泥だらけの正解(デバッグ)
シャッター音が遠のき、次に目を開けたとき、視界は「無」だった。
いや、正確には色彩が失われていた。
そこは、あの金曜日の『ファミリーガーデン』。
だが、壁もテーブルも、窓の外の景色すらも、すべてが鉛のような灰色に塗り潰されている。降り注ぐ雨は黒い文字列で、床に当たると『死ね』『消えろ』とノイズを立てて弾けた。
「……趣味が悪いな、神崎」
店内のすべてのボックス席。そこに、一ノ瀬凛さんが座っていた。
数十人の彼女たちが、虚ろな瞳で僕を一斉に見つめ、重なり合うノイズのような声で合唱を始める。
『佐藤カイ、大嫌い。キモいのよ、その眼鏡』
『ただの陰キャのくせに。利用しやすかっただけよ』
『早く消えて。私の視界からデリートされて』
神崎ルカが仕組んだ、精神を削り取るための『拒絶のパッチ』。
モノクロの空間に、歪んだ笑い声が響く。プロジェクション・マッピングのように空間が歪み、白衣を纏った女――神崎ルカのホログラムが浮かび上がった。
『ようこそ、佐藤博士の可愛い息子くん。……無駄よ、彼女の自己肯定感はすでにゼロ。私が彼女の「負け」を確定してあげたわ。一人の男に執着して、醜く泣き叫ぶ。そんなバグだらけの感情、私が消してあげるのが慈悲でしょう?』
「慈悲? 笑わせないでください。……君、親父の部下だったんだろ。なら、一つ教えてやるよ」
僕は、虚空に手を伸ばし、目に見えない「コード」を掴み取る。
「親父の技術を『壊すため』に使うなんて、寒気がするほどセンスがねえんだよ。一ノ瀬さんの素材(本音)を台無しにすんじゃねえ」
その時、背後から猛烈なプレッシャーが迫った。
神崎の右腕――久我誠士のアバターが、強制的にこの領域へ侵入してきたのだ。
「博士の遺産も、それを使いこなせないガキも……まとめてデリートしてやる!」
久我が放つ漆黒のジャミングが、僕の視界を再び焼き切ろうとする。
膝が震える。眼鏡の警告音が脳を刺す。
でも。
現実で繋いでいる彼女の手が、震えていた。
デバイスの感覚同期が、彼女の心拍を、涙を、僕の胸に直接叩きつけてくる。
(……うるせえよ。文字なんて、数字なんてどうでもいい。今、この手がこんなに熱いのが、あいつの本音だろ)
自分の中のスイッチが、重く、深く、切り替わる音がした。
「……。神崎。あんたの『綺麗な正解』なんて、最初から求めてねえんだ」
僕は「僕」を脱ぎ捨て、眼鏡のフレームを力強く押し上げた。
「――俺の眼鏡は、ゴミの言い分なんて最初から映さないように設定してあるんだよ」
解析端末を床に突き立てる。
「一ノ瀬! あんなポテトの味、あのワンピースの匂い……あんたのバグは、こんな安っぽいパッチで消えるようなもんじゃねえだろ!」
『【強制上書き:佐藤カイの記憶データを全方位投影(極彩色)】』
モノクロの世界に、一瞬で極彩色が溢れ出した。
揚がったばかりのポテトの黄金色。
僕が選んだネイビーのワンピースの深い青。
駅ビルの、騒がしくて温かい、あの日日常。
論理を超えた「生身の感情」が、久我の整理された数式を物理的に粉砕していく。
「なっ……なんだ、この非効率なデータ量は……っ!? ぐあああああ!!」
整理整頓された久我のアバターが、情報の濁流に飲み込まれ、ノイズとなって霧散した。
嵐が去った後のファミレス。
一番隅っこの、いつもの席に、本物の一ノ瀬凛がいた。
彼女は膝を抱え、震えながら僕を見上げた。
「……佐藤、くん……。私、もう……嫌われちゃったよね。あんな酷いこと……」
「ああ、最低だったな。……でも、俺にパフェの代金二〇〇円貸したままログアウトなんて、許さねえぞ」
「…………っ」
「一ノ瀬。あんたは『バグ』ってるくらいが、ちょうどいいんだよ」
僕は彼女の頭を、乱暴に、けれど温かく撫でた。
その瞬間、彼女の瞳から漆黒が消え、視界すべてが目も開けられないほどの**【鮮やかなサクラ色】**に爆発した。
◇
生徒会室。
現実に戻った瞬間、激しい熱を持ったデバイスが僕の手の中で火花を散らした。
神崎の接続は、物理的に焼き切れた。
「あ……、あぁ…………」
隣で一ノ瀬さんが、震えるまぶたを開ける。
彼女は、呆然と立ち尽くす瀬戸先輩や西園寺さんの目も気にせず、全力で僕の胸に顔を埋めた。
「うわあああああああん! 佐藤くん! 佐藤くん佐藤くん佐藤くん!!」
彼女の嗚咽が、僕の制服を濡らしていく。
『【思考ログ:大好き大好き大好き! もう絶対離さない、私の全部あげるからぁぁ!!(燃え上がるサクラ色)】』
『【警告:依存度が限界を突破。対象はユーザーなしでは生存不可能な状態です】』
「……一ノ瀬さん。……重い。……あと、みんな見てるから」
「関係ない! もう、負けヒロインなんて辞めてやる! 私はあんたの隣を一生、利息で買い占めてやるんだからぁ!!」
彼女の叫びが、夕暮れの生徒会室に響き渡った。
『【報酬確定:五〇、〇〇〇円が振り込まれました】』
『【理由:真実のバグ(愛)のデバッグに成功。第一段階完了】』
「…………」
五万円。ラノベの全巻セットが五回買える。
でも、僕の右肩にかかっているこの『聖女』という名の重すぎる荷物は、お金じゃ到底解決できそうになかった。
「……。一ノ瀬さん、帰りにポテト、ダブルで奢りますから。だから、泣き止んでください」
『生ける化石』と呼ばれた僕の日常は、もう、どこにもなかった。
窓の外、秋葉原の夜を狙う神崎ルカの不敵な笑い声が、僕の眼鏡にだけは、まだ微かに聞こえていた。




