微睡みの図書室と瑠璃色の残影
木曜日の放課後。
生徒会室で、西園寺麗華さんが淹れた高級紅茶の香りが漂う中、新たな「バグ」の報告が行われていた。
「――新校舎の図書室。『眠り姫の絵本』」
瀬戸会長が、紅茶を優雅に(ただし小指を立てて)啜りながら言った。
「ここ数日、図書室に入った生徒が戻ってこないという『神隠し』が多発している。発見された時は全員、幸せそうな顔で熟睡していて、目覚めた後も『夢のほうが良かった』と現実逃避するそうだ」
書記の如月律先輩がモニターに解析結果を映し出す。
『【解析結果:Sin_Code 04 "Sloth"(怠惰)】』
『【特性:脳波を強制的にα波へ誘導し、理想の夢を見せ、現実への帰還を拒絶させる】』
「怠惰……か。確かに、今の僕には魅力的すぎる響きだ」
連日のデバッグによる精神的摩耗(バッテリー消費)。今の僕なら、枕が変わっても三秒で寝られる自信がある。
「佐藤くん! 気合入れなさい! あんたが寝たら、誰が私のバッテリーになるのよ!」
「先輩、私のパトロン料(お小遣い)が欲しければ、働いてくださいね♡」
左右から、一ノ瀬陽茉莉さんと神宮寺華恋に急かされる。
……現実は厳しい。僕は重い腰を上げ、現場へと向かった。
◇
放課後の図書室。
西日が差し込む静謐な空間には、埃がキラキラと舞っていた。
静かで、暖かくて、どこか古い紙と陽だまりの匂いがする。
「……なんだか、すごく眠くなるわね」
「ふわぁ……。このソファ、高級品ですよぉ……」
一ノ瀬さんと華恋が、抗いがたい睡魔に襲われてフラついている。
僕も瞼が重い。眼鏡の警告表示が、霞んでよく見えない。
机の上に、一冊の「白紙の絵本」が開かれていた。
「これか……?」
僕たちがそれを覗き込んだ、その瞬間。
ページから**【淡い水色の霧】**が噴き出し、僕たちの意識を飲み込んだ。
◇
気がつくと、僕は「楽園」にいた。
誰もいない、静かな部屋。
壁一面の本棚には、この世の全てのライトノベルが揃っている。
邪魔をする妹もいない。金を無心する負けヒロインもいない。課題も、将来の不安もない。
「……最高だ。ここが、僕の求めていた世界か」
僕はソファに沈み込み、読みたかった新刊を開く。
活字が脳に染み渡る。精神的コストを一切支払わなくていい、完璧な省エネ生活。
一生、ここでいい。そう思った。
だが。
ふと視界の端を見ると、バッテリー残量が異常な速度で減っていた。
『【Mental Battery:15%……14%……】』
(……減ってる? 何もしていないのに?)
この世界は、僕の精神(命)を食って維持されている。
そして何より――静かすぎる。
隣から聞こえる咀嚼音も、服を引っ張る感触も、理不尽なツッコミもない。
「……味気ないな」
完璧な世界は、完璧すぎてつまらない。
僕は舌を強く噛んだ。鮮烈な痛みと共に、意識が覚醒する。
目を開けると、そこは図書室だった。
隣では、一ノ瀬さんと華恋が、幸せそうな顔で寝息を立てている。
「起きろ! ……夢に食われるぞ!」
僕は解析端末を操作し、二人の夢に強制介入(チャンネル合わせ)を行った。
一ノ瀬さんの夢。そこは「お菓子の城」だった。
タキシードを着た僕(の姿をした召使い)が、無限に湧き出るパフェを彼女に運んでいる。
彼女は女王のように振る舞いながら、幸せそうに頬張っていた。
「……一ノ瀬さん。そのパフェ、カロリーゼロ設定になってますけど」
「んふふ……当然でしょぉ……」
「現実の君の本体は、よだれを垂らして間抜けな顔を晒してますよ。あと、体重計の針は現実のままです」
「ひいいっ!? 見ないでぇぇ!!」
一ノ瀬さんが飛び起きた。
次は華恋だ。彼女の夢は、暖かなリビングだった。
厳格なはずの両親が、優しく彼女の頭を撫でている。
「偉いぞ、華恋」「愛しているよ」
「……うぅ、パパ、ママ……」
彼女の目から涙が溢れている。
起こすのが躊躇われるほど、切実な夢。
だが、僕は彼女の肩を揺すった。
「神宮寺。……夢に逃げるな。その優しさは偽物だ」
「……せん、ぱい……?」
「現実はクソゲーだけど、僕たちがいる。……戻ってこい」
