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第五章 死闘・前編 加筆・修正版

〈第五章 死闘・前編〉


 雲一つない、抜けるような青空が見られる今日この頃。

 いつものように勇也が平生と朝食を食べていると、イリアが面と向かって顔を突き合わせるような位置に座る。

 すると、たちまち不吉な予感しかしないような空気が食卓に漂うようになる。

 イリアの真剣な顔からは並々ならぬ決意のようなものが垣間見えたし、勇也も茶にすることなく真正面からイリアの顔を見据えた。

 抜き差しならないような会話が始まる気配が勇也の胃をきつく締め上げる。

 朝の爽やかな気分はどこかに吹き飛んでしまったし、口に含むコーヒーも不快に感じられるほど苦くなる。

 話なら、せめて朝食を済ませた後にしてくれと言いたかったが、イリアの無垢な光を見せる目はそれを許さない。

 天衣無縫なイリアのことだから、こういう時は絶対に厄介なことを切り出してくるに決まっているのだ。

 その予感は裏切られたことがなかった。でも、そういった状況になることを拒絶することはできない。

 イリアの言うことはいつも正しくて、邪な感情は全く含まれていないから。いつだって、イリアは自分のためではなく、他者のために心と力を尽くす。

 その真っ直ぐさが、どう逆立ちしても聖人などにはなれない勇也には眩しくて仕方がなかった。

 だからこそ、勇也も混じり気のない透き通るような心でイリアの言葉に耳を傾けようとする。イリアがどんな難題を口にしても、それを受け止める覚悟で。

 勇也が心の中で身構えていると、イリアが瞬きすら許してもらえないような厳とした顔で口を開く。

「ご主人様。やっぱり、私、この町のモニュメントを破壊します」

 その曇りの払われた目を見るに悩んだ末での言葉なのだろう。イリアの心の中では既に臍が固まっているに違いない。が、勇也としてはそれを二つ返事で承諾するわけにはいかなかった。

「あの男が言っていたことを真に受けているのか。モニュメントは三年くらい前に外国の名士から市に寄贈されたものだし、それを壊したりしたら立派な犯罪者だぞ」

 イリアが警察に捕まるということはないだろうが、ただの人間であり社会的な立場もある自分はどうなるか分からない。

 警察だって馬鹿じゃないし、モニュメントのある場所には監視カメラだってある。その上、寄贈されたモニュメントは全部で五個もあるのだ。

 警察や周囲の目を掻い潜りながら全てのモニュメントを破壊するのは至難の業だ。

「それでも構いませんし、犯罪者にならないような秘策はありますから、ご主人様も安心してください」

 イリアも考えがあって言っているようだが、それでも不安感は拭えないし、勇也も自分の顔色が急に暗雲が立ち込めるように悪くなっていくのを感じた。

「安心しろ、って言われてもなぁ。これ以上の揉め事は御免だし、第一、モニュメントを破壊して俺たちに得になることはあるのか?」

 せっかく、心を休められるような日々が続くと思ったのに、そんなことをしたらまた振出しに戻るような緊張感を強いられてしまう。

 正直、胃に穴が開きそうだが、何を言おうとイリアの心は梃子でも変えられないんだろうな。それは短い付き合いだが、よく理解しているつもりだ。

「損得の問題ではありません。この町に頻繁に神が生まれることによって、傷ついたり殺されたりした人たちがいるんです。それを看過することはでません」

 確かに、看過できないからこそ、羅刹神とエル・トーラーの抗争には首を突っ込んだのだ。

 ただ、あれは母親の身を案じた上での行動だったし、神が頻繁に生まれる件ではもう身内に害が及ぶことはないだろう。そうなると自分が動かなければならない必然性も希薄になる。

