不協和音のログインと偽りの冷笑
火曜日の朝。
登校中の電車内、一ノ瀬陽茉莉さんは、僕の制服の袖を千切れんばかりに握りしめていた。
視界の端で、**【Mental Battery:82%】**の表示が点滅している。朝からこの消費量はきつい。
「ねえ。……一晩経ったけど、忘れてないわよね? 僕の名前。はい、言って」
「……一ノ瀬陽茉莉さん。……これで十二回目ですよ、一ノ瀬さん」
「よろしい。……いい? 『あーりん』なんてフォルダ、今すぐ網膜からデリートしなさい。あんたのレンズに映っていいのは、私だけなんだから」
昨夜の「アイドル名前誤爆」事件のせいで、彼女の独占欲は完全にオーバーフローしていた。
八奈美さん的な図々しい態度は相変わらずだが、眼鏡越しに見えるログは、嫉妬と不安が混ざり合った**【どす黒いサクラ色】**に染まっている。
「……一ノ瀬さん。昨日の報酬で三万円入ったので、放課後、約束通り特大パフェ奢りますから。だから、その万力みたいな握力で僕を拘束するのをやめてください。腕が痺れて、まともにラノベも持てないし、僕のMP(精神力)もガリガリ減ってるんです」
「……っ。パフェは当然だけど、そんなので誤魔化されないんだから……!」
『【思考ログ:佐藤くん。……昨日あんなにカッコよく助けてくれたのに。……どうしてあんなアイドルの名前なんて呼ぶのよ。……一生、私だけを見ててよ(濃いサクラ色)】』
「…………」
(一ノ瀬さん。そのログ。……重すぎてサーバーが落ちそうです)
◇
昼休み。僕は生徒会室に呼び出されていた。
そこにいたのは、すっかり「解放」された瀬戸秋人先輩と、西園寺麗華さん、東條剛先輩、そして如月律先輩の四人だ。
「佐藤君、よく来たね! あーりんを救った君は、もはや学園の守護騎士だ!」
「……瀬戸先輩。その公式タオルを巻いたまま僕に近寄らないでください。目がチカチカしてバッテリーを食います」
僕は解析端末をデスクに置き、昨夜届いた『ルシフェル』からのメッセージを共有した。如月先輩が即座にキーボードを叩き、通信経路の逆探知結果をモニターに映し出す。
「……やっぱりね。このルシフェルって奴、マインド・ロジック社の最高開発サーバーを私物化して通信してる。……それも、会社の意志じゃない。ボクの解析だと、これは個人の暴走。……佐藤博士の『設計思想』に異常なまでに執着してる奴の仕業だ」
如月先輩が、ある人物のファイルを展開した。
「神崎ルカ。かつて佐藤博士の右腕と呼ばれた、ロジック社の元主任研究員。……博士が会社を去る際、最も激しく彼を罵倒し、そして彼の『プロトタイプ』を今も奪おうとしている女だよ」
親父の元部下。
かつての仲間が、今やデバイスを悪用して人々を弄ぶ怪物になっている。
「佐藤君……(金色)」
ふと、西園寺さんが背後から僕の耳元に口を寄せた。
「その復讐心に満ちた女を、あなたの手でどう『デバッグ』するのかしら。……あぁ、想像するだけで私のシステムが熱暴走しそうだわ」
「西園寺さん、近いです。……それに一ノ瀬さんの視線が怖い」
二人のヒロインと一人の変態会長に挟まれ、僕のバッテリー残量はすでに**【60%】**を切っていた。
◇
その時だった。
生徒会室の窓ガラスが、パキリと音を立てて震えた。
同時に、僕の眼鏡が激しい警告音を上げる。
『【緊急警告:大規模な外部ハッキングを検知(漆黒)】』
『【Mental Battery:60% → 45%(強制ドレイン)】』
「なっ、何だ!?」「如月、防壁を――!」
眼鏡の視界が、一瞬にして真っ黒なノイズに飲み込まれる。
室内のスピーカーからは、不気味に歪んだ女の声が響き渡った。
『――久しぶりね、佐藤博士の可愛い息子くん。……そして、負けヒロインの一ノ瀬陽茉莉くん』
「……っ、誰よ!?」
一ノ瀬さんが僕の腕を掴む。だが、その瞬間。
彼女の頭上のログが、見たこともない**【漆黒】**に塗りつぶされた。
『【強制書き換え:精神パラメータの改竄を開始(ルシフェル・パッチ実行)】』
「……あ……、あ……っ」
一ノ瀬さんの瞳から光が消え、虚ろな、まるで人形のような冷たい目つきで僕を睨みつけた。
掴んでいた僕の腕を、汚いものを触るように振り払う。
「……佐藤、カイ。……あんたなんて、大嫌い。パフェも、ポテトも、全部……利用してただけ。……キモいのよ、その眼鏡。視界に入らないで」
『【偽装メッセージ:佐藤カイなんて消えればいい。一秒でも早く死んでほしい(漆黒)】』
突き放すような、ナイフのような言葉。
今や、学園中の全生徒の眼鏡とスマホから、一ノ瀬陽茉莉が「佐藤カイを侮辱する声」が流れているのが視えた。
『ふふっ! これが私のデバッグよ。佐藤博士の息子くん。……さあ、君の大切なヒロインの「偽りの本音」を前に、君はどうする?』
「…………」
バッテリー残量、【30%】。
精神を削られるような拒絶の言葉。
だが、僕は虚ろな瞳で僕を拒絶する一ノ瀬さんの、細い肩を掴んだ。
眼鏡の視界には「大嫌い」という真っ黒な文字が躍っている。
でも。
デバイスの感覚同期を通じて伝わってくる彼女の心拍は、激しく、今にも張り裂けそうなほど「助けて」と悲しく脈打っていた。
(……うるさいな。僕のバッテリーを、こんな嘘のログで浪費させるなよ)
自分の中のスイッチが、冷徹に、カチリと切り替わる音がした。
「……神崎。親父の部下だったんだろ。……なら、知ってるはずだぜ」
僕は「僕」を脱ぎ捨て、眼鏡のフレームを力強く押し上げた。
「――俺の眼鏡は、ゴミの言い分なんて最初から映さないように設定してあるんだよ」
解析端末を起動し、一ノ瀬さんの胸元にある「黒いバグの塊」に、レンズの焦点を固定した。
バッテリー残量、【15%】。
これを使えば、俺の意識も飛ぶかもしれない。だが、構うもんか。
「……。一ノ瀬。……三分だけ待ってろ。その汚いパッチ、俺が全部剥がしてやる」
カシャリ。
シャッター音と共に、俺は残りの精神力を叩き込み、彼女の深層心理――神崎ルカが仕組んだ漆黒の迷宮へと、真っ逆さまにダイブした。




