オーバーヒートする教室と空白の教師
水曜日、朝。
登校中の電車内、一ノ瀬凛さんは僕の右腕に、しっかりとその細い指を食い込ませていた。
「ねえ、佐藤くん。……さっきから、なんでそんなに顔が赤いの? まさか、またあのアイドルのことでも考えてるんじゃないでしょうね?」
「……。一ノ瀬さん。腕に当たっている部分から、君の心臓の音が秒間一二〇拍で伝わってきてるんです。そんな状態で覗き込まれたら、誰だってオーバーヒートしますよ」
親父が昨夜、勝手に施したアップデート『Ver 2.0』。
【共感覚プロトコル:シンパシー】。
至近距離にいる相手の「心拍」や「体温」が、僕の感覚に直接流れ込んでくる新機能だ。
八奈美さん的に図々しく密着してくる彼女の「女の子としての生々しい熱」は、陰キャな僕の精神を破壊するには十分すぎる威力を持っていた。
『【感情ログ:佐藤くんの顔、すっごく赤い。……可愛い。もっと困らせて、私しか見えないようにしてあげたい(濃いサクラ色)】』
「……一ノ瀬さん。その重すぎるログ、アップデート前より鮮明に伝わってくるので、手加減してください。脳が溶けそうです」
「無理。これは私の『生存戦略』なんだから。……放課後、約束通りパンケーキ奢りなさいよね。生クリーム、ダブルで」
◇
ホームルームが始まる直前。
教卓に立ったのは、いつも通りの冴えない担任、草薙先生だった。
「えー、みんなおはよう。……今日もデバイスの調子は良さそうだね。あ、佐藤。その眼鏡、新しくしたのかい?」
「……。いえ、少しメンテナンスをしただけです」
僕は眼鏡越しに先生を見た。
字幕ログは【白】。ストレス値も正常。どこからどう見ても、生徒に無関心で善良な「事なかれ主義の教師」だ。
だが、その時だった。
――キィィィィィィン!!
鼓膜を直接針で刺されたような高周波の異音が、教室中に響き渡った。
「うわっ、なんだ!?」「僕の眼鏡が……熱い!!」
クラスメイトたちが次々と悲鳴を上げ、自分のデバイスを床に投げ捨てた。見ると、彼らの眼鏡から細い不気味な煙が立ち上り、レンズが真っ黒に焼け焦げている。
『【警告:致死性のデリート・ウィルスを検知】』
『【SYSTEM:ハードウェアが限界温度に到達。強制停止まであと一〇秒】』
僕のこめかみに、焼けるような激痛が走る。
視界が真っ赤なエラーメッセージで埋め尽くされ、平衡感覚が失われていく。
(……っ、親父のプロテクトを抜けて、直接回路を焼きに来てるのか……!?)
「佐藤くん!? しっかりして!!」
隣にいた一ノ瀬さんが、倒れそうになる僕の体を必死に抱きとめた。
その瞬間だった。
アップデートされた新機能が、僕の脳に叫ぶように情報を送り込んできた。
『【一ノ瀬凛の心拍数を検知:BPM 180】』
『【サクラ色の情熱により、ウィルスの凍結処理を一時的に上書き(オーバーライド)します】』
一ノ瀬さんの、僕を失いたくないという狂おしいほどの情熱。それが凄まじい「熱量」となって僕の脳を駆け巡り、冷徹なデリート・ウィルスを力技で押し戻していく。
視界が、一瞬だけクリアになった。
「……あ。……如月先輩。……犯人、わかりましたよ」
僕は、震える指でメガネをかけ直し、教卓に立つ「彼」を凝視した。
今まで【白】一色だった草薙先生の周囲。
アップデートされた『深層レイヤー透過機能』が、彼の用意周到な偽装を剥ぎ取っていく。
現れたのは――感情が一切存在しない、**【虚無の灰色】**に染まった巨大なバグの塊だった。
『【真実の本音:神崎ルカ様。……これより、佐藤博士の遺産の回収を開始します(漆黒)】』
『【ステータス:ルシフェルの代行者】』
草薙先生は、混乱に陥る教室の中で、一人だけ冷ややかに微笑んでいた。
その手には、生徒たちのデバイスを遠隔で焼き切った、マインド・ロジック社製の小型送信機が握られている。
「……気づくのが遅かったね、佐藤君。……君は少し、女の子と遊びすぎたようだ」
「…………」
僕は、虚ろな目をした教師と、僕の腕を必死に掴んでいる一ノ瀬さんを交互に見た。
このデバイスがなければ、僕はまた、ただの「生ける化石」に戻ってしまう。
彼女のこの温かな色を、二度と視ることができなくなる。
そんなの、僕のラノベの読後感が許さない。
「……一ノ瀬さん。悪い。パンケーキの前に、もう一つだけ、片付けなきゃいけない『ゴミ』が増えた」
僕は「僕」を脱ぎ捨て、眼鏡のフレームを力強く押し上げた。
「――先生。あんたのその『汚いログ』。俺の眼鏡で、綺麗にデリートしてやるよ」