 自分が正義のヒーローなどにはなれないことは一時的に捕まった警察署での取調室で嫌というほど痛感したし。

 あの勇也を一方的に犯罪者に貶めようとするような取り調べは子供心には堪えた。

 なので、もうヒーローごっこであんな理不尽な目に遇うのはご免だと勇也も思わされてしまったのだ。でも、それでは人間として前に進めないことも理解している。

 もう一度、赤の他人のために危険を冒せるほどの度量を持てるのかどうか、人間としての真価がこれほど問われることもない気がするな。

「そういうのは然るべき組織に任せてだな……」

 勇也は本当に大きな問題が生じるのならダーク・エイジの組織が何とかしてくれると気休めにも似た考えを抱いていた。

「その組織が頼りないからこそ、事件のようなものが起きているんです。私もこの上八木市を代表する神の一人ですし、この町の平和のために何かしたいんです」

 イリアは謹厳な態度で言ったし、これには勇也も自分の軽々しい言葉では止められないなと思い、間を置くようにパンに噛り付く。

 だが、今はイリアの手作りのジャムが塗られたパンの味を堪能する心の余裕はなかった。それが何とももどかしく感じられる。

「……分かったよ。そういうことなら止められるものでもないし、お前の好きにしたら良い。もちろん、俺も同行する」

 責任は取らないなどという他力本願なことを宣うつもりはない。

 イリアと自分は一蓮托生のような関係だし、イリアが何か不始末をすれば、それを被ることになるのは自分だ。

 それを理解した上で、イリアの好きにさせようと思ったのだから、自分の心も随分と広くなったと思う。

「ありがとうございます。てっきり、真っ向から反対されるものと思っていましたし、ご主人様が物分かりの良い方で助かりました」

 イリアの顔がパァッと向日葵のように明るくなった。

 この笑顔があるから自分も頑とした態度を保てずに押し切られてしまうんだよなと勇也は苦笑した。でも、こういう温かな気持ちは大切にしたいと思う。

「その代わり、ソフィアさんの意見も仰ぐぞ。俺たちが独断で動くには不確定要素が多すぎるし、あの人なら適切な助言をしてくれるはずだ」

 この手のことで相談を持ちかけられるのはソフィアしかいない。

 心許ない部分はあるが、それが嫌ならあれこれ言わずにダーク・エイジの組織に入れば良いのだ。

 そうすれば、組織のバックアップを十分に受けることも可能になる。手探り感の強い今とは違い、進むべき指針もしっかりと見えてくることだろう。

「分かりました。でも、ソフィアさんの言いなりになることだけは止めてくださいよ。あの人は人を丸め込むのが上手いですから」

 イリアは承服したような顔をしてから勇也の弱い部分を突くように言った。

「ああ。こういう時に大切なのは自分の強い意志だ。誰かの言葉でその意思が折れそうになるくらいなら、最初から何もしない方が良い」

 やらないで後悔するより、やって後悔した方が良いという言葉もあるし、こういうことで二の足を踏むのは人間としての器が小さい証拠かもしれない。

 人間、しかも、男なら女の子の期待には応えて見せないと。

「その通りです。少なくとも私は退くつもりは全くありません。もちろん、ご主人様が絶対に駄目だというのであれば、その限りではありませんが」

 イリアが意固地さと柔軟さが入り混じったような声で言うと、勇也は徐にスマホを取り出して、ソフィアと直に連絡を取ろうとする。

 予め彼女の携帯の番号を聞き出しておいて良かったと勇也は自分の抜け目のなさを称えたくなった。

 そして、勇也が何か良い知恵を出してくれるに違いないと縋るようにソフィアの携帯の番号に電話をすると、幸いにも彼女はすぐに親身な態度で応対してくれた。

 やはり、自分の立場をどのように言い繕うと、ソフィアは紛れもない味方だ。だから、本物の安心感がある。

 そう思った勇也は愁眉を開くような顔をすると、ソフィアに事の次第を包み隠すことなく説明した。

「突っ走る前によく相談してくれたな、勇也君。君も私のことだけは信頼してくれているということか」

 勇也からの説明を聞き終えたソフィアはどこか愉悦を感じさせるような声でそう言った。

「ええ。さすがに今回のような一件では、その場の勢いだけでは動けません。しっかりとした状況把握とプランが必要です」

 今回の一件は、イリアの力でゴリ押しするのは危険だと思えるのだ。これはただの直感だが、生憎と虫の知らせというべきか外れる気がしなかった。

「そこで私に白羽の矢が立ったというわけか。なるほどな。まあ、そういう慎重な心構えを持つのは良いことだと思うぞ」

 ソフィアの背中を押すような言葉を聞いて、勇也も心が軽くなる。

 今のソフィアはまるで母親のように思えるな。本当の母親は自分に道を示してくれたりはしなかったし、それは父親や他の大人たちも同じだ。

 それだけに、裏の世界に身を窶すソフィアが立派な大人に思えてしまう。

 まあ、そう安直に思えてしまうのは、ソフィアの表層的な部分しか知らないからかもしれないが。

 ソフィアだってダーク・エイジの幹部だし、冷徹さや非情さがあるような裏の顔も持っているはずだ。それを知っても、尚、ソフィアを信頼できるかどうかはまだ分からない。

「ですよね。慎重に動くことの大切さは、警察に捕まった時に嫌というほど思い知らされましたから。もうあんな目に遇うのは懲り懲りです」

 自分が慎重にならなければ、暴走列車のようなイリアは止められない。イリアの手綱を握れるのは自分だけなのだ。それだけに、課せられている責任は重い。

「だろうな。とにかく、モニュメントが原因で神が頻繁に生まれるのだとしたら、おおよそ二つの要素が考えられる」

 聡明さを感じさせるソフィアの声が硬質を帯びた。

「それは何ですか?」

「一つは神気を増幅させる効果だ。それともう一つは、この町に充満する神気を外に漏らさずに密閉する効果だな」

 この町全体に神気を外に漏らさないような結界が張られているということなのか?

