蘭陵王伝 別記 第七章 黎陽の水脈 ③ 三人の元宵節
平陽公主を黎陽まで送る任務が終了した長恭と青蘭は、敬徳と三人で元宵節の灯籠見物に出掛けた。
★ 元宵節の夕べ ★
一月の十五日は、正月行事の最後を飾る元宵節である。大家と言われる商賈は、それぞれ工夫を凝らした灯籠を仕立て、妍を競うのである。
昨年の婚約祝の宴の時、敬徳は二人を灯籠見物に誘った。
夕暮れが迫るころ、長恭と青蘭は大街に繰り出した。大街の両側に掲げられた元宵節の灯籠はいよいよ輝きを増し、灯籠見物の人々が大街にあふれている。長恭が青蘭に笑顔を向ける。紫水晶の簪と柔らかい鶸色の外衣に白孤の縁飾りの披風が青蘭を魅力的に見せている。長恭は、青蘭を身体で守るようにして人波の中を進んだ。
「確か、約束は喬香楼の前はずだが」
長恭は、人の波をかき分けて大街を南へ進んだ。長恭の浅黄色の外衣は灯籠の灯りに映え、白い頬と清澄な瞳を一層引き立ててくれる。敬徳からの元宵節の誘いは迷惑な話だが、敬徳にだまって青蘭との婚姻を進めた疚しさから、長恭は断ることができなかった。
長恭と青蘭は人波を進むと、ほどなく喬香楼の前に着いた。喬香楼は、鄴城で一番の妓楼である。元宵節の灯籠の飾りも、都一の豪華さを誇っていた。大きな櫓を組んで何段もの灯籠を繋いで飾り、五色の上等な絹が両側に垂れている。豪奢な灯籠飾りを見ようと、喬香楼の前には多くの人が見物の人垣を作っていた。
人混みから青蘭を守ろうと腕を伸ばしたとき、喬香楼の中央の入り口から、青碧色の外衣をまとった敬徳が現われた。敬徳は、酒の匂いをさせながら喬香楼の階を降りてきた。
「長恭、・・・待たせたな」
「やあ、敬徳。遅いと思ったら、・・・もう妓楼で酒を飲んでいたのか?」
長恭は不快そうに片眉を上げた。高敬徳をある者は清廉な官吏と言い、ある者は放蕩者だと噂をする。灯籠見物の前に、妓女と酒盛りをしているなんて、敬徳は妓楼に入り浸る俗物だったのか。
「長恭、そんな顔をするな。妓楼は官吏の社交の場なんだ。官吏ならだれでも出入りするさ」
敬徳は決まり悪げに、扇子を広げた。
「長恭だって、登楼したことはあるだろう?」
「私には、・・・関係ない場所だな」
否定した長恭は、青蘭を見た。同僚に誘われて何度か来たことはあるが、青蘭に妓楼に出入りするような輩だと思われたくない。
「本当か?・・・妓女がお前を待っているぞ」
敬徳は私を青蘭と仲違いさせる気なのか?長恭は敬徳をにらんだ。
「青蘭、まだ空は明るい。灯籠見物の前に、喬香楼で腹ごしらえをしていこう」
長恭を待っている妓女という言葉が気になって、青蘭は敬徳の誘いを断れなかった。
青蘭たちが通されたのは、二階の奥にある小さな客房だった。そう言えば、鄴に来て間もない頃、ここで敬徳に食事をおごられたことがあった。あの頃は、男子だと偽って友情を育んでいたのだ。
卓の上に江南の料理がならべられた。
「青蘭、君の好きな江南の料理を作らせたよ」
三人がそれぞれの席に着くと、妖艶な女子たちが次々と現れた。
「若様、すっかりお見限りですわね」
「若様、おいでになるのをずっと待っていたのですよ」
左右から色っぽい妓女たちが、長恭の周りに群がって酒を注ごうとする。
「ま、待ってくれ。そなたたちなど私は知らぬぞ。何を言っているのだ」
長恭が慌てて女子たちを制して敬徳を見るが、酒杯を口にして敬徳は何も言わずに笑っている。
「長恭様、こちらのお嬢様は、どちらの?・・・」
紅の長裙をまとった年かさの妓女が、長恭の酒杯に酒を注いだ。
「私の許嫁だ。・・青蘭、言っておくが、・・・敬徳と違って私は妓楼などに出入りしていないぞ」
これは、敬徳の企みなのか?
