蘭陵王伝 別記 第七章 皇太后の願い ①
北斉の皇子高長恭は、皇太后の懿旨をつかい王青蘭との婚約をはたした。そんなとき、長恭と青蘭は、皇太后から、前王朝の公主である平陽公主を鄴都からにがすのに、協力して欲しいと頼まれる。
★ 顔之推の叙任 ★
十月になり、長恭と青蘭の師父である顔之推が、奏朝請として出仕することになった。奏朝請とは、本来は爵位を持つ者が無官のまま朝議に参与する官職である。顔之推は爵位を有していないが、奏朝請に就任したことにより、朝議に出席できる政策顧問に就任したのである。
今上帝高洋は、兵権を握る鮮卑族の将軍達を牽制するために、漢人の官吏の力を必要としていた。しかし、度重なる酷薄な所業により、世間の今上帝への名声は地に落ちてしまっていた。
高洋は、酒気を帯びると狂気に近い残酷さを示す反面、しらふの時には至って小心者になる。そのため高名な文人や学者を厚遇した。かつて政策に悩んだときには、たびたび陽休之を訪れ政治手法を諮問していた。しかし最近は、酒乱の気が強くなり朝政への関心を失っていたのだ。
そこで、皇帝としての権威を高めるために、中原で一番の学者と言われる顔之推の権威を利用しようとしたのである。何よりも、周での地位を捨てて黃河を下り、命を賭けて斉へたどり着いたという逸話が、高洋の虚栄心をくすぐった。
その虚栄心を、顔之推が利用したのであろうか。それとも、乱脈を極める斉の政に顔之推が、手をこまねいていることができなくなったのか。多くの漢人官吏にとって、顔之推の出仕は最後の希望であった。
★ 長公主の降嫁 ★
侍中府の中庭には山茶花の花が咲き始めていた。十一月になると赤い花弁には雪がかかり、地面には真綿を布いたように薄く雪が薄く積もっている。
散騎侍郎の高長恭は、官房で上奏文の山と格闘していた。長恭はため息をつくと、筆を置き上奏を書類の山の上に戻した。火爐の炭が白くなり空気がよどんでいる。
長恭が、窓を開けようと立上がったとき、扉が開いて冷気と共に廬思道が入ってきた。盧思道は、同じ散騎侍郎で侍中府の先輩である。
「ああ、疲れた」
思道は、窓ぎわの椅にどかっと腰を下ろすと、だるそうに首を回した。
「・・・顔之推が入って、少しは政が良くなると思ったが、なあに、船に船頭が増えただけだ」
今月から、奏朝請として願之推が朝議に出仕していた。顔之推は儒学による正道を目指している。しかし、顔之推のもくろみは、出仕の初日から潰えてしまった。楊韻を中心とする漢人官吏が朝議を支配し、顔之推には発言の機会すら与えなかったのである。
顔之推が今上帝に献策するも、漢人官吏たちは身を切る策を喜ぶはずもなく骨抜きにされてしまったのだ。
盧思道が、腕を組んでぼそっとつぶやいた。
「長恭、楊令公(楊韻)が、太原長公主を娶ったぞ」
太原長公主とは、婁皇太后の次女でかつて孝静帝の皇后であり、亡き中山王の妃である。そして、長恭の実の伯母でもある。
「中山王妃が、楊令公と婚姻したというのか?まさか・・・喪中だというのに」
「そうだ、信じられるか?中山王の葬儀が済んだばかりだと言うのに、何と楊韻に降嫁したのだ」
儒教では、女人が二夫にまみえることを忌避している。ましてや、服喪の期間もおわっていないのに、なぜ楊韻はかくも急いで長公主を娶ったのだろう。
「長公主が気の毒だ」
「長恭、何を甘いことを言っている。附馬になって顔之推に対抗するためさ」
附馬とは、公主や長公主の夫君のことである。長公主の権威を後ろ盾として、何かと政にくちばしを挟もうとする顔之推をおさえようとしているのだ。中山王の毒殺は陛下の意向とはいえ、夫の敵同然の楊韻に嫁がされた長公主の心中はいかばかりであろう。
長恭は几案の上で拳をにぎった。
★ 平陽公主の行方 ★
八月の中秋節に中山王一族が毒殺されて以来、近衛軍や皇太后府の侍衛が中山王の娘である平陽公主を探索した。しかし、平陽公主の行方は杳として知れなかった。
十一月の中旬、太原長公主が婁皇太后を訪ねてきた。夫の譲位を黙認したことを恨み、皇太后との長公主の関係は長らく疎遠であった。
「母上、久しぶりでございます」
長公主は、揖礼をすると無沙汰をわびた。
「なに、中山王府のことは、・・・ほんに気の毒だった」
毒殺事件後の婁氏の落胆の様子は、長公主の耳にも届いていた。
きっかけは政略結婚であったが、しだいに尊敬の念を覚え、共に逆境に立ち向かって行くようになったのである。常に毒殺の危険を感じていた王妃は、王府を離れず食事も同じ料理を一緒に摂るようにしていたのだ。