 だとすると、ダーク・エイジの下っ端の構成員でも張れるような人払いの結界とは規模も性質も大きく異なるようだ。

 その上、ソフィアにすら気付かれないように結界が張られているとなると、より千思万考にならざるを得ない。

「具体的にはどうすれば良いんでしょうか?」

 勇也は藁をも掴むような心持ちで尋ねた。

「まずはこの町を囲むようにして設置されているモニュメントから破壊していけば良い。こういうのは小さい効果を生み出している物から破壊するのがセオリーだからな」

 いきなり大きな効果を生み出している物から破壊するのは、危険な爆弾のスイッチを入れるようなものか。影響力を和らげながら事に及ぶのは確かに懸命な処置だ。

「神気が外に漏れだせば、神気の影響力も薄くなるということですか?」

 神気が町中に充満しているから、神が生まれやすくなっていると考えるのが自然だろう。それを薄められれば、必ず自分たちが望んでいるような結果は得られる。

「そういうことだ。だが、肝心なのは神気を増幅させている方のモニュメントだな。その効果を発揮しているのは中央広場にあるやつとて見て間違いないだろう」

 ソフィアの声には揺るぎない確信が籠っていた。

「中央広場にあるモニュメントが一番大きいですしね。まさか、あのモニュメントにそんな仕掛けが施されていたとは」

 勇也も中央広場のモニュメントなら何度も見たことがある。何せ、イリアの銅像のあった場所からそう離れてはいない場所に堂々と鎮座していのだから。

 勇也としては、あのモニュメントはライバルのような存在だった。

 あのモニュメントよりイリアの銅像の方が多くの人を惹きつけ、集められるのであれば、イリアのイラストを描いた自分としては大満足だ。

 でも、イリアの銅像もモニュメントも、双方、同じくらいの人を集めていたので、明確な勝敗はつかなかった。その点は勇也も確かな悔しさを感じていたのだ。

 まあ、そんなことを考えていた時は、モニュメントも芸術的かつ宗教的な雰囲気を感じさせるだけのただの石の塊にしか見えなかった。

 が、まさか、神を頻繁に生み出せるような仕掛けが施されているとは寸毫も思っていなかったし、灯台下暗しとはこのことか。

「驚くのも無理はない。ダーク・エイジの組織の調査すら、すり抜けていたわけだし、気が付かないのも当然だ」

「ですよね」

 今回のことで自分に落ち度はない。ただ、この世界の裏の部分を知るのが、少々、遅かったというだけだ。

「ああ。それと、ここまで教えておいて何だが、モニュメントを破壊することを推奨することはできない」

 ソフィアの声に唐突に苦味のようなものが混じった。

「どうしてですか?」

 何か不都合があるのだろうか。なら、それは隠すことなく教えてもらいたい。後になって何で教えてくれなかったんだと八つ当たりのようなことはしたくないし。

「神が頻繁に生まれる土地というのはダーク・エイジの組織にとっては好都合な場所だからな。それを失わせようとすれば組織と敵対することにもなりかねない」

 その点は勇也も失念していた。

 神が頻繁に生まれることの恩恵を受けている人間たちは少なくないだろうし、それを台無しにしようとすれば快く思わない者たちが必ず出てくる。

 下手したら、彼らと衝突し、戦うことになるかもしれない。そうなった時、どういう決断を求められるか、考えるだけで暗澹とした気分になる。

 悪さをする神の相手は人を超えた力でできるが、無闇に傷つければ罪に問われかねない人間の相手は簡単にはできない。

 でも、そこから逃げだしたら、何も為果せられはしない。全てはこの町のためだし、思いきり大勇を振るい起して見せよう。

「そうですか。ソフィアさんの組織のことまでは頭が回っていませんでした。迷惑をかけて、すみません」

 勇也としてはソフィアだけは自分を裏切らない人間だと思いたかった。でなければ、あまりにも心細すぎる。

「謝る必要はないさ。君はちゃんと私のことを信頼して、相談を持ち掛けてくれたわけだし、そこには私も嬉しさを感じている」

 その言葉を聞くと、勇也もソフィアが悠々と笑っている顔を思い浮かべることができるようになった。

「そう言ってもらえると救われます。ソフィアさんに見捨てられたら、俺たちの未来もお先真っ暗になりかねませんから」

 でも、もし、ソフィアに迷惑をかけるのが嫌なら、初めから相談などしない方が良かったかもしれない。それなら、ソフィアを悩ませることもなかっただろうし……。

 まあ、そんなことを今更、言っても遅いし、全ての責任は自分とイリアの肩に圧し掛かっているのだという覚悟を持とう。

 その覚悟を欠くようでは大事に望む緊張感も失われるし、それでは思わぬところで足を掬われてしまう可能性も出てくるだろう。

「かもしれんな。まあ、そういうわけだから、私もこれ以上の助力はできないし、君たちに何かあっても助けてやることはできないと思う」

 ソフィアは韻律の乏しい声で言った。

「構いません。俺たちは俺たちの責任で動きます。その結果、悲惨なことになってもソフィアさんが心を痛める必要はありません」

 勇也としてもソフィアをただ悩ませることを良しとはしていない。全ては自己責任で動くべきだ。そういう責任感をしっかり持てるようになるのが大人に近づくということなのだ。

 とはいえ、それでも子供のやることを逐一、心配してしまうのが大人という生き物の性なのだろう。

 それは電話越しでも伝わってくるソフィアの言葉の響きからも感じ取れるが、そこは先見の明を持って見守っていて欲しい。

「それができるなら、こんなに楽なことはないんだがな……」

 ソフィアは消え入りそうな声を紡ぐ。顔が見えていたら勇也も訝しんでいたことだろう。

「えっ?」

 勇也はソフィアの声が途中から尻すぼみしてしまったので、思わず調子外れな声を上げてしまった。

「いや、何でもない。とにかく、私個人は君たちの健闘を祈っているし、くれぐれも無茶はしないようにな」

 ソフィアはさばさばとした態度を取り戻したように言うと、勇也との話を終えた。


 勇也とイリアは町を四角く囲むようにして点在しているモニュメントの前に来ていた。

 石の塊でできたモニュメントはモダンさを臭わせつつも古代の文化を彷彿とさせるような文様が刻まれている。

 それが何ともいえない異国的な情緒を醸し出していて、見ているだけで外国を旅しているような気分にさせられる。

 明らかに日本人のセンスで作られたものではないし、このモニュメントを寄贈した名士が外国人だというのは正しい情報なのだろう。

 とにかく、この文化財に指定しても何らおかしくない物を破壊するというのは抵抗感を一足に飛び越えて罪悪感すら抱かせられる。

 町の人間が何かのご利益を期待するように、モニュメントの前にお菓子を置いたり、花を手向けているのも分かる気がするな。

 このモニュメントからは社にも似た宗教的な神秘さが感じられるし。

 まあ、ここまで来てしまった以上、臆病風に吹かれて何もしないという選択肢はないが。

「ご主人様。そんなに思い詰めたような顔をしなくても大丈夫ですよ。どうせ人間なんて上辺だけしか見ていないような連中ばかりですから」

 イリアも神経質になっているのか、その言葉には棘があったが、それを気にできるような平常心は勇也にはなかった。

 何せ、これから犯罪に問われかねないことをしなければならないのだから。気が重いにもほどがある。

「かもしれない。でも、何事も舐めてかかるのは危険だ。世の中、どこで足を掬われるか分ったもんじゃないからな」

 勇也は善意か悪意か余人には分からないような理由で置かれているモニュメントを凝視する。

 やはり、これをどうにかするのは気が咎めるな。自分も美術部の部員だし、芸術的な物を壊すことには大きな抵抗がある。

「はい。では、このモニュメントを内部破壊しますよ。神気の流れ方を感じ取る限り、このモニュメントの内部に仕掛けがあるのは間違いないようですし、今からそれを狂わせます」

