蘭陵王伝 別記 第七章 黎陽の水脈 ⑥ 結婚の現実
無事婚儀がすんだ長恭と青蘭は、祖母に挨拶をするため、宣訓宮に出掛けた。義祖母の皇太后は、新婚の青蘭に、厳しい教えを始めた。
★ 星宿海のかがやき ★
暁暗のなかで薄目を開けると、いきなり目の前に長恭の喉仏が見えた。長恭の腕に抱き取られた青蘭が長恭を見上げると、形のいい唇が微笑むように動いて、長い睫が深い影を作っている。長恭の胸に置いた中指を腹に向かって添わせると、長恭はわずかに身じろぎして腕に力を込めた。
「まだ、外は暗い。もう少しねむろう」
昨夜の事を思い出す。花嫁行列と永遠に続くと思われた祝宴のざわめき・・・。青蘭が疲れ切って横になろうとしたころ、やっと長恭はやってきた。
初夜の恐れと戸惑いを、長恭は一つ一つ取り除いてくれた。慈雨のような口づけと夢のような愛撫、幾重にも重ねられた愛の言葉、そして突然の衝撃。それは、長恭を一番身近に感じた瞬間だった。そして、衝撃が残した身体の芯のうずき・・・。長恭の腕に頭を載せて目をつぶると、その痛みでさえも愛おしい。一生をこの人と、添い遂げるのだ。
「私を刺激して、どうするつもりなのだ」
青蘭が唇を胸に押しつけると、身体を起こした長恭はとろんとした目を開けて、笑顔になった。
★ 皇太后への挨拶 ★
婚儀の翌日の午前中、長恭と青蘭はそろって宣訓宮に皇太后を訪ねた。祖母である皇太后は、孫である長恭の婚儀のに臨席できないため、代理の宦官を送っていた。長恭は、両親への挨拶の代わりに育ての親の祖母に成婚の挨拶をするのである。
二人が大門をくぐると、見慣れた宮女たちが口々に祝福の言葉を述べた。
「若様、おめでとうございます」
ただの祝福の言葉なのに、昨夜のことを思い出すと目が合わせられない。宣訓宮の見慣れた前庭が、なぜか違って見える。
二人は、正殿に通された。
「皇太后さまに、ご挨拶を申し上げます」
長恭と青蘭が拝礼をすると、婁皇太后は、愛孫を満面の笑みで迎えた。青蘭は、しきたり通り、秀児が運んできた茶杯を皇太后に献じた。嫁から古姑への挨拶である。
「粛よ、・・婚儀は、盛況であったか?」
婁氏は後ろ盾を持たない長恭の婚儀が、多くの客の祝福により滞りなく行われるかを危惧していたのだ。
「はい、御祖母様、段韶大叔父上や兄弟たちも参列してくれて、立派に式を挙げられました。祝宴も大盛況でした。皇太后府からの応援に感謝します」
婁氏は、温顔で頷いた。
「まことに、重畳である。段韶は、実直で頼りになる。今月中にも挨拶に行くがよい。そなたもこれからは一人前の皇族だ。付き合いも大切にせよ」
「肝に銘じまする」
長恭は、拱手した。
「そういえば、粛。そなたは書房の書冊を欲しがっていたな。せっかく来たのだ望むものを贈ろう。選んでくるがよい」
結婚祝いであれば、すでに結納品とは別に受け取っている。なぜ、書冊なのだ?長恭は首をひねった。
「御祖母様、・・・蔵書をくださるのですか?・・・感謝いたします」
祖母の蔵書には、漢王朝の時に散逸した貴重な書籍も多い。この機会に譲り受けるのも悪くない。長恭は礼をすると青蘭を残して、宦官と一緒に書房に向かった。
皇太后の御前にぽつんと残された青蘭は、気詰まりを感じてうつむいた。主君としての婁氏は、仁愛に溢れた聡明な皇太后である。しかし、孫嫁と姑の関係は、また別物だ。長恭が出て行ったのを確認すると、案の定婁氏が厳しい顔を青蘭に向けた。
「青蘭よ、そなたは高長恭と婚儀を挙げた。そなたはいまだ若いが、正妻には屋敷を切り盛りし長恭を支えるという役目がある」
皇太后の厳しい言葉に、青蘭は立ち上がると唇をかんだ。やっぱり、今の私に不満を持っているのだ。
「心に刻みまする。どのように行っていくべきでしょうか。ご教授ください」
青蘭は、鄭家からの家人と宣訓宮から来た宮女たち、そして、新たに雇い入れた奴卑たちを統率して屋敷を運営しなければならないのだ。
「商賈では、贅を尽くした生活をしてきたであろう。しかし、新しい屋敷では、まず第一に質素倹約を旨とせよ。正室であるそなたが率先して範を示すのだ」