「陛下の毒牙から、中山王や王子たちを守れなかった。・・・無念だ」
げっそり痩せた様子の長公主は、茶や菓子に手を付けようとしない。
「そなたが、楊韻と婚儀を挙げるという噂を耳にしたが、本当なのか?」
長公主は、清澄な瞳を逸らした。
「母上、申し訳ありません。私の一存で決めました」
夫の葬儀がやっと終わったばかりだというのに、楊韻に嫁ぐのは、世のそしりを免れない。
「楊韻は陛下の不埒な行いを黙認し助長してきたてきた。中山王の仇に等しい。それでも、そなたは嫁ぐのか?」
婁氏は眉を寄せると、娘を見遣った。
「実は、行方不明になっていた緋琬が見付かったのです。緋琬を守るために、楊韻の力が必要なのです」
緋琬が生きている?・・・平陽公主は無事だったのか。婁氏は、長公主の手を握った。
「緋琬は近衛軍の手を逃れて、市中に隠れている。しかし、このままではいずれ捕縛されてしまう」
楊韻が太原長公主府を訪ねて来たのは、九月の末だった。長公主は、宗廟以外の外出を禁じられ、ほぼ軟禁状態であったが、斉の宰相は例外である。
「楊韻が、緋琬をかくまってくれているの」
「楊韻がなぜ?」
「宝国寺に参拝していて、偶然助けたと言っていたわ」
いまや中山王府の生き残りである平陽公主(緋琬)は、近衛軍が血眼になって探しているお尋ね者である。それを助けたと知られれば、たとえ重臣の楊韻であっても命の保証はない。しかし、長公主の夫となれば話は別である。
「公主をかくまう代わりに、そなたとの婚姻を迫ったのか」
「私が自ら望んだ。・・・私とて、小娘ではない。緋琬や元一族を守るため、そして兄上の暴走を止めるために婚姻はよい方策だと考えたのです」
長公主は、母親の顔を正面から見据えた。幾多の困難を乗り越えて、我が子の命を守ろうと決心したのだ。その娘に止め立てなどできるだろうか。
「緋琬には、斉を出て安全な暮らしができるようにしよう。母に任せよ」
婁氏は、長公主の手をにぎると深くうなずいた。
★ 青蘭と学問 ★
顔紫雲が馬車の窓を細く開けると、中陽門街の通りに厳冬の細雪が降っているのが見える。紫雲は青蘭に誘われて皇太后主催の施粥会を手伝った帰りである。
「皇太后の施粥が、貧しい人々にとってどれほど役にたつと思う?・・・包子と粥一杯よ。皇族の自己満足に過ぎないわ」
顔紫雲は、宝国寺で粥と包子の施しに並ぶ流民の列を思い出した。毎年のように周との戦がある。そして貴族による寺院の建立と庭園の造営は、民に重税と耕地の荒廃をもたらしている。
「紫雲、皇太后を非難するのは当たらないわ。皇太后の生活は皇族の中でもっとも質素よ。施粥だって思いつきじゃない。もう何年もやっているわ」
青蘭は皇太后をかばった。
今日十二月十五日、例年のごとく宝国寺で皇太后主催の施粥が行われた。高長恭の婚約が決まった今年は、令嬢たちの参加が少ない。今年は鄭家の家人が多く参加していた。そこで、青蘭は顔之推の娘である顔紫雲を誘ったのである。
「婁皇太后は女傑ね。義理の父母がいないから気楽かと思ったけれど、皇太后が母親代わりでは、成婚したら、息が詰まりそうだわ」
「確かに師兄を溺愛しているけれど、民を思う心の広い方だわ。それに、成婚後は別の屋敷を賜るのよ」
青蘭を拉致拘束したことは許せないが、決して皇太后の私心からの行動ではない。
「その心の広い皇太后は、青蘭が学堂に通い続けることを許してくれるかしら」
紫雲は窓を閉めると、青蘭の顔を覗き込んだ。
「それは、・・・難しいわ」
今日の施粥に来た皇太后は、「婚儀の準備が忙しいであろう」と、暗に学堂への出入りをやめるように青蘭に暗に言ってきたのだ。
「でも、学問はあきらめたくないの。どうにか方策を考えなければ・・・」
かつて中原にも、曹大家や蔡炎のような学研を求めた先達がいた。しかし、それらの女人は班家や蔡家など学問の家柄で、幼きころより父から薫陶を受けた人物なのだ。
そうだ、顔紫雲はどの様に学問を続けていくつもりなのだろう。
「紫雲は誰かと結婚したら、どう学問を続けるの?それとも辞めるの?」
「もちろん、やめないわ。・・・学問をやめろなんて言う婿は、こちらから願い下げよ。・・・そう、兄弟子達と一緒に講義を受けられないと母がうるさいから。・・・父上や知古の学者に個人的に教授してもらうことになるのかしら・・・」
個人的な授業?・・・当然だというように、紫雲は食盒の中から菓子を口に運んだ。