 イリアは滑らかな口調で言うと、モニュメントの表面に白い絹のような肌をした手をそっと置いた。

 すると、イリアの掌から光の洪水が巻き起こり、それはモニュメント全体を包み込む。

 何らかの力が働いていることは明白だったが、勇也は見ていることしかできない。それが無性に歯痒かったが、どんな感情を持とうと何もできないことに変わりはない。そのジレンマのようなものが勇也の心を余計にハラハラさせた。

 そして、一分ほど経つとイリアは少しだけ疲労の色がある顔をして、額にかかる金髪をサラッと払った。

「済みましたよ、ご主人様」

 イリアはモニュメントの表面から手を離すと何か大きなことをやり遂げたような清爽とした感じの笑みを浮かべた。

「もう良いのか? モニュメントの表面には罅一つ入ってないし、見たところ何かが壊れたような感じは全くないんだが」

 これで終わりだとするなら、あまりにも呆気ない破壊の仕方だ。

 こんなことなら、あれこれ思い悩む必要はなかったな。案ずるより産むが易しとはこのことだ。

 とにかく、イリアの秘策が何事もなく実って良かった。

「心配しなくても確かに壊れていますよ。もっとも、ご主人様と同じく、このモニュメントの内部を探れる人間はそうはいないでしょうが」

 イリアの発した小心翼々とした気持ちを拭い取るような言葉を聞いて、勇也も肩の荷が下りたような顔をした。

「なら、俺たちの関与が疑われる心配はないってことか?」

 モニュメントはしっかりとカメラで監視されているし、ここにいるのはあまり気持ちの良いものではない。こういう場所からは、さっさと退散したいな。

「そこまでの保証はできませんね。ダーク・エイジの人間以外にも私たちを監視している者はいるみたいですから」

 イリアは誰もいない明後日の方角を一瞥した。

「あの外国人の男のことだな。まあ、一般人に気付かれないのなら、それで良い。モニュメントが内部的に壊れていたとしても警察じゃその手段は立証できないだろうからな」

 魔法のような力を使ったなんて誰かが言ったとしても、そいつは笑い者になるだけだ。

 やはり、気を付けるべきなのは、ダーク・エイジの構成員とこの町で跳梁跋扈する人外の存在だ。彼らの目がどこで光っているか分からないし、それには十分、気を配らないと。

「はい」

 イリアは明朗快活な感じで返事をする。それから、勇也とイリアは町を囲んでいる残り三つのモニュメントを順調に破壊していった。

 このまま何も起こらずに事が済めば良いんだが、と勇也は祈るような気持ちで思っていたが、そうは問屋が卸さなかった。

 なぜなら、最後に残ったモニュメントが鎮座する中央広場は何ともおかしなことになっていたからだ。

 勇也は最後の最後でこんな生きた心地もしないような末恐ろしいプレッシャーに晒されるとは予想していなかったので、思わず家に引き返したくなった。

 が、そこは己の胆力というものを最大限に引き出して耐えて見せる。鬼が出るか蛇が出るか、どちらにせよここで逃げたら負けだ。

 そう思った勇也は背負っていたゴルフバッグから、警察などに見つからないように持っていた草薙の剣を取り出す。

 今日も草薙の剣は頼もしくなるような空気を発していたし、とりあえず、草薙の剣を手にしていれば、いきなり危険に晒されるようなこともあるまい。

 そう思ったものの、やはり押し寄せて来るプレッシャーの波は尋常ならざるものがあり、勇也の顔からはへばりつくような汗が噴き出していた。

「今日は日曜日だぞ、イリア。中央広場に誰もいないなんて幾ら何でもおかしすぎるんじゃないのか?」

 誰の姿も見えないのに肌を突き刺すような感覚だけはある。これと近い感覚を感じたのはあの羅刹神との戦いの最中だ。しかし、羅刹神の時とは比べ物にならないくらいの威圧感がある。

 心を強くしてくれる草薙の剣の柄をしっかり握っているのにも関わらず怯えてしまいそうになるのだ。

 この中央広場には何かとんでもない化け物がいると勇也は本能にも似た感覚で察知していた。

「ご主人様の言う通りおかしいですし、この広場には何かいますね。どうやら、私たちが来るのは待ち構えられていたみたいです」

 イリアはこんな時だというのに、ある種の喜びを抱いているような好戦的な笑みを浮かべながら言った。

「だとしても、この鬼気迫るようなプレッシャーはただ者じゃないぞ。草薙の剣もビリビリと力に反応してるし」

 羅刹神の時はこんな反応は見られなかった。ということは、この威圧感の持ち主は羅刹神以上の力を備えているということだろう。自分の力で適うかどうかは全くの未知数だ。

「でも、向こうが人払いの結界を張ってくれているのはありがたいです。それなら、こちらも思う存分、戦うことができますから」

 確かに誰かを巻き込む心配がないというのは助かるな。少なくとも、このシチュエーションならこちらも人目を憚ることなく全力で破壊の力を振るうことができる。それが通じるかどうかはまた別の話だが。

