空舞う弓音
その敵の姿形は今やはっきりとドルジの脳内で浮上を見せ、黒い布を覆われながら、その腕には標的を探し、その銃口は虎の牙のように今か今かと銃弾を出す用意を整えている。
あそこだ.....!
ドルジはそれと同時にその腕には庵と再会した時に持っていた強弓を出現させ、すかさず矢を構え、遙か上空に位置するそのバケモノに的を絞る。
ここでもし打ち損ねればドルジの存在はバケモノに披露され、そのまま暗闇に韜晦するか、はたまたドルジに狙いを定め、その冷たい鉄の一片を撃ち抜いてくるかもしれない。
彼女は庵の兄妹の中でも指折りの弓の名手として知られる。いつもならばあの高さの標的ならば百発百中と言っても決して大言壮語ではない。
しかし、その一発の矢に誰かの命がかかっているという重荷は彼女にその弓を引き絞る手を微かに震えさせる。
額や手にはまるで小雨に打たれたように透明な汗がゆっくりと流れ、その感触がさらに自分は焦っているという強迫観念を彼女に与えてしまっている。
キリキリッと引き絞られる矢の先端はドルジの脳内に浮かび上がるバケモノに向いており、後はまさにその矢をあの的目掛けて放つだけなのだ......
しかし、彼女のその腕は懊悩によりがっちりと掴まれてしまっている。
今引いてしまってはおそらく擦り傷は与えられるが、到底打ち倒すほどにはいけるわけがない。
今引けないならいつ引けばいいの.....
彼女は葛藤を続ける。このままジリジリと時間だけを浪費して、女々しいほどの感情を引きづり続けるのをなんとか断ち切らなければならない。
「兄者、玲香.....」
そう思った矢先、ドルジにはフッと自分を信じて待ってくれている人の顔が片隅に思い起こされる。
こんなことをしていては兄には失望され、玲香にも申し訳が立たない。
やらなきゃ.....私を信じてくれる人のためにも.....
彼女の決意は深くかたまり、先ほどまでの汗は一気に熱を上げた後のように干上がり、弓を引く腕もその迷いの鎖は当に解かれ、その辣腕を遂に解き放つに至っていた。
その弓は勢いよく、風を切り、音を荒立て、空気の抵抗の波をひたすらに押し除けて、バケモノに向かって猪突猛進を仕掛ける。
「やった.........」
冬の冷風の中に蝋燭の火のように消えいる彼女の囁き声は
バケモノを倒せたことを真に確信したことを端的に表すそんな一文であった......。
◆◇◆◇
「あいつ.....ちゃんと倒したかな」
ドルジから預かっている服の入った紙袋を悴んだ手でなんとか持ちながら、私の側で白に染まった息の色を手にかけながら、そうボソッと呟く。
「どうしたの?いきなり」
「.......なんとなくな」
ドルジがしっかり敵を倒せているのかと信じてはいるものの、庵自身も確信は持てていない様子で、ずっと1点のみを見つめて、ドルジの帰還をひたすら希っている。
「まあ、でもあんたの言うとおりもう片付けてるでしょ。あの子なら」
妹への気苦労は絶えず、その幼い顔に現れ、こいつもしっかり兄をしているんだなっという他の兄妹にも見せていたその横顔は今回はより一層昭然と露呈する。
私はそれに胸を撫で下ろすような意味合いで、彼女の無事な帰りを信じるように悪い意味で言えば教唆するように庵にその勘を彼に信じ込ませようとする。
「......遅いな.....」
だけれど、庵の想定した時間内と異なっていたのか、未だに帰ってこないドルジに焦慮し、彼女の帰還を願う自分にかけていた勘という名の暗示は土崩瓦解しかかっている。
「大丈夫だって。自慢の妹でしょ?それに行く前にあんたもドルジなら必ず成功させるって言ってたじゃん」
段々と押し寄せてきた庵の中の不安を私は庵自身が発した言葉を効果的と踏んで、それを利用しながら自分の妹を信じるようにはっぱをかける。
「そうだな。あいつを信用しないと」
気持ちを切り替えるようにパチッと頬を打ちつけ、先程の死人のような焦燥した表情を一気に正し、あの子の成功を信じて待ち続ける決心をしたようだ。
周りの人の気配もすっかり見られなくなり、私たち二人だけがポツンと長椅子に座っている。夜になると一段と辺りも冷え込み、冬枯れを起こした景色は未だ帰らないドルジを待ち侘びる私たちの心の行く末を投射しているような感じだ。
私も不安がないわけではない。私よりも何個も年下で小動物のような愛らしさを内包する彼女に対し、老婆心のような余計な心配が湧いてくるのも止めようがなかった。
「おーい!二人ともー!遅くなってごめーん!」
私がちょうど地面に敷かれた年季の入ったレンガに視線を落としていると、それほど時間が経っていないのにも関わらず、数年ぶりに聞くような感覚の生気溢れる掛け声が耳に届き、私よりも先に庵は一目散に駆け出し、私も荷物を持って、後を追う。
「倒したよ!二人とも。ちょっと遅くなっちゃったけど」
「たく。心配させやがって.....ただ、お疲れさん」
「良かった〜。ドルジ〜」
それに玲香!と返すドルジと再会をハグで交わすと荷物を渡し、私たちはドルジの労を労うためにそのまま帰途についていっていた。