学問の家の娘たちは、そのような贅沢が許されるのだ。皇族の中には個人的に師匠を選び、教えを受けている者もいる。しかし、そのためには、三顧の礼をもって招聘し、多くの謝礼を払わなければならない。とても自分がそれを望める身分ではない。そして、伝手を見つけることも難しい。
「紫雲が、羨ましいわ」
人間は生まれつき公平ではない。皇族の延宗は望まない師匠の元で学問を強いられ、私は学問を望んでも続けられない。望んでいたはずの長恭との婚姻で、こんな問題が起きるなんて・・・。
青蘭は腕を組むと頭を垂れた。
高長恭の許嫁の年末は忙しい。施粥のあとは、長恭と二人でいくつかの宴に招かれた。人々の注目は長恭に集まり、傍にいる青蘭は女子たちの嫉妬心をあつめることとなった。
大晦日(旧暦の十二月三十日)には、例年通り皇太后府の追儺の宴が開かれた。いつもは閑散とした宴であったが、今年はとみに出席者が多かった。陛下のご乱行が隠しようがなくなり、人々の間に朝政への不満が広がった証拠だった。
★ 皇太后の願い ★
年が改まった。青蘭は、正月の挨拶のために宣訓宮を訪れた。
前庭に入ると、左右の回廊には深紅の灯籠が掲げられて、正殿の前には挨拶の客が溢れている。
昨年までは、忘れられたようにひっそりとしていたが、今年は、正月の挨拶で訪ねる人々が引きも切らない。青蘭は、人々を横目に清輝閣に向かった。
挨拶の人波がひいて、長恭が青蘭を伴って正殿にはいると、婁氏は長恭たちを居房に誘った。
「いよいよ、あと三か月だな。そなたたちの婚儀の日が楽しみだ」
戚里にある新邸は、着々と改修が進んでいる。新邸でどの様な生活が待っているのだろう。
「粛と青蘭よ、そなたたちに頼みがある。・・・平陽公主の行方が分かったのだ」
平陽公主は、北魏の孝静帝と高皇后(太原長公主)の間に生まれた皇女である。諱は元瑛で字は緋琬という。高貴な身分に生まれながら、元王朝滅亡と共に平陽公主の住む世界は一変した。幸い公主の身分は取り上げられなかったものの、戚里の隅の屋敷に追いやられ、仕える侍女や宦官も数えるほどになったのである。
そして、激変した生活にやっと慣れたころ、王朝転覆の不安を感じる今上帝からは命を狙われるようになった。日々、毒殺の恐怖に耐えなければならなかった。
公主にとって出自の高さは反って婚姻の妨げになった。十代の頃、何度か権門貴族との間に縁談が持ち上がったが、火中の栗を拾う者はおらずいつの間にか沙汰止みとなった。そして身分の低い者に嫁ぐには、前王朝の皇族としての誇りはあまりにも高かった。
中秋節の中山王府毒殺事件の時には、宝国寺に参詣していたため、公主は危うく毒殺を免れたのであった。事件後、宝国寺にしばらく匿われた公主は、楊韻の家臣の手により市中に潜伏して年を越した。
婁氏は、辺りを警戒するように声を落した。
「公主は、楊韻の配下の家にかくまわれている。しかし、陛下の探索は依然として続いているのだ。このままでは、いつ殺されるか分からぬ」
太原長公主が丞相の楊韻と婚姻したのには、娘を助けたいという母の願いのゆえだった。しかし、楊韻がかくまっても、今上帝は依然として公主の殺害を諦めていない。
「公主を、数日後安全な場所に移す。そこで、数年ほとぼりが冷めるまで過ごさせるのだ」
自分の息子が、孫を殺そうとしているのだ。婁氏の瞳は、苦悩に満ちていた。
「公主を、鄭家の協力により、河南に逃したいのだ。二人にはその手助けを頼みたい」
青蘭は、いきなり鄭家の話が出てきたので、驚いて婁氏を観た。確かに、黄河の南の大梁には鄭家の屋敷があり、そこに身を隠せば皇帝であっても容易に手が出せぬであろう。しかし、平陽公主を逃がすことに協力したことが露見すれば、一族は死を免れない。そのような危険を犯すとは、母と皇太后は、どのようなつながりなのであろうか。
「座って話そう」
椅子を勧められた長恭は、憔悴した祖母を見つめた。
長恭と青蘭が黎陽に遠出をするとみせかけて、途中で青蘭と公主がすり替わるのだという。緋琬の命を守りたい一心で苦肉の策を考え出したのであろう。近衛軍の目をかいくぐって、平陽公主を逃れさせることなどできるのだろうか。平陽公主は従姉ではあるが、母の仇とも言える馮翊公主の姪なのだ。母にした元一族の仕打ちを考えれば、むしろ近衛軍に突き出してやりたい。しかし、公主の救出は、御祖母様が心から望んでいることなのだ。
「青蘭、平陽公主は私の従姉だ。力を貸してくれ」
平陽公主を救うことは、一人ではできない。馮翊公主への恩讐を封印して、長恭は隣に座る青蘭に目をやった。
