ゆっくり嫌いになりました
まさかの総合1位のランクインありがとうございます。
たくさん読んでいただいて本当に嬉しいです。
シリーズ「卒業の日に」で追加エピソードを掲載しております。
卒業おめでとう。
寂しくなるな。お前は領地に戻るのか。俺は王城の仕事が決まったんだ。
そんな言葉があちこちで交わされている。
「で、ルベールは今日のダンス、『どっち』と約束してるんだ?」
「よしてくれよ」
ぽんと肩を叩かれてルベール・ロシェは小さく笑う。
彼の柔らかい金髪はシャンデリアや燭台の光を受けてきらきらと輝き、口元には綺麗に並んだ白い歯がのぞく。
「君の麗しき恋人スザンヌ嬢か、貞淑たる婚約者ドゥヴェルニエ伯爵令嬢か」
卒業式が終わり祝賀会の始まりを待つ大講堂は身支度の早い男子生徒から集まり始めていた。
制服姿の生徒はほぼ下級生、逆にすでに華美な装いでいるのは卒業生の親族や来賓だ。会に服装の決まりはないが、ダンスパーティー形式なので女生徒はここぞと着飾って学園最後の思い出を作るのが通例である。
「今日からスザンヌの話をするのはやめてくれ。彼女だってお互いの立場はちゃんと分かっているさ」
「むしろ今日が彼女と踊れる最後の日だろう。お前はそれで良いのか、色男?」
聞き返されてルベールの胸は甘く痛んだ。
これで終わりと分かっていても心は生木を引き裂かれるように痛みを叫ぶ。せめてあと一度、最後の思い出をと望まないわけではない。
スザンヌはまさしくルベールの青春だった。
野苺のような赤い髪に美しく濡れた黒曜石の瞳。艶めいた長い睫毛とぽってりした唇、豊かなししおき。
どちらも親の決めた婚約者のいる未来のない恋で、学園での三年間だけ、ただこの一時だけの関係と承知の上で共に過ごした。
彼らの恋は一年の半ばに始まり、二つ年下で同じ年に入学した婚約者のシャロン・ドゥヴェルニエが成績の都合でルベールたちとはクラスが分かれた二年生の頃に加速度的に花開いた。スザンヌの年上の婚約者もその年に卒業したため、彼らは目の上の瘤のない環境で存分にその一年を謳歌できた。学外学習も発表会の類も同じクラスであることにかこつけて何かと一緒にいられるように画策し、物問いたげな様子を見せるシャロンの視線をかいくぐり、時にはここにいる悪友たちにも手を借りて休日の逢瀬を楽しんだりした。
三年になると下の学年にスザンヌの婚約者の弟が入学し、あまり奔放な振る舞いができなくなったのと、ルベールの実家の目もより一層厳しくなってきたのを感じて、二人は静かに関係の幕引きを進めた。
外で会うことを止め、接触や会話を控え、それでも何かの折にふとスザンヌのドレスの裾がルベールのブーツに触れそうなほど近くをかすめると、そのささやかな風ですら彼の心を激しく揺さぶって、はっと目が合えば自分たちでもどうしようもない情熱が互いの虹彩の中に火花を散らすのが見て取れた。
どんな退屈な日々も、想いを交わした相手とほんの少し視線が絡むだけでばら色に彩られるのだとルベールはそうして学んだのだった。
「いいんだよ。この祝賀会にはスザンヌの婚約者も来るはずだ。僕は僕の、彼女は彼女の婚約者と踊る」
「一人としか踊らないわけじゃないだろう?」
「他の令嬢とは踊ることになったって、スザンヌとは踊れないさ。考えてみろよ。両親が来てるんだぞ。ロシェ家もドゥヴェルニエ家も」
ルベールは会場に入ってから常に注意深く周りを見ている。どちらかの、あるいはスザンヌの縁者が影でも見えればこの話題は即刻打ち切るつもりだった。
ルベールのロシェ家も婚約者シャロンのドゥヴェルニエ家も、どちらも家格は同じ伯爵家だ。ただし少々ドゥヴェルニエの方が経済面でも由緒としても上で立場が強い。シャロンにもルベールにも家を継ぐ兄がいる下の子同士の結婚だが、シャロンの嫁入りにはドゥヴェルニエで余らせている子爵位のひとつが領地ごとついて来る約束だ。
二年生の頃、家族からはきつめに、ドゥヴェルニエ家からはやんわりと、何度かスザンヌとの関係に釘を刺されている。三年になってからは何も言われていないが、無事卒業して後は結婚というこの段階で下手は打ちたくない。
「シャロンとは約束しているわけじゃないけど、ドレスと花を贈ってある。僕はシャロンと踊るんだ」
