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世界の解像度を変えるギフト

金曜日の夜。

 最悪な気分で帰宅した僕は、自室の椅子に深く沈み込み、瀕死の財布を見つめていた。


(……スマホ、どうすればいいんだろう)


 一ノ瀬陽茉莉イチノセ・ヒマリさんに突きつけられた、月曜日までのデッドリミット。

 だが、現実はあまりにシビアだ。月五〇〇〇円のお小遣いでやりくりしている僕の全財産は、一ノ瀬さんにポテトとパフェ代を押し付けられ、さらに千円を貸したせいで、残り二〇〇〇円を切っている。

 

 十七年間、僕は「スマホなんて維持費と精神的コストの無駄だ」と自分に言い聞かせてきた。連絡をくれる友達もいなければ、自分からかけたい相手もいない。二組の『生ける化石』にとって、文明の利器は分不相応な贅沢品だ。

 だけど、現実は僕を放っておいてはくれないらしい。

 自分の無力さと情けなさに、視界がじんわりと熱くなる。そんな時だった。


「……荷物?」


 ふと視線を向けた学習机の上に、見慣れない段ボール箱が置かれていた。

 宛名は僕。差出人は――数年前から海外でVRゲームの開発をしている、放蕩親父の名前だった。


 縋るような思いで箱をこじ開けると、中には二つのデバイスが入っていた。

 鈍く光る黒縁のフレーム――『デバッグ・グラス』。

 そして、背面に三つの巨大なレンズが不気味に並ぶスマートフォン――『解析端末』。

 

 添えられた手紙には、親父の少し丸っこい、けれど切迫した筆跡があった。


『カイ、ちょっと早いけど十七歳の誕生日おめでとう。

 急だが、この荷物は「預かり物」だと思ってくれ。父さんは今、ちょっとした組織と喧嘩をして、最高傑作であるこのデバイスを持ち出した。奴らに渡せば、世界中の人間が「管理」されちまうからな。


 この眼鏡は、他人の本音を脳に流し込む。普通の人間なら、情報の濁流に飲み込まれて三日で廃人だ。

 だが、お前なら大丈夫だ。

 お前は昔から、世界を一歩引いて見ていた。誰にも期待せず、絶望もせず、ただ淡々と物語ラノベを愛していた。

 その**「冷めた孤独スペック」**こそが、このデバイスを扱える唯一の才能なんだ。


 ただし、こいつの動力源は特殊でな。お前の「精神力メンタル」をバッテリーとして食う。

 調子に乗って使いすぎると、お前自身がシャットダウン(気絶)するから気をつけろ。

 

 テスター代として、データを送ってくれるたびに一万円振り込む。

 これは、お前がその力を使って、自分の人生を面白くするための軍資金だ。

 生き残れよ、カイ。……ピントを合わせろ、真実はすぐそこにある』


「……一万円」


 その数字を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。精神力を食う? 知ったことか。三人分もデータを取れば、一ノ瀬さんとの約束が果たせる。

 僕は震える手で眼鏡をかけ、端末の電源を入れた。


 その瞬間、世界が**「リブート」**された。


 視界がデジタルノイズで一度白濁し、次の瞬間、脳を直接書き換えられるような情報の濁流が網膜を焼いた。視界の左端に、青白いバーが表示される。


『【Mental Battery:100%】』


「うわっ……!?」


 思わずのけぞる。ふと視線を向けた部屋の隅のゴミの塊が、レンズ中央の照準に強制ロックされる。

『【物質組成解析:紙クズ42%、剥がれた皮膚28%……結論:不衛生度Lv4】』


 それだけで、ガクリと目眩がした。バッテリー表示を見ると、たった一回の解析で**【98%】**に減っている。


「……燃費、悪すぎだろ。僕のMP、そんなに少ないのかよ」


 操作なんていらない。僕が見たもの、意識したものの情報が、暴力的なまでの解像度で叩き込まれ、代償として僕の活力を削り取っていく。


「ちょっとクソ兄貴、いつまで起きてるのよ」


 ガチャリとドアが開き、妹の真奈マナが入ってきた。

 僕は慌てて端末を隠そうとしたが、画面に触れるよりも速く、彼女の全身が**【毒々しい赤色】と【冷たい灰色】**の霧に包まれた。


『【心理状態:嫌悪 99%】』

『【思考ログ:あー、キモい。眼鏡かけて何すかした顔してんの(赤)】』

『【思考ログ:お母さんも、こんな奴の誕生日前日にハンバーグなんて。金と肉の無駄なのに(灰色)】』


「…………っ」


 胸の奥に、冷たい杭を打たれたような衝撃が走った。

 バッテリーがジリジリと減っていく。【95%……94%……】。

 他人の悪意に触れるだけで、精神が摩耗していくのが可視化されている。


「……。真奈。まず、僕の誕生日は明日だよ。あと、君……」


 動揺した僕の指が、無意識に端末のレンズに触れた。その瞬間、真奈のスマホから「隠されたデータ」が噴出するように僕の視界へ流れ込んだ。

 同時に、こめかみにズキリと鈍い痛みが走る。


『【強制アクセス:消費電力増大】』


「昨日の夜、自分のスマホのメモ帳に書いてたよね。『私は闇を統べる月光の姫……』って。あのポエム、一時間もかけて直してたんだ。……あと佐野くんとの結婚までの全行程計画表。あれ、今のところ順調かな?」