「皇太后の命とあれば、当然尽力いたします」
長恭の母親同然の皇太后の頼みを断れるだろうか。青蘭がうなずくと、婁氏の目が明るく輝いた。
★ 黎陽への逃避行 ★
一月五日の中陽門街は、多くの灯籠が飾られ正月の華やぎを見せている。
商賈の大門には、正月飾りの神奈・鬱壘の二神の名前を書いた桃符が掲げられ、門の脇には工夫を凝らした飾り灯籠が掲げられていた。
鄭家、早朝の大門の前に、瀟洒な馬車が停まった。青蘭は視線をさえぎる薄絹をめぐらした笠を被り、珊瑚色の外衣に身を包んで垂花門を出た。青蘭は辺りに目を配りながら、鉄紺色の披風をまとった長恭に近づいた。
「青蘭、世話を掛ける」
長恭の手を借りて、青蘭は馬車に乗り込んだ。長恭は再度馬車の前後を見回したが、あやしい人影はない。騎乗して馬車の前に回った。馬車の前後に騎馬で二人ずつが護衛している。長恭は馬車の横に並ぶと、馬車の窓越しに青蘭に声を掛けた。
「寒いだろう。手爐を置いておいた」
新春の空はどこまでも蒼く、地上の争いごとなど存在しないように澄み切っている。長恭の一行は、城門に向かってゆっくりと大街を南に進んだ。
城門に至った。鄴城では、門衛と近衛軍が門を出入るする人々を取り締まっている。近衛軍の検問は厳しく、いちいち民の通行書や腰佩を検めている。
「散騎侍郎の高長恭だ」
変に偽って怪しまれてはこまる。長恭は大人しく腰珮を示した。 しかし、近衛軍が探しているのは、若い女子である。校尉が馬車の中を確かめたいと言う。
「中にいるのは、許嫁の王青蘭殿だ。貴族の令嬢に姿を見せよとは、無礼であろう」
結婚前の漢族の令嬢が、衛兵に顔を見せるはずがない。長恭は、胸を張ると校尉を睨み付けた。高長恭の花顔は、近衛軍でも知れ渡っている。
「阿蘭、何かありました?」
青蘭は甘えるような声で、窓を少し開けた。窓の隙間から金の簪がのぞき、シャランと明るい音を立てた。わずかに見えた明るい色目の珊瑚色の外衣も若い女子の物である。手配書によると、公主は二十五歳をとうに過ぎた女子のはずである。
「いや、結構です」
校尉は、急に恐縮すると門を通過させた。
長恭を先頭に城門をすぎて早春の草原に出ると、枯れ草色のなかにところどころ若緑色の若草が芽吹いているのが見える。遙か遠くを見渡すと、西には林慮山が雪を戴いてそびえ太行山脈が悠然と連なっていた。
「久しぶりに、青蘭と一緒に過ごせる」
長恭は青蘭の乗った馬車に振り向くとつぶやいた。婚姻には、いまだ二か月以上も待たなければならない。長恭は危険な任務とは別に、青蘭と一緒にいられる嬉しさに自然と唇が緩んだ。
天平寺の大門に到着すると、青蘭は門前で馬車を降りた。
青蘭は、若草色の長裙の上に珊瑚色の外衣を着け、白い薄絹が周囲に長く垂らされた笠を被りその容貌を隠している。
「大丈夫だ、私が付いている」
長恭は青蘭の腕を取り、体を寄せると本堂の方に歩みを進めた。
天平寺は、今上帝が天竺から来朝した那連提黎耶舎を昭玄統に任じ、仏典の翻訳を行なわせている寺院である。本殿の基壇の下まで行くと那連提黎耶舎が黄色い袈裟を着て待っていた。那連提黎耶舎は、天竺から渡来した長身の高僧で長恭の朋友である。
「皇太后様より、うかがっております。どうぞ本堂の方へ」
かつては男の姿だった青蘭が、女子の格好をしていることにも驚かず、那連提黎耶舎は二人を本堂に案内した。
「婚約おめでとうございます」
那連は、本堂に入ると大きな瞳を細めて祝の言葉を述べた。
阿弥陀像への礼拝の後、長恭は那連提黎耶舎に導かれて方丈(僧侶の居所)に向い、青蘭は別房に姿を消した。
「こたびは、昭玄統様に、お世話をかけまする」
「なに、・・・人を生かすは、仏の道でございます。皇太后様には、斉の仏教の興隆に尽力を戴いておりまする。お力になれれば幸いです」
那連提黎耶舎は長恭とほぼ同じぐらいの長身で、年齢は三十歳前後の褐色の肌を持つ美丈夫である。
那連は、長恭の秀でた眉目と清浄な頬を観た。この評判の高い皇太后の愛孫とは、皇宮の仏会のときに偶然言葉を交わした仲であった。鮮卑族にしては温純で学識が高い若者だと思った。その後、仏典の翻訳に興味を持ったのか、時々天平寺に訪ねてくる。
「仏典の翻訳は進みましたか?」
「はい、陛下の喜捨によってだいぶ進みました。しかし、本格的な進展は、新天平寺の造営を待たなければ、・・・それがなかなか」
