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蘭陵王伝 別記 第七章 黎陽の水脈  ⑤ 晴れの婚礼

南朝では、青蘭の父親の王琳が、北周や陳覇先とのあいだで戦闘を繰り広げていた。北斉からの増兵を望んだ王琳は、王青蘭が自分の娘として婚儀を挙げることを、許さないとの手簡を送ってくるのだった

     ★  突然の手簡  ★

 

 二月、南朝では大きな動きがあった。江州を支配している江州刺史の候眞は、梁の再興を願う王琳に与力していた。対抗する陳覇先は、徐嗣徽を説得しようと従事中郎の江玕を送ったが、陳覇先を嫌う徐嗣徽は、江玕を捕らえて鄴都に送りその立場を明確にすると共に、北斉に増兵を要請した。

 徐嗣徽は、水軍をしたたて建康に迫った。それに対抗して陳覇先は、侯安都に命じて梁山に砦を築かせそれを防ごうとした。しかし、徐嗣徽は歴陽の対岸にある采石を襲い、明州刺史の張懐鈞を捕らえて鄴都に送った。

 江南の長沙に拠点を置く王琳は、候平に江陵の南にある公安を守らせていたが、北周の支援を受けた後梁の反撃で撤退した。しかし、王琳はそのすきに巴州に支配を伸ばした。

 

 北斉は王琳を支援していたが、その一方で陳覇先にも使者を送っていた。陳の支配する建康からは侍中の王廓が答礼の使者として鄴を訪れている。激戦の中で徐々に陳覇先に勢力を削られていた王琳は、北斉と連携強化をはかろうと、北斉の朝廷への工作を強めていた。この頃北斉は、王琳の梁と陳覇先の陳の両陣営より、援軍の要請を受ける立場となったのである。


 婚儀が迫った三月の上旬、とつぜん父親の王琳から手簡が届いた。

『王青蘭へ 娘の王青蘭が、建康で生まれてより、父は慈悲を持って愛育してきた。しかるに、王青蘭は父の恩義に背き、定められた婚儀を忌避するなどその行いはなはだ遺憾である。王青蘭と高長恭楽陵県開国公との婚儀は断じて許すことはできない。婚儀を挙げたらば、親子の縁を切るものとする。父王琳』

 一旦、鄭桂瑛の説得により長恭と青蘭の婚姻に賛成した王琳であったが、懿旨の存在を知ると、態度を硬化させたのだ。

 青蘭は、母親から手簡を渡されると、むさぼるように読んだ。

「父上、いったん婚姻を賛成されたのに、覆されるとは、あまりのこと・・・」

 青蘭は、呆然と榻に座り込んだ。

「父上に背いて、鄴都に来たことを、いまだお許しでは無いのだ。だから、父上は私を憎んでいる」

「青蘭、父上は、そなたを憎んでいるわけではない」

 桂瑛は、となりに腰掛けた。

「幾人もの旧家臣が陳覇先に寝返っていると聞いた。父上は、朝廷に援軍を要請している。しかし、陳からも働きかけがあるのだ。ゆえに、高敬徳侍中の面子をつぶしたくないと考えているのだろう」

 王琳の苦境は、ちくいち鄭桂瑛のもとに報告されていた。王琳は、陳覇先に傾こうとしている斉の朝廷に攻勢を掛けていた。そんなときに、高敬徳との婚儀を破談にした娘が、高長恭と婚儀を挙げるということは、梁にとって不利な材料になるという。