「結局、最後はこうなるんだよな。世の中ってやつはホント憎らしいくらいに良くできているよ」

 これを最後の戦いにできれば良いと思うが、そんな弱腰な姿勢では逆に自分の命運がここで尽きてしまうことになりかねない。

 そう思えるだけの敵が待ち構えているのだ。気を引き締めてかからなければならない。

「お喋りはここまでです。さあ、行きますよ、ご主人様。二人で力を合わせて、この町の平和を守りましょう!」

 イリアが持ち前のバイタリティーを全開にしたような声を上げると、勇也も勇気を振り絞って人払いの結界を潜り、最後のモニュメントがある方向に歩いていく。

 すると、何もない空間から忽然と浮かび上がるようにして巨人のような怪物が現れた。千里の眼鏡をかけなくても、その裸に近い姿ははっきりと見ることができる。

 羅刹神よりも禍々しい西洋風の鬼の顔をした巨人はイリアと勇也の行く手を塞ぐようにして仁王立ちしていた。

 それを目にすると体の隅々にまで悪寒が走ったし、いつもなら見慣れている中央広場が地獄の窯のように思えてくる。巨人の存在は明らかに日頃の現実というものを侵食していた。

 そんな巨人の手には羅刹神の持っていた金属の棍棒を凌駕するような大きさの大剣が握られている。

 あんなもので斬りつけられたらどんなことになるか、想像するだけで全身が発汗しそうになる。事実、勇也の背中は脂汗で、びっしょりと濡れていた。

 だからこそ、勇也も恐怖を克服するように草薙の剣の力に全幅の信頼を寄せるようにしているのだが、それでも心が押し負けそうになる。

 やはり、この巨人は今までの敵とは格が違う。

「来たか。待ちわびたぞ、ご両人」

 羅刹神を上回る背丈を持つ巨人は対峙しているだけで、こちらの気力を根扱ぎにするような圧倒的なプレッシャーを浴びせてくる。が、それに反して、声の質は穏やかだった。

「あなたは?」

 単刀直入に問いかけたのは、芯の通ったような表情を崩さないイリアだ。

「吾輩はヴァルムガンドル。魔界であるヴァルドランシアの十二軍団の将の一人を務めている者だ。お初にお目にかかりますな、イリア・アルサントリス殿」

 ヴァルムガンドルという名前を聞き、勇也は背筋に冷たすぎる刺激が通り抜けるのを感じた。

 セインドリクス公国に伝わる神話に出てくる悪魔だし、現在でも裏の世界に度々現れては強い影響力を誇示していると聞く。

 おそらくダーク・エイジに関わっている人間なら《豪傑の魔王》の二つ名を持つヴァルムガンドルの名前を知らない者はいないだろう。

 この悪魔に纏わる逸話は枚挙に遑がない。

 かつてはたった一人で大きな国を丸ごと一つ滅ぼしたこともあるという話もあるが、こうして対峙していると、その話も嘘や誇張ではないように思える。

 とにかく、新興宗教が崇める造花のような神とは存在の重さが違うし、今までの相手とは比較にならないほどの強敵と見て間違いないはずだ。

 故に、それ相応の対応が求められる。

 ……にしても、悪魔のくせに随分と礼儀を弁えているような物言いをするんだな。

 殺気は鬼のような相貌から滲み出ているのに、悪意はまるで感じられない。むしろ、清澄さすら感じる。なので、視線の先にいるのは本当に悪魔なのかと疑ってしまった。

「聞くまでもないことだとは思いますが、何が目的でここにいるんですか?」

 勇敢なイリアは不退転の気持ちで臨むかのように問いかけた。

「この広場にあるモニュメントを破壊されるのは吾輩としてはよろしくないことなのだ。だから、こうして阻みに参った」

 ヴァルムガンドルはどこか慇懃さを感じさせる言い方で、そう説明する。

 モニュメントの重要性を隠し立てすることなく教えるなんて、こいつは意外だったよ。もっとも、ここで自分やイリアを殺して口を封じれば良いと内心では冷徹な算段をしているのかもしれないが。

「というと、この町を神が頻繁に生まれるような場所にしたのはあなたということですか?」

 悪魔の企みで生み出された特殊な性質なんて絶対にろくな結果を招かないと勇也も思う。現に、そのせいで犠牲になった人もいるし、その事実は無視できない。

「その通りだ。ただ、モニュメントを寄贈したのは吾輩だが、計画の全容を立てたのは同じく十二軍団の将である悪竜公ジャハガンドラだ」

 《悪竜公》の二つ名で呼ばれるジャハガンドラもセインドリクス公国では幅広く知られているメジャーな悪魔だ。

 ジャハガンドラはヴァルドランシアとは異なるもう一つの魔界、ジャハガルドの支配者だからな。

 その上、ヴァルドランシアの神、ヴァルムナートの盟友だとも聞いているし、ジャハガンドラがこの場に現れなかったのは僥倖と言わざるを得ない。

 とにかく、こんな話を頭の中で噛み砕いていると、本当に悪魔の巣窟である魔界にでも迷い込んだような気分になるな。

「私は今からこの広場にあるモニュメントの内部を破壊するつもりです。阻むと言うなら、あなたを打ち倒してでもそれを実行に移しますが」

 イリアは目の前にいるのが、どれだけ強大な力を持つ敵か理解していないかのように言った。

「構わぬよ。もしも、吾輩を倒せたのなら好きにするのがよろしかろう。ただし、今のお前たちの力ではまず間違いなく吾輩は倒せん。それは承知の上だろうな?」

 ヴァルムガンドルの声からはハッタリの空気は感じられない。

 勇也たちの持つ力の分析は極めて客観的なものであり、また事実でもあるのだろう。その上で自分が負けるはずないと確信しているのだ。力だけでなく頭脳面においても手強い相手だ。

