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三番ホームの遺失物  作者: 久遠 睦


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灰色の朝のルーティン(前半)

第一章:灰色の朝のルーティン


1. 鏡の中の「普通」


午前六時三十分。

スマートフォンのアラームが、枕元で無機質な電子音を響かせる。

佐伯美紀は、重い瞼を押し上げ、カーテンの隙間から漏れる朝の光を眺めた。今日も、世界は昨日と同じ色をしている。

カーテンを開けると、そこには見飽きた景色が広がっていた。遠くに連なる山々の稜線、その手前に広がる青々とした(あるいは季節によっては茶色い)田んぼ、そして瓦屋根が点在する住宅街。この街の空は、ただひたすらに広い。遮る高層ビルがないから、逃げ場がないほどに広いのだ。

「……よし」

小さく呟いて、美紀は布団から這い出した。

洗面台の鏡に映る自分は、三十五歳という年齢を過不足なく体現していた。

目尻には、ファンデーションで隠しきれない微かな乾燥のサイン。仕事で使い古された表情の筋肉。美紀は、どこにでもいる「普通の会社員」だ。派手な経歴もなければ、SNSで自慢できるようなドラマチックな恋愛経験もない。

丁寧なスキンケアを心がけてはいる。けれど、それは「美しくなりたい」という向上心からではなく、「これ以上損なわれたくない」という防衛本能に近い。

「おはよ。美紀、今日も早いのね」

台所に降りると、母親の和子がすでに味噌汁の湯気を立てていた。

「うん、市役所、月曜は朝礼があるから」

「そう。……あ、そういえば、隣の家のみっちゃん、二人目なんですって。まだ二十代なのに立派なもんね」

和子に悪気がないのは分かっている。それはこの地方都市において、天気の挨拶と同じくらいありふれた「近況報告」だ。しかし、三十五歳の独身女性にとって、その言葉は薄い紙で指先を切るような、小さくて鋭い痛みとなって胸に走る。

「……へえ、おめでたいね」

美紀は、適当な相槌を打ってトーストを口に運んだ。

結婚していないこと、仕事が「普通」であること。それは、この街では何か「欠落している」ことと同義に扱われることがある。都会に出れば、また違った尺度が用意されているのかもしれない。けれど、ここから特急で二時間かかる「都会」へ飛び出す勇気は、今の美紀にはなかった。

この年齢で、新しい環境に飛び込むリスク。未経験の職種。見知らぬ土地での孤独。

それらを秤にかけると、どうしても「現状維持」という、安全だが退屈な皿が重く沈んでしまうのだ。


2. 一時間に一本の境界線


駅までは、徒歩で十五分。

美紀は、市役所の制服が収まったカバンを肩にかけ、家を出た。

玄関先の金木犀が、微かに秋の気配を運んでいる。この不便な田舎町にも、季節だけは残酷なほど正確に訪れる。

「おはようございます、佐伯さん」

道すがら、登校中の小学生たちが声をかけてくる。彼らにとって、美紀は「近所の親切なお姉さん(あるいは、おばさん)」でしかない。彼らの瞳はキラキラと輝いていて、この町の外に広がる無限の可能性を信じているように見えた。

駅のホームには、すでに数人の通勤・通学客が立っていた。

この「三番ホーム」は、上り列車――つまり、県庁所在地のある中心部へと向かう電車が止まる場所だ。

線路の脇には夏草が茂り、ベンチのペンキは剥げかかっている。

美紀は、いつもの位置に並んだ。

隣に立つのは、同じ職場の同僚かもしれないし、顔も知らない誰かかもしれない。皆、スマートフォンの画面を食い入るように見つめている。

美紀もまた、無意識にスマートフォンを取り出した。

SNSのタイムラインをスクロールする。

そこには、自分と同じ三十五歳とは思えない、別世界の住人たちがいた。

丸の内のテラス席でランチを囲む友人。

「新しいプロジェクトが始動しました」とプロフェッショナルな顔で綴る元同級生。

週末に家族でキャンプへ出かけ、「幸せのお裾分け」というタグと共にアップされる子供の笑顔。

それらの投稿は、美紀の日常をより一層、無色透明なものへと変えていく。

彼女たちは、自分の手で人生を選び取っている。

一方で自分は、流されるようにこの場所に留まり、ただ消費されるだけの毎日を送っているのではないか。

『今の私にできることはなんだろう』

その問いは、ここ数年、雨だれが岩を穿つように美紀の心に穴を開け続けていた。

仕事は適当にこなせている。市民からの苦情にも慣れたし、書類の作成も早い。けれど、それが「自分にしかできないこと」だとは到底思えなかった。自分が明日いなくなっても、誰かがその席に座り、同じようにハンコを押し、同じように苦情を受け流すだろう。

ガタン、ゴトン。

遠くから電車の震動が伝わってきた。

一時間に数本しかない、この街の生命線。

美紀は、深く溜息をつき、画面を閉じた。

電車のドアが開く。

吸い込まれるように車内へと足を踏み入れる。

冷房の効きすぎた車内、誰かの香水の匂い、そして吊り革に掴まる人々の無表情。

「単調なのは、嫌だな……」

窓ガラスに映る自分の顔に向かって、美紀は声に出さずに呟いた。

都会へ行くには遅すぎる気がする。けれど、このまま枯れていくのを待つのも耐えられない。

不便さと、閉塞感。

その狭間で、美紀の三十五歳の夏が、終わろうとしていた。

この時、彼女はまだ知らなかった。

今日という日の帰りに、あの「三番ホーム」で、彼女の世界を根本から揺るがす「あるもの」に出会うことを。


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