「それにしても、ここに来て婚姻に反対するとは、・・・」

 皇太后の愛孫である高長恭との縁談が破談になれば、青蘭の名節に傷を付けるだけでなく鄭家の商賈にも関わるのだ。


 桂瑛は、茶釜から茶をすくうと白磁の小さな茶杯に注いだ。

「父上は、他に何か遣いの者に?」

 短い手簡には、むしろ重要なことを託された者に言伝をするのが普通である。

「王家の娘として嫁ぐことはまかりならん。もし婚儀を挙げる場合は、鄭家の養女にと、・・・父上は言ったそうよ」

「王家を出て、鄭家の養女に?」

 私を捨てようというのか。すでに敬徳とのわだかまりは解消されているというのに、・・・。父上にとって、梁の再興が最優先で、娘の幸福など守る価値もないのか。

「一本気な父上は、自分が承諾したにも拘わらず、皇太后の懿旨が出たことにお怒りなのかもしれない」

「懿旨は婚儀を早めるための、皇太后の好意なのに、反対するなんて・・・。私が、長沙に行って直接父上の誤解を解いてくる」

 青蘭は立ち上がると、父の手簡をつかんだ。

「だめだ。・・・長沙まで幾日かかると思う?・・・ここに至って婚儀を延期にはできない」

「じゃあ、どうすれば・・・」

「とりあえず、鄭家の鄭伯礼伯父上の養女になるしかあるまい」

 王青蘭を名のる限り、婚姻に対しては父親の意向は絶対だ。しかし、鄭家の養女となれば、母と離縁した父上に口出しをする権利はないのだ。父上は、怒りにまかせて私を見放すのか?そして母上は、私の心情よりも商賈の利益を優先しているのか。

「そんな、あんまりな・・・」

「そなたは知らぬであろうが、南朝での戦局は厳しい。父上は何としても斉の援軍が必要な状況なのだ。父上としても苦渋の選択にちがいない」

 母上は、父上も本意ではないと言うが、自分が嫡女であったなら、それほど酷薄なことを言えるであろうか。 


 叔父の鄭伯礼は、儒学者として高名な鄭厳祖の嫡子で、桂瑛の父である鄭叔礼の兄である。鄭伯礼は、祖父の鄭道昭や叔父の鄭述祖には及ばぬものの学者や書家としては有名であり、一家を成している。その養女となることは、決して不名誉なことではない。しかし、青蘭にとって父に捨てられたという想いが胸を苦しめた。

「父上がそうお望みなら、私に何が言えるでしょう」

 青蘭は、榻牀に座り込むと頭を抱えた。

 次の日、鄭桂瑛は皇太后府と鄭伯礼の屋敷を相次いで訪れた。そして数日後には、叔父である鄭伯礼と王青蘭との養子縁組が成立したのだ。

三月の上旬、王青蘭は鄭家の族譜に記入され、鄭伯礼の養女鄭青蘭となった。


    ★ 緋色の団扇 ★


 三月十五日、婚儀の当日を迎えた。

 鄭家の前には、紅絹を身に付けた楽人たちの婚礼行列と花嫁・花婿を一目見ようと老若男女が集まってきている。紅絹で飾られた馬車に、花婿用の迎えの馬、『囍』の字を刺繡したはたを捧げ持った従人。その全てが、めでたい紅色で染められている。


 王青蘭は、宝冠をかぶり団扇を持って居所を出ると、母の桂瑛、そして養父母となった鄭伯礼夫妻が待つ堂に入った。

「青蘭、婚儀を挙げたらそなたは、開国公妃となるのだ。幼き心を捨て、自覚を持って長恭殿や皇太后につかえるのだぞ」

「お言葉、心に刻みます」

「父上の判断は、そなたの気持ちに染まぬものであろう。しかし、そなたが、王琳の娘であることは隠しようがない。これからのそなたの一挙一動は、鄭家と王家を代表するものとなるのだ。何事も慎重に行動せよ」

