第4章 part11 消耗する3日目
「津秋ユイ」
闇の底から、誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
ぼんやりとした意識の淵。自分がどこにいるのかもわからない。まるで泥沼の中に沈み込み、どれだけもがいても身体が動かず、思考も霞のように散っていく。ただ深く、暗く、何もない底へと沈み込む感覚。
「津秋ユイ!」
今度は、はっきりと。耳元に響いたその声に、ほんのわずかに沈んだ意識が浮かび上がる。
泥濘の中、手を伸ばしても届かない光のように、その声だけが自分を引き上げようとしていた。
「ユイ! 津秋!」
重ねて響いた声に、反射のように口が動いた。
「――はい!」
瞬間、ユイははっと目を開き、勢いよく身体を起こした。
視界がまだ霞んでいる。頭はぼんやりと重く、何がどうなっているのか理解が追いつかない。ただ胸の奥に、呼び起こされたばかりの名前の響きが、まだ震えるように残っていた。
名前を呼ばれたとき、自分が眠っていたことにようやく気付く。
ぼんやりした意識を叩き起こすように、再び鋭い声が響いた。
「貴女、良い度胸をしているわね。今日が初日だということを――まさか忘れて?」
顔を上げると、そこには恐ろしい形相の女性教授、レイムスが仁王立ちしていた。
その表情はまるで般若の面のように険しく、鋭い視線がユイを突き刺す。
「は、い、いや、す、すいません!」
ユイは慌てふためきながら、椅子から転げ落ちそうになりつつ頭を下げた。
「待って、待ってください、教授!」
そこへ、疲労困憊の様子でクロウが駆け寄ってくる。
髪は乱れ、額にうっすら汗が浮かび、明らかに体力の限界に近い様子。それでも必死にレイムスの前に割って入る。
その姿を見たユイの中に、ようやく記憶が戻ってくる。
先ほど、クロウが五大元素の術式を発現させた。あの奇跡のような瞬間に、ユイは心から喜んだのだ。しかし、その直後、猛烈な眠気に襲われ、抵抗もできず机に突っ伏してしまったのだった。
「トラブルが続くものね、津秋ユイ。しかし、私の授業で居眠りなど、重罪ものよ」
レイムスの声は鋭く、教室の空気を凍りつかせる。
冷たく光る眼差しは、まるで獲物を狙う猛禽のようだ。
「待ってください、教授!」
クロウが再び声を上げ、ユイのもとへ駆け寄る。まだ目が覚めきらず、ふらつくユイの肩を支えるように寄り添う。
「たとえそうでもね。私のクラスで居眠りは許されない。……なら、一度だけチャンスをあげるわ。五大元素を、今ここで同時活性化しなさい。それで帳消しにしてあげる」
レイムスはそう言い放つと、腕を組んで高圧的に見下ろした。
それは一般学生にとっては到底無理難題。魔力の枯渇したユイにとって、なおさら絶望的な要求だった。
「レイムス教授、ユイはもう魔力が尽きてます。“もう一度やれ”なんて、今は無理です!」
クロウは必死に抗議しながら、ぐったりとしたユイの肩を抱く。
「だとしても、だ。私の授業で居眠りは――……今、何て言った?」
レイムスの目が細められる。
クロウは、懐から一枚のカードを取り出した。それは五大元素魔法のクラスカードではなく、一本の合格ラインが引かれた付与魔術クラスのカードだった。
「貴女、まさか……」
レイムスはその意図に気付き、瞬時に阻害の術式を構築しようと詠唱に入る。
だが、クロウは既にそれを読んでいた。ユイの机に置かれた五つの小瓶を指差す。
「教授、見てください」
視線の先、小瓶はすべて砕け、中に封じられていた五大元素の精霊の源は蒸発し、残滓となって漂っていた。
「ふん、そんなものすぐに用意するわ」
レイムスは強気に言い放つ。しかし、クロウは微笑みながら首を振った。
「違います。よく見てください。魔力の残滓の方です」
レイムスは目を凝らし、その場に漂う魔力の痕跡を探る。
すると、五つの元素の気配と、ユイの魔力がわずかに混じり合い、なおかつ活性状態にあることに気付いた。それは術式の発動痕跡の証。五大元素の術式を展開しきった、確固たる証明だった。
「津秋ユイ……まさか」
レイムスの声に僅かな動揺が混じる。
「というわけで、私たちは既に始まってる付与魔術クラスへ向かいますね」
クロウは手にした付与魔術クラスカードに魔力を流し込む。カードの紋章が淡く発光し、瞬く間に転送術式が展開される。
「しまった!待ちなさい、クロウ、ユイ!」
レイムスが阻害の術式を完成させるよりも早く、転送の光が2人を包み込む。
これは本来、遅刻しそうな学生が教室へ即座に転送されるための非常措置だったが、クロウはこの場で迷わず使用した。
輝く光に包まれ、クロウはにこりと微笑む。
「では、教授。私たち2人は早退しますね。今日の課題、もうクリアしてますから」
「ぐっ……」
レイムスの阻害術式の詠唱が止まる。
その言葉に反論の余地はなく、彼女を止める理由がもはや存在しなかった。
「それでは、また次の授業で」
ユイも頭を下げ、心からの謝罪を告げる。
「あ、レイムス教授。本当に、眠ってしまい申し訳ございませんでした」
深く頭を下げた2人の姿は、転送の光に呑まれ、その場から消え去った。
静かに光の残滓だけが舞い落ち、教室の空間にしばらく漂う。
「……。」
レイムスは何も言えずに立ち尽くしていた。
優秀な学生――本来なら両手を挙げて称賛すべきはずだ。だが、あの2人にはいくつも気になる点がありすぎた。
(クロウ。昨日の戦闘で、学生の身ながら常軌を逸した魔術行使者だと確信した。あの緻密さ、熟練の魔法練度、そして五大元素の術式発現。あれは“祝福の元素召喚”……通常、元素精霊に愛された者のみが可能な神域の術式)
「しかし……」
声に出るほどの疑念が胸を覆う。
(津秋ユイ……彼女は一見普通の、いや、この学院では平均以下の魔力量と精神性の持ち主だ。それがクロウと同時に五大元素を活性化させただと?しかも、そんな素振り一つも見せず、私の目を欺いて?)
