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第4章 part2 出会いの1日目

 ガシッ!


 突然、強い力で腕を掴まれる感覚が襲った。


 何が起きたのか理解する間もなく、視界が天地逆さまになり、自分の身体が勢いよく風を切りながら宙を舞っているのを感じる。


 胸元がひゅっと冷え、頭の中ではまだ足場を求めて地面を探していた。


 だが、そんな余裕もなく、ユイの視界はぐるりと回転し、今にも落下する寸前で、その手に引き上げられていた。


「……何やってんだ、君は」


 呆れたような声が耳に届いた。


 ユイの身体を軽々と、まるで布切れでも摘まむかのように片手で引き上げているのは、黒く長い髪を肩口で揺らす、一人の女性だった。


 黒曜石のように澄んだ瞳。その視線にはどこか常人離れした静けさと威圧感があり、ユイは言葉を飲み込む。


 不思議な雰囲気を纏ったその女性に、ただただ圧倒されるしかなかった。


 ようやく足を床に降ろされると、ユイはその場に膝をつき、両手を床につけて勢いよく頭を下げた。


「す、すいませんっ! 私、本当に死ぬところでした! 助けてくださって、本当にありがとうございますぅ!」


 勢いあまって声も涙声になる。


 部屋に戻ると、改めて顔を合わせた二人。ユイは何度も頭を下げ、謝罪と感謝の言葉を繰り返した。


 女性は呆れたようにため息をつきながらも、ユイの様子にどこか微笑ましさを感じたのか、静かに慰めるように手をひらひらと振る。


「まあ、いいさ。……君、名前は?」


 ふと、謝罪の嵐の合間でユイは気づいたように顔を上げ、口にする。


「あ、そういえば……お名前、聞いてませんでした!」


「言ってなかったしね。それに何度も言うけど、窓の落下防止術式が切れてたのは施工した付与術士の腕が悪かっただけ」


 女性はゆっくりと腰を上げ、窓の方へと歩いていく。


 そして細い指先を、開け放たれていた窓の方へ軽く向けると、空中に淡い光が広がりはじめた。


 六角形の結晶が空間に浮かび、それが次第に幾重にも重なり合い、一枚の透明な壁が生まれていく。その様子は、まるで空気の中に雪の結晶が咲いていくようだった。


「……まあ、これで大丈夫」


 女性は軽く息を吐き、再びベッドの縁に腰を下ろした。


 その瞬間、ユイの目がきらきらと輝く。まるで子供のように目を輝かせ、女性の手元を見つめる。


「ん?」


 女性は不思議そうに首をかしげた。


「す、すごい! それ、付与術式ですよね!? 私、初めて見ました!」


 興奮したユイは勢いのまま女性に駆け寄る。


 だが、その顔に驚きと引き気味の表情を浮かべた女性に気づき、顔を真っ赤にして慌ててベッドへ戻る。


「ご、ごめんなさい……私、昔から初めてのものを見ると興奮しちゃう癖があって……」


 恥ずかしそうに俯くユイに、女性はふっと肩を揺らし、小さく笑った。手のひらを軽く振って「気にしないで」とジェスチャーを送る。


「君、面白いね。じゃあ改めて、自己紹介でもしようか」


「は、はいっ!」


 ユイは勢いよく姿勢を正し、丁寧に自己紹介をする。


「津秋ユイです。魔術学院ヴァルハラの審査留学一年生です! 明日から入学予定です!」


 その言葉に、女性も優しげな微笑を浮かべて名を告げた。


「小桜クロウ。まあ、ここにいるってことは君と同じ学生だよ」


「あ、そっか!」


 ユイは照れ笑いを浮かべ、思わずえへへと笑った。その様子につられてクロウも小さく笑みをこぼす。


「クロウ、小桜って名前、なんだか同郷っぽいのに、あまり聞かない名前だね。ヤマトの出身?」


 ユイが尋ねると、クロウは少しだけ間を置き、柔らかく答えた。


「ああ、ルーツは近いんだけどね。私はユリウス連邦の出身」


 その言葉を聞いた瞬間、ユイの顔からみるみる血の気が引いていった。


「ユ、ユリウス連邦って……」


「そう。あの“滅んだ国”。でも気にしないで。私にとっては、もう大した問題じゃない」


 クロウはにこりと微笑む。その笑顔は穏やかで、優しく、ユイを包み込んだ。


 ユイの胸には、知らず知らずのうちに後悔と罪悪感が広がる。


 ユリウス連邦——神国に近い近代国家で、かつて“あるテロ”によって、僅か三日で滅んだ悲劇の国。その生き残りは、人口の1%にも満たないとされ、歴史の中で今も語り継がれている。