那連提黎耶舎は、清雅な微笑みを浮かべながらも、頭を振った。天平寺の造営は、昨年始まったが、なかなか進んでいないらしい。高帰彦による木材の横領を知りながら、手が付けられない自分に長恭の胸が痛んだ。
その時、扉が開き青蘭が来ていた珊瑚色の外衣をまとった女人が現れた。髷には年かさの女子には不似合いな金の派手な簪を刺している。
「公主、準備は整いましたか?」
長恭が尋ねると、女人は優雅に礼をした。
平陽公主は二十歳を三、四歳ぐらい出た、色白の瓜実顔に切れ長の目をした女人である。青蘭が先ほどまで着ていた外衣と同じ色目襦裙をまとい、青蘭がつけていた簪を刺している。
「平陽公主、ご安心ください。この高長恭が、黎陽までお送りします」
長恭が拱手をすると、公主も再び礼を返した。
「こちらが、許嫁の王青蘭、世話になる鄭家の令嬢です」
長恭は後ろにいた侍衛姿の青蘭を、公主に紹介した。
高長恭、・・・何と優しげな笑顔だろう。高一族全てを粗野で残虐な仇であると思っていたが、目の前の秀麗な貴公子は温順な微笑みを向けてくれる。
「公主、道中には気を付けられよ。善人には必ず仏のご加護がありましょう。南無阿弥陀仏・・・」
那連提黎耶舎は、手を合わせて公主の無事を祈った。
★ 平陽公主との恩讐 ★
馬車がいまだ冬の姿を残す枯野を南に向って走り出す。
侍衛の甲冑姿の青蘭は、慌てて馬に乗り一行の最後尾に加わった。青蘭がはるか西を望むと、林慮山が雪を戴いている。漳水に別れを告げて南に進むと、日が西に傾いた頃に遠く安陽の城壁が見えてきた。
安陽に着いたのは、宵闇が迫る頃であった。鄭家の手配により、安陽で一番大きな客舎に部屋が取ってあった。安陽に一泊して、その後は馬車を走らせ、黎陽の湊から鄭家の船に乗る手はずになっていた。
青蘭は、部屋に荷物を下ろすと、甲冑姿のまま榻に身体を投げ出した。身体が痛い。公主とすり替わった後は、侍衛になって騎馬で駆ける苦行があるなんて聞いていない。
平陽公主は長恭の従姉妹である。しかし、平陽公主は何かと言えば長恭を呼びつけ、休憩の時にも傍から離そうとしない。慈悲深い師兄は、従姉妹に頼まれれば断れない。しかし、侍女がいるのに皇子に世話をさせるのは納得がいかない。
公主の客房の前を通ると、僅かに扉が開いている。青蘭は思わず立ち止まった。
「公主様、お泣きにならないで」
「私は、大梁に行きたくない」
涙声は、平陽公主である。
「長恭様のいる鄴に留まりたい。高一族はみな残忍だと思っていたわ。それなのに、あのような見目麗しく、優しい皇子がいるとは・・・」
「公主様、・・・もしや長恭様に・・・でも、長恭皇子には許嫁がいらっしゃいます」
俯いていた公主がキッと顔を上げた。
「王青蘭?たかが王将軍の庶子ではなくて?しかも、美女にはほど遠い。・・・私は魏の公主よ。今だって降将の娘には負けないわ・・・」
庶子、美女にはほど遠い。公主の言葉が、青蘭の胸を刺した。確かに世が世であれば、正室所生の公主として華やかに婚儀を執り行い、権門の正室におさまっていた身分であろう。
「皇子であれば、私を守ってくれるわ」
公主は、師兄に想いを寄せている。青蘭は音を立てぬように静かに扉を離れると、自分の客房に戻った。
鏡で自分の姿を映してみる。簪を平陽公主にゆずった青蘭は、頭の天頂で髪をまとめて笄を刺しただけだ。慌てて馬を駆ってきた埃まみれの甲冑姿は、確かに令嬢とは思えない。青蘭は重い甲冑を脱いで藍色の長衣姿になった。
冠の笄を抜くと、髷が解けて髪が肩に掛かる。髪をおろしても埃に汚れた顔は美女にはほど遠く、確かに師兄に釣り合わない。青蘭は溜息をついた。
扉が開き、長恭が入ってきた。
「青蘭、疲れただろう?」
長恭は鏡の前に座る青蘭の後ろに立つと、青蘭の肩に手を置いた。鏡に映る長恭は、埃にまみれても相変わらず麗しい。
「着くのが遅くなった、・・・腹がへったか?」
青蘭は不機嫌に顔を逸らした。
「青蘭,怒っている?」
長恭は後ろから肩を抱きしめると、青蘭の耳元に唇を寄せた。
「悪かった。女子の君に侍衛の格好をさせて、馬で駆けさせるなんて、・・・」
長恭は櫛を取り青蘭の降ろされた髪を梳いた。汗と埃がからまってなかなか梳けない。長恭は器用に結い上げた。
「辛い思いをさせた。あと一日のしんぼうだ。そうしたら、・・二人でゆっくりと寺院に参拝しよう」
振り向いた青蘭は長恭の手をにぎると、唇をとがらせた。
「明日も、私は騎馬で行くの?」
「すまない。・・・いきなり安陽から馬車が増えたら不自然だろう?それとも、公主と同乗するか?」