「戦いは水物。死力を尽くして戦えば、どんなに強い相手だって負かすことができる可能性はあります」

 もちろん、その水物で自分が敗北してしまう可能性も多々あるのだが、とにかく、今重要視すべきは持っている力の地力だ。それが勝敗を決めると言っても過言ではない。

「その可能性に縋って命を落とすのは愚か者のすることだが、戦うと言うのなら、吾輩から止める言葉はない。思う存分、力を振るわせて頂こう」

 ヴァルムガンドルから発散されるプレッシャーの密度が飛躍的に増した。それを受け、勇也の肌にもささくれ立つような刺激が駆け巡る。

 対峙しているだけで、これほど心が押し拉がれそうになるとは。ここで尻尾を巻いて逃げ帰ることができたらどんなに楽か。ま、それはできない相談だが。

「ただし、一度、戦いが始まれば例え何があろうと吾輩の剣が止まることは絶対にないと知れ」

 ヴァルムガンドルは脅迫の味を利かせるように言ったし、それは何があっても勇也たちは必ず殺すという身の毛もよだつような宣言だ。

 こういう斟酌のないところはやはり悪魔だし、自分のような人間とは精神的な構造が違う。

「それはこちらも同じことです。相手が豪傑の魔王の異名を取るヴァルムガンドルさんであれば、手加減の必要は全くありませんし、こっちも溜まった鬱憤は吐き出させてもらいますよ」

 イリアはこの掛け値なしの強大な敵を前に、あくまで勝つつもりだった。

 この無鉄砲さは羨ましいが、確かに気持ちで負けていたら勝てる戦いも勝てなくなる。それが戦いの摂理だ。

 なればこそ、戦いを前にして戦意を高めるのは当然のことだ。ただ、相手はその戦意を容赦なく挫いてくる。こればっかりは心構えだけではどうにもならない。

「そうこなくては、面白くない。では、互いに血沸き肉躍る戦いを心ゆくまで楽しもうではないか」

 そう天に突き抜けるような声で言うと、ヴァルムガンドルは手にしていた大剣、おそらく、あらゆる武器に変化するという魔装ヴァルム・グランバをがっしりと両手で構えて見せる。それは一部の隙もない剣の達人の構えだ。

 更にヴァルムガンドルの目には油断のような色は何もなくて、下手な手心は相手に対する侮辱と思っている節さえ感じられる。それはまさしく武人の気構えと言えた。

「では、行きますよ。ヴァルムガンドルさん!」

 その合図のような宣戦を皮切りに、イリアは掌にいつものステッキを出現させる。勇也も自然な動作で鞘の鯉口から草薙の剣を引き抜くと、正中線を意識しながら剣を構えた。

 こうして否応なしに激戦の予感を抱かせる戦いの火蓋は切って下ろされることになる。

 先手必勝とばかりに先に攻撃を仕掛けたのはステッキの先端をヴァルムガンドルに突きつけたイリアだった。

 先端に取り付けられている水晶はイリアの高まり続ける戦意に呼応するかのような鮮烈な輝きを見せている。

 如何なる破壊の力を生み出す魔法が放たれるのか、勇也も巻き添えだけは食わないようにしようと心も体も不測の事態に対応できるように身構える。

 そして、ステッキの先端に瞬時に生み出された火球がメラメラと煮え滾るように燃え上がりながらヴァルムガンドルに向かって放たれる。

 決して避けられない距離ではなかったが、ヴァルムガンドルはかわす素振りすら見せず、驚くべきことに火球に体当たりした。その行動は全く予測ができないものだったので勇也もぎょっとする。

 火球が爆発すると、膨れ上がるようにして巻き起こった爆炎をものともせずに突き破って練磨されたような体を持つヴァルムガンドルがイリアへと肉薄してくる。

 まるでダンプカーだし、そんな死を具現化したような圧巻の巨体がイリアに向かって猛然と迫る。

 ヴァルムガンドルの握る大剣は女の細腕と玩具のようなステッキで受けきれるようなものではない。

 勇也は接近戦であれば自分の出番だと思い、イリアを庇うようにして立ち塞がる。体に炎を纏わせたヴァルムガンドルが凄まじい勢いで間合いを詰めてくるのを逃げ出したくなる気持ちを抑えて待ち受ける。

 火球の直撃を受けてもヴァルムガンドルには何のダメージもないようだったし、その顔にも苦痛の色は一切ない。

 生半可な攻撃は通用しないし、ダメージを与える攻撃には必殺の威力が必要になる。肝心なのは、それだけの威力を練り上げた攻撃が当たってくれるのかどうかだ。

 ヴァルムガンドルは唸りを上げるような豪快な動作で剣を振り下ろしてくる。空間すら真っ二つに断ち割れそうなほどの威力を持っているように見える一撃だ。

 これは避けるのが正解。

 だが、勇也はヴァルムガンドルの膂力を正確に把握するために、その一撃を敢て真っ向から受け止めるという危険な選択を選んだ。

 ヴァルムガンドルの最初の一撃を受け止められるかどうかで、今後の戦い方も大きく変わってくるからだ。

 故に避けて通れるような一撃ではない。

 大剣が叩きつけられた瞬間、腕の骨が圧し折れるかと思われるほどの重々しい衝撃が勇也の体に襲い掛かった。

 その衝撃たるや羅刹神の棍棒の比ではない。力を振り絞って足を踏ん張ったが、その勢いの強さに押されて膝を突きそうになる。

 ヴァルムガンドルの大剣からすれば、あまりにか細い草薙の剣が折れてしまうのではないかと思ったが、幸いにも草薙の剣は摩擦音を立てながらもヴァルムガンドルの強烈な一撃に耐えてくれた。だが、このまま何度も打ち合ったらどうなるかは分かったものではない。