 母の桂瑛が、訓戒の言葉を述べると青蘭は恭しく拝礼をした。

 父上から捨てられたも同然の自分の行動が、王家を代表するとは、何という皮肉なことであろう。青蘭は悔しさに涙を浮かべた。

「お嬢様、目出度い席で涙など・・・」

 介添え役の晴児が、青蘭の涙を見とがめたので、青蘭はあわてて団扇で隠した。

「晴児、・・・うれし涙だわ」

 青蘭はごまかすと、晴児の腕をつついた。


 青蘭が、紅絹で飾られた大門を出ると、緋色の花婿衣装に身を包んだ長恭が待ち受けていた。門前には花嫁花婿を見ようと大勢の男女が、詰めかけている。青蘭は、その晴れがましさにめまいを感じて思わず目を伏せ、階を踏み外しそうになった。

「青蘭、大丈夫か?」

 長恭は青蘭の手を取り支えると、心配げに声を掛けた。青蘭を支える長恭の白い肌と清澄な瞳に、緋色の花婿衣装がよく似合っている。冠から垂らされた紅色の細い巾が、長恭を妖艶なほどに美しく見せている。


 青蘭は馬車に乗り込もうとするが、宝冠の重さや長く裾を引く花嫁衣装が足にまとわりついて、なかなか進めない。

「青蘭、大丈夫だ。私が付いている」

 青蘭の腕を取った長恭の優しい言葉に、青蘭は頬を緩めた。逞しい腕に抱きかかえられて、青蘭は馬車に乗り込んだ。

 

  馬車の中に座ると、ため息が出る。

 結納から続く様々なしきたりは、婚姻の重さだ。伯父の養女になっても、商人と南朝の遺臣の間に生まれた自分の立場には何の変わりはないのだ。婚儀がすめば、開国公夫人としてどのような生活が待っているのか想像もできない。

 青蘭は深紅の羅ごしに、馬に乗る長恭の後ろ姿を探した。馬車の中は紅絹で華やかに飾られ、花嫁の姿が透けて見えるようになっているのだ。絶世の美女であると噂の花嫁の姿を一目見ようとする好奇心一杯の人々の視線を感じて、青蘭は団扇を握りなおした。

「青蘭様、出発致します」

 窓の外に立つ介添え役の晴児が声を掛けて、ゆっくりと馬車が動き出した。宝冠から下がった金歩揺がシャラリと音を立てる。宣訓宮の侍衛と盛大な楽人隊に守られながら、花嫁行列は中庸門街から新居のある戚里へと進んでいった。


 開国公府では、婚儀の設えが調っていた。柱や門など全てのところに、紅絹や吉祥紋様の剪紙でめでたい飾りつけがされている。前庭には祝いの席が設けられ、婚姻の式の行われる堂には多くの招待客が詰めかけていた。祭壇を前に両側に高家、鄭家、王家の親族が詰めかけている。


控え室になっている北殿で、青蘭はもう一度鏡の前に座った。

「青蘭、とても綺麗よ」

義兄の鄭士廣の妻である蔡飛燕が、櫛で髷を整えると簪の位置を直した。二人で挨拶に来た時の様子からは、噂とは違って青蘭と婿の高長恭とは、心から想い合う仲睦まじさが見て取れた。

