ファミレスの特等席とヤケクソ女
放課後、一人でドリンクバーのメロンソーダを啜りながら、新作のラノベを読み耽る。
それが、僕――**佐藤 翔**にとって、精神的摩耗を支払わずに済む、唯一の至福の時間だった。
駅前のファミレス『ファミリーガーデン』。
夕方の店内は、テスト明けの解放感に浸る高校生たちでごった返している。
「マジで? ウケるんだけど! それインスタ載せよーぜ!」
「やめろって! あ、ドリンクバー混ぜてこようぜ」
中央のボックス席を陣取っているのは、同じ高校の制服を着たリア充グループだ。彼らは常にハイテンションで笑い合い、空気を読み合い、絶え間なくスマホを鳴らし合っている。
ふと、ドリンクバーに向かおうとした女子生徒の一人と、目が合ってしまった。
あちらは一瞬きょとんとして、すぐに席に戻り、ヒソヒソと仲間に耳打ちを始める。
「……ねえ、あそこの隅の人。二組の佐藤じゃない?」
「うわ、ホントだ。また一人? ガチで友達いないんだ」
「放課後のファミレスでソロとか、メンタル強すぎでしょー(笑)」
クスクスという遠慮のない笑い声が、さざ波のように鼓膜を撫でる。
僕はすっと視線を外し、ラノベのページで顔を隠した。
(……聞こえてますよ。というか、君たち声のボリューム調整機能壊れてるんじゃないですか)
こういう時、言い返すエネルギーも、傷つくエネルギーも、僕には残されていない。
僕は基本的に、人生を『低電力モード』で生きている。
友達もいない。部活にも入らない。そして、このご時世にスマホすら持っていない。
それは「買えない」からだけじゃない。希薄な人間関係の維持に膨大な精神エネルギーを割くくらいなら、こうして騒音から最も遠い、一番隅っこの席で「背景」に徹している方が、遥かに生産的だからだ。
今日発売されたばかりのラノベ『孤高の策士は静かに笑う』のページをめくる。
この瞬間、僕は「クラスに二組しかいない生ける化石」という不名誉な称号から解放され、ただの物語の観測者になれる――はずだった。
だが、その静寂は、通路を挟んだ真向かいのボックス席から聞こえてきた、あまりにも手垢のついた別れ話によって無残に切り裂かれた。
「ごめん、陽茉莉ちゃん。別れよう。バイト先に新しく入ってきた子が、すげー可愛くてさ」
聞き覚えのある声に、僕は本をわずかに下げて視線を向けた。
そこに座っていたのは、同じクラスの一ノ瀬 陽茉莉。
彼女は、さっき中央で僕を笑っていたグループとも違う、クラスの上位カーストに君臨する女子だ。
ふわりと巻かれた明るい髪、人形のように整った顔立ち。いつもなら取り巻きの中心で余裕の笑みを浮かべているはずの彼女が、今は顔を真っ青に強張らせ、大学生だというチャラそうな男と対峙していた。
相手は一ノ瀬さんの親友である岡田さんが「私のバイト先の、すっごく優しい先輩だよ」と紹介した男だ。
「……嘘、でしょ? だって、岡田さんの紹介で……これからもずっと仲良くしよって、昨日もメッセージくれたじゃない……っ」
「岡田には僕から言っとくよ。あいつも『これで貸し借りなしだ』って笑ってたしな。とにかく、お前ってさ、一緒にいてもなんか……『普通』すぎてつまんねーんだわ。新人の子の方が刺激あるっていうか。じゃ、これコーヒー代。足りない分は適当にしといて」
男はテーブルに百円玉を数枚投げ捨てると、一度も振り返ることなく店を出ていった。
(……うわあ。バイト先の新人に乗り換えた挙句、紹介された女の子を『普通すぎてつまらない』で切り捨てるなんて。ラノベの噛ませ犬でも言わないようなクソ台詞ですよ。でも現実の人間関係ってのは、構成作家がいない分、こういうテンプレ以下の展開になりがちだよな。お疲れ様です、一ノ瀬さん。君のラブコメ、ここで打ち切りですよ)
僕は心の中で冷ややかに毒づきながら、冷え切ったポテトを口に放り込む。
中央の席からは、まだ「あの子ぼっちじゃない?」という笑い声が聞こえてくる。その「無邪気な悪意」と、目の前で繰り広げられた「ドロドロした悪意」の板挟み。僕の居心地は最悪だった。
正面の席からは、押し殺したような、けれど隠しきれない嗚咽が漏れ聞こえてきた。
「……っ……、あいつ……期間限定の、一番高いパフェ……頼ませたくせに……っ!」
あの一ノ瀬陽茉莉が、テーブルに運ばれてきたばかりの巨大なイチゴパフェを前に、ボロボロと大粒の涙を零している。
すると彼女は、ふらふらと幽霊のような足取りで立ち上がった。そして、食べかけの巨大パフェが載った皿を両手で持ち、通路を越えて僕の前の席――つまり対面にどっかと座り込んだのだ。
