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蘭陵王伝 別記 第七章 黎陽の水脈  ② 二人だけの帰路

黎陽から戻る途中、長恭と青蘭は、同じ部屋に泊まることになった。

  ★ 二人だけの帰路 ★

 

 平陽公主を見送った長恭と青蘭は、鄴都への帰途に就いた。

 もうすぐ元宵節である。安陽の大路の両側には、すでに無数の赤い燈篭が掲げられている。客桟に到着すると、元宵節の客で混んでいた。

 客桟の番頭が、冷たく言い放った。

「申し訳ありません。元宵節の客で混んでいまして、二部屋しか空いておりません」

鄭家から三部屋が手配されているはずである。高額の銭に目がくらんで、予約していた客房を他の客に融通したらしい。侍衛が抗議するが、客舎の番頭は、頑として応じない。

「他の客桟も、混んでいる。仕方がない。我慢しよう」

 事情を聞いた長恭は、ため息交じりにうなずいた。

 結局、長恭と青蘭が一室、護衛の四人が一室を使うことになった。許嫁とは言え、未婚の男女が同じ房で宿泊するのは、礼に反している。

「部屋が一つしか取れなかったが、まあまあの客房だな」

 往路に比べて狭い客房だが、眺めがいい。長恭はこだわりなく、荷物を解こうとする。

「ちょっと待って、未婚の男女が同じ房に泊まるなんて、道理に反している」

 婚約が決まった男女は、頻繁に会うこともよくないと言われる。ましてや同室で御寝するなど・・・。

「我々は、許婚だ。それに、・・・共寝は初めてではないだろう?」

長恭が涼しい顔で外衣を脱ごうとする。観翠亭で泥酔した夜のことを言っているのだ。

「あ、あれは、師兄が酒を無理に勧めたからよ。それに、男として泊まったのだから、特別何もなかったわ」

青蘭は睨むと、拳を長恭の胸に当てた。

「何もなかった?・・・君は記憶にないだろうが、泥酔した君にさんざん絡まれ、嘔吐されて衣を汚されたり・・・大変だったのだ。あれで、何もなかったと?」

 青蘭の記憶にない泥酔のことを言われると、抗弁のしようがない。

「大丈夫だ。私は君子ゆえ、仇を取ろうなどと思ってはいない。・・・君子危うきに近寄らずだ」

 長恭はそううそぶくと、笑顔で拱手した。


 長恭と青蘭は夕餉を済ませると、夕暮れの市に出掛けた。安陽は黎陽から鄴都へ行く中間点にある。そのため多くの商人が宿を取り、宵市は繁盛している。

 女子の装束をまとった青蘭は、長恭と一緒に安陽の大路の店を見て回った。誰も知らないという開放感が、青蘭の心を軽くした。そうだ、周囲の目のないところで、自由に二人でそぞろ歩きをしたかったのだ。

「この簪は、青蘭に似合いそうだ」

 長恭が、露店の店先に並んでいる銀に薄藍色の玉の飾りの付いた簪を手に取った。

「素敵な簪だわ」

 長恭は銀子を払うと、青蘭の髪に挿した。

 母は、薄藍の玉を好んで簪や腕輪に使っていた。そうだ、昔、母と平陽の夜市を歩いて求めたのも藍色の玉のついた簪だった。長恭と青蘭は、辻を右に曲がって、小さな川の辺に出た。一月の支溝河は、流れも細く、人の通りも少ない。町屋の二階から漏れてくる灯りが、支溝河の透明な水面を照らしている。

「昔、まだ幼きころ、観翠亭から晋陽に母と一緒に向かう途中、この安楊で泊まったことがあった」

 長恭は懐かしむように話し出した。

 長らく観翠亭に捨て置かれた長恭母子は、父高澄の宰相就任を機会に、晋陽の屋敷に引き取られることになったのだ。

「母上と一緒に?」

 くぐもったような声に、青蘭は長恭を見上げた。長恭は、幼くして亡くなった母親についてはあまり語らない。

「ああ、あの時は、初めて父上に会えると、やけにはしゃいでいた。・・・今考えると滑稽だ」

 幼くして父親を失った長恭は、父親との縁が薄い。妊娠していた荀氏を、祖母の婁氏の屋敷に追放した父高澄を、長恭は恨んでいるのだ。そして、母親を虐げて死に至らしめた本家の妻妾たちも・・・。  