レイムスは、あの2人が今後必ず引き起こすであろう波乱に、言い知れぬ不安を覚えずにはいられなかった。
2人を包んだ光は、ある場所に一瞬で転送される。
付与魔術のクラスルーム【アーク】
稀代の付与魔術士アーク・ミラーの名を冠したその教室は先ほどの五大元素魔法クラスの教室とは、また様変わりした部屋であった。
「ん……来たか」
付与魔術担当、【ダレントン・ギーガーはやってきた2人に気がついた。
「すいません、予想以上に五大元素魔法に時間がかかりました…」
疲労の色が隠せないクロウは、ダレントンを見つけ謝罪する。
「いや、いいのさ。どちらにせよ今日の課題さえ終わらせてもらえば問題はない」
ダレントンは相変わらず煙草を吸い、その味を楽しんでいた。
「ここも……すごい!」
ユイは目を輝かせた。
先程の神秘的な五大元素魔法の部屋とはまた違う、壁一面には魔導書が所狭しと敷き詰められ天井まで続いている。
上では様々な魔導機械が空を巡回し、必要であれば下にいる生徒達に魔法本を供給。
下では学生達が様々な物、機械、自身への魔法術式の付与を試みていた。
それは宝石のついた剣であったり、機械仕掛けの人形であったり、自分自身にも付与を試みている。
まるで付与魔術のテーマパーク、各々が自分の思うままに付与魔術を行使していた。
「んーーー。これぞ学生って感じだね、クロウ!」
ユイは先程の疲れを吹き飛ばすかのように晴れやかに目を輝かせた。
「はは……そうだね」
クロウはまだ魔力が回復していないため、同調して喜ぶ事ができない。乾いた笑いが自然と出てきた。
「来たわね」
「わっ!」
不意に響く聞き覚えのある声。クロウの耳元の側で急な声がした為にクロウは珍しく驚きの声を上げた。
普段ならば、その気配に気づくが今回は魔力枯渇による疲労で気づく事ができなかった。
「なによ、そんな驚かなくてもいいじゃない」
声の主は頬を膨らませ、怒りを露わにする。
金色の髪を靡かせ、立派な宝飾のついた制服、その堂々とした出立ちは、忘れるはずもないビクトリアであった。
「まあまあ、スパルタと噂の五大元素魔法から来たんだ、無理もないですよ」
その隣には剣を携えた魔法剣士、ハーミットも来ていた。
「昨日ぶりね、クロウ。ユイも元気そうね」
「ビクトリアもね!私は少し寝ちゃったからかなー、スッキリしてる」
「寝た……?まあいいわ、元気なら!」
とても昨日敵対していた人間とは思えないほど上機嫌であった。ユイもなんだか嬉しそうだった。
(なんでこの2人は急に打ち解けあっているんだろうか)
疲れの抜けないクロウは、2人の上機嫌に対し疑問であった。
「あー、そろそろいいかな?」
まるで旧友との再会とも言えそうな雰囲気の中、ダレントンは煙草を吸いながらクロウとユイに話しかける。
「で、課題とは」
クロウは先程の無理な魔力酷使の様な課題は勘弁ではあったが、辺りで行われている様々な付与魔術を行使する生徒達を見て興味は湧いていた。
「そう焦るな、まずはこれを“詠め”」
そういうとダレントンは手を上にかざす。
すると上空を巡回していた魔導ドローンがすかさずやってきて本を2冊落としていった。
「これは何の本なのですか?」
すかさず魔導書を拾いにいくユイ。クロウに一冊渡してあげると、自分でペラペラとめくっていった。
「あー、違う違う。“詠むんだ”、魔力を魔導書全体に行き渡らせるようにな」
「詠む…?」
ユイは魔導書へ自分の魔力を注ぎ込む。
すると魔導書が輝きだした。
「!!!!」
この瞬間、ユイの脳へ様々な付与魔術情報が流れ込んできた。物体、肉体への付与、歴史、公式、プログラム術式を用いた自動発動プログラム術式の方法。
(これは、付与魔術の公式!すごい、私でもできる!これなら何でもできる!)
輝きを放つ魔導書の光が、とてつもない速さで魔法文字を写しては切り替わっている。
「ふむ、いい感じだな」
ダレントンは満足そうだ。
「……なるほど、これならわざわざ手取り足取り教える必要も座学も必要もない。効率的なのが好きなんですね」
クロウも自分の魔導書に魔力を込め、その情報を受け取っている。
「……情報のインプット中に会話ができるとは、脳の容量が多いのだな、小桜クロウ」
ダレントンは不気味に笑いつつ、余裕なクロウを見て感心していた。
「しかも自分の元々ある付与魔術の知識を上書きせず、追加情報としてインプットする術式。中々良心的なのですね」
「そこにも気づくとは、相変わらず面白い奴だ」
感心するダレントンをよそにパタン、とクロウは魔導書を閉じた。
ユイはまだ情報の“取得中”な様で光る魔導書に釘付けとなっていた。