「…………っ!!?」


 真奈の顔が、一瞬で茹で上がった。

 それと同時に、彼女を包む霧が**【鮮やかなピンク色】**へと爆発的に変色し、視界全体が桜色のノイズで埋め尽くされる。


『【警告:心拍数限界突破ピンク】』

『【思考ログ:バレた!? 画面ロックしてたのに! 死ぬ死ぬ死ぬ恥ずかしすぎて死ぬ!!(ピンク)】』


「な、ななな、何を……っ! この変態、死ねぇ!」


 真奈は悲鳴のような声を上げて逃げ出していった。

 ……なるほど。このデバイスは、僕が操作するんじゃない。僕の「好奇心」が対象を捉え、その秘密を強制的に引きずり出すんだ。代償として、僕の脳みそを削りながら。

 バッテリー残量は、すでに**【80%】**を割り込んでいた。


 僕はふらつく足で階下へ降り、リビングへ向かった。

 そこには、おっとりとした母さんがハンバーグを並べて待っていた。

 母さんの姿を認めた瞬間、視界は一変した。

 彼女の周囲には、真奈とは正反対の、**【温かなオレンジ色の光】**が綿雪のようにふんわりと舞っていた。


『【思考ログ:カイ、かっこいいわよ。……学校でいじめられてないかな。笑えてるかな(オレンジ)】』

『【思考ログ:お父さん。あの子を守る力を、私に貸して(オレンジ)】』


 不思議と、頭痛が和らいだ気がした。母さんの「愛情」に触れている間だけ、バッテリーの減少速度が緩やかになったような気がする。


「あら、カイ。……まあ、その眼鏡どうしたの? すっごく似合ってるわよ!」

「……。ありがとう。ただの伊達眼鏡だよ。親父から届いたんだ」

「ふふ、そう。あ、誕生日は明日だってわかってるわよ。でも明日はお母さん特製の大きなデコレーションケーキを作るから、楽しみにしててね!」


 解析端末が勝手に家計簿の奥底をスキャンする。

『【支出予定:2/10 ケーキ材料費 3,200円(最高級生クリーム、苺「あまおう」……)】』


(……三二〇〇円。僕のお小遣いの半分以上じゃないか。自分のためには一円も使わないくせに……)


「……ケーキなんて、いいよ。普通の飯で十分だ」

「もう、遠慮しなくていいのよ。主役なんだから!」


 眩しすぎる愛情の光に、僕は眼鏡のフレームを直して視線を逸らした。

 世界は、僕が思っていたよりもずっと残酷で、そして優しかった。


      ◇


 自室に戻った僕は、一気に襲ってきた疲労感にベッドへ倒れ込みそうになった。

 だが、まだやるべきことが残っている。

 僕はポケットから、ファミレスで一ノ瀬さんに渡された紙切れを取り出し、解析端末に向けた。


 バッテリー残量は**【65%】**。

 これなら、いけるはずだ。

 僕がその番号を「見つめた」だけで、デバイスは自動的に焦点を合わせ、ネットワークの深層へと潜り込んでいく。


『【照合成功:一ノ瀬 陽茉莉】』

『【警告:深層ログへのアクセスには多大な精神負荷がかかります】』


 脳が締め付けられるような感覚。それでも僕は、歯を食いしばって画面を凝視した。


『【解析対象:一ノ瀬 陽茉莉 ―― 過去一ヶ月の「搾取履歴」を表示します】』


 目の前に、彼女が隠してきた献身の記録が、光り輝くリストとなって降り注いだ。


『【1/15:プレゼント代(ブランド財布) 38,000円】』

『【1/25:レストラン代(二人分) 14,000円】』

『【2/1:ライブチケット代(二人分) 18,000円】』

『【2/5:電車代・コンビニ代(立替) 4,200円】』

『【2/8:バレンタインチョコ材料費 8,500円】』


 合計、八万円超。

 普通の女子高生がバイトで貯めた、血の滲むような大金。

 それを全部あの大学生に注ぎ込み、挙句の果てに「普通すぎてつまらない」と捨てられた。


 バッテリーが一気に**【40%】まで急落する。

 視界が暗くなり、冷や汗が背中を伝う。

 そして。眼鏡の視界の奥から這い出してきたのは、血の滴るような【どす黒い青色】**に染まった彼女の精神ログだった。


『【精神アーカイブ:一ノ瀬陽茉莉 ―― 「あはは、佐藤くんに偽装彼氏なんて言っちゃった。死にたい。誰かにそばにいてほしくて、ポテトの会計まで押し付けて……。僕は、本当に最低だ」】』


「…………っ!」


 限界だった。僕は眼鏡を外し、机の上に放り出した。

 荒い息を吐きながら、天井を仰ぐ。


 操作方法なんて知らない。でも、この眼鏡は教えてくれる。代償と引き換えに。

 昨日のあの強気な命令も。会計の押し付けも。すべては、壊れそうな心を繋ぎ止めるための、悲しい『バグ』だったのだ。


 成功報酬、一万円。

 この『初めてのスマホ』があれば、僕は彼女を――。


「……デバッグしてやるよ。全部ね」


 窓の外、日付が変わる。

 二月十日。十七歳の誕生日。

 僕の人生は、僕の精神バッテリーを削りながら、劇的に解像度を変え始めた。



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