「母が亡くなって以来、私は孤独に暮らしてきた。母以外で、心を許した者は君が初めてだ。私にとって青蘭は唯一の家族なのだ。だから、・・・君が黄河を渡って鄴に来たのも天命なのだ」

 長恭は切なげに青蘭の手を胸に当てた。父に会える喜びを滑稽だと切り捨てた長恭の言葉が痛い。

「師兄、・・・」  

 長恭は思い詰めた瞳で青蘭を見た。師兄は、自分の生き方を理解し助けてくれた初めての男子だ。私が江陵を出奔したことを咎めることなく、天命だと言ってくれたのだ。

 長恭は青蘭に身体を寄せると、その手を握った。

「最近婚儀の準備をしていて思った。母上は、父上の妾となるも、何の晴れがましい儀式などなかった。それが、何よりの無念だ。手柄を挙げて母上に太妃の位を追贈させたいのだ。それが、亡くなった母に対するせめてもの親孝行だ」

 長恭の母上は、師兄に似た絶世の美女だと聞いている。皇太后に気に入られ、当時渤海王世子に立てられたばかりの高澄の想い人になったのだ。本邸に迎えられ、長恭を身籠もったのもつかの間、東魏の馮翊長公主が正妃として輿入れしてきたのだ。本邸を追い出された荀翠容は、婁氏の元で秘密裏に出産した。そして、さらに人知れず観翠亭に隠れ住むようになった。晋陽に迎えた後も、候景の乱の平定などに忙しい高澄に、翠容を顧みる余裕はなかった。そして、何の冊封をされることなく淡雪が消えるように亡くなったのだ。

「そうなれば、義母上も喜ばれるわ」

 青蘭は、握った長恭の手を頬に持っていった。


★ 安陽の夜 ★


客桟に戻ると、二人の間には微妙な緊張感がただよった。榻牀が一つしかない。

「それでは、青蘭、寝るとするか」

長恭は、外衣を脱ぐと衣桁に掛けた。

「やっぱりよくないわ。二人が同じ客房に泊まるのは、道理に反する。ましてや同じ榻牀で・・・」

「そうだな、同じ榻牀はよくない。私は榻(長椅子)で寝る。君は榻牀をつかうといい」

 長恭は荷物の中から膝掛けを出すと、榻に敷きだした。大柄な長恭には、明らかに小さすぎる榻牀だ。長恭は大きな身体を折り曲げると、披風をかぶって寝てしまった。

「私が榻に・・・私は平民で、師兄は皇族ですもの。師兄に風邪でもひかせたら、皇太后に恨まれる」

 青蘭が披風に手を掛けると、長恭は起き上がって披風を首までかぶったまま青蘭を見た。

「君子は、女子に風邪をひかせられない」

 横暴で酷薄な者が多い皇族の中で、長恭は仁愛に満ちた人物なのだ。母上の慈しみと苦難に満ちた人生が長恭を陶冶して来たに違いない。


「分かったわ。師兄、こうしましょう。・・・仕方が無い、半分ずつ榻牀を使うということにしましょう」

侍衛に口止めすれば、同じ房で寝たことなど御祖母様も知る由もない。ましてや同じ榻牀に寝たことなどは、言わない限り誰も知らないわけだ。長恭は君子だから、長衣のままで就寝すれば、不埒なことも起こるまい。青蘭は、披風を衣桁に掛けた。

「師兄、中央線からこちらが私の領土、向こうは師兄の領土。不可侵よ」

青蘭は榻牀の中央に枕や荷物を置くと、長衣のまま壁側に横になった。清廉な長恭が婚儀の前に不埒なことに及ぶとは思えないが、釘を刺しておくに越したことはない。

「分かった。万里の長城は越えないから安心せよ。私は北の奴らのように理不尽ではない」

 長恭は、衣桁に披風と外衣を掛けると、剣を几に置いた。


 そうだ、目を閉じていれば一人で寝ると変わらない。青蘭はかべ際に寝返りを打つと目をつぶった。長恭が灯火を消すと、客房は藍色の暗闇に包まれる。長恭の足音が近づいて、衣擦れと共に衾が肩の上に掛けられる。沈香の香が背中の方から立ち昇り、長恭の気配を感じさせた。