商賈のでである青蘭が、贅沢をしてきたと思っているのだ。豪奢を極める皇宮の中で、例外的に皇太后府では質素倹約を徹底している。長恭の屋敷にも、質素倹約を命じたのだ。しかし、長恭の俸禄で、贅沢な暮らしができるとは思えない。
「御祖母様の教えを肝に銘じます」
青蘭は、揖礼をして恭順の意を示した。
「第二は、・・・嫉妬心は、女人の悪ぞ。厳に慎むのだ」
女子の嫉妬は『女誡』でもしつこいぐらい戒められている。夫が何人もの側室を持とうとも、嫉妬をせず笑顔で屋敷を切り盛りするのがよい妻であると言われていた。嫉妬をしない石像のような女子がいるのだろうか。しかし、新婚早々諍いは起こしたくない。
「肝に銘じます」
青蘭は、仕方がなく嫉妬心や女人の悪との言葉に俯いた。しかし、夫を他の女子と共有するつもりはない。側女など決して許さない。
「私たちは、共白髪になるまで添い遂げるつもりです。・・・ですので、その心配はいらないかと」
婁氏が、一層厳しい顔つきになった。
「青蘭よ、皇族で側室を持たない者などおらん。鄴都の多くの娘が長恭との縁組みを望んでいる。粛が、一生、妻はそなただけだと思うか?」
婚儀の翌日に、側女の話しなんて・・・あんまりだ。皇族は、正妻の他に多くの側室を持つのが普通であるという。唇をかんで、青蘭は下を向いた。
しかし、婁氏の訓戒は、これでは終わらなかった。
「青蘭よ、傾城と傾国を知っているか?」
婁氏は、扇子を開いて胸元を抑えた。
「はい、存じております。漢の李延年の詩にあります」
この詩は、漢の楽人であった李延年が、絶世の美女は、城や国を傾けるが、得難いものだと自分の妹を武帝の気を引いた詩である。これ以降、絶世の美女や遊女のことを、傾城や傾国というようになったのである。
「美人との房事への耽溺は、城や国を傾ける。荒淫には気をつけよということだ」
あからさまな婁氏に言葉に、青蘭は赤面した。長恭に荒淫とは、何と不似合いな言葉だろう。皇太后は、高洋の有様を見て愛孫の前途に危惧を感じたのか。
「婚儀後の房事は、過ぎてはならぬ。房事で体を壊したり、職務の妨げになってはならぬということだ」
あまりの言葉に、青蘭は下を向いた。
「肝に銘じまする」
新婚初夜を過ごしたばかりの青蘭には、返す言葉もなかった。あんまりあからさまな訓戒だ。
青蘭は顔氏学堂でいまだ学問を続けている。皇族の夫人で、学堂に通っている例は聞いたことがない。学堂をでて学問を中絶せよと厳命するかと思ったが、それについては話題にならなかったので、むしろほっとした。
長恭が、書巻や書冊を抱えた宦官と居房に入って来た。
「御祖母様、『文選』と『呉子』を選びました」
長恭は、何心ない笑顔を祖母に向けた。
「そなたに婚姻の祝いとして贈ろう。持っていくがよい」
二人は、そろって挨拶をすると居房を退出した。
「青蘭、どうしたのだ」
肩を落として歩く青蘭に、長恭は首をかしげながら南門を出た。
★ 皇太后の戒め ★
夕餉がすんで、長恭は祖母皇太后から贈られた『呉子』の書冊を取りだした。
『先ず和して、しかる後に大事をなす』
几案に座り『呉子』の書冊を開きながら、長恭は文言を指でなぞった。
古来、国家を治めようとする者は、必ず第一に臣下を教育し人民との結びつきを強化した。団結がなければ戦うことはできない。
その団結を乱す不和が四つある。
一つは国の不和、二つは軍の不和、三つは部隊の不和、四つは戦闘における不和であるという。
したがって、道理をわきまえた君主は、人民を動員するまえに、まずその団結をはかり、それからはじめて戦争を決行する。また、開戦の決断は、自分だけの思いつきによってはならない。
こたびの国境での戦勝では、軍、部隊、戦闘での不和は存在しなかった。それはもちろん中原で最強の斛律光衛将軍の存在があったからである。
しかし、国の団結はどうであろう。佞臣の讒言により忠臣を斬殺し、諫言した弟を刺傷させ、囚人を嗜虐するような皇帝を戴いているのが斉の朝廷である。しかも、鮮卑族の将軍の勲貴派と漢人の対立は様々な場面で政に支障をきたしている。
斉国は、白蟻にむしばまれた楼閣だ。見かけは壮麗だが、土台は腐りきっている。