「敬徳、これはお前の・・・」
長恭が敬徳を指さし詰め寄ろうとした時、居たたまれなくなった青蘭がいきなり立ち上がった。
「わ、私は用事があるので、先に帰るわ。・・・お二人は、馴染みの女人とごゆっくり」
青蘭はそう言い置くと、席を蹴って客房を出て行ってしまった。
「ま、待ってくれ。青蘭」
長恭は慌てて青蘭の後を追った。平陽公主との誤解をやっと解いたばかりだというのに、敬徳の計略で妓楼の常連だと誤解されてしまった。
大街に出てみると、すでに青蘭の背中は遠い。長恭は人並みをかき分けて、後ろから青蘭の腕をつかんだ。反射的に、青蘭が腕を振り払う。
「青蘭、待ってくれ、話を聞いてくれ」
長恭は、青蘭の腕をつかむと灯籠の櫓の陰に連れていった。長恭の真摯な瞳が、青蘭を覗き込んだ。
「青蘭、君の誤解だ。信じてくれ」
「でも、敬徳様は、美女が師兄を待ちかねていたと・・・」
「あれは、敬徳の冗談だ。妓女にわざと言わせているのだ」
ただの敬徳の嫌がらせとは思えない。妓楼の女子たちの眼差しは真剣だった。
「今まで何回行ったの?あの女子たちは、馴染みなの?」
「名前も知らない女子だ」
青蘭が横を向くと、長恭が手を引いて小路に入っていく。普通の男子にとって、妓楼に通うことなど何の瑕疵にもならない。それなのに、長恭は執拗に否定している。むしろ何か秘密があるのやも・・・。
「分かったわ。師兄を信じる」
「もちろんさ、・・・青蘭を放さない」
壁を背にした長恭は青蘭の頭を引き寄せると、額に唇を押し付けた。
長恭を放蕩者にしたい敬徳とは、一緒にいられない。長恭と青蘭は、大街の中央にもどると南に向かった。
「青蘭、灯籠見物に行こう」
「そうね、せっかくの灯籠だもの、見に行きましょう」
夕日が沈み大街に夕闇が迫ると、大街に飾られた灯籠が一段と輝きを増した。大街の両側には、灯籠や面の露店が並んでいた。
★ 元宵節の猜灯迷 ★
人波をかき分け大街をなおも南に進むと、光福坊の萬福寺塔では謎面が行われていた。謎かけに正解すると、縁起物の賞品が贈られるのである。謎かけは、経書や文選の知識を要するので、学問に自信のある学士にとっては、挑戦の気持ちをそそるのである。
「師兄も、猜灯迷が好きよね?」
三人で灯籠見物をする約束だったが、喬香楼での事で、敬徳を置いてきてしまった。明日にでも屋敷に行って、問い詰めてやろう。
長恭は青蘭の手をつかむと、櫓の下に入った。櫓の下で謎面の短冊が風を受けてひるがえっている。長恭と青蘭は櫓の下に立つと、猜灯迷が記してある短冊を返して謎かけの問題を読んだ。長恭は一つの短冊を手にすると、無邪気な笑顔で振り向いた。
「青蘭、・・・害怕 上当。罠にはまるのを怖がる季節は何だろう?・・・」
長恭は、腕組みをしながら青蘭を見た。
「怖がる季節?・・・ううん、何かしら」
「上?当?当の上の部分を使うと小だから、何だろう」
青蘭が、顎に手を当てながら長恭を見ると、長恭の傍に敬徳が立っている。
「なんだ、敬徳、・・・来たのか?」
長恭が不機嫌な顔で敬徳をにらんだ。
「あんな冗談、はなはだ迷惑だ」
「すまなかった。お前に会いたいと女子たちが言うから、給仕を頼んだら、あのようになってしまったのだ」
敬徳が、すまなそうに両手を合わせた。
「青蘭、分かっただろう?私は無実だ」
長恭は、青蘭の手をにぎった。青蘭は半信半疑でうなずいた。しかし、長恭が妓女の憧れの的であることは、想像に難くないのだ。
「猜灯迷に私も加わろう」
三人は猜灯迷の櫓の下に戻った。青蘭が持っている短冊をのぞいた長恭は、腕組みをしながら歩き回った。
「二十四節季の中で、小が着くのは・・・」
長恭が、急に手を打った。
「あっ、師兄、分かった」
青蘭が、明るい声を挙げた。