そう言い終わった時、ルベールははっと表情を変える。
会場の入口近く、見知ったドゥヴェルニエの嫡男と、その傍らに淡い黄色の紗のドレスを纏った令嬢を目に止めて。
彼の贈ったドレスだ。
衣装の実物は見ていないが仕立て屋は彼が手配しており伯爵令嬢へ受け渡し済みの報告を受けた内容と相違ない。
ほどけば緩やかに波打つ癖のある亜麻色の髪は今日は夜会用に華やかに結い上げられて、透明なダイヤモンドの髪飾りとネックレスが星のように瞬いている。うなじはすらりと形よく、化粧も相まって、幼く見えがちだったちんまりした面立ちを少し大人っぽく、色気ある様子に見せていた。少女から淑女へ羽化する過渡期の、いとけなさと艶やかさが同居するその姿にルベールはしばし見惚れる思いだった。
(シャロン、大人に……綺麗になった)
二年からシャロンが入った成績優秀者の集まる特別クラスでは、二年のうちに三年までの内容を済ませて三年ではそれぞれ自分で課題を設定して取り組むそうで、領地でのフィールドワークを選んだシャロンはかなりの時間を学園のある王都から離れて過ごした。多少手紙のやりとりはあったが直接会うのはずいぶん久しぶりで、半年近くも記憶にない。
ルベールは十八、シャロンは十六。
恋人だったスザンヌのようなスタイルの良さや一瞬で目を引くような艶っぽさはないが、こうして華やかな装いをすればシャロンも決して見劣りしない。そして彼女は学園にも優秀さを認められた才女であり、爵位と領地と豊かな親類を持っている。
淡いレモンイエローを何枚も花びらのように重ねたドレスを纏った様子は楚々としていて、手垢のついていないまっさらなところまで好ましく思えた。ルベールの髪より色合いが明るすぎる気もするが、きっとルベールの金髪を意識したカラーコーディネートだ。
「シャロン!」
ルベールは声を上げる。
名を呼ばれた少女は顔を上げてやや視線を彷徨わせ、片手を上げたルベールを見つけるとぱっと花が咲いたように表情を明るくした。
(えっ……?)
その一片の曇りもない笑顔にルベールは衝撃を受ける。
いつも不安を抱えたような怯えたような暗い森を思わせる色をしていた瞳はこんなに明るい緑だったのかと驚くほどで、弾けそうな快活さにきらめいている。鼻は品良く小さめで、満面の笑みにほころぶ唇はピンクとオレンジの中間のような色の口紅を塗られてさくらんぼの表面のように光って見えた。
華奢な体は愛らしくほっそりしていながら健康的で、長いレースの手袋の上の二の腕や首から胸元へのデコルテなどささやかに露出した若い肌はきめが細かく磨き抜かれて真珠色をしている。
こんな明るく幸せそうなシャロンの顔を見たのはいつ以来か。そしてシャロンとはこんな…、こんなにも可愛らしく、溢れるような魅力を持つ娘だったか。
学園で過ごし始めて少しした頃から彼女らしい屈託のない様子が徐々に影をひそめていったその時系列に注意を払うことなく、ルベールは、自分の婚約者の愛らしさに陶然と魅了される。子供の頃のような憂いのない無垢な笑顔が大人にさしかかる少女の肉体と相まって今大輪を咲かせようとしているのが誰の目にも明らかだ。
彼女が自分の婚約者で、彼女は自分を見てこんなにも嬉しそうな顔をして、思わず駆け出そうとしたのをエスコートの兄からたしなめられて。歩き方を整え改めて兄と共にしずしずこちらに向かってくるこの少女が、やがて自分の妻になるのだと思うと胸が誇らしさで燃えるように熱くなった。
「シャロン……」
「ドゥヴェルニエが娘、シャロンよりご挨拶申し上げます。ルベール・アス・ロシェ様、ご機嫌麗しゅう」
兄の腕から手を離して、腰を屈めてこうべを垂れる。
昔はたどたどしかったカーテシーもすっかり芯が通って揺らぎのない見事なものになっている。声は甘く鈴を転がすようだ。
ロシェの屋敷の庭でかくれんぼで走り回った記憶が草の匂いと共にルベールの脳裏に蘇った。
「丁寧な挨拶ありがとう。あまりに綺麗で天から御使いが間違えて地上へ降りてきてしまったのかと思った。とても、とても綺麗だよ、シャロン」
「まあ」
体を起こしてシャロンはころころ笑った。
「お褒めくださって嬉しく存じますわ、ロシェ様」
(……ロシェ様?)