そう思いながらも、たんなる散騎侍郎にすぎない長恭に何ができるだろう。できることと言えば、官吏の汚職を訴える上奏文をできるだけ握りつぶさず、上司に回すことぐらいである。
気が付くと、窓の外は夕闇に包まれ、蝋燭の灯りが輝きを増している。長恭は入浴の準備を命じた。
長恭は、夜着姿になると榻牀で横になった。初夜こそ紅閨を東殿に作ったが、二日目からは北殿の臥内に移ってくると青蘭と約束していたのだ。じきに青蘭が来るにちがいない。
紅閨ほどではないが、長恭の榻牀にも華やかな薄絹の帳が掛けられ、吉祥紋を刺繍した香り袋が下げられている。長恭は、かたわらの紅絹の辱(敷布団)を指でなでた。
昨日の初夜では、青蘭の緊張を見て、最初は房事を無理強いしたくないと思った。青蘭は想い人であると同時に、弟弟子であり、一番親しい友であった。望まない行為を強いることにより、関係が変わってしまうことを恐れたのである。
長恭が恐れを吐露すると、青蘭は勇気づけられたのか身体を沿わせてきた。ほっそりとした腕と引き締まった腰の感覚が、長恭の手足に蘇ってくる。胸の深いところに押した刻印の紅色が鮮やかに思い出された。
そういえば、午後、宣訓宮から帰ってからの青蘭は、いつもの多弁に似ず口数も少なく浮かない顔であった。何かあったのだろうか。
『遅い。・・・青蘭は、何をやっているのだ』
長恭は起き上がると、扉の方に向かおうとした。すると、長恭付き内官の吉良が茶器を持って入って来た。
「吉良、青蘭は何をしている?」
長恭は、待ちくたびれているという様子が見えないように、さりげなく吉良に訊いた。
「はあ、奥方様は、東殿で御寝されているようでございます」
「えっ?東殿で寝ている?」
しぜん、長恭の言葉が鋭くなった。まさか、呼んで来いとは言えない。吉良が榻牀の灯火を減らすと長恭は、灯籠を下げて東殿にむかった。
東殿の臥内は、すでに就寝の暗さだ。榻牀の近くの几の上の灯火だけが灯って、榻牀に飾られた紅絹の帳は閉じられている。昨夜のできごとに衝撃を受けて、北殿に移ってくる気がうせたのだろうか。恐る恐る紅絹を押し開けると、衾(掛け布団)が青蘭の身体の形に盛り上がっている。
「青蘭、なぜここで寝ている」
長恭の声がいつになく怒りの響きを帯びている。
「王青蘭、今夜から北殿に移るはずではなかったのか?」
青蘭は、榻牀にゆっくりと起き上がった。長恭は、下心が悟られないように冷静に青蘭を睨んだ。
「それは、・・・皇太后の御命なのです」
「御祖母様からの御命?」
青蘭は白い夜着姿で榻牀に腰掛けると、長恭の方を向いた。
「今日、皇太后から貴重な教えを受けたの。・・・まず第一に質素倹約を旨とせよ」
商賈の娘は、派手好きで浪費家だと思われているらしい。
「我が家の俸禄で、贅沢なんてできるはずもない。御祖母様の老婆心だ」
長恭は簡素な東殿の室内を見回した。一時的な臥内とは言え、簡単な家具があるだけだ。花嫁の居所とは思えない。
「第二に、嫉妬をするべからず」
「これも、問題ない。私は一生君だけを守って、側女は持たない。ほかの女子には見向きもしない」
横に座った長恭はそう誓うと、青蘭の肩に腕を回そうとしたが、手で払われた。
「鄴中の美女が、師兄を狙っている。皇族で一人の妃を守っている者などいない。やがては、・・・師兄も他の女子を娶るが、嫉妬はしてはならない。皇太后はそう仰った」
今日自分を書房に追い払ったのは、そんな訓戒をするためだったのか。やっと初夜を乗り越えた青蘭に、何とあからさまな教えをしたことか。長恭は生まれて初めて祖母を呪った。
「私は、他の男とは違う。私が他の女子を娶ることなどあり得ない。それなのに、夫婦で寝室を分ける必要があるか?」
長恭は、両腕をつかむと青蘭の顔を覗き込んだ。祖母の言葉を聞いて、青蘭は自分との生活に不安を感じている。
「他の女子と夫を共有できるほど、私は強い人間ではないの。もし、北殿に行ったら、夫婦で寝室を分けるときは、別れる時よ。それなら、いっそ最初から分けた方がいいのではと思った」
自分に浮気の疑念が生じたら、自分の元を出て行くという意味なのか?
