偽装彼氏とデバッグ
月曜日、朝。
ダイニングテーブルの空気は、焼きたてのトーストの匂いとは裏腹に、一触即発の緊張感に包まれていた。
「……ねえ、何よその眼鏡。いい加減外したら? 朝から気味悪いんだけど」
向かい合わせに座る真奈が、僕を親の仇のように睨みつけてくる。彼女の頭上には、昨日僕が心の奥底を暴いたことへの、ドロドロとした【赤色】と【ピンク色】の混ざったログが渦を巻いていた。
『【思考ログ:昨日あんなこと言わなきゃ、ちょっとはカッコいいと思ってあげたのに。デリカシーなさすぎ。死ね、死ね、死ね!(赤)】』
(……朝からヘビーだな。これだけでバッテリーが2%減ったぞ)
視界の左端、**【Mental Battery:98%】**の表示を確認しながら、僕はトーストを齧る。
「ただの伊達眼鏡だよ。……それより真奈、今日も同じクラスの佐野くんに『偶然』会えるといいね。八時十五分の校門前だったかな?」
「ぶっっ!!?」
真奈が派手に牛乳を咽た。
「あんた、今日も覗いたわね!? その眼鏡、絶対何か仕掛けがあるんでしょ! 出しなさいよ!」
真奈が身を乗り出し、僕の顔から強引に眼鏡を奪い取った。
「おい、やめて……っ!」
心臓が跳ね上がる。これは親父が作った精密センサーの塊だ。雑に扱われて壊れたら――何より、僕の『視界』を奪われるのが、今の僕にはたまらなく怖かった。
だが、真奈は奪った眼鏡を自分の顔にかけると、何度も瞬きを繰り返したが――やがて、つまらなそうに眼鏡をテーブルに放り投げた。
「……は? 何これ。ただの度が合ってない眼鏡じゃない。暗くて見えにくいだけ」
「カイ、あんまり真奈をいじめちゃダメよ。真奈も、お兄ちゃんの眼鏡を勝手に取らないの」
キッチンからおっとりとした母さんの仲裁が入る。
僕は奪い返すように眼鏡をかけ直した。フレームに指が触れた瞬間、網膜に再び「真実」が投影される。親父の技術は、網膜スキャンで僕個人を認識しているらしい。僕以外の人間には、これはただの色付きガラスに過ぎないのだ。
「……フン。お兄ちゃんのくせに、なんでそんなエスパーみたいなこと……」
真奈はしぶしぶ席に戻り、トーストをヤケ食いし始めた。
直後、ポケットの解析端末が短く震える。
『【報酬確定:一〇、〇〇〇円が銀行口座に振り込まれました】』
「……。親父、仕事が早すぎるだろ」
月五〇〇〇円のお小遣いでやりくりしていた僕にとって、これは人生のゲームバランスを崩すほどのチート報酬だった。だが、引き換えに僕の精神バッテリーは、妹の相手をするだけで**【90%】**まで削られていた。
◇
家を出て、駅へと向かう。満員電車の中は、やはり地獄だった。
吊革を掴むサラリーマンの殺意、香水を振った女性の見下し。剥き出しの悪意が文字となって僕の網膜を削る。この世は「不具合」だらけのクソゲーであることを突きつけられている気分だ。
(……くそ、見るだけでMPが減っていく。バッテリー残量、【75%】……)
僕が眼鏡を投げ捨てたくなったその時、デバイスが僕の消耗を検知した。
『【推奨:省電力モードへの切り替え。本音ログの視認性を制限し、代替情報を表示します】』
次の瞬間、視界の毒気が薄れ、情報の濁流がスッと引いていった。
電車を降り、駅構内の本屋の前を通りかかると、視界に「通知ドット」が点滅した。
『【Shopping Advice:ラノベ好きのユーザーへ】』
『【推薦作品:『ファミレスでポテトを奪い食いした負けヒロインが、僕の偽装彼女になりたいとヤケクソ気味に迫ってくる件』】』
「…………」
親父、VR技術をどこに使っているんだ。というか僕の私生活をリアルタイム実況しすぎだ。
だが、現実のノイズから逃げるには丁度よかった。僕は振り込まれたばかりの報酬を使い、そのラノベを購入してカバンに放り込んだ。