親しみは感じるのに他人行儀な家名での呼び方で、ルベールは怪訝な思いをする。シャロンはいつもルベール様ルベール様と彼の後ろをついて回っていたのに。
「ドレスの職人を領地まで寄越してくださってありがとうございます。せっかくなので新しい織り方の布を使わせていただいたの。前までのドレスよりずっと軽いんですのよ」
いたずらっぽく腰あたりの布を摘んでみせる。
緑の瞳のシャロンは本当に上機嫌で、仕草がいちいち愛くるしくて、ルベールはぐいぐいと心を惹きつけられる一方で戸惑う気持ちも感じていた。
いくら祝いの席だと言ったって、ずっとどこか陰鬱だった彼女がここまで普段と様子が違う理由が腑に落ちない。合流の前に酒精でも口に入れてしまったのだろうか。
「おい、ルベール」
肘で隣からつつかれてはたと我に返る。
返事もせずにシャロンを見つめたままぼんやりしすぎた。
「あ、ああ、すまない」
「ドゥヴェルニエ嬢、ご機嫌麗しく。ルベールではないけれど本当に素敵な装いだ。見違えてしまった」
「まあ、お久しぶりですわ、クリーズロウ様。ご挨拶ありがとうございます。お兄様、こちらはジョアン・クリーズロウ様です。そちらの皆様とも一緒に、一年の頃にわたくしも同窓で学ばせていただいたの」
「ああ、これは、クリーズロウ子爵家の。卒業のお慶びを申し上げる。お父上は壮健でいらっしゃるか」
惚けていたルベールのフォローも兼ねて、友人らがドゥヴェルニエ家長男に顔繋ぎの挨拶を始めた。
ここは学生の身分を卒業して成人した若者たちの最初の社交の場だ。王都で勤めのあるもの、家督を継ぐもの、故郷や新天地を歩むもの、それぞれの思惑の中で未来のために貪欲にスマートに手を伸ばし合う。
「二年からは学級が違ってしまったけど、シャロンさんの活躍は聞いていたよ。才色兼備の婚約者で、ルベールが本当に羨ましいな」
そんな言葉が耳に入ってルベールはむっと視線を上げる。なんでもないお世辞なのは分かっているがこんなに美しく成長を遂げたシャロンの前で口にされると本気の苛立ちが湧き上がる。
「おい」
「まあ!」
友人をシャロンの側から引き離そうと口を開いたルベールに被せて、シャロンが明るく笑った。
「お聞き及びではありませんでしたのね。わたくし、もう婚約者ではございませんわ。ロシェ様との縁談は白紙に戻りましたのよ」
「…………は?」
何を聞いたのか、理解ができなかった。
* * *
シン、と辺りが沈黙した気がした。
実際には巨大なホールの中、喧騒は続いている。着替えを終えた女生徒の姿も増えてきて、もうしばらくすれば楽団の演奏も始まるだろう。
(なんだって?)