 規則的な寝息が聞こえてくると、多少の落胆と共に青蘭はさり気なく仰向きになった。目が慣れてくる。締めたはずの窓の扉の隙間から、月明かりが差し込んでいるのがわかる。薄目で右を見ると長恭の横顔が美しい影を作っている。胸の高鳴りを誤魔化すように衾を引き上げる。すると長恭の手が青蘭の右手を捕らえた。思わず、青蘭は手を引っ込めた。

「不埒なことはしない。・・・せめて、青蘭の手をにぎって眠りたい。いいだろう?」

 暗闇の中から、哀願するような声がした。手を握るだけで十分不埒なのに・・・。

「・・・分かったわ」

 衾の中で長恭の手がさぐるように動き、青蘭の手を捕らえた。大きな温かい手が青蘭の手を包む。

「青蘭、眠った?」

「もう、眠ったわ」

眠っていたら、返事をするはずもない。毎夜毎夜、夢の中で抱いている青蘭の温かさが、直ぐ横にある。隣から立ち昇る茉莉花の香が、長恭の身体の中心を熱くさせる。

ああ、青蘭が欲しい。長恭が寝返りを打つと、青蘭の愛らしい横顔が暗闇の薄明かりの中に見える。過酷な旅程に誘われて疲れたのだろう。すでに青蘭は無防備に寝息を立てている。

 それは、すっかり自分を聖人君子だと信じている横顔だ。ああ、青蘭を抱きしめて、全てを奪いたい。長恭は布団の中で唇をかんだ。上を向いて、目をつぶった。だめだ、青蘭の信頼を失わせる所業はできない。

 その時、寝返りを打った青蘭の腕が長恭の胸の上に伸びてくる。寝入っている青蘭は、軽々と自分で決めた境界線を越えてくる。半分だけと約束したのに、青蘭はさながら北周の中軍のように勝手に国境を越えて、長恭に戦いを挑んできた。

 約束は破れない。長恭は青蘭を避けて身体を右にずらした。


朝になった。青蘭が目を開けると、いきなり目前に長恭の寝顔があった。青蘭は長恭の腕の中にすっぽりと抱き取られている。あれほど、約束したのに・・・師兄ったら不埒な・・・。

 青蘭が罵ろうと顔を上げると、なぜか長恭の背中の向こうに床が見える。何と中央線を破って侵入していたのは、自分だったのだ。慌てて起きようとすると、何と青蘭の頭が長恭の顎にぶつかった。