「青蘭、花婿がお待ちよ」

 控え室から介添え役の晴児に手を引かれて堂へ向うと、途中で長恭が待っていた。青蘭は手に団扇を持ち、士大夫の令嬢らしく顔を隠して静々と進んで長恭の前に立った。

「青蘭、綺麗だよ。・・・斉国で一番の花嫁だ」

 長恭は団扇を押しのけて青蘭の顔を覗くと、満足げに微笑んだ。

「長恭様、婚姻前に花嫁をそんなにじろじろ見るものではありませんわ」

 蔡飛燕は、笑顔で咎めた。

「待ちわびた花嫁姿だ。じっくり見ても罪にはならぬであろう」

 長恭が真顔でそんなことを言うのを聞いて、青蘭は顔を赤らめた。青蘭の健康的な美貌は、開き始めた梨花のように清冽で蔭がない。

「もう師兄ったら、冗談ばかり」

 青蘭は恥ずかしそうに、団扇で長恭の胸を叩いた。 


 堂の扉が開く。両側には延宗や敬徳、前年に司空に昇進した段韶など婁皇太后の恩顧の家臣や友人、そして、日頃あまり交流のない長恭の兄弟達も参列している。

 二人が堂に入り祭壇の前に進むと、皇太后府から派遣された宦官が、甲高い声で二人の婚姻を言祝ぎ、婚儀の始まりを告げた。

「天に、礼。再礼、三礼・・・・」 

 式は、祭壇の前で天に三礼、両親に三礼、そして互いに三礼をして滞りなく行われた。ここに高長恭と王青蘭は夫婦と認められたのだ。

「花婿花嫁、紅閨にむかう」

 宦官の甲高い声に押されて、二人は北殿の紅閨に向かった。


 しきたりに従って、紅閨に入った花婿花嫁は、固めの酒杯事を行い祝菓を食するのだ。これらは婚儀に関わる儀式に使う物だ。そして、大切な床入りを迎える。逃れようがない。青蘭は緊張して紅を塗った唇を固く結ぶと、榻牀に目を遣った。

 長恭は青蘭の手を取ると榻牀に座らせた。そして、顔を隠している団扇をどけて、小几のうえに置いた。

「青蘭、すまない。・・・ちょっと宴に顔を出してこなければ・・・しばらく待っていてくれ」

 床入りという言葉に、緊張していた青蘭は、ほっとため息をついた。

「宴に出る?」

「ああ、兄上たちも来ている。家宰に、全部を任せるわけにも行かない。・・・顔を出してくる」

 通常は父母の一族が宴の接待に当たるのだが、両親がすでにいない長恭は、花婿自ら采配もしなければならないのだ。耳を澄ますと、庭の方からは宴のざわめきが聞こえてくる。

「分かった。・・・あまり飲み過ぎないで」

 長恭が出て行くと、青蘭は盛大に飾られた縁起物の木の実や菓子、そして固めの杯のひょうたんを前に一人残された。


 前庭や後苑には、紅色の灯籠が下げられ、柱には吉祥文の剪紙が張られている。配された卓の周りでは、婚儀の祝いに駆けつけた両家の人々や侍中府の仲間たちが酒を酌み交わしていた。式には出席しなかったが、長恭の婚姻を知った顔氏門下の兄弟弟子達が顔之推と一緒に大勢押しかけてきたのだ。


 延宗は偏殿の柱にもたれながら、花嫁行列の出発の光景を思い出した。花嫁見物の群衆の中に、質素な装いをした斛律蓉児を見付けたのである。延宗は声をかけようとして、やめた。蓉児の兄への思いを知っているからである。

 向かいの塀に寄りかかった蓉児は、今にも泣きそうな顔で馬上の長恭を見詰めていた。抱きかかえるようにして青蘭を馬車に乗せる兄の花婿姿は、蓉児には残酷な絵であった。

「蓉児、なぜここに・・・」

 花嫁行列が門前を出発した後、延宗は蓉児に声を掛けた。花嫁行列を先導する馬上の長恭の背中は小さくかすんで見えた。

「兄様の姿を見るまでは、・・・信じられなくて」

 蓉児の瞳は、潤んでいる。

「兄上は、青蘭殿を娶った。蓉児、・・・もう諦めるのだ」

 延宗が強く言うと、顔を歪めた蓉児は大粒の涙が瞳から流れた。斛律将軍の嫡女が、皇位の望みもない庶出の皇子に嫁ぐことなど許されるはずもない。最初から、縁がなかったのだ。延宗は、深く溜息をついた。


