ピントは「俺」が合わせる
ライブハウス裏の薄暗い路地。
如月律先輩が僕の背後に回り込み、僕の手にある解析端末を自分の小さな手で包み込む。彼女のヘッドフォンから漏れる重低音が、僕の心拍を加速させていた。
「お兄さん、指の力抜いて。ボクのビートに、君のシステムを委ねてよ……」
如月先輩が僕の指に自分の指を重ね、特定のパターンで画面を叩く。
視界が【サイバーグリーン】に染まり、数千人のオタクがひしめく秋葉原の地図が、一音一音刻まれるリズム譜へと変わっていく。
「ちょっとぉ! 何やってんのよ、その泥棒猫! 離れなさいよ!」
横で一ノ瀬さんが絶叫し、僕の空いている方の腕を力任せに引っ張る。
ハッキングの緊張感よりも、ケバブのソースがつきそうな彼女の手の方が怖かった。
『【警告:同一周波数のデバイスを捕捉。標的、逃走を開始しました】』
「おっと、気づかれた。お兄さん、追うよ!」
人混みを縫って逃げる漆黒のログ。
僕たちは物販列の脇を抜け、広場へと追い詰めた。
そこにいたのは、パーカーのフードを深く被り、真っ黒なスマートフォンを震える手で構える男――たけしだった。
「……っ、来るな! 俺の邪魔をするなぁぁ!!」
たけしが『コピー・キャット』を僕たちに向ける。
次の瞬間、僕の眼鏡の視界が、強烈なホワイトアウトに見舞われた。
『【致命的なエラー:視覚野への強制ノイズパルスを受信】』
「う、ぐっ……!?」
平衡感覚が狂う。脳を直接かき混ぜられるような吐き気が襲い、僕は膝をつきかけた。
「あはは、やるね。でもこの程度、ボクのリズムで――」
「佐藤くん!!」
如月先輩が対抗策を打とうとするより早く、温かな感触が僕を包んだ。
一ノ瀬さんが、後ろから僕の体を必死に抱きとめていた。
「しっかりして、佐藤くん! あんたは私の『彼氏』なんでしょ! こんなところで、あんな性根の腐った奴に負けないでよ!」
『【感覚同期:一ノ瀬凛の体温を受領。精神防御壁が再構築されます(サクラ色)】』
彼女の真っ直ぐな怒りと、僕を信じる強烈な思念。
それがノイズに汚された僕の視界を、一瞬で一ノ瀬凛という『真実』の色に染め直した。
不意に、自分の中の何かがプツリと切れた。
一歩引いて、現実をラノベの型に当てはめて、自分はモブだ、生ける化石だと決めつけていた冷めた意識。それが、この力を下劣な復讐に使っている男への「不快感」に塗りつぶされる。
「……如月先輩。サポートはもういいです」
「え……? お兄さん?」
僕は彼女の手を優しく、だが断固としてどかした。
僕は眼鏡のフレームを上げ、真っ直ぐに、敵を見据えた。
「僕……? いや。――俺のピントを狂わせたこと、後悔させてやる」
「な、なんだよお前……! その目はっ!」
僕は解析端末を掲げ、親父ですら想定していなかった「俺自身の意志」で、コマンドを打ち込んだ。
「あーりんの裏側を売って、いくら稼いだ? ……その汚い金、全部お前の『醜態』の広告費に変えてやるよ」
カシャリ。
秋葉原の巨大街頭ビジョン。画面に映し出されたのは、たけしが彼女を『金づる』と嘲笑っていたチャットログのすべて。そして、彼の本名、住所、勤務先。
「あ、あぁ……、俺の、俺のキャリアがぁぁ!!」
「あーりんを汚した大罪人め!! 成敗ッ!!」
光の速さで突撃したのは、ピンク色のハッピをなびかせた瀬戸先輩だった。オタ芸の動きから繰り出されたタックルが、たけしをコンクリートに沈める。
「……確保だ。佐藤、よくやった」
東條先輩が冷静に手錠をかけ、警察への通報を済ませた。
◇
事件解決後。
秋葉原の喧騒は、嘘のように「いつもの夜」へと戻っていた。
一ノ瀬さんは約束通り、ケバブの屋台の前で「ダブル肉! 当然よね!」と頬を膨らませている。
『【報酬確定:三〇、〇〇〇円が振り込まれました】』
解析端末に届いた通知。だが、その直後。
端末が、見たこともない**【真っ黒なシステムログ】**を吐き出した。
『【送信者:ルシフェル】』
『【内容:佐藤博士のカイくん、お見事。コピー・キャット(失敗作)を壊してくれて助かったよ。おかげで良いデータが取れた。……次はお前の「本物」を奪いに行く】』
「…………」
僕は、ケバブを頬張る一ノ瀬さんの横顔を、眼鏡越しに見つめた。
あのストーカーも。このデバイスも。
全部、親父を追放したロジック社の『産業スパイ』が仕組んだテストに過ぎなかったのか。
思考の海に沈みかけ、僕は無意識に名前を呼んだ。
「……いえ。ソースが口の端についてますよ、あーりんさん」
「…………。……は?」
一ノ瀬さんの動きが、ピタリと止まった。
手に持っていたケバブから、肉の塊がポロリと落ちる。
「……いま、なんて言ったの?」
「え? いや、ソースが……」
「名前! あーりんって言ったわよね!? あのアイドルの名前で私を呼んだわよね!!?」
一ノ瀬さんが、ケバブを持った手を震わせながら僕に詰め寄ってきた。
眼鏡のログが、一瞬で**【嫉妬のドス黒い紫】**に染まる。
「一ノ瀬ですぅ! 新しい女なの!? それともさっきのハッカー女!? それとも本当にあのアイドル狙いなの!?」
「……ち、違います。一ノ瀬さん、落ち着いてください。今のはその、解析ログにその名前が残ってて……」
「言い訳は見苦しいわよ、浮気性! 今すぐその眼鏡叩き割って、私の名前だけ網膜に焼き付けてやろうかしら!!」
「怖い! 一ノ瀬さん、目が笑ってないです!!」
僕は「僕」に戻り、猛り狂う一ノ瀬さんから逃げるように歩き出した。
眼鏡の奥。一ノ瀬凛のログは、怒りの裏側に、泣きそうなくらい濃い**【サクラ色の独占欲】**を滲ませていた。
……『ルシフェル』の脅威よりも、目の前の負けヒロインのバグを直すほうが、遥かに難易度が高そうだ。