「え、あの、もう一度聞いても?」
狼狽で言葉も出ないルベールの代わりというわけではないだろうが、友人の一人が混乱を素直に言葉にした。
「わたくしシャロン・ル・ドゥヴェルニエとロシェ伯爵家がご次男、ルベール・アス・ロシェ様の婚約は、解消いたしました」
にっこり、かつ、きっぱりとした宣言。
何かおかしな話が始まっているようだとそれとなく耳をそば立てていた周りの人間が、今度こそ本当に沈黙に包まれ静まり返った。
友人たちの目がうろたえて少女の兄へ動く。
伯爵家の跡取り息子は動じた様子もなく泰然と妹たちの会話を見守っており、話を訂正しようとする様子は一切ない。どうやら本当のことらしいとギャラリーもじわじわ理解を進めていく。
「待って……、待ってくれ、シャロン、アレン殿。僕は、そんなこと、聞いて」
聞いていないとルベールが言い終わるのも待たず、まるで彼が喋っている事実にも気付かなかったかのような顔をしてシャロンはかつてのクラスメイトに体ごと向き合いにこにこと話を続ける。
「ね、クリーズロウ様、ディミオン様、聞いてくださいませ。私たちの婚約は、学園にいるうちに婚約存続と婚姻についての具体的な希望を双方が出さなければ、卒業による成人をもって婚約は解消となる取り決めでしたの」
「婚約存続と、結婚についての希望……」
「ええ。もちろん元々は事務的というか手続き上のお話なのだけれど」
新成人同士、友人同士の距離感を演出するようにやや言葉を崩して、頬に手を当てて小首を傾け、緑色の目をきらきらさせて親しく楽しそうに話をする。
「ドゥヴェルニエが希望をお出ししなかったのも本当だけど、ロシェ伯爵家からもご要望はなかったんですもの。双方『婚約継続の意思なし』ということになるでしょう? さっきの卒業式が終わったところで正式に破談になりましたのよ」
「そんなこと、僕は聞いていない!」
「いいえ、あなたは聞いていらっしゃいますわ、ルベール・アス・ロシェ」
一瞬の隙もない即答でシャロンが返す。
あくまで朗らかな笑顔だが、その瞳の強い輝きは冷たく硬いものも孕んでいるのが徐々に見えてくる。
「お話ししました。お願いしました。何度も、一年生の頃から」
「話した? お願い? 何を?」
「わたくしたちの先行きをどうするつもりなのかきちんと考えて、具体的にお申し入れいただきたいとお願いしておりました。結婚はいつお考えなのか、どんな段取りをされたいのか、住まいは王都でタウンハウスを置きたいのか、それとも普段は新領地で暮らしたいのか。たくさんお聞きしました。文字にしていただきたいと再三お願いしました。そうでないと、どうなるか分からないからと」
言われてみれば覚えはあった。
でもあれは。
「まだ僕らは一年だった頃だろう!? 結婚なんてずっと先だった」
結婚式についてルベール様はもう計画をお考えですか?
何かご希望はございますの?
わたし、もしよろしければ、あまり寒くない時期だと嬉しいのです。本家のおばあ様が寒い季節になると礼拝がお辛いとおっしゃっていて。
かすかに怯えを滲ませた目で、それを隠すように明るく、まだ十四歳のシャロンはルベールに聞いた。
婚約者の交流のために定期的に開いていたお茶会は学園でも同じクラスでいつも顔を合わせるのだからと後に取りやめになったが、入学から半年ぐらいの間はまだ月に一度くらいは席を設けていた。学園の目新しい生活が始まったルベールは毎日が刺激的で、入ったばかりなのにもう卒業後の予定を決めようとするシャロンに苛立ちを覚えたものだ。
四角四面なばかりでない男友達もでき、様々なタイプの女生徒とも知り合い、特にシャロンとは違う魅力のあるスザンヌと急速に距離が近付いていた時期だったから、シャロンの言葉は余計に牽制めいて聞こえたし、似たような話を繰り返されれば母親の小言じみて感じて一層うんざりした。
最初はちょっとした悋気が垣間見えて可愛く感じていたシャロンのすがるような目も、その奥で揺れる恋情も、徐々に煩わしくなってきて、かえって心が離れていった。ルベールを好きなくせに気持ちよく学園生活を送らせようとしないシャロンは家の力関係を振りかざしているかのようで傲慢に思えたし、教室でスザンヌと笑い合うルベールを見咎めて顔色を悪くするのはちょうど良い罰のようで溜飲が下がった。
ルベールの様子から視線をたどってシャロンに気付いて身をこわばらせるスザンヌをやんわり引き留めて低く言葉をかけ、婚約者からは見えない中庭や空き教室で落ち合い直し、抑えきれない想いを確認し合うのも当時の恋人たちには悪くないイベントになった。