敬徳はいまだ分からずに、額に手を当てて歩き回っている。三人の中で、自分だけ分からないのは沽券に関わる。
「何だ、ずるいぞ二人だけ。・・・怖がるのは、寒とも言うから・・・。分かった」
三人は顔を突き合わせると、声を揃えて同時に答を言った。
「答は、小寒!」
三人が、一斉に笑顔になった。
「じゃ、私が賞品を貰って来よう」
敬徳が萬福寺塔の方に姿を消すと、長恭はすかさず青蘭の腕を捕らえた。
「青蘭、何度も言うが、私は妓楼などと無関係だ。誤解するな」
しかし、いずれは妓楼に出入して、あのような美しい妓女のもてなしを受けるのだ。そんなとき、他の美女に惹かれないと言い切れるだろうか。
敬徳が戻って来た。長恭は、青蘭の手をにぎった。
敬徳は、同じ三つの巾着を持っている。
「この巾着が、賞品だ」
赤青緑の巾着の紐には、梅花を彫った薄紅色の玉が付けられている。これが、賞品のはずがない。あらかじめ準備していたのか。敬徳は、青と赤の巾着を長恭に渡すと、緑色の巾着を自分の帯に着けた。
★ 蓉児の元宵節 ★
一昨年、蓉児が長恭に手巾を贈ってから、蓉児の身の回りに監視が付くようになった。
そんな中で、長恭が皇太后の懿旨による賜婚で王琳将軍の娘を娶るという。幼いころから兄と慕ってきた長恭が王氏と無理やり結婚させられることに蓉児は、納得できなかった。
納采の宴があると次兄の須達に聞いて乗り込んでいったが、あっさりと長恭に追い返された。長恭は祖母孝行であることはよく知られている。長恭の言葉が本気とは思えない蓉児は、どうしても諦めることができなかったのだ。
夕暮れとともに閉じられる鄴城の城門も、元宵節のときだけは戌の刻まで開いている。鄴の人々は一族で夜通し灯籠見物にくりだすのだ。貴族の娘でも、元宵節の夜だけは外出を許される。斛律蓉児は次兄の斛律須達をさそって、灯籠見物に出掛けた。灯籠見物のとちゅうで長恭に会ったら、婚儀を思いとどまるように説得するつもりであった。
喬香楼の前で絵灯籠を見上げていると、兄の須達の視線は、店の前に集う華やかな妓女たちに釘付けになった。
「次兄上、華やかなところね」
妓女たちに興味を持った蓉児が訊くと、須達はあわてて妹の腕を取った。
「蓉児、ここはお前には関係のないところだ。あちらへ行こう」
蓉児は、兄に伴われて灯籠見物の人波にまぎれた。
中陽門街を南に行くと、謎面の塔が見える。謎面が好きな長恭兄は、きっと近くにいるに違いない。塔の近くまで行くと、晴朗な長恭の姿が見えた。兄上は、他の男とは違う。何万人いようと自分なら長恭兄上の姿を一瞬で見分けられる。
蓉児は、人波をかき分けて長恭に近づこうとして、長恭と笑顔を交わす女人に気がついた。王青蘭だ。鶸色の外衣に白狐の縁取りをした被風をまとって、長恭に笑みを向けている。瞳が大きく唇が上品だが、どう見ても絶世の美女とは言えない平凡な容貌の女子である。
『長恭兄上は、皇太后に言われて、許婚を灯籠見物に連れて来たのだわ』
蓉児は、柱の陰に寄って長恭の様子をうかがった。いつもは仏頂面をしている高敬徳が、笑いながら長恭兄の肩を叩いた。どうやら三人で灯籠見物に来たようだ。敬徳がそばを離れると、長恭は盛んに何か話しかけている。
「青蘭は、・・・誤解・・・」
蓉児は耳をそばだてた。長恭兄は笑顔になると、人の目もはばからずに王氏を抱きしめた。胸の中に苦いものが、吹き出した。あの女子は何の苦労もせずに、長恭兄の抱擁を独り占めしている。
「蓉児、ここに居たのか。探したぞ。勝手に離れるな」
蓉児は、いきなり兄の須達に声を掛けられた。人ごみに紛れた蓉児を追いかけて来たのだ。
長恭の方を見ると、高敬徳が走ってきて賞品の巾着を渡している。
「蓉児は、謎面に興味があったのか?」
須達が、櫓から釣られている灯籠を見回すと指先で返した。須達にとっては、猜灯迷はただのくだらない言葉遊びである。