「私は他の女子には興味はないし、君しか娶らない。だから、東殿に移っても安心だ」
純粋な青蘭は、祖母の戒めを真っ正直に受けて、怯んでしまっている。このままでは、せっかく婚儀にまで漕ぎ着けたのに、二人の間に溝が生まれてしまう。
「まあ、いい。もし移らないなら、私が東殿に移動する。・・・それでいいだろう?」
屋敷の主人が、北殿を空けるのは、付き合い上も問題となる。
「分かった、私が移動するから・・・」
「さあ、これで皇太后の教えは解決だ」
長恭が手を引いて行こうとすると、青蘭が頭を振った。
「いいえ、皇太后様の第三の教えは、絶世の美女は傾城傾国である。荒淫に気を付けよなの」
若い青蘭は、さすがに顔を赤らめた。
「荒淫で師兄の健康を損なったり、職務の妨げになってはならぬとおっしゃったのよ。だから、・・・」
最後まで聞かず、長恭は笑い出した。
「だったら、心配ない。君は絶世の美女ではなく。私は、建康だから、その・・・房事ぐらいで体を壊すはずもない。職務だって疎かにしない」
ひどい。自分が美女でないことは,とうの昔に分かっていた。しかし、それを笑い飛ばすなんてあんまりだ。
「どうせ、私は師兄に比べたら、不細工よね。でも、そんなに悪しざまに言うことないでしょ」
青蘭は、不機嫌に背中をむけた。
「青蘭、君は傾城というより、・・・才色兼備の蔡琰だ」
美女じゃないと言われたら、才女の蔡琰と言われたって嬉しくない。
「蔡琰だなんて、口ばっかり・・・師兄は、私を馬鹿にしているのだわ」
「君を馬鹿にしていない。・・・君の美しさは深山の百合、何物にも代えがたい宝珠だ。私が青蘭をあまりに想っているから、君に入れあげて、私がふぬけになるのではと心配なされたのだ」
長恭は、青蘭の腕を握ると引き寄せた。
「さあ、北殿へ・・・」
「分かった。移るけれど、もう、夜も遅いわ。誰かに見られたら・・・」
女主人が、夜着姿で深夜に北殿に偲んでいく姿は見せられない。それに、三月の夜は、可なり冷えるのだ。
「私が、背中に背負って素早く行けば、素早く移動できてだれにも見つからないさ」
長恭は榻牀の前にかがむと、背中を向けて腕を差し出した。広い背中だ。青蘭はしばらく躊躇したが、長恭の逞しい背中に身体を預けた。甘い沈香の香りが、夜着の衿から漂ってくる。
回廊から夜空を見上げると、十六日の月が、天頂の近くに昇り、二人の影を短く映していた。
★ 顔家の訪問 ★
成婚休暇の最終日に当たる五日目には、長恭と青蘭は学問の師匠である顔之推の屋敷を訪問した。祝宴参列への礼を述べるためでもあったが、成婚後の青蘭の学問について相談したいと、顔之推から連絡があったからである。
はたして学堂での学問が許されるのだろうか。顔師父は、中原一の学者として礼を重んじる人物であるが、その実儒学だけにとらわれず、様々な学問に精通している。女子の学問や商売についても寛容で、青蘭の学問を後押ししてくれた。しかし、身分に厳格な顔師父が、結婚後も青蘭を受け入れてくれるかは、未知数なのだ。
「師父、婚儀に来ていただき、ありがとうございました」
顔家の正房に招き入れられた長恭と青蘭は、師父に新婚の挨拶をした。父親を早くに亡くした長恭にとって、顔之推は漢族ではあるが、学問の師であると共に父親のようなものなのだ。
「弟子達を引き連れて、押しかけたけれど、迷惑じゃなかったかな?」
婚儀に招待された顔之推は、婚儀には出ずに、宴に多くの弟子達を引き連れて現れたのだ。そのため、祝宴は予想外の盛り上がりを見せた。
「いいえ、身内の少ない私にとって、何よりの祝福です」
顔家の弟子達が出席したことにより、長恭が顔之推門下であることが多くの廷臣にしられるところとなったのである。
顔之推が、長恭と青蘭に椅子を勧めた。
「これからの青蘭の学問について考えたのだが・・・」
青蘭は、苦悩にゆがんだ顔師父の顔を凝視した。
「開国公夫人は、注目の的だ。今までのように男装して講義を受ければ、いずれ世の批判を浴びる。そこでだ、・・・別房で講義を受ける形を考えておる」