◇
二組の教室。ドアを開けた瞬間、数十人分の嘲笑、疑惑、嫉妬の文字が襲いかかってきた。省電力モードを貫通するほどの悪意だ。
『【思考ログ:佐藤だ】【二組の生ける化石がついにスマホを持ってるぞ】【しかもカメラが三つも付いた最新機種かよ。背伸びしすぎだろ、似合ってねー(警告レッド)】』
僕の窓際の席。そのすぐ隣の一ノ瀬陽茉莉さんが、周囲の目を意識したように、ぐいと僕の椅子を自分のほうへ引き寄せ、制服の袖を掴んだ。
「おはよう、カケルくん! ……昨日のデート、楽しかったね♡」
瞬間、教室内の空気がマイナス四十度くらいまで凍りついた。
そこへ、女子グループのリーダー、岡田さんが、冷笑を浮かべて歩み寄ってくる。
「……あーあ。やっぱり乗り換えちゃったか。まあ一か月もったんだから、お気に入りだったわけね」
岡田さんの勝ち誇ったような声が響く。
「自慢じゃないけど、私は彼と二か月もったわよ? 岡田がせっかく素敵な先輩を紹介してあげたのに。陽茉莉、結局ああいう『遊び』が好きなんだね。今度の相手は……え、その不気味な三連装スマホの佐藤くん? 趣味悪すぎない?」
一ノ瀬さんの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
眼鏡の奥、一ノ瀬さんのログが劇的に変化した。
『【思考ログ:……私、最低だ(紫)】』
『【思考ログ:佐藤くんのこと、心のどこかで『関わることのない下の住人』だと思って見下してたのに……(深海ブルー)】』
『【思考ログ:なのに、独りぼっちになるのが怖くて、彼を巻き込んで……。佐藤くん、ずっと、こんな冷たい世界に一人でいたの? ごめんなさい……っ(濃い青)】】』
自分も同じ「ぼっち」の場所に落ちて初めて、彼女は僕が耐えてきた孤独を理解し、僕に同情し、見下していた自分を恥じていた。
「…………」
一ノ瀬さんの後悔が、僕のバッテリーを揺さぶる。
僕は眼鏡のフレームを上げ、解析端末を岡田さんに向けた。
「……岡田さん。一か月と二か月、だっけ。随分と低次元な競争だね」
「……は?」
「君がその先輩に送ったメッセージ。『一ノ瀬、性格悪いし飽きたらすぐ捨てていいですよ。私の絶望する顔が見たいんで』……。君が自分が振られた腹いせに一ノ瀬さんを利用したこと。……全部、僕には『視えてる』んだよ」
「な、何言ってるのよあんた! 証拠でもあるわけ!?」
岡田さんの頭上が、**【激しい怒りと焦燥の警告レッド】に染まる。
僕は端末の画面を見た。
広域への強制ハッキングと、データの全校生徒への送信。
実行すれば、僕の精神バッテリーは確実に【30%】**を切るだろう。午後の授業は気絶して過ごすことになるかもしれない。
(……ま、ラノベ代だと思えば安いか)
僕は黙って、三眼レンズの解析端末のシャッターを切った。
「――デバッグ開始」
カシャリ。
その重厚なシャッター音が響いた瞬間。
教室中の生徒たちのスマホが一斉に、通知音を鳴らした。
『え、何これ……一ノ瀬さんの元カレと……岡田!?』
『「陽茉莉をハメるの協力して」って……岡田、最低じゃん……』
岡田さんのスマホから吸い出した「裏切りの証拠」が全生徒の画面に強制表示される。
岡田さんと先輩が仲睦まじく写ったツーショット。そして、一ノ瀬さんを嘲笑うメッセージのやり取りが、これ以上ない鮮明さで晒された。
「なっ……なな、なによこれ! 違う、私じゃない!!」
岡田さんの顔が真っ青になる。
僕はふらつく頭を抑えながら眼鏡をクイッと上げ、隣で呆然としている一ノ瀬さんの手を、机の下で力強く握りしめた。
一ノ瀬さんが、驚いたように僕を見上げた。
その瞳に浮かんだのは、絶望の青ではなく、自分を救ってくれる存在への、初めての**【鮮やかなサクラ色】**だった。




