第4話 旅立ち、そして最初の一歩
「おはよ、ござます……むにゅ」
まるで長い昼寝から目覚めたかのような調子。
あっけに取られて言葉が出ない俺をよそに、彼女はふらふらと浮かびながら周囲を見回している。
「んぅ……わたし、セラフィです。あなたが、わたしのほごしゃさま、ですね」
ほご?
……ああ、保護者、か。
たどたどしく喋るから、単語を判別するのに少し時間がかかる。
「うん、そう……ってことで、いいのかな。俺は神谷悠斗。きみの封印を壊したというか、外したというか」
「はい。じつはわたし、なかからずっとみてました。ほんとうに、ありがとうございます。そと、ずっといってみたかったです」
中からずっと。
封印されていた間、意識があったということだろうか。
禁書曰く、神話の時代から?
それは一体何千、何万年前のことなのだろう。
彼女はその間ずっと意識を持ちながら……。
ありがとうと笑う彼女に、俺はいたたまれなくなり、視線を落とした。
「……お見事」
隣で、禁書が満足そうにページを閉じた。
「術式も安定しているし、反動もそれほどのようだ」
その言葉で自分の体に意識を向けると、体が重くなっているのを感じた。
これが反動の倦怠感か。
連発は厳しいが、命の危機などはなさそうだ。
「キミは文句なしに、禁術の継承者だよ」
その言葉に、ほんの少しだけ、こんな俺でも胸を張っていい気がした。
そして再びセラフィの方を見やる。
「約束する。これからは、俺がキミとずっと一緒にいるよ」
俺がそう言うと、セラフィの顔がぱっと明るくなった。
「……っ! ほんとに? ほんとにずっと、いっしょにいてくれるんですかっ?」
ぱたぱたと宙を飛びながら、まるで子犬みたいに俺のまわりをぐるぐる回る。
その羽音がやけに軽くて、やわらかい。
あまりの喜びように、俺は苦笑しながら言った。
「ああ、もちろん。嫌じゃなければ、だけど」
「やじゃないっ! ぜんぜんやじゃないです! わたし、うれしいですっ!」
ふわっと飛び上がって、俺の胸に小さな体を抱きつけるセラフィ。
その温もりは、どこか不思議に安心するものだった。
そんな俺たちの邂逅を遮るように、コホンと咳ばらいが聞こえてくる。
「さて、盛り上がっているところ悪いが、そろそろ行ってもらおうか」
禁書はパタンと一枚ページを閉じながら、俺たちを見やる。
その声には「やれやれ」と言わんばかりの軽さがあった。
「行くって……」
「地上だよ。外の世界。禁術を身に着けたキミなら、よほどのことが無い限りは生き延びられるだろうしね」
当然のように言われたが、言葉に詰まる。
「いや、行くのはいいけどさ……俺、何をすれば……」
無理やり異世界に呼び出されて、偽勇者と呼ばれ、殺されかけ。
ここで禁術を手に入れたとはいえ、じゃあ何をすべきかなんて正直わからない。
そんな問いかけに、禁書はあっさりと回答する。
「ん? 気ままに旅でもすればいいじゃないか」
それはまるで昼下がりにコーヒーでも勧めるかのような、軽い調子で。
「美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、たくさんの人と出会って、誰かを助け、感謝される」
そこで一旦区切り、また続ける。
「そういうのが、人生の醍醐味だろう?」
なんて無責任で、ふざけた答えだろうか。
でも俺は、ふっと笑ってしまった。
「それ、悪くないね」
胸の奥に灯がともるようだった。
誰かに望まれて、誰かと共に歩いていける。
そんな道があるなら、悪くない。
「セラフィ、たっくさんみたいです! おいしいのとか、きれいなのとか、ぜんぶいっしょに!」
無邪気な笑顔で小さな手を掲げたセラフィに、思わず笑みがこぼれる。
俺たちは、もう一人じゃない。
「じゃあ頼むよ、保護者くん」
禁書が最後のページをゆっくりと閉じると、空気が微かに揺れた。
俺の足元に浮かぶ魔法陣の光は、二人の旅立ちを祝福するかのように優しく脈打っている。
光が舞い、風が生まれる。
見えない何かが背中をそっと押してくれるようだった。
「さあ、行っておいで。この世界は広いよ」
禁書のその言葉に、俺は小さく頷いた。
「うん。……気楽に行くよ」
「きらくに! です!」
セラフィの小さな手を握る。
俺たちは、もう選ばれなかった者じゃない。
捨てられた存在じゃない。
この世界で、何かを見つけに行く。
光の輪が俺たちを包み込み、境界がほどける。
時間が、空間が、未来が動き出す。
無数の光が踊るその中。
俺とセラフィは、新しい世界へと――
「――っ!?」
視界が色づいた、その瞬間だった。
大地を揺るがすような重低音と共に、目の前に。
でっっっっっかい熊。
いや、正確には熊型の魔物。
ありえないサイズ。
全長はトラック級。
鎧のように硬そうな毛並み、鋭く光る鉤爪、金色の瞳がこちらを睨んでいる。
「きゃーーーーーーっ!」
セラフィが悲鳴を上げて、俺の後ろに飛び込んできた。
「いきなりすぎるって!!」
状況判断は後回しだ。
まずは目の前の脅威を、消す。
「セラフィ、離れないで!」
「ひうぅっ」
俺は彼女を背にかばいながら、構えた。
「絶界放逐!」
叫ぶと同時に、掲げた掌に紫紺の光が灯った。
じわりと膨らむようにして、淡くゆらめく球体が出現する。
空気が、鳴った。
びりびりとした静電気のような振動が空間を走り、あたりの草葉がざわりと揺れる。
球体の中心に、万華鏡のような幾何学模様が瞬き始めた。
巨大な熊は、その異様な光に気づいて咆哮を上げる。
「グァアアアアッ!!」
だが、遅い。
泡のように見えた球体がぐにゃりと歪み、空間ごと歯車のように回転した。
ドンッという地鳴り。
魔物の上半身が一気に引きずり込まれる。
抵抗する暇すらない。
まるでこの世界から強制的に抹消されるかのように、巨体が吸い込まれた。
ズン……ッ
わずかに遅れて、周囲の空気が圧縮されたような反響音が広がる。
何事もなかったかのように光は収束し、静寂が戻ってきた。
ただ一つ。
地面に残されたのは、ちぎられた前脚の一部だけ。
それはボトッと鈍い音を立てて落ち、血を噴きながら草の上に転がった。
「……や、った……」
かすれた声が、知らず漏れた。
実感が湧かないまま膝が地面に着く。
世界が、ぐらりと揺れる。
視界の端が滲み、音が遠のく。
まるで急に酸素が足りなくなったように、脳が空白に染まっていく。
喉が渇いて、呼吸が浅くなる。
両手をついた土の感触さえ、どこか他人事のように思えた。
ああ、これが……。
絶界放逐の反動。
使えば数瞬、意識が飛ぶ。
「……っ、せ……ラ……ふぃ……」
誰かの名前を呟いた気がする。
滲んでいく視界の中、恐らく、俺は笑っていた。
やっと最初の一歩を踏み出せた、そんな気がしたから。