「痛い」

長恭が顎を押さえて目覚める。慌てて青蘭が腕の中から身を翻す。何でこんな近くに・・・。私は、何をしたのだ。

「青蘭、私は・・・」

長恭が慌てて起き上がろうとすると、危うく榻牀から落ちそうになった。背中の後ろは、榻牀の崖っぷちだ。何でこんな端に寝ているのだ。

「寝ている間、迷惑かけたみたい・・・。何をしたかしら?」

 起き上がった青蘭が、申し訳なげにうつむいた。寝ている間に、自分は青蘭に押されて榻牀の端まで来てしまっていたのだ。

「ああ、寝ている間に、頬を叩かれたり、腹を蹴られたりした・・・それを避けているうちに・・・」

 長恭はわざと渋面を作ると、顎を痛そうになでた。青蘭は、顔を手でおおうと下を向いた。

「師兄、・・私は、ひどく寝相が悪いみたい。何と言って謝ったらいいか・・・」

長恭は抱きしめていた言い訳を必死に考えていたが、反対に青蘭が自分は寝相が悪いと謝ってきたのだ。

「きっと、疲れすぎていたせいだ。気にすることはない」

外はいまだ夜明け前の薄暗さだ。侍衛が起こしに来るまでには間がある。

「婚儀を挙げたら、側仕えの者が付く。あまり早く起きると、その者たちに苦労をかけることになる。起こしに来るまで横になっているのが、皇族の慈悲なのだ」

けげんな顔で青蘭が横になると、青蘭の首の下に長恭が腕を通した。なんだか、初夜の予行演習のようで、青蘭は赤面した。

「どうやら、昨夜、私を襲ったのは、君のようだ」

寝ているときのことは、まったく記憶にない。青蘭はしきりに首をひねった。

「まさか、そんな・・・」

 青蘭は長恭の腕をつねった。


長恭と青蘭の一行は、朝餉を摂ると安陽を出発した。

緊張してたどった道も、戻るときには短く感じる。枯れたようだった木々にも,春の芽吹きが感じられる。外の風景をながめようと、青蘭が窓を開けると、長恭が近づいて来た。

「気分は大丈夫か」

 長恭は同じ榻牀で寝ていたことなど忘れたように、平静な笑顔を作った。もしや、師兄にとって、共寝など珍しいことではないのかもしれない。今まで女子が一人もいなかったという方が不自然だ。過去を詮索しても仕方がないと思いながら、絶世の美女を心に描いて溜息をついた。


 黎陽から二人が戻ると、次の日に皇太后から青蘭に高価な翡翠の腕輪や宝飾品が届けられた。

 罪人である平陽公主を脱出させたことにより、近衛軍の探索が厳しくなると思われたが、鄴都の様子は平常と何も変わることがなく、青蘭は胸をなで下ろした。

 東魏の公主をかくまうほどの危険を冒すとは、母と皇太后はどのような関係なのだろうか。ただの商売だけの関係だとは思えない。父王琳への援軍の御礼なのか、それとも何か深い関係があるのだろうか。鄭家の商賈は、斉や周の政治と深く結びついている。娘であっても賈主である桂瑛に容易に質問できる問題ではない。


  ★ これからの道筋 ★


 黎陽から戻って数日後、長恭と青蘭は学問の師である顔之推のところに、正月の挨拶に出掛けた。元宵節までは正月休みなので講義がおこなわれない。

 紅梅白梅の甘い香に誘われて垂花門をくぐると、元烈がさっぱりとした深衣姿で現れた。

 丁寧な揖礼をする。

「長恭様と青蘭様に、新年のご挨拶をいたします」

 二か月前に会ったばかりであるのに、新年になって元烈は背も伸びて大人びたような気がする。

「新年になって、十二歳だな。・・・学問は進んでいるか?」

 長恭は、髷を結った元烈の頭をなでた。

「はい、青蘭様からいただいた筆硯で、励んでおります」

 戦乱で両親を失った元烈は、下僕として働きながら、学問をしている。背が伸びて丈の短くなった深衣が悲しい。

「師父がお待ちでございます」

 元烈は先に立って、正房に案内した。


 正房の外に行くと、すでに先客がいて歓談しているようだ。

「顔殿が、朝堂に入られて斉の政が変わると期待していたのですが、・・・」

 四十がらみの漢族の官吏だと思われる男は、首を振った。

「斉の政の病根は根深い。儂一人で何ができようかと、思い知らされる毎日だ」

 顔之推は、深い溜息をついた。


「後苑の水仙を見てくる」

 元烈に声を掛けると、長恭と青蘭は後苑に向かった。小径沿いにある四阿のそばには、椿が赤い花を咲かせている。水仙が囲む四阿に座ると、共に学問をしていたころが思い出される。

「よく、ここで復習をしたな・・・」

 椅子に座った長恭は、卓をなでた。あのころは青蘭を男子だと想って純粋に学問に打ち込んでいた。

「師兄、いつ女子だと気が付いたの?二人が義兄弟の誓いをしたときは?」

 そうだ、義兄弟の誓いをしたことがあった。心を寄せる女子と義兄弟になったなんて、誰にも知られたくない暗黒の歴史だ。

「もちろん、・・・気づいてなかった。・・・君が好きで、でも、男同士は許されないだろう?だから、縁をつなぎたくて義兄弟を提案したのだ。苦肉の策だった」

「婚儀の代わりに、義兄弟の契り?」

「君が、隠していたせいで、どんなに悩んだか・・・」

 長恭は、青蘭の手をつかむと凝視した。

「我々は、兄弟弟子でしかも義兄弟で、これから夫婦になるのだ。これ以上堅い縁はないだろう?」

 長恭は当時の苦労を思い出して眉を寄せた。

「でも、このままでは兄弟弟子の縁も切れてしまうかも・・・」

 自分たちは、幾多の困難を乗り越えて婚儀を迎えようとしている。しかし、開国公夫人になった青蘭は、顔氏学堂で兄弟弟子達と同じ堂で講義を受けることができないのだ。

「『朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり』と孔子は言っているわ。人は学問を中絶せずに続けることが重要だと師父は言われたのに、婚姻したら女子は学問を続けられないなんて、理不尽だわ」

