逃避行と銀縁の管理者
岡田さんの『裏切り』の証拠がクラス全員のスマホに強制デリバリーされた直後、二組の教室には、まるで録音機材が故障したかのような無音の時間が訪れた。
岡田さんは過呼吸気味に泣き叫びながら、そのまま早退した。主役が消えた後の教室で、クラスメイトたちが手元の画面と、僕――佐藤翔を交互に見る。その視線に、もはや嘲笑はない。あるのは「プライバシーをハックされた」という、得体の知れない怪物に対する本能的な恐怖だけだ。
『【思考ログ:佐藤がやったのか……? 逆らうと俺たちの秘密もバラされる(警告レッド)】』
『【思考ログ:あいつ、俺たちの画面も心も覗いてるんじゃ……(注意イエロー)】』
誰も僕と目を合わせようとしない。僕が動くだけで、周囲の空間がさっと空く。
そして、その「怪物」の隣に座り、僕の袖を掴んでいる一ノ瀬陽茉莉さんに対しても、氷のような拒絶が向けられていた。
(……空気が重い。これだけで精神バッテリーがゴリゴリ削られていく)
僕はため息をつき、一ノ瀬さんに声をかけた。
「……一ノ瀬さん。場所、変えようか」
「……え、ええ。そうね」
◇
昼休み。食堂へ行く勇気のない僕たちは、人目を避けて中庭の隅っこ、木陰のベンチへ逃げ込んだ。
僕はカバンの中にある母さんの弁当箱に触れ、小さく安堵する。
「……佐藤くん、ここなら大丈夫そうね。……お弁当、食べる?」
「……うん。今のこの学園の、ドロドロした視線の中で食べるのは嫌だったんだ。母さんの飯に、あいつらの『悪意』が混ざる気がしてさ」
母さんが今朝、鼻歌を歌いながら詰めてくれた真っ直ぐな愛情を、あんな汚れた空気の中で消費したくなかった。
僕が弁当箱を開けると、隣で購買のパンを齧っていた一ノ瀬さんが、じーっと中身を覗き込んできた。
「……美味しそうね、卵焼き」
「……あげないよ。僕の貴重なエネルギー源だ」
「ケチ。……ねえ、佐藤くん」
一ノ瀬さんがパンを置くと、膝を抱えて溜め込んでいた溜息を吐き出した。
「私、本当にバイト辞めちゃった。あの店、あいつ(元カレ)とよく行ったから。思い出が染み付いてて、一秒もいたくないの」
「……そうだね。賢明な判断だと思うよ」
「でもね! 辞めたせいで今月の給料はうやむやにされるし、私の全財産、この八四二円だけになっちゃったのよ!」
一ノ瀬さんはスマホの残高画面を僕の鼻先に突きつけてきた。
眼鏡の解析ログが、追い打ちをかけるように現実を突きつける。
『【心理ステータス:一ノ瀬陽茉莉 ―― 所持金:842円(深海ブルー)】』
「だから! 私を『学園のぼっち』に引きずり込んだ責任、取ってもらうわよ! 今から私の買い物に付き合いなさい。もちろん、あんたの奢りで!」
「……一ノ瀬さん。一応確認だけど、助けたのは僕だよね? なんで僕が加害者みたいになってるのかな。君、負けヒロインっていうか、ただの当たり屋になってない?」
「マケインのヤケクソを舐めないで! ほら、放課後は駅ビル行くわよ!」
◇
放課後の駅ビル。一ノ瀬さんはファッションフロアで、次々と服を僕の体に当てていた。
「これどうかな? あ、こっちのネイビーの方が、今の私の『どん底な気分』に合ってるかしら」
「……いいんじゃないかな。君には落ち着いた色の方が似合うと思うよ」
僕が選んだワンピースを抱え、一ノ瀬さんはレジへ向かう。支払いはもちろん、僕だ。親父から振り込まれた「真奈のデータ料」一万円が、みるみるうちに繊維の塊へと姿を変えていく。
「次はゲームセンター! アザラシのぬいぐるみ取るまで、私は一歩も動かないから!」
「……君、本当にタフだね」
クレーンゲームの筐体にへばりつく彼女の背中に、眼鏡のログが小さな本音を映し出す。