 確かに、黒い長い髪、そして黒曜石のような瞳。ヤマトにも似た特徴はあるが、その色の濃さと瞳の印象は、どこかユリウスの血を思わせるものがあった。


 2人は一旦各々の片付けを始める、その中でひと段落した時にユイは改めてクロウへ向き合った。


「クロウ……私、神国に行きたいの」


 不意にユイが口を開いた。荷物を整理していたクロウは背を向けたまま、静かに「うん」と応じる。


「留学審査、毎年ものすごい争奪戦だよね。成績優秀なだけじゃなくて、魂の質まで見られるって」


 服を丁寧に畳みながら、クロウは淡々と告げる。


「私、さっきクロウの付与術式を見て思ったんだ。クロウって、絶対めっちゃ優秀でしょ」


 ユイの言葉にクロウは微笑み、肩越しに問いかける。


「ふふ、どうしてそう思うの?」


「だって! 私、付与術式って実際にかけてるとこ見たことないけど、理論は知ってるの。普通、『不可視の壁』なら窓枠から蜘蛛の巣みたいに伸ばしていくのが基本でしょ?」


「……あ」


 クロウはしまった、という顔をした。


「でもクロウは、空中の空間そのものに術式を刻んでた。そんなの普通できるわけないし、どこで学んだの!?」


 ユイの問いに、クロウはしばらく考えたあと、服を畳む手を止め、ユイの前にすっと歩み寄る。


(え、なに、近い!)


 急に距離を詰められ、ユイは戸惑いと羞恥で顔が熱くなる。


「今度は大きな声出さないでね」


 クロウは囁くように言い、ユイは慌てて手で口を覆った。


「空間への付与術式……さっき、初めてやってみたの」


「ーーーー!」


 ユイの驚愕は手の中に押し込まれたまま、全身に響き渡った。クロウは恥ずかしそうに頬をかきながら呟く。


「理論は分かってたし、こっちの方が早く済むかなって思っただけで……」


 ユイの脳内は完全にパンク状態。バタリとベッドに倒れ込み、そのまま枕に顔を押しつける。


「だ、大丈夫……?」


 心配そうに覗き込むクロウ。ユイは長いため息を吐き、その枕越しに声を漏らした。


「こんなの……こんな優秀な人達が同級生だなんて……私、絶対審査なんて通る気しないよぉー!」


 枕をぎゅっと抱えてバタバタと足を動かすユイに、クロウは苦笑して頭を掻く。


「他の人もこんなのできるわけじゃないと思うけど……ま、言いたいのは協力しようってことだったんだよね?」


 ピタリと動きを止めるユイ。


「そう! クロウは絶対特別だもん! 私をあの細い腕で片手で持ち上げたし!」


「しーっ!」


 クロウは慌てて口元に指を当てる。


「あ、ごめん」


「まあ、私で良ければ協力するよ。ルームメイトだしね」


 クロウのにこやかな笑顔。ユイは再びため息をつき、顔を上げた。


「はあ、可愛くて、強くて、魔法も天才的で、そして大人で……私、クロウの腰巾着決定だなあ」


「何言ってんの、この人……」


 クロウは苦笑いし、二人は揃って笑い合う。その瞬間、確かにそこには芽生え始めた友情の絆が存在していた。


 こうして、ユイの神国管轄国家カムイでの初日が終わる。


 長旅の疲労と、迷子になった果てのクロウとの出会い。そのすべてが、ユイを深い眠りへと誘うのだった。

 