ここは、移送の安全を第一に考えなければならない。それに、公主主従との同乗はあまりにも気詰まりだ。
「分かったわ。・・・公主のためですものね」
青蘭は唇を強く結ぶと、長恭の肩を拳でたたいた。
青蘭が着替えて長恭の客房に入ると、すでに夕餉の用意ができている。
「青蘭、今日は疲れただろう?」
長恭は酒杯を青蘭に勧めた。
「ゆっくり食べて、明日への英気を養おう」
いつもは他の女子に冷淡な長恭が、公主にはみょうに親切だった。
「師兄こそ、公主の世話で大変だったでしょう?・・・従姉にとても、親切だったわ」
青蘭は、唇を尖らせて長恭を睨んだ。これは、何か誤解している。
「青蘭が公主にすり替わった途端、いきなり対応を変えたら、不審に思われてしまう。だから、君にしているように・・・」
「間者を欺くためなの?」
長恭は、青蘭の手を取ると左の胸に当てた。
「公主の伯母が三兄の母だ。・・・公主を恨みこそすれ、親愛の情などない。恨みからぞんざいに扱ったと思われたくなくて、気を遣ったのだ」
馮翊公主と長恭の母親の確執は、長恭から聞いている。あの親切は、恨みの裏返しだったのか。長恭は、青蘭の手を唇に持って行った。
★ 公主の想い ★
一夜明けて、長恭の一行は安陽を出発した。白水を過ぎて南に進むと、早春の青々とした平原が広がっている。渋ったにもかかわらず、結果として青蘭は前日の同じく侍衛の格好をして従うことになった。
平陽公主が馬車の窓を開けると、すぐ傍に長恭の横顔が見える。
「長恭様、く、苦しくて・・・」
平陽は、窓から手を伸ばすともう一方の手で胸を掻きむしった。
「息が苦しくて・・・」
「あの林のところで休みましょう」
南のところにある喬木の林を長恭が指さした。
太い木の根元に公主が休むと、長恭は水の入った椀を差し出した。
「長恭殿に付き添ってもらって、心強い。しかし、なにやら見張られているようで・・・」
公主は長恭に身を寄せるように見上げた。
「見張られている?」
「ええ、そなたの許嫁が何を勘違いしたのか、客房で私たちの話を盗み聞きしていた。そして、私を始終見張っているのだ。だから、落ち着かなくて・・・」
顔を上げると侍衛姿の青蘭が石に腰掛け、水を飲みながらこちらを窺っている。
「大梁の屋敷に行ったら、私を二度とは戻れぬようにすると脅かしてきたのだ・・・大梁でどんな目に遭うか心配で・・・」
青蘭がその様なことを言うはずもない。
「商人は、卑しくて利にさとい。腹の中では何を考えているか分からない」
侍女が、青蘭を貶めると唇をゆがめた。公主と侍女は青蘭と自分の離間を画策しているように見える。
「許嫁の青蘭は、世話になる鄭家の令嬢で善良な女子です。口を慎まれた方がいいかと」
長恭はつかまれた手を引き抜くと、立ち上がった。
★ 黎陽のたそがれ ★
太陽が西に傾き黄昏が迫った頃、一行は黄河の湊である黎陽に着いた。黎陽は、黄河の北岸に位置する湊町で、様々な商賈が支店や蔵を構え、邑内には多くの客桟が林立している。黎陽には、湊の近くに鄭家が大きな構えの商賈を置いている。しかし、一行は湊からやや離れた広大な別邸に向った。
鄭家の屋敷に入ると、鄴の家宰である楊良信が出迎えた。鄭桂瑛の命により、平陽公主の逃避行を差配すべく先回りして待ち受けていたのだ。
「お嬢様、大変でしたね」
家宰の楊良信は、青蘭の侍衛姿に驚いたが、公主の方に向き直った。長恭は、楊良信を紹介した。
「公主、こちらは鄭家の家宰の楊殿だ。今夜はこに泊まり、明日鄭家の船で大梁に行く手筈になっている。今日はゆっくりと休むがいい」
長恭は、安心させるように温顔で言った。
「長恭様、一人で大梁に行くなんて、心細くてなりません」
細い眉を寄せていた平陽公主は、すがるように長恭を見詰めた。長恭の憐憫の言葉を引き出し、鄴へ引き返したいのだ。
「もちろん公主一人では行かせぬ。公主にぜひ会わせたい人がいるのだ」
長恭が合図をすると、楊家宰が五十歳がらみの老女を連れてきた。
「石婆」
公主は思わず駆け寄ると、老女に抱きついた。
「鄭家の者が、石氏を見つけてくれたのだ。いっしょに大梁に行くがいい」
長恭は、笑顔で二人を見遣ると、目で部屋に案内するように指示した。
公主の部屋は、正房から離れた別棟である。
「石婆、中山王府は、どうなったの?」
中山王が毒殺されたこと以外、中山王府で何があったのかを誰も詳しく教えてくれないのだ。