『【思考ログ:本当は、一人で街を歩くのが怖かっただけ。……佐藤くんがいてくれて、助かったなんて死んでも言えない(サクラ色)】』
僕がため息をつきながら百円玉を投入しようとした、その時だった。
眼鏡の警告音が、耳を突き刺すような音量で鳴り響く。
『【警告:敵対的な追跡者を検知。生徒会執行部と推定】』
入り口を固めるのは、黒い腕章をつけた集団。その中心で、一人の少女がこちらを見据えていた。
生徒会副会長・西園寺麗華。
透き通るような白い肌。腰まで届く艶やかな黒髪。
彼女の家――西園寺財閥は、この学園のメインスポンサーであり、生徒会長の父親が経営するマインド・ロジック社への筆頭出資者でもある。
彼女は黒いヒールを鳴らし、処刑台へ向かうカウントダウンのような歩みで近づいてくる。
「佐藤 翔君。見つけたわ。……そのまま大人しく、会長の元へ来てもらえるかしら?」
『【思考ログ:あぁ……。逃げる獲物はさらに美しいわ。あなたのその眼鏡、私に解析させて(金色)】』
「……一ノ瀬さん、走るよ!」
「えっ、アザラシが――っ!?」
僕は一ノ瀬さんの手を引き、ゲームセンターの非常階段へ駆け出した。
解析端末が導き出す『監視カメラの死角』を縫うように走り、一階の搬入口へ飛び込む。バッテリー残量が**【20%】**を切る警告が出るが、構っていられない。
だが、その先。鉄扉を開けた瞬間、冷たい金属の感触が、僕の胸元に突きつけられた。
「……逃走劇は終わりだ。佐藤君」
そこに立っていたのは、生徒会会計・東条 剛。
高校生離れした体躯の男が手にしていたのは、無機質な黒い銃型のデバイス『ディスラプション・トリガー』。
「それは……っ」
「『断絶』だ。俺の仕事は、不純な信号を撃ち抜くことだけだ」
東条が引き金を引いた。弾丸は出ない。代わりに、僕の網膜を白光が焼き、激しい耳鳴りが襲った。
『【致命的なエラー:外部からの不正パルスを受信】』
『【システム:デバッグ・グラス、強制終了します――】』
視界から全てのグリッド線と字幕が消えた。
眼鏡はただの重いガラスになり、世界は解像度の低い、色のない現実に引き戻される。
「……っ、眼鏡が……」
「無防備だね。……連れて行け」
◇
強制的に連行された先。学園の最上階にある、重厚な扉の『生徒会室』。
豪華な革張りのソファの主が、銀縁のシャープな眼鏡を指で押し上げた。
生徒会長――瀬戸秋人。
僕は、彼を幼い頃から知っている。
親父がかつて所属し、その技術を巡って争った巨大企業『マインド・ロジック社』。瀬戸の父親は、僕の親父を追放した張本人であり、僕の家からすべてを奪った宿敵の息子だ。
「久しぶりだね、佐藤君。……いや、佐藤博士の『出来損ないのテスター君』だったかな」
瀬戸の冷ややかな声が、広い室内に響く。
機能停止した僕の眼鏡と違い、彼の銀縁眼鏡――Type-7は、不気味な白光を放っていた。
「君が秩序を乱したログ。すべて『オーダー(秩序)』の名の下に把握している。……その壊れた眼鏡、こちらで回収させてもらうよ」
隣で一ノ瀬さんが僕の腕を強く掴む。眼鏡が死に、本音の見えない彼女の顔は、酷く怯えて見えた。
「交渉をしよう。その『試作機』を渡せば、一ノ瀬さんの不祥事も、君の退学処分も、すべてこちらの権限で『消去』してあげよう。……悪い話じゃないだろう?」
「…………」
僕は、ポケットの中で微かに震えている解析端末を、誰にも見えないように指でなぞった。
眼鏡は死んだ。だが、サーバー(スマホ)はまだ、親父の魂を宿して生きている。
「……悪いけど、瀬戸。僕、この眼鏡のピントは、自分が撮りたいものにしか合わせない主義なんだ」
僕は一ノ瀬さんの震える手を、机の下で力強く握りしめた。
丸腰の陰キャと、最強の生徒会。
学園を支配する秩序と、真実を暴くハッキングの戦いが、今始まった。