 しかし、その隣のベッドには誰もいない。深い夜だと言うのに、寝具に主は寝ついていなかった。




 夜の静寂を破るものは、風の音だけだった。





 漆黒の夜空に、満月は薄雲の切れ間から淡く滲み、眼下に広がる都市カムイの光を鈍く照らしている。


 どこまでも続く石畳の街路と、最新式の魔導ランプが等間隔で灯り、迷路のように入り組んだ路地裏の奥にさえ、闇が完全に潜むことはできない。


 だが、今この街の中心にそびえ立つ巨塔の最上階は、下界の喧騒から隔絶された、別世界のようだった。


 その場所に、一人の少女がいた。


 黒く長い髪を風に遊ばせ、蒼の混じった漆黒の瞳で夜の街を睥睨する。


 先ほどまでの柔らかな笑顔は跡形もなく、そこには鋭利な刃のような冷たさを宿した眼差しがあった。


 少女――小桜クロウは、薄く開いた唇から静かに息を吐き、冷たい夜気を吸い込むと、ただ黙って街の様子を観察していた。


 「たーいちょ」


 不意に、その影の中から別の人影が現れる。クロウよりも頭ひとつ分背の高い、黒いスーツに身を包んだ女だった。


 漆黒のロングコートを羽織り、整った顔立ちに皮肉めいた笑みを浮かべる彼女は、クロウの名を呼ぶ代わりに、旧い呼び名でそう声を掛けた。


 「ここでは隊長ではない、ミランダ」


 視線もくれず、クロウは淡々と答えた。


 その声には、かつて共に幾度となく死線を越えた者にしか許されない、冷たいが確かな信頼が込められている。


 「ふふっ、仲良さそうでしたねぇ。クロウちゃんにも初めてできたお友達。良い子でしたかぁ?」


 ミランダはにやにやと意地悪く笑い、肩をすくめる。そんな彼女の軽口に、クロウは長いため息をひとつついた。


 「あーあ、私もあと五歳若ければなぁ。クロウちゃんと一緒に学園生活エンジョイできたのにぃ……」


 わざとらしく目頭を押さえ、ハンカチで拭うミランダ。だがその芝居がかった態度にも、どこか本気の哀愁が滲んでいるのがクロウには分かっていた。


 「ふっ……あの学院はごく一部の優秀な人材を集めているんだぞ?本当にやっていけるのか?」


 クロウは手元に教本のデータを空中に展開させた。煌めくホログラムのページをミランダの目の前に差し出す。彼女は数ページめくっただけで、すぐに眉間にしわを寄せ、頭を抱えた。


 「……私はおとなしく退屈な監視業務に従事しますね」


 お手上げとばかりに肩をすくめるミランダ。そのやり取りの最中、塔の上空を滑るように飛来した黒い影がクロウの肩へと舞い降りた。


 『なーに話してんのー?』


 カラスの形をした小型魔導端末ハシボソが、電子めいた軽快な声で問いかける。その声の主は遠隔の管制室にいるレイだった。


 「ミランダが若返りたいって言ってるだけだ」


 呆れたように肩をすくめるクロウ。その一言に、ミランダはあからさまに不服そうな顔をした。


 「隊長、それ辛辣すぎません?」


 「クロウだ」


 「はいはい、クロウさん……」


 すかさず訂正され、ミランダは肩を落とす。そんな二人のやり取りに、ハシボソは呆れたように羽を広げた。


 『はぁ……どっちが大人なんだかわかったもんじゃないねぇ』


 彼女――レイの本体は、カムイのとある秘密の部屋で、魔導モニターを無数に並べ、その前で悠然と構えている。


 カムイの隅々に配置された“鴉”たち――自律型端末や協力者を通じ、今も街の動静を監視し続けていた。


 『今回は私もいますからねぇ、もし戦闘になったら私も参加しまーす』


 『まあ、今のところ尻尾を出してはこない……国中に“鴉”を放っても反応がないね』


 塔の上に立つ二人を映すモニターを前に、レイはぼやくように呟いた。


 「まったく……狂女王め、何が“休暇”だ。結局、しっかり任務を押し付けてきやがって」


 クロウの口調が珍しく荒れる。それを聞いたミランダはにやりと笑い、わざとらしく詰め寄った。


 「あらあらぁ、クロウさん、その口調ルームメイトのユイちゃんにも出てないでしょうねぇ?」


 クロウは一瞬、眉間を押さえ、深く反省する。


 「……気をつける」


 「よろしい」


 ミランダは満足げに頷き、その場の空気がわずかに和らいだ。だが、次の瞬間、クロウの瞳は再び鋭く夜を切り裂く。


 「とにかく、やる事は変わらん。神国への不穏分子の排除、殲滅。今まで奴の“予測”が外れる事など、一度たりともなかった。国が平和に見えたとしても、油断するな」


 「了解!」


 『あいあーい』


 三者の声が重なり、巨塔の頂に夜風が吹き抜ける。遠く、街の明かりが小さな宝石のように煌めき、その下には確かに潜むはずの、目に見えぬ不穏の気配。


 そして――この物語は、確かに始まりつつあった。


 幾重にも絡む思惑と陰謀が、この《カムイ》という都市に静かに忍び寄り、夜の帳の中、不穏な影がじわりとその輪郭を濃くしていく。

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