「……え、一ノ瀬さん……?」
「……うるさい。あんたも食べなさいよ……っ」
彼女は僕の返事も待たず、皿を僕の目の前にぐいと突き出した。
「いい? これ、一個一三〇〇円もするのよ……っ。あんな奴のために無駄にするなんて絶対嫌。でも、今の私じゃ喉を通らないから、あんたも手伝いなさい!」
「いや、他人の食べかけはちょっと……というか、距離近くないですか? クラスのみんなに見られたら……」
「四の五の言わずにスプーン持ちなさいよ! 負けヒロインの絶望を半分背負うくらいの度量、クラスの男子なら見せなさいよね!?」
彼女は半ば強引に僕にスプーンを握らせると、彼女は僕の皿のポテトをひっつかんで口に押し込んだ。
「……っ、なによ『普通』って……っ! プレゼント代も、ホテル代も、全部私がバイト代から出したのに……っ! あのクソ大学生……っ! ああ、このポテトの塩分が、荒んだ心に染み渡るわね……もう一本ちょうだい」
遠くの席で「あれ、一ノ瀬さんじゃない? 誰と座ってんの?」とざわつき始める声が聞こえる。
だが、目の前の少女はお構いなしだ。泣きながら僕のポテトを奪い、自分の巨大パフェを交互に胃袋へ流し込んでいく。
「……一ノ瀬さん。それ、ポテトが約三五〇キロカロリーで、そのパフェが六〇〇は超えてるはずです。合わせて一〇〇〇キロカロリー近い悪魔のセットを、そんな勢いで摂取するのは、健康面からも精神面からも自殺行為ですよ」
「うるさいわね! 負けヒロインの脂肪細胞は絶望を燃焼させるためにフル稼働してるのよ! 余計な計算してないでケチャップ足しなさいよ!」
「……はあ」
もぐもぐとポテトを咀嚼し、クリームを口の端につけたまま、彼女は身を乗り出して僕に詰め寄った。その瞳は、涙で真っ赤だ。
「……見たわね? 今の」
「い、いや、ぼーっとしてたので……」
「嘘。あんた、さっきからずっと『食うのかよ』って顔して見てたじゃない。……いい!? 誰かにバラしたら殺すわよ! 口止め料として、これの会計……あんたが払いなさい。あの男が食い逃げしたバーガー代と、私のパフェ代も! 負けヒロインに奢るくらいの慈悲は、この学園の『生ける化石』にもあるはずよね!?」
「なんで、僕がスマホを持っていないことまで知ってるんですか」
「最近の席替えで隣になったでしょ。気づかないわけないじゃない。あんた、休み時間もずっと紙の本読んでるか、窓の外見てるかじゃない。……だから、あ、やっぱりスマホ持ってないのねと思って聞いてたの」
一ノ瀬さんは、最後の一本のポテトを口に放り込むと、ビシッと僕を指差した。
「ほら、月曜日からあんたは私の『彼氏』よ。私が先輩を振って、新しい彼氏を作ったことにするの。いいわね?」
「強引すぎるでしょう……。僕に拒否権は?」
「ないわよ! その代わり、利息として私の隣に座る権利をあげる! ……あと、電車賃がないから千円貸して」
「えっ」
「財布に三百円しかないのよ! バイト代入るまで無一文なの! ほら、早く!」
彼女は僕の財布から千円札をひったくり、バッグからノートの端切れを取り出すと、何かを猛烈な勢いで書き殴って僕に押し付けた。そして、自分の分の伝票まで僕の前に叩きつけると、嵐のように店を出ていった。
嵐が過ぎ去った後のテーブルには、ひっくり返ったポテトの空皿と、半分ほど減ったパフェ、そして三枚の伝票。
そして――【090-××××…… 月曜に絶対連絡しろ!】と震える文字で書かれた紙切れだけが残されていた。
「……はぁ。赤字だ」
僕は深く、重いため息を吐き出した。
自分の飲食代、一ノ瀬さんのパフェ代、あのクソ男のバーガー代、そして貸した千円。
合計すると、たった一時間足らずで三〇〇〇円近い金が消えたことになる。月五〇〇〇円のお小遣いでやりくりしている僕にとって、これは致命傷だ。
それ以上に、彼女のあの凄まじい熱量に当てられて、僕の精神的バッテリーはすでにエンプティ(空)に近かった。
「……覗けたらいいのにな」
あいつらの、バグだらけの心の裏側を。
もし、人の本音をプログラムみたいに読み解いて、修正してやれるような力があったなら。
目の前で泣きながらパフェを完食した、あの不器用で燃費の悪い負けヒロインを、もう少しマシなやり方で救ってやれたんだろうか。
「金欠だ……。僕も、バイト始めようかな。できれば、人間関係のいざこざが一切なくて、座ってるだけでお金がもらえるような、そんな省エネで都合のいいやつ」
外に出ると、冷たい夜風が頬を叩いた。
二月九日、金曜日。明日が十七歳の誕生日だなんて、とても信じられないほど、最低な放課後だった。