 草薙の剣にだって心や意思はあるし、それを自分の不甲斐ない戦い振りで殺させてはならない。

 勇也は歯を食いしばってヴァルムガンドルの大剣の一撃を受け止めきると、力勝負では分が悪いことを早々に悟り、機敏さを見せるように大剣を巧みな動きでいなした。

 ヴァルムガンドルの体のバランスが崩れ、巨体が僅かに傾く。その隙を縫うようにして勇也は疾風のような斬撃を放つ。

 が、ヴァルムガンドルはその巨体からは想像できなかった身のこなしを見せると、勇也の繰り出した一撃を確かな余裕を持った動きでかわす。

 その体の動かし方は卓越したものがあるし、相当な巨体にもかかわらず、まるでネコ科の動物のようなしなやかさと敏捷性がある。

 それなら、こちらは小さい体を生かした小回りの利いた動きで戦うしかない。

 勇也は心を折ることなく続けざまに剣を何度も一閃させたがヴァルムガンドルはそれを軽々と大剣で捌いて見せる。

 その様子は、まるで剣の稽古を付けられているかのようだった。それから、ヴァルムガンドルは反撃に転じるように、筋肉を大きく隆起させた剛腕で勇也に斬りかかった。

 勇也は受け止めれば自分の体が壊れてしまうと即座に判断し、バックステップを刻んで距離を取る。勢いに乗った剣風が勇也の全身の肌を撫でたし、これには勇也の顔も青ざめる。

 斬撃を空振りさせたヴァルムガンドルが追撃に移ろうとすると、その体にイリアの放った特大の火球がまるで列車が正面衝突をしたかのように直撃した。

 先程よりも大きな爆発が生じ、それが地面を大きく抉り取って視界を遮るように大量の粉塵を宙に舞わせる。

 勇也もこれ幸いとばかりにヴァルムガンドルがいた地点から大きく距離を取った。

 が、爆発から雲海を切り裂くように抜け出たヴァルムガンドルの体には傷一つなく、体を焼いている炎を纏わりつかせつつも何の痛痒も見せなかった。

 そんなヴァルムガンドルは勇也と視線を合わせるとニヤリと不気味に笑う。

「なるほど。さすがに自信を持って悪魔との戦いに臨んだだけのことはある。そこらのぽっと出の神では歯が立たなかったのも頷けるな」

 ヴァルムガンドルは勇也やイリアを値踏みするような目で見る。その視線に射抜かれていると、こちらの手の内が何もかも読まれているような気分にさせられる。それは心身に良いものではない。

「だが、羅刹神やエル・トーラーと吾輩は違うぞ。吾輩は神気によって生み出された者ではなく創造神によって直接、創られた確固たる存在。自然に沸いて出てきたような神とは持っている力の質が違う」

 ヴァルムガンドルは自らの存在への強い矜持を満ち満ちた声で発する。

「創造神から作られた存在は人間の信仰心など必要としない。定められた力というものが、しっかりと決まっているのだ。そこがお前たちとの力の差よ」

 ヴァルムガンドルはそう豪胆に言い放つと再びどこからでも打ち込んで来いと言わんばかりに剣を構える。その構えに綻びを見出すことはできない。

 迂闊に攻撃を仕掛けるのは危険だ。

 勇也はどっしりとした山のようにその場に屹立するヴァルムガンドルに向かって、今度は自分の方から慎重を期して間合いを詰める。それから、銀色のかまいたちと化した剣の突きをそれこそ流星のようにヴァルムガンドルに浴びせた。

