月曜日の朝。美紀が市役所の重い玄関ドアを押し開けた瞬間、異様な空気が彼女を包んだ。

いつもなら「おはようございます」という挨拶さえ疎らな執務室が、蜂の巣を突ついたような大騒ぎになっていた。

「はい、市役所再開発推進課です! ……あ、はい、昨日の展覧会についての取材……? 少々お待ちください!」

「こちらには、保存を求めるメールが五百通以上届いています! サーバーが重くて……!」

「佐伯さん! どこに行ってたの、朝から電話が鳴り止まないわよ!」

同僚たちが、電話対応に追われながら美紀を見て、困惑と敬意、そして僅かな恐れが混じった視線を向ける。

デスクに座る間もなく、課長に呼び出された。

「……佐伯。君、一体何をしたんだ」

課長の手元には、今朝の地元紙、そして全国紙の地方版が広げられていた。

そこには、『三番ホームに奇跡の色彩―失われゆく風景を守る市民の輪』という見出しと共に、満面の笑みで来場者と話す美紀の大きな写真が載っていた。

「私はただ、一人の市民として活動しただけです。……ですが課長、届いている電話の声を聞いてください。あれが、私たちが仕えるべき『市民の真意』ではないでしょうか」

課長は、鳴り響き続ける電話の音をじっと聞いていた。

そこに混じっているのは、いつもの苦情ではない。この町を誇りに思うという、熱のこもった「願い」の声だ。

「……コンサルタントの渡辺さんは、激怒している。県の方からも説明を求められている。……だが」

課長は、少しだけ肩の力を抜いて、窓の外を見た。

「あんなに人が集まった駅前を見たのは、二十年ぶりだ。佐伯、君の勝ち……とはまだ言わん。だが、計画の『再考』は避けられんだろうな」

美紀は、深く、深く頭を下げた。

勝利の宣言などいらない。ただ、自分の愛する景色が明日もそこにあること。それだけで十分だった。

窓口業務に戻ると、驚いたことに、市民の方々から差し入れの花束や、感謝の言葉が直接届けられた。

「佐伯さん、ありがとう」「私たちの町を、あんなに綺麗に描いてくれて」

三十五年間、透明人間のように過ごしてきたこの職場で、美紀は今、一人の「人間」としてそこに立っていた。


7. 影の沈黙


その日の夕暮れ。

市役所の喧騒を離れ、美紀はいつものように三番ホームへと急いだ。

今日起きた出来事を、一刻も早く涼に伝えたかった。

けれど、駅舎の入り口で、彼女はふと足を止めた。

あの、跨線橋の上。

展覧会の時にも感じた、あの鋭い視線。

そこには、今日もあの「チャコールグレーのコートを着た男」が立っていた。

彼は、スケッチを描く涼の後ろ姿を、少し離れた場所からじっと見守っている。

その手に握られた懐中時計の蓋が、カチリ、と閉まる音がした。

男は、美紀の視線に気づくと、帽子を軽く指で跳ね上げ、音もなく会釈をした。

その顔は、逆光で見えない。

けれど、彼が発する空気は、敵意とは程遠い、深い慈しみと、そして何かを「待っている」ような静けさに満ちていた。

男はそのまま、反対側のホームへと降りる階段へと消えていった。

追いかけようとした美紀の耳に、涼の明るい声が届く。

「美紀さん! ニュース見ましたよ! 市役所、大変だったんでしょう?」

美紀は、消えた男の影を一度だけ振り返り、それから笑顔で涼のもとへ駆け寄った。

「ええ、もう大変。でも、すごく素敵な日だったわ」

日常は、もう二度と「単調な灰色」には戻らない。

けれど、美紀はまだ知らない。

あの男の正体が、この物語をさらに大きな「運命の歯車」へと巻き込んでいくことを。

そして、涼がこの町に来た本当の「始まり」に関わっていることを。

三番ホームに、今夜も一番星が輝き始める。

不便で愛おしい、彼女たちの物語は、ここから加速していく。


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