「公主が宝国寺に参詣していたあの日、王妃様は後宮の中秋節の宴に向かわれました。その日の夕餉の膳に毒が盛られたのです。中山王、二人の皇子方は毒殺されてしたったのです。お仕えしていた者たちも刺客に皆殺しに・・・。私は、櫃の中に二日間かくれて、命拾いしました」
「父上と皇子、そして家臣たちまで殺されたと?・・・」
公主は涙声で、石婆の肩をつかんだ。
「黒幕は、誰なのです?」
「近衛軍を動かせるのは・・・陛下かと」
平陽の肩がぶるっと震えた。高洋は、皇位を簒奪しただけでは不十分で、前王朝の黄帝一族の皆殺しを図ったというのか。
「高一族は、何と残虐なのだ。・・・でも、長恭皇子は見目麗しく温順で、権力闘争とは無縁な方だわ。・・・このまま大梁に行ったら、二度とは顔を見られない。鄴に残りたいの」
すっかり長恭にのぼせ上がった公主は、石婆に訴えた。
「公主、公主を逃すために、王妃様が楊韻に嫁がれたのです。王妃様の思いを無にしてはなりません」
父上が殺されて間もないというのに、母上はもう再婚したというのか。それも、自分の安全を確保するために・・・。中山王家は、何と悲惨な一族であろう。公主は、胸を押さえた。
「長恭様には、すでに許嫁がいらっしゃいます」
「王青蘭が、許嫁?侍衛の格好をして盗み聞きをするような卑しい女子よ。皇子には相応しくない」
侍女の小瑛との話を物陰から聞いていたことを知っている。その事実は、長恭に仄めかしてる。
長恭は青蘭の卑しさに、目が覚めたはずだ。
「公主、王氏は、皇太后様が懿旨で命じた妻です。皇太后様の怒りに触れたら、どうなるかお考えください」
平陽公主は、乳母の言葉に唇をかんだ。
★ 青蘭の矜持 ★
居房には、豪華な夕餉が準備された。青蘭は、沐浴し女子の装いに戻ると、長恭の前の席に着いた。
「公主の脱出に協力してもらい、鄭家にはずいぶん世話を掛けた。感謝している。明日大梁に出発したら、我らの肩の荷も降りる」
長恭は、蜂蜜酒を小さな銀の酒杯に注ぎ、一つを青蘭に渡した。
「感謝だなんて、公主は皇太后様の孫で師兄の従姉妹ですもの。協力するのは当たり前だわ」
本当は恨んでいるという長恭の胸の内を聞いてからは、嫌みを言うわけにも行かない。
「師兄、なぜ陛下は、今ごろ中山王の命を狙ったの?・・・中山王には何の力もないのに」
孝静帝は、今上帝に譲位したはずだ。前帝を殺害すれば、簒奪者の汚名を着るのに。
「陛下は、未だ東魏の復活を恐れているのだ。だから、生かしておけないと思ったのだろう」
陛下が前王朝の皇帝の命を執拗にねらうなら、長兄の息子である長恭は、果たして安泰なのだろうか。
「師兄、陛下の甥である師兄が命を狙われる心配はないの?」
「私が命を狙われる?・・・それはありえない。私は名ばかりの皇子だ。帝位に遠いから、反って安心なのだ」
長恭は考えもしなかったと言うように、頭を振った。
はたしてそれは本当だろうか。以前長恭が一番父親に似ていると皇太后がつぶやいていた。もし注目を集める高位についたとき、皇帝の長兄によく似た皇子に集まる尊崇と嫉妬が恐ろしいと青蘭は思った。
夕餉が終わると、二人は榻に移った。
青蘭が茶杯に陳皮茶を注いで、長恭の前に置いた。陳皮の爽やかな香りが、居房を包む。明朝、公主を船に乗せれば、自分たちの役目は終わる。そうすれば、二人だけの遠出になるのだ。
「私の思い過ごしかも知れないけれど、・・・公主は師兄に好意を持っているみたい」
その態度を見ると、公主の好意は明かだ。
「ばかな、・・・公主は私より五歳以上も年上だぞ」
十五、六歳で婚儀を挙げる皇族において、二十五歳をすぎた公主は上の世代とも言える。
「でも、この前、師兄に好意を持っていると公主が言っているのを、聞いてしまったの・・・」
長恭は、公主の青蘭が盗み聞きをしたという言葉を思い出した。
「君が、公主の話を?・・・まさか、盗み聞きをしたのは、本当だったのか?」
長恭が疑わしげに、青蘭を見た。
盗み聞き?・・・平陽公主の客房の傍を通ったときに、耳に入ったのだ。少し足を止めていたが、意図的に盗み聞きをしたわけではない。
「通りがかりに、耳に入ってだけだわ。盗み聞きなんてしていない」
「耳に入ったのに、盗み聞きはしていないというのか?」
盗み聞きと通りがかりとは、主観の問題でしかない。そう言っているのは、尊き公主なのだ。
「師兄は、私の言葉より公主を信じるのね。・・・そうよね、公主は高貴な身分の従姉妹ですものね。当然信憑性が違うわね」
身分によって命の重みが違うように、言葉の重みも違う。成婚後、意見の違いがあったなら、はたしてだれが自分の言葉を信じてくれるだろう。