 青蘭は無念さに目をうるませた。

 青蘭は嫁入りして安穏としている普通の女子をは違う。好奇心に富み、常に自分の成長を望んでいる女子なのだ。屋敷の中に閉じ込めて学問の機会を奪えば、大いに不満を募らせるに違いない。

「そうだ、君が学問を中絶するのは、私と手本意ではない」

「婚姻後も、学問を続けられるように、私から師父にお願いするわ」

 婚儀の日取りは、三月の十五日と迫っている。何とかせねば・・・。

「まて、まず兄弟子たる私が、師父にお願いしてみよう」

 青蘭の願いを師父が突っぱねれば、話が思わぬ方向に進みかねない。

 様々な方法を考えたが、世の非難を受けずに学問を続けるためには、個人的な講義をしてもらうしかないだろう。しかし、文人に伝手のない長恭にとっては、師父に相談するしかないのだ。


 ★ 顔子推の説得 ★


 ほどなく、元烈が呼びに来て正房に呼ばれた。

「師父に、新年の挨拶をいたします」

 長恭と青蘭は、顔之推に向かって揖礼をした。

「堅苦しい挨拶はよい。さあ、そこに座れ」

 顔之推は、磊落に椅子を勧めた。青蘭はいつになく緊張して下をむいている。

「長恭、婚儀の準備は進んでいるか?」

 顔之推は、茶釜から茶を注ぐと二人の前に勧めた。

「はい、新しい屋敷の方はほぼ完成しています。ただ、心配なことが・・・」

 多くの女子と噂のある長恭でも、新婚時には心配なことがあるのか。顔之推は、長恭の花顔を覗き込んだ。

「その、結婚後の青蘭の学問のことです」

 長恭は、明眸を顔之推に向けた。

「何とか、青蘭に学堂で学問を継続させる訳にはいかないでしょうか」

 婚儀をすませた女子が、学堂に通うなど通常あり得ない。また、妻が学問をすることを不名誉だと思う男が多いのも事実である。しかし長恭は許嫁のために必死に訴えている。

「青蘭は、どう考えている。本人の考えが聞きたい」

 顔之推は中原一の学者と言われているが、決してお堅い儒学者ではない。琴棋書画から易学や医術にも広い知識を持っている。また、女子の学問についても理解がある学者である。

「私の学問はまだ未熟で、さらなる精進を続けたいと思います。とうぜん婚儀を挙げても学問を続ける覚悟です。『人は器ならず』師父の教えから、人は学問と努力により成長できる学びました。私もそんな人になりたいのです」

 青蘭は人になりたいという。それは女子は人ではないのかという青蘭の心の叫びだ。ここで望みを拒絶すれば、今まで教授したことが嘘になってしまう。

 過去には、皇妃でありながら師匠を選んで、書画の指導を受けたことがあると知っている。しかし、皇族の夫人が学堂に通う例は皆無である。

「学問を大成するためには、五年や十年ではすまないぞ。その覚悟はあるのか」

 王青蘭は鄭家の令嬢で、高長恭は婁皇太后を後ろ盾として、今後の出世が見込める若者だ。成婚を理由として学堂との縁が切れてしまうことは、何とも避けたい。王青蘭の学問を継続させることは、斉の学問所の設立に重要な一手となるかもしれない。

「そうだな、先古を顧みると、個人的な講義を行った例もなくはない。考えさせてくれ」 

 顔之推はそう言うと、伸ばし始めた髭をさわった。



長恭と青蘭は、敬徳と一緒に元宵節の灯籠見物に出掛けた。

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