 延宗が堂に向かうと、西側に設えた卓では、長兄の孝瑜と次兄の孝珩が杯を傾けていた。 

「兄上たちは、婚儀に来ていたのですね」

 延宗は、高孝瑜と孝珩に挨拶をした。長兄と二兄は、自分と違って昔から四兄との交流がそれほど多くない。

「長恭が、御祖母様の懿旨で王琳将軍の息女と婚姻するとは、めでたいことだ。・・・これからは、手を携えて行こう」 

 長兄の河南王高孝瑜は、次兄の高孝珩に酒を勧めた。孝瑜は、長恭の婚姻により政治的立場が強まったことをまず喜んでいるのだ。年少時に父を失った六兄弟は、皇位から遠く、直の皇子に比べて朝廷での存在感が薄いのである。

 長恭が堂には入ると、三兄の河間王高孝琬が、声を挙げた。

「めでたい。しかし、婚姻の報告が遅い。一番最初に嫡兄の私に婚姻の報告をすべきじゃないか?それに、納采の宴に我々を呼ばないとはけしからん」

河間王高孝琬は、父高澄の正嫡を誇りにしており、結納の報告が遅かったと根に持っているのだ。

「三兄、申し訳ありません。御祖母様に、内々の宴をまず挙げようと言われたものですから」

「まったく、皇太后の四弟贔屓もこまったものだ」

 孝琬は、父母どちらから言っても平陽公主の従姉に当たる。しかし、婁皇太后は、孝琬には中山王府の件を全く知らせていないようだ。確かに利にさとい孝琬は、平楊公主の無事を知れば今上帝に密告しかねない。


長恭が堂の東にいくと、皇太后の甥に当たる司空の段韶が歓談していた。

「大叔父上、来ていただいて礼を言います」

長恭は、段韶に酒を注いだ。

「あの、小さかった粛が嫁取りをするとはな、・・・従兄上(高澄)が喜んでいるであろう」

 段韶は、長恭を諱で粛と呼んで目を細めた。長恭が祖母の屋敷に引き取られた当初、段韶は幼い長恭とよく遊んでくれた優しい族叔父である。

 そんな幼かった長恭が出仕をして、今日は婚儀を挙げたのだ。段韶は、晴れやかな笑顔で客に酒を注いで回る長恭の、従兄によく似た面差しを見てふと不安になった。

 高歓の長子高澄の死後は、本来この六兄弟が、宗家として高家を継承するはずであった。しかし、長子の高孝瑜でさえ成人に達していない状況の中、高洋が電光石火、敵討ちをしたために高洋が宗家を継ぐこととなったのだ。

 しかし、長恭の容貌はあまりに、父親に似ている。陛下は猜疑心の塊だ、その容貌が災いの種にならなければいいが。段韶は、沸き起こる不安を紛らわすように、酒に口を付けた。