「私の言葉を信じない人とは、一緒にいられないわ」
青蘭は荒々しく立ち上がると、客房を出て行った。
公主は鄴に残りたがっている。慈悲深い長恭が公主の懇願に負ければ、公主どころか長恭の命も危ういのだ。それゆえ長恭に公主の心情を告げて注意を促したのに、長恭の蔑むような眼差しが耐えられない。
青蘭は榻牀に身を投げると、顔を手で覆った。これは嫉妬だろうか?嫉妬、何という嫌な言葉・・・。いつも自分を女子の醜い部分から遠ざけようとして来たのに・・・。
ほどなく、居所の扉が激しく叩かれた。
「青蘭、青蘭、開けてくれ」
青蘭は頭から衾を被った。長恭の声が、屋敷じゅうに響きわたった。扉の向こうでは、家人たちが耳をそばだてているにちがいない。
青蘭が仕方がなく扉を開けると、長恭が勢いよく入ってきた。
「頼む、話を聞いてくれ。・・・誤解だ」
抱きしめようとする腕をすり抜けると、青蘭は長恭を見据えた。
「誤解?・・・何のことかしら」
「公主の言葉を信じて、君に酷い言葉を言ってしまった。・・・後悔している」
やっぱり、師兄は公主を信じたのだ。
「公主の言葉を信じるのはもっともよ・・・公主で従姉の言葉は、商人の娘より重みがあるもの」
「いや誤解だ。・・・君を誰よりも信じている」
長恭は振りほどこうとする青蘭をかき抱いた。公主が何を言おうと、長恭には自分を信じてほしかった。それが夫婦というものだからだ。しかし、婚姻が契約である皇族や士大夫の間では、たとえ夫婦であろうと本心を全て明かしてはならないのかもしれない。
青蘭は長恭の身体を突き放すと、窓際に立った。
「師兄、知らないでしょう?私は、本当は嫉妬深いの。楽安公主に相応しくないと言われれば苛立つし、匂い袋を差しだした少女も本当はきらいだわ」
青蘭が蔀窓を開けると、夜の内院から真冬のような寒風が吹きこんでくる。
「でも、もっと嫌いなのは、嫉妬している自分なの・・・だから、師兄と一緒になったら自分を嫌いになってしまいそう。師兄と添い遂げる自信がないの」
長恭は青蘭の腕を思わずつかんだ。
「悪かった、許して欲しい。私にとって、君はただ一人の女子だ。君を信じている」
潤んだ瞳で誓いを立てる長恭に、青蘭はため息をついた。長恭の瞳に抗える女子がこの世にいるだろうか。
「私も、師兄を信じている」
青蘭が胸に頭を寄せると、長恭は優しく抱きしめた。
★ 出発の朝 ★
次の日の卯の刻(午前六時~八時頃)長恭と青蘭は、平陽公主を見送るために黎陽の桟橋に向かった。
大梁は黄河の下流の南岸にあり黎陽からは五百里以上離れた邑である。北斉の領内に位置するが、直接近衛軍が探索することはできないため、安全は格段に上昇する。しかし、大梁に行けば、当分の間は鄴に戻ってくることはできない。
青蘭は、人生を取り戻したくて江陵からのがれて、この黎陽にたどり着いた。しかし、平陽公主は、黎陽を出れば、見知らぬ大梁に行かねばならないのだ。鄴から出たことがない公主にとって、大梁行きは流罪も同然なのかも知れない。
「女子の足で、江陵からここに来るのは大変だったらろう?」
晴児と二人で、馬に乗りいくたの山河をわたって、ここ黎陽にたどりついたのは二年前のことだった。年の終わりの黎陽は、激しく雪が降り身体の芯まで冷え切っていたことを覚えている。
「でも、そのお蔭で師兄と出会えたわ」
「ああ、そうだな。天に感謝せねば」
長恭は青蘭の頬をつまむと、披風の前を合わせた。
馬車で公主が船着き場に到着した。公主は、商賈の娘と言った風情の浅黄色の深衣姿で、後ろには侍女と乳母を従えている。これからは公主の身分を隠して、鄭家の居候として大梁で過ごさなければならない。平陽は万感の思いを込めて岸壁に立つ長恭を見た。
長恭が、寄り添う青蘭に何か話しかけている。白貂の襟飾りの付いた披風をまとった青蘭が、笑顔でそれに応えた。昨日までとは違った豪華な装いだ。何の苦労もなく、懿旨によって長恭の妻に納まった腹黒い女子だ。人の運命とは何と不公平なのだろう。
公主一行が船に乗りこむと、出発の合図が出された。船が静かに動き出し岸壁を離れる。平陽は船縁に立って岸を見下ろした。長恭に向かって手を振るが、長恭は振り向きもしない。
船は、流れに従って動き出す。鄭家の船はだんだんと小さくなり、やがて黄色い川の流れに溶けていった。
平陽公主を黎陽で見送った長恭と青蘭は、帰路についた。元宵節で混み合う客桟で、二人は同じ部屋で一夜を過ごすことになった。