「そうですわね。その頃は、まだ二年ございました」
「その頃、は」
今は。
もはや間に合わない。
「どうして、もっと後で言ってくれなかったんだ。黙っていたら婚約解消になるんだぞ。せめて三年になった時にでも言ってくれたら僕だって」
「先の話をしないでくれ、必要になったら僕から話すから。……ルベール様がそうおっしゃいましたので、わたくし、それ以降はもうお話を差し上げませんでしたの」
すっかり忘れていた記憶がじわりと蘇る。
シャロンの言うような優しい言い方だけではなかった。いい加減にしろとルベールはひどく不機嫌で刺々しい声を出したことがある。
『もう妻にでもなったつもりか?』
飛び出した言葉に、シャロンの顔から血の気が引いて紙のように真っ白になった。伏し目がちだった毎日にその時ばかりは見開かれた暗い緑色の目には涙がこぼれるぎりぎりまで盛り上がって、さすがに子供相手にやりすぎたと焦ったのを覚えている。
部屋に控えた両家の侍女や召使いの目が急に気になり、言い繕う形で、必要な時期に自分から話をするからあまり先の話ばかりしてくれるなと告げたのだ。
翌週に予定していた遠乗りには体調不良を理由にシャロンは現れず、ここにいるアレン・ドゥヴェルニエ小伯爵が代わりにルベールを歓待してくれた。当時はやや危機感を覚えたものの今はすっかり忘れ去っていられたのは、詫びと見舞いにいくつか贈り物を届けた後は関係は元に戻ったことと、シャロンがそれでもルベールに変わらず恋をしている確信があったからだ。
「きみは……、シャロンは、それで良かったのか?」
「良かったとは?」
「その、僕と結婚できなくなって……」
シャロンは婚約前の顔合わせを何度かした段階でルベールを恋い慕うようになり、彼に気に入られようと懸命に励んだ。年齢差がありながら同じ年に入学を果たしたのも本人が頭が良かったからというより努力の結果という面が大きい。
婚約が正式に結ばれた後はさらに想いを強めていくシャロンの恋をどちらの家族も喜ばしく承知していて、だからこそ、ドゥヴェルニエ伯爵家にはそこまで大きな利益のない縁組みでも、契約の細部を詰めていく中、手札の中でも良質の領地と爵位を用意して手厚く遇したのである。
貴族の若者が結婚の前に大きな影響のない火遊びをすることは、そこまで稀なことではない。
なんなら結婚後に愛人を持つ者もそれなりにいるが、スザンヌとの関係は学生の間だけだと割り切っていることはシャロンにも彼女の家にもそれとなく伝わるようにしていたはずだ。
別の女にいくらかうつつを抜かしたとしても、学生の期間だけ目をつむればシャロンは好いたルベールを確実に手に入れられる。シャロンの執着はスザンヌを側に置くほど強くなるのが肌で感じられ、まさかシャロンが自分からルベールを手放すはずがないと、ルベールはそう思っていた。
「……わたくしがロシェ様をお慕いしていることは、ロシェ様もご存知でしたものね」
呟くような小さな声は少し上擦って震えていた。
いっそう華奢に見えるその肩を、彼女の兄が労わりをもって優しく触れた。
* * *
「ルベール。君の心が離れても、妹はなかなか婚約の解消は望まなかった。君たちが二年に上がると、君と恋人の行動はあまりに目に付くようになって、君の家からすら相談があったんだ。シャロンにも気の早い釣書が届くようになったほどでね」
「なっ……」
上手くやっていたと思っていたルベールは絶句する。
「わたくし、本当に本当に、ロシェ様をお慕いしておりました」
「シャロン……」
「一年の頃、分かっていても、好きでいるのをやめることができなかったのです。本当に好きで、どんなにひどいことをされても、お別れなんてできませんでした。だからわたくし、時間をかけて、ゆっくりお別れしたのです」
「え?」
「教室の皆様はロシェ様のお味方でいらっしゃいましたわ。意地悪なさるのは全員ではありませんけれど、助けてくださる方もおいでではなくて。面白がっていらしたでしょう? わたくしが教室では体も年も一番小さかったものですから、幼い子や赤ちゃんにするようなあしらいをすれば許される空気がございました。皆様、ロシェ様たちが二人だけになる手伝いをされたり、わざと二人の姿が私の目に入るようにされたり。その度にくすくすお笑いになって、大変惨めな思いをいたしましたの」
急な飛び火に、居合わせたルベールの学友たちが後ずさる。