「個別に講義を?」
かつて、北魏の妃嬪が師を招き絵画の進講を受けたと聞いたことがある。しかし、進講など息が詰まるだけだ。何の面白さもない。
「これを機会に、娘の顔紫雲にも講義を受けさせたいと思う。毎日というわけには行かないが、最初は長恭の旬休に合わせよう」
旬休とは、官吏に与えられる十日に一度の休暇である。毎日のように来ていた学堂に十日に一度しか来られないのか。青蘭はがっくりと肩を落とした。
「もちろん、紫雲はそなたを気に入っているようだから、娘に会いに来るのはだれも止められぬ」
顔之推は厳しい言葉を言った後で、片目をつぶって笑顔になった。
「師父、講義のない日でもここへ来て、紫雲と一緒に学んでもいいのですか?」
王青蘭は、男子にも劣らない優秀な学生である。婚姻を理由に学問を中絶してはあまりに惜しい。
「もちろん、公府に問題がないときだが・・・」
顔之推は、茶釜から茶をすくうと、三つの茶杯に注いだ。
「紫雲も今年で十四歳だ。・・・実は、紫雲の学問について、いろいろ考えていたのだ。そなたが一緒に学んでくれるなら、ならむしろ安心だ」
紫雲が十四歳になり嫁ぎ先を探している顔家としては、令嬢が男の弟子達と一緒に講義を受けている状態が世に知られれば具合が悪いのだ。いつの世でも女子が学問を続けていくのには困難がつきまとう。
「それでは、・・・何月頃からになりますか?」
「そうだな、四月頃からはどうだろう。とりあえずは、今は私が講義を受け持とう」
顔之推は、茶杯を取ると一口飲んだ。
「そうだ、青蘭に紫雲が会いたいと居所で待っている。行ってやるといい」
顔之推は、目に皺を寄せて父親の顔になった。
「それでは、ちょっと話をしてきます」
青蘭は、席を立つと紫雲の居所に向かった。
「師父、四月からでは早すぎませんか?」
長恭は、青蘭が出て行くと茶杯に口を付けた。
「長恭、青蘭は自由が無ければ生きて行けない人間だ。息抜きが必要だろう?」
皇族の生活は、儀礼と打算、徒党と姻戚関係でがんじがらめであることを、顔之推は朝廷に出仕して実感した。そんな息苦しい生活に青蘭はこれから耐えていかなければならないのだ。
「青蘭は、純粋で善良な娘だ。そなたが守っていかなければ、共白髪は困難なのだぞ」
顔之推は、晴朗な長恭の瞳を見つめた。女子に見紛う容貌と皇族の身分を持つ長恭が、一人の妻で生涯を終えることは可能だろうか。
「分かっています。肝に銘じます」
紫雲の居所では、菓子と甘い蜂蜜酒が用意されていた。
「青蘭、成婚おめでとう」
二人は白い酒杯を打ち合わせた。
「結婚生活って、どう?」
「どうって、・・・今はまだ実感が無いわ」
青蘭はため息をついた。長恭と一緒にいるとは言え、家人の目がある公府では、弱音を吐くこともできないのだ。
「開国公夫人になると、どうなの?姑のいない屋敷でやりたい放題?」
令嬢の間では、今でも長恭は注目の的だ。
「結婚直後に皇太后にしきたりをきつく言われて、・・・言葉も無いわ」
さすがに内容までは話せない。
「そうでしょう?思った通り嫁姑の関係だわ。王青蘭、負けちゃだめ。・・・ところで、氷の貴公子高長恭はどうなの?」
「師兄?・・・皆誤解している。師兄は思いやり深い人なの。ただ、苦労をしてきたから他人には容易に心を開かないのよ」
賜婚の場合は、夫婦仲が上手くいかない事が多いという。しかし、青蘭と長恭の関係は噂のようではないらしい。結婚した後にも、学問を続けさせる夫は珍しい。それは長恭の寛容さだろう。
「紫雲、四月から、一緒に講義を受けられるというのは本当なの?」
「もちろんよ。楽しみにしているわ」
四月になれば、紫雲と共に学問ができる。公府に閉じ込められる生活を予想していた青蘭は、雲間に蒼空を見たような気がした。
皇太后の訓戒の洗礼を浴びた青蘭は、家婚生活の現実を思い知った。長恭の尽力により、青蘭は顔家で顔紫雲と共に個人授業を受けられることが決まった。