 春の黄昏が訪れて、夜空には星が輝きだしてきた。

 引きも切らない賓客に痺れを切らした長恭は、もてなしを家宰の石奢にまかせて、紅閨に向おうとしていた。青蘭が首を長くして待っているに違いない。

「長恭、そんなに急がないで、・・・私の酒を受けてくれ」

 背後から聞き覚えのある声がした。振り向くと、敬徳が藤色の外衣をまとい酒瓶を持って立っていた。先日、凱旋したばかりのはずである。

「戦場から、そなたの婚姻を祝いたくて凱旋してすぐ駆けつけたよ。長恭、大願成就だな。・・・めでたい」

 敬徳は、すでにかなり酔っている。敬徳は、二つの酒杯に酒を満たすと長恭に差し出した。いつもは清雅な目が酒で潤んでいる。

「敬徳、こたびの戦では、手柄を挙げたと聞いた。恩賞がたのしみだな」

 長恭は、笑顔になると目の端で敬徳を見やった。

「手柄?恩賞?・・・そんなものを、俺が望んでいると思うか?」

 敬徳は、長恭の肩を突いた。敬徳の目が潤んでいる。

「俺は愚か者だ。大切な物に、失ってから気付くづくのだ。長恭、青蘭を、幸せにしてくれ、・・・もし、傷つけたら・・・この敬徳兄が奪う」

 酔いの回った敬徳は酒杯を差し出すと長恭をにらんだ。

「もちろんだ。青蘭を幸せにするよ。一生守る・・・」

 青蘭を、敬徳から奪ったわけではない。しかし、敬徳の想いは、今でも青蘭にあるのを知っている。

「さあ、俺の酒を三杯受けないと、紅閨には行けないぞ」 

 敬徳は、再び杯に酒を満たすと長恭の肩に腕をまわした。新郎を、紅閨までたどり着かせないための悪戯である。婚儀の祝宴で勧められた杯は受けねばならない。


 それまでの酒量と重なって長恭の足元がふらついたころ、延宗が好きな菓子をぱくつきながらやって来た。

「敬徳兄上、こたびの凱旋おめでとう。僕から一献差し上げたい」

 延宗は、強引に酒瓶を奪い取ると、敬徳に盃を持たせた。

「兄上、花婿は早く行ってください。花嫁が待っているのでは?」

 延宗は、片目をつぶると笑顔で言った。敬徳が、長恭の紅閨入りを妨害しようとしているのは明かだ。

「延宗、恩に着る」

 長恭は、緋色の婚礼衣装を翻すと、足早に北殿に向かった。


   ★ 紅閨の夜 ★


 北殿は、紅閨として赤い絹で麗々しく飾り付けがされていた。特に榻牀は赤い絹の天蓋でおおわれ、赤いうすぎぬの帳が掛けられている。

「やあ、青蘭、遅くなってすまない」

 長恭が、笑顔で紅閨に入っていくと、榻牀に腰掛けていた青蘭はあわてて団扇を手にした。蝋燭の灯りに照らされ長恭の頬が心なしか赤くなっている。

「私は、置物ではないのよ。もうずっと座っていて身体が痛くなったわ」

 団扇をひらひらとさせて青蘭が口を尖らせた。

「酒宴で好きなだけ、酒を飲んでくればいいわ。私は寝てしまうから」

 青蘭は怒ったように、顔を背けた。

「すまない、すまない。遅くなった」

 長恭は慌てて榻牀に座ると、顔を隠していた青蘭の団扇を取り顔をのぞいた。

「青蘭、・・・怒っている?兄弟たちが、酒を勧めてくるので、つい・・」

 そのとき、青蘭の腹がぐうっと鳴った。気が付けば、青蘭は朝からほとんど何も食べていなかったのだ。

「すまない。・・・気が付かなかった。何か食べ物を用意させよう」

 卓の上には、木の実や焼き菓子が形よく飾られているが、形ばかりで食べられるものではない。

 榻牀に座った長恭が青蘭を抱き寄せ唇を合わせようとする。青蘭が顔を背けた。

「遅すぎた、・・・私が悪かった」

 青蘭が長恭を見上げると、秀でた鼻梁に長い睫が、深い影を作っている。長恭の顔が近づいて、青蘭の背中が少しずつ後ろに傾いていった。

 そのとき、晴児が勢いよく扉を開けて入って来た。二人は、慌てて起き上がると、榻牀の上で姿勢を正した。

「祝の杯事でございます」 

 青蘭が瓢を半分に切った杯を手に取ると、晴児が酒を注いだ。瓢の杯は赤い紐でもう一方の瓢に繋がっている。結ばれた縁は決して分かれないという意味である。長恭の杯に酒が注がれ二人は酒杯に口を付けた。強く香りのよい酒が、熱く身体に染み渡った。


 侍女の手を借りて、宝冠を外し青蘭と長恭の緋色の外衣を脱がせると、晴児たち侍女は下がって行った。祝い酒で火照った身体には、互いの緋色の内衣が妙に艶めかしい。長恭は意味も無く唾を飲み込んだ。

 紅閨の中が、急に静かになった。蝋燭の燃える音だけが聞こえる。酒宴の喧噪が遠くから聞こえ、紅閨の静寂を強調する。

 