周囲はすっかり劇場のようになって彼らを囲んで緩い人の輪ができていた。円の遠くでは覗いたり去ったりの動きもあるが、多くの人々が中央の見せ物を注視している。
「そのまま学年を上がることはとてもできなくて、わたくし必死で学びましたわ。幸い無駄になりましたが、特別クラスに入れなかった時のために留学の準備もいたしました。お二人やあのクラスと距離を取って、静かな場所で、ロシェ様のこと、ゆっくり嫌いになったのです。
嬉しいことに特別クラスの皆様は未熟な私ともこだわりなく誼を結んでくださって、ロシェ様だけで一色に染まっていたような私の生活も色々なひととなりの方と接し、交流の幅と共に視野が広がりました。価値観も様々で、ロシェ様と比べ物にならないくらい人間関係が杜撰で学生の遊びに傷付く気持ちが分からないという方もいましたし、逆にご自身も涙をこぼすほど私の境遇に憤ってくださった方もおいでです。貴族らしくロシェ家の責任を追及して賠償をもぎ取る最も残忍な方策は何かと議論が盛り上がった際は、ふふ、お話が過激になりすぎて困ってしまったほどですのよ。
二年生の間、ロシェ様はお相手の方と華やかに振る舞っておいででしたので、段々、わたくしも、ええ、大丈夫になってまいりました。お茶会やお出かけの約束が流れた後に再度のお話がないのも、誕生日の宴にお招きしなくても気付いておいででないのも、悲しいよりもほっとする気持ちが大きくなりました。直接お会いするとまだ胸は痛みましたし、行事の折などに学内でお相手の方とご一緒なのをお見かけすると嬉しくはございませんでしたが、どちらかというとそれは嫉妬というより、婚約者の立場にある自分へ当たり前の配慮をいただけず私や私の家が軽んじられていることへの屈辱の感情となりました」
ルベールがスザンヌとの関係を畳み始めたのが三年生。
周囲からも問題視されていたのが二年生。
けれどシャロンは、一年の途中からすでに終わりへ向けて走り出していた。
年回りもよく、派閥の問題もなく、本人たちの相性も良いということで整った婚約話だったが、シャロンがルベールを望まないのならば無理をしてまで続ける動機もない縁談である。
そもそも貴族は平民と違って婚姻に下限年齢の定めはなく、乱暴な話をすれば当事者が十歳にも満たなくても結婚自体は可能だ。国や家の利益のためなら実態がなかろうが本人の意思や判断がなかろうが実行されるのが政略結婚である。それでも多くの貴族が年若いうちは婚姻ではなく婚約の形を取るのは、まだキープにとどめておきたいからだ。必要に応じて教育を施し、どのように成長するか互いに見定めて、能力や性格の発露を待ち、縁を結ぶにふさわしい人物であるかを判断する。そして何より、他にもっと良い縁談があり得た場合の可能性を残しておく。
本当には結婚していないから婚約なのだ。
可能性の濃淡こそあれ、そこには必ずキャンセルの余地がある。
それをルベールは真に理解していなかった。
「それで、議論の教材に婚約誓約書の写しを差し支えない範囲でお友達と共有して読み込みまして、卒業までにその後のお話を詰めておかなければ自動解約となることが私一人の思い込みでないことを確認しました。使い回しされている決まり文句なので、そのせいで本当に破談となる例はほとんどないようです。普通は『婚約まだ続けますよね』という両家の雰囲気で続きますし、卒業前に結婚の段取りをまったく相談をしておかないということもそうありません。学園を出た後はどこで何をして生活するかを伝え合うだけでも婚約家同士ならその後の話になるはずでしょう?」
「そんな、気付かなければ終わりなんて、騙し討ちみたいな……。シャロンは三年からほとんど王都にもいなかったじゃないか。会うこともできなかったのに」
「二年の半ばから、両家で何度も話し合いを持ちました」
「っ!?」
「法曹に優れた秀才たちの解釈をお伝えして、ロシェ伯爵家の皆様にもご了解をいただきました」
「書面による明示的な申し出を、どちらか片方の家だけでも行わないなら婚約は解消になるという合意をして、覚書を交わしている。君のご両親と、兄君の署名があるものだ」
シャロンの兄が横から言葉を添えて、これがシャロン個人だけの話ではないことを担保する。
「わたくしは自分の気持ちを率直にお話ししました。まだ恋心は燻っているものの、ひどく疲れて、以前のようにまっすぐな気持ちでロシェ様をお支えするのが難しいこと。新しいクラスで新しい友人たちと出会い、ロシェ様やご友人の『大目に見るべきだ』というお話には世間一般で全員が同意するわけではなく、日々のなさりようを不誠実だと考えても良いのだと感じるようになったことなどです。ご家族は、ずいぶん謝罪されて、ご子息へチャンスを与えてほしいと何度も引き留められました」