華恋が泣きながら目を覚ます。
三人が覚醒した瞬間、図書室の空気が変わった。
『【解析完了:発生源特定。旧校舎・美術準備室 ―― 指定オブジェクト『油絵』】』
この図書室はただの入り口。
本体は、あの因縁の場所にある。
◇
夕闇に沈む旧校舎。
埃を被った美術準備室の奥に、一枚の大きな油絵が飾られていた。
描かれているのは、放課後の科学部室。
夕日の中で、黒板に複雑な数式を書いている少年の背中。
その背中は、僕が写真でしか見たことのない、若き日の親父そのものだった。
タイトルプレート:『第〇回 全国高校生美術コンクール 金賞作品 “青の季節”』
作者名:『2年B組 神崎 瑠夏』
「……ルシフェルじゃない。『瑠夏』……?」
冷徹な科学者が、こんな……青春そのものみたいな名前だったのか。
この絵は、彼女にとっての「人生の最高傑作」であり、同時に「時間が止まってしまった墓標」。
その時、絵画から染み出した絵の具が、スモックを着た少女の形をとった。
顔のないホロウ――『停滞する画学生』。
『……完成させないで。進めないで。……賞なんていらなかった。私はただ、あの背中をずっと見ていたかっただけなのに』
少女の悲痛な叫びと共に、水色の絵の具が濁流となって襲いかかる。
触れれば時間が止まる「停滞」の波。
「……佐藤くん!」
「先輩!」
一ノ瀬さんと華恋が、左右から僕の手を握りしめる。
二人の体温が、急速に僕の精神バッテリーをチャージしていく。
「……あんたの絵は凄いよ、神崎。親父への執着が、狂気的なまでの解像度に表れてる」
僕は解析端末を構え、絵画にピントを合わせた。
「でもな。親父はもう、黒板の前にはいないんだ。……この絵の中で、あんただけが取り残されてるんだよ!」
僕はシャッターを切った。
「思い出は綺麗だけどな。……俺たちは、明日に行かなきゃならないんだ。――デバッグ(時間経過)開始!」
カシャリ。
強烈なフラッシュが焚かれた瞬間、絵画の中の時間が動き出した。
描かれていた少年(父)が振り返り、何かを告げて、教室を出ていく。
残されたのは、誰もいない教室の、美しくも寂しい風景画だけになった。
ホロウの少女は、満足したように筆を置き、光の粒子となって霧散した。
◇
静寂が戻った美術準備室。
だが、光の粒子は消えずに、僕の目の前で一人の少女の形を再構成した。
絵の具で汚れたスモック。少し跳ねた髪。
今のルシフェルとは似ても似つかない、あどけない女子高生の姿。
「……あ、れ? 私、絵を描いて……」
彼女は僕の顔を見て、ハッとして駆け寄ってきた。
「……博士くん!? 戻ってきてくれたのね!」
彼女の手が、僕の頬をすり抜ける。
彼女はAR(拡張現実)上に存在する、幽霊のようなデータ体だった。
彼女は僕の眼鏡と、その顔立ちを見て、悲しげに微笑んだ。
「……そっか。違う。君は、博士くんじゃない。……息子さん、なんだね」
絵画に封印されていた、高校時代の神崎瑠夏の記憶データ。
僕が現在の「神崎ルカ」が何をしているかを告げると、彼女は泣きそうな顔で首を振った。
「……やっぱり。未来の私は、壊れちゃったんだ。科学と芸術の間で揺れて、愛をこじらせて……」
瑠夏は、僕の目を真っ直ぐに見つめて頼んだ。
「お願い。未来の『私』を……あの魔女を、止めて。あんなの、私がなりたかった大人じゃない。……私の初恋を、あんな汚い復讐になんてさせないで」
「……わかった。依頼、受諾する」
「ありがとう。……家賃代わりに、私の『知識』を貸してあげる」
瑠夏は光の粒子となって、僕の解析端末の中に吸い込まれた。
画面には、「ミニ瑠夏」のアイコンが表示されている。
『【新アプリ:ナビゲーター“RUKA”をインストールしました】』
「ちょ、ちょっと! なんでスマホの中に女子高生飼ってんのよ!」
「先輩……その人、実年齢はおば……いえ、なんでもないです」
一ノ瀬さんと華恋が騒ぐ中、僕はポケットの端末を握りしめた。
過去の幻影(善)と共に、現在の実体(悪)を討つ。
僕たちのデバッグは、ここから反撃のフェーズへと移行する。