 が、ヴァルムガンドルは蠅でも払うかのように、その無数の突きを大剣で難なくいなす。まるでこちらの動きがスローモーションに見えているかのような正確無比な剣捌きだ。

 勇也は身体能力だけでなく、剣を扱う技量でもヴァルムガンドルに歯が立たないことを理解する。

 今のところ、ヴァルムガンドルを上回れるような力は一つも見当たらない。

 それならば、と思った勇也は後ろに大きく跳躍して距離を取ると、光り輝き始めた草薙の剣の刀身を縦に振り下ろした。

 その動作によって生まれた全てを切り裂く光の刃は、ヴァルムガンドルへと閃光の如き速さで迫る。

 勇也が最後に寄り頼んだのは草薙の剣の特殊能力だった。この攻撃すら全く利かないようなら敗色も濃厚になりかねない。だからこそ、勇也も通じてくれと心の中で願った。

 ヴァルムガンドルは飛来する光の刃を大剣で打ち払ったが、それでも消えなかった光の刃の残滓とも言うべきものがヴァルムガンドルの腕を切り裂いた。

 ヴァルムガンドルの二の腕から人間ではありえない紫色の鮮血が迸る。これにはさすがのヴァルムガンドルも少しだけ痛みに顔をしかめた。

「ぽっと出の神の力も馬鹿にできたものじゃないだろ、ヴァルムガンドル」

 勇也は自分の攻撃が掠り傷、程度のものであっても通用したのを見て、何とか自信を持ち直させる。

 例え創造神が直接、作った存在であっても無敵の体というわけではないのだ。であれば、打つべき手はきっとある。

「確かに。鋼鉄を遥かに上回る強度を持つ吾輩の体に傷をつけるとは良い剣だ。これは益々、楽しませてもらえそうだな」

 ヴァルムガンドルは腕の傷には頓着せずに再び剣を構える。すると、目には見えないはずのプレッシャーが可視化したかのような勢いで勇也の体に隈なく浴びせられる。

 勇也は一瞬、自分の首がヴァルムガンドル大剣によって鮮やかに跳ねられたかのような幻覚を見てしまった。気持ちの悪い汗が全身から噴出する。

 そんな勇也がヴァルムガンドルの顔を恐る恐る窺うと、そこには今までのような泰然さが消えていた。

 それが次からは本気の攻勢に打って出るということを雄弁に物語っていた。

 果たして、今の自分にヴァルムガンドルの虚実を尽くすような攻撃に耐えきることができるのか。

 勇也の不安は増大するばかりだが、その不安に臆し、負けていたら今度の戦いではお話にならない。

 が、それでも、怖いものは怖いのだ。そう言いたくなる弱音を恥だとは思わない。ヴァルムガンドルはそれほどの相手なのだ。

 勇也が透徹した目を見せ始めたヴァルムガンドルに恐れ戦いていると、イリアが作り出した特大の光の玉が砲弾のようにヴァルムガンドルに向かって放たれる。

 光の玉は激しくスパークしていて、どんな相手の体であろうと粉々に砕ける破壊力を有しているように見えた。少なくとも鋼鉄程度の頑強さなら打ち崩すことはできる力だ。

 ヴァルムガンドルはさすがに尋常ではないエネルギーを見せる光りの玉とぶつかるのは得策ではないと考えたのか、向かってくる光の玉を大剣で軽々と弾き飛ばす。

 跳ね返るようにして飛んできた光の玉はイリアの横手を通り過ぎ、その後ろで勇也が前のめりに倒れそうになる大爆発を生じさせる。

 激しい爆風が荒れ狂ったが、それは勇也にとっては大したことではなかった。

 問題なのは草薙の剣から放たれた光りの刃を無力化できなかったヴァルムガンドルがどうして光の玉を弾き飛ばせたのか。それが不自然に思えたのだが、その疑問はすぐに氷解した。

 なぜなら、ヴァルムガンドルの大剣の刀身がまるで血に濡れたかのように紫色に光り輝いていたからだ。

 勇也はその不吉な臭いを感じさせる輝きを見て、自らの体が芯から震えるのを感じた。

 あの光にはイリアの魔法と同じような確かな力が宿っている。もう物理一辺倒の攻撃は仕掛けてはこないだろう。

 イリアは全力を込めたような光の玉を矢継ぎ早に打ち出す。だが、物体ではないはずの光の玉はまるでサッカーボールのように四方八方へと弾き飛ばされる。

 光の玉が衝突した場所は次々と耳を劈くような音を轟かせる大爆発を引き起こした。

 イリアは攻撃の手を緩めることなく、今度は指向性の違う攻撃力を宿すビームのような光線を銃弾のように放った。

 が、ヴァルムガンドルは剣の持ち方と刀身の角度を少し変えるだけで、それを防いでしまう。

 それを見ても、イリアはめげることなく全てを貫くような光線を意地を張るように放つ。その内の一発は何とかヴァルムガンドルの腕に命中したが、煙草の火を押し付けられたような跡しか与えられない。

 もちろん、強靭な体を持つヴァルムガンドルは何の痛みも感じていないようだった。

 勇也もイリアと入れ替わるように神風を纏ったような光の刃を連続で放ったが、特殊な力が宿ったヴァルムガンドルの大剣によって全て霧散させられる。

 それでも、がむしゃらに光りの刃を放ったが、やはり無駄を悟らせられるように無力化されてしまった。馬鹿の一つ覚えのような攻撃が通じる相手ではない。

 もう僅かな掠り傷すら負わせられなかったし、これには自らの心が枯れた花のように萎れていくのを感じる。

 結局、イリアの魔法も勇也の光の刃も堅い守りを見せるヴァルムガンドルにはまるで通じなかった。

 その上、自分たちの攻撃を凌ぎきったヴァルムガンドルはその場から一歩も動いてすらいない。

 余裕を見せているのか、それとも本当に動く必要すらなかった攻撃だったのか、どちらにせよ、ヴァルムガンドルの守りは鉄壁だった。

 イリアもさすがにエネルギーを消費しすぎたのか、息を切らせながら効果の上がらない攻撃の手を一旦、止める。

 無駄なエネルギーの消費は死を早めるような劣勢を生むだけだし、ここは冷静になって活路を見出せるような方法を考える必要がある。

 一方、ヴァルムガンドルの鬼の顔には疲労の影は全くなく、イリアとは違って息一つ乱してはいなかった。

 悪魔の貫禄がこれほどまで恐ろしいものだったとは、と勇也は焦燥を超えた心境で打ち拉がれていた。

「遊びはここまでだ。お前たちの力量は大体、把握できたことだし、次からは本気でお前たちの命を刈り取りに行かせてもらう」

 ヴァルムガンドルは殺気と闘気を混ぜ合わせたような空気を漂わせながら言葉を続ける。

「覚悟は良いな、ご両人」

 ヴァルムガンドルの凄味を湛えた笑みを見て勇也は思わず息を呑んだ。

どんな攻撃を仕掛けてくるにせよ、対応を間違えれば即、死に繋がる……。

 そう確信できるようなエネルギーの迸りをヴァルムガンドルの持つ大剣からは如実に感じ取ることができる。

 勇也は内心で来るなら来いと叫び、無理やり心を鼓舞する。繰り返すようだが、気持ちで負けていたら勝てる戦いも勝てなくなる。だからこそ、ここは気合で立ち向かうしかない。

 そう思った瞬間、ヴァルムガンドルは勇也たちがその間合いにいないにもかかわらず力強く剣を振り下ろす。すると、紫色の光の塊が範囲の狭い津波のように押し寄せてくる。

 勇也は咄嗟にヴァルムガンドルの放った攻撃が草薙の剣の光の刃と同じような力だと見て取り横に跳ね飛んだ。

 光の塊は地面を大きく削り取りながら勇也の傍らを猛スピードで走り抜ける。そして、中央広場に設