「皆、ご立派でおいでだった。若気の至りと許してくれとか、学生の火遊びはものの数に数えるなとか、そういった言葉はついぞ口にされなかったからな」
もしもそんな要求が欠片でもあれば穏便には済ませなかったとドゥヴェルニエの次期当主は鼻を鳴らす。
「両家ともわたくしやロシェ様に直接忠告や説得を行うのは二年生までの間に限ること。婚約解消に関する条文の話はロシェ様ご本人が質問なさった場合のみ説明を行って良いこと。三年生になったら、関係改善のための行動はわたくしとロシェ様の当事者二人の自発的なものだけ認めて周りからは手を出さないこと。これらを条件に、卒業式の終了まで婚約は継続し、また新たな問題が起きない限りは婚約解消になっても慰謝料などは互いに求めず両家は友好関係を保とうということで決まりました」
「そんな……」
輪をかけて厳しい顔つきで見られながらも、三年生になってぴたりと止んだ苦言の意味は。
「君が我が家に爵位や人脈を当て込んでいるのは皆が分かっていた。三年になれば遊び方が落ち着くのではないかというのは想定されていた。そうなった時に君がどんな行動を取るかと、シャロンの気持ちが動くかどうかを確認するための一年の猶予だった。結果的には君も心を入れ替えたというほどでなくそれまで通りを少し大人しくした程度で、シャロンは二年次にも増して没交渉を狙い続けて終わったわけだが」
ふう、とため息を吐く。
貴族の嫡男として、こんな無益な婚約は在学中にさっさと終わらせて次の話を取り付けたかっただろう。それを卒業まで待ったのは彼や両親の兄や親としての情である。シャロンはあまりに無防備にルベールを愛してしまっており、自分の中から彼を切除するためには時間をかけたプロセスが必要だった。
「何も生産的なことはなかったが、シャロンがお前を捨てるためには必要な期間だったことは理解している」
「っ…、アレン殿!」
「ああ、もうダンスの曲が始まっていますわね」
ふと顔を上げてシャロンが呟く。確かに舞踏曲が管弦の調べで奏でられており、静まり返ったこの一角以外はざわざわと楽団の近くへ移動する流れもあった。
眩しそうに広間を見通す少女の細い横顔を見て、不意にそのドレスに目が行った。
「……シャロン、そのドレスは、僕が贈ったものだろう」
よくも恥ずかしげもなく。
贈り物だけ受け取ってパートナーではなくなろうなどと、どういった神経なのか。真っ先にドレスの礼を言ったのはなんだったのか。ルベールに気付いた途端に頬を染めてあんなに嬉しそうに笑ったのはどういうことだったのか。
「いいえ?」
ぱっとまた彼女の顔が華やいだ。
「ご紹介いただいた職人を雇い上げて、自分で作らせましたの」
「なんだって?」
「元々ロシェのご当主夫妻様にご協力いただいて、この一年の贈り物は、請求をドゥヴェルニエに回していただいております。その方がわたくしも複雑な思いをせず、自分が買ったもののように手に取れますでしょう? 屋敷にお戻りになれば『かからなかった金額』の明細がご覧になれますわ。一度ロシェ様のご予算に計上されていますがそのままお手元の資産に戻ります。ささやかではございますが、明日以降の生計にお載せくださいませ」
「シャロン、あまり嫌味を言ってやるな。そのドレスを除けば宝飾品の類はなく花と菓子ぐらいのものだ。子爵位の年俸の欠片にもならん」
「お兄様ったら。ちゃんと誕生月には万年筆もございましたわ」
「浮気相手には貴石のネックレスを贈っておきながらか」
「お目こぼしくださいまし。個人資産からの持ち出しですし、あのお二人にとっても最後の思い出ですもの」
ひゅっとルベールの喉が引きつれた音を立てた。
通常の個人資産とは別に、ロシェ伯爵家の子供たちは婚約者との交流用の予算枠を与えられている。その中からルベールがシャロンにいくら使い、スザンヌにいくら使ったか、ロシェ家内で把握され、あまつさえドゥヴェルニエ家にまで情報共有されていることを理解してしまった。
明日からの生計。
個人資産の持ち出し。
シャロンに使った金は戻される。本来は用途を限定して使うのみで不使用でも貯蓄できないはずの金銭が返却されるのだからこれは純粋なプラス資産になる。