長恭が声に気づいて櫓の陰の須達を見つけた。
「須達、お前も灯籠見物か?」
「ああ、蓉児にせがまれてな・・・」
長恭が手巾を返しに来たとき、須達と長恭の関係は微妙なものとなっていたが、昨年の出征で関係は修復していた。
「先日は、納采の宴に行けず申し訳なかった。・・・こちらが、許嫁の?」
「ああ、須達、こちらが許嫁の王青蘭だ」
長恭が紹介すると、蓉児は無礼なぐらいじろじろと青蘭の顔に近づいた。宴に出向いて、手ひどく追い返されたことが心に疼く。
「長恭兄上、簪を買いたくなったの。・・・商人は目利きが上手でしょう?青蘭殿に選んで欲しいわ」
「これ、蓉児、失礼だぞ」
須達がたしなめると、蓉児は青蘭を睨んだ。
「何よ、たかが商人の娘が、・・・皇太后にどれほどの賄を渡したの?むりやり妻に納まるなんて・・・兄上が、かわいそう」
蓉児の言葉に青蘭の顔が青ざめた。多くの見物客がいる中で、一番会いたくない蓉児に遭遇してしまうとは・・・。
「梁の勢力を、取り込むためだと聞いているわ」
「蓉児、黙るんだ」
しかし、激高した蓉児の罵声は、止まらなかった。いつもは温順な長恭が、大声を出して蓉児をにらんだ。
「許嫁の青蘭への侮辱は私への侮辱だ。婚姻は私が望んだことだ。憶測で勝手なことを言うな」
長恭の怒声に行き交う人々が振り返った。
「先に、失礼する」
長恭は青蘭の手をにぎると、蓉児や敬徳を置き去りにして急ぎ足でその場を離れた。
長恭は青蘭の手を引いて、大街を走った。青蘭は、非難する人の誰もいないところに行きたかった。
皇太后の懿旨をもらったことが、様々な憶測を生んでいる。長恭に関わる様々な噂は、やり過ごせば消えて無くなると高をくくっていたのだ。しかし、宴で自分をののしった蓉児が、元宵節まで来て自分を非難するとは思わなかった。
あれが、鄴都の人々の意見なのか?なんと情けない。
二人は人通りの少ない小路に入った。柱の陰に身体をよせた青蘭はひどく肩を落とし、うつむいている。
「すまない。蓉児があんな酷いことを・・・。婚約を確実にしたいために御祖母様に懿旨を出してもらったのに、そのせいで、誤解を生んでしまったのだ」
長恭は青蘭を引き寄せると、両腕で抱きしめた。
「私が師兄に相応しくないから、むりやり師兄の許嫁になったって悪口を言われるのだわ・・・」
青蘭は、唇を噛みしめると頭を長恭の胸に押しつけた。襟元から立ち昇る沈香の香が、青蘭をなぐさめる。
「君以上に、私に似合いの女子はいない。私を信じてくれ」
長恭は、青蘭の豊かな髪をなでた。
長恭と青蘭は小路を抜けると、支障溝沿いの小径に入った。支漳溝の両側には酒楼が企画した様々な変わり灯籠が掲げられ、川岸には川床が設けられていた。緩やかな支漳溝の流れの上には、小舟が何艘もこぎ出している。
「灯籠の灯りが支障溝に映ると、また美しいわ」
青蘭は強いて明るい声で辺りを見回した。せっかくの元宵節を蓉児の悪口で汚したくない。
「ああ、灯籠が倍になったみたいだろう?・・・そう、川の中に星があるみたいだ」
長恭は青蘭の手を握ると、小径を歩き出した。
「北辺にいくと、厳冬の夜空は一面が星に埋まる。いつか君を連れて行きたい」
成婚の暁には、きっと行けるに違いない。
「そう言えば、母上に聞いたことがあるの。黄河の奥の奥の源流には、星宿海と呼ばれる清らかな水をたたえる湖があるそうよ」
「そこに、星が映っても北辺には敵うまい」
長恭は、柱の陰に身を寄せると青蘭の耳元でささやいた。
「星宿海は、多くの湖の集まりで、晴れた日には蒼空を映して星のように見えるのだそうよ」
「ぜひ、そこにも行ってみたい」
長恭は腕に力を込めると、青蘭のうなじに唇を沿わせた。
元宵節に長恭と青蘭の睦まじい姿を垣間見た敬徳は、北周との戦に出て行くのだった。