「じゃ、寝ようか」

 長恭が小声で言うと、隣に座る青蘭の身体がびくっと震えた。

 一昨年の上巳節の時いらい、青蘭とは二度ほど同じ榻牀で寝てはいる。最初は女子だと知らなかった。女子だと知ってからは、儒学を学ぶ者としての矜持が歯止めとなってきたのだ。そして、今日は晴れて青蘭との初夜を迎える。

「怖いのか?」

 青蘭は、頭を振ると睫毛を伏せ頷いた。

 青蘭とは顔氏学堂で巡り合い、兄弟弟子になった。兄弟弟子、義兄弟、想い人、許嫁と共に歩んできた。そして、今夜は晴れて夫婦となるのである。

 婚儀の前日、屋敷の老女が密かに見せた枕絵の構図が思い出される。男女が不思議な形にもつれ合っている想像を超えた絵であった。師兄があのような事をするはずがない。

「・・・その、少し」

 長恭は青蘭を榻牀に横たえると深く唇を奪った。柔らかな肢体の暖かさが、腕に伝わってくる。ああ、毎夜のように夢の中で青蘭を、奪い愛してきた。それが、今現実のものとなるのだ。

 長恭が顔を上げると、青蘭は何かに耐えるように堅く目をつぶっている。周りの者は、青蘭に何を教えたのか?

「実は、私も怖いのだ」

 長恭は青蘭の耳元に唇を寄せると、囁いた。

「初めてのことなので、ドキドキしている」

「師兄も?」

 青蘭は目を開けると不思議そうに長恭の顔を見上げた。鄭家の老女に見せられた枕絵とはずいぶん違う。秀麗な長恭が、あのような醜悪な男子と同じ事をするはずもない。老女には耐え忍ぶのですと教えられたこととはちがうようだ。

「男の私は、怖くないと思うか?・・・君に嫌われるのが怖いのだ」

 長恭は、青蘭の首の下に腕を回すと、青蘭の頬に優しく口づけをした。

「無理強いはしたくないのだ。疲れているなら・・・ゆっくり休むとしよう」

長恭は青蘭の身体にすました顔で衾を掛けた。


そうなのだ。自分だけではない、長恭も初夜に不安を感じていたのだ。隣を見ると、長恭の秀でた鼻梁と長い睫みえる。こんなに近くに長恭がいる。

 青蘭は衾から手を伸ばすと、確かめるように指で長恭の鼻梁と唇にゆっくりと沿わせた。桃花のような唇は、魅力的に息づいている。あごから、喉を通って胸に至ると、思わぬ逞しさに指が止まった。

「私は我慢しているんだ、刺激しないでくれ」

 目をつぶったまま、長恭はつぶやいた。あろうことか、青蘭に背を向けてしまったのだ。長恭の声に哀願の響きがある。

「師兄、私を嫌いになった?」

 青蘭は、勇気を得て長恭の広い背中に背後から抱きついた。沈香の香が、首筋から匂い立ってくる。

「そんな訳ないだろう?その、無理強いしたくないのだ」

「もう、私は子供ではないのよ」

 青蘭は、仰向けになった長恭の内衣の紐に勇気を出して手を掛けた。

「私の妻になることに、後悔はないのか?私といれば、きっと苦労する。君が失望するのが怖いのだ」

「師兄と結ばれるのは天命だわ。王青蘭は、後悔しない」

青蘭が耳元でささやくと、長恭はその身体を抱き寄せた。

「そうだ、青蘭を決して後悔させない」

 唇からは強い酒の香りがして、青蘭を酔わせた。青蘭の温かさが、長恭の逡巡を解き放ち、内衣の紐をほどく手をもどかしく感じさせた。


 

三月の初旬、長恭と青蘭は婚儀を挙げ、本当の夫婦になった。

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