だが、スザンヌに使った金は間違っても婚約者用とは言えない。税金由来であることもあり、家内のことでも不正計上は発覚するとそれなりに厳しい対応が取られる。そっくり同額がルベールの個人資産からマイナスされるはずだ。三年の間だけならばまだ良いが、恋の燃え盛っていた二年の頃の会計まで遡られた場合はかなりの額に及ぶ。
(明日からの生活……)
子爵位の、年俸。
つまり。
「このドレスはもう最初からロシェ家のお支払いを経由せず、わたくしの注文で作りましたの。お話ししましたかしら、新しい織り方の布で、染めの技法から領の職人と相談して工夫しましたのよ。この一年、服飾、宝飾の産業にも色々と梃入れしましたので集大成ですわ。納品の報告書はお読みいただけまして? ロシェ伯爵領でも流用の利きそうな技術を中心にまとめておりますのできっと役立てていただけると思いますの」
シャロンと爵位と領地は、もう手に入らない。
しばらく実家で暮らして準備ができたら結婚するつもりだったから、文官や騎士などの職を探すこともしていない。
明日からの予定と、将来の収入が、ない。
「頑張ったのは知っているが、俺は染料の話はしばらく聞きたくないよ、シャロン」
「またそんなことをおっしゃって。それなら小粒のダイヤモンドをなるべく大きさを損なわずより強い輝きにカットする手法についてお時間をいただいても良いのかしら」
「シャーリー、勘弁してくれ。今日は君の卒業式だぞ? そのダイヤの飾りだってクラスメイトに見てもらうんじゃなかったのかい」
「あら、そうだわ」
上品な長手袋に覆われた両手をぽんと口の前で打ち合わす。
「出来上がりをご覧になったらルシア様はきっと喜ばれるわ。光の反射については光源の特性を集めた資料も写本を許可くださって、本当に親身に相談に乗ってくださったの。それにフォーブル卿はうちの領の紗に光るように淡い黄色の色味を載せるのは絶対に無理だって断言したんですもの、取り消していただかなくっちゃ」
「フォーブル? まさかユージーン・フォーブル卿か?」
「ええ。あの方、本当に優秀な方なのに時々妙に子供っぽくておいでなの。卒業パーティーのドレスに染色を成功させたらなんでもひとつ私のお願いを聞いてくださるとおっしゃって」
「否定して欲しいんだが、ユージーン様とダンスの約束はしていないよな?」
「どうして? わたくしクラスの方とはみんな踊りたいわ。全員踊りましょうねって約束しているの。たった八人のクラスで、男の方は五人しかいらっしゃらないわ」
「やられた。まさかの王位継承権持ちか」
シャロンの肩を軽く抱いたまま、大柄な兄は上を向いて目元を手で覆う仕草をした。
「お兄様?」
「まだ婚約者がいることになっていたお前に、まんまと自分の色のドレスを着せるとは」
「お兄様ったら、上を向いてお喋りなさったら聞こえないわ」
「まあ、いい。そろそろ行こう。時間がなくなってしまう」
「そうね。ロシェの皆様とお父様たちも離れてお待ちいただいているはず。終わりましたとご報告を」
「ここにもう用はないな?」
「はい」
「シャ、ロン」
かすれた声で呼ぶ。
待ってくれの言葉が出ない。
家族間ですべての話は終わっており、状況を覆すには外堀が埋まりすぎていた。
名前を呼ばれて少女の視線がルベールをとらえた。
仮面のごとく何もない無表情が一拍あり、ふっとその目元に昔のような影が落ちる。学園に入ってから最も頻回に目にしたシャロンの表情だ。傷付いて踏みにじられた悲しみの顔。痛みだけが強い顔。そこに一縷の望みを懸けるように恋情の名残りを探そうとしたルベールの視界で、少女はそっと兄のエスコートから手を離し、深々とカーテシーをした。
若い白鳥がこうべを垂れるように、ただ美しく白い輝きがそこにある。
「ご卒業おめでとうございます。長くお留め置き申し上げましたこと、お許しください。どうぞお身体を大切に」
体を起こして微笑む。
重たい荷物から解き放たれてその面差しは柔らかく、恋の熱も屈託も一切が消え失せ、おそろしく無関心な相手にだけ向けられる優しさに満ちていた。
やがて兄妹が去り、磨かれた石の床にへたり込んでぴくりとも動かないルベールに、友人らはかける声もなく近くを去っていく。
ワルツの三拍子が遠くに絶え間なく聞こえていた。
お読みいただきありがとうございます!
もしよかったら下の星をぽちっと評価いただけたら大変幸いです。
誤字報告感謝です。
シャロンの「私」「わたし」「わたくし」の表記揺れはその時々のシャロンの心情を反映しており意図的なものなのでそのままにさせていただいております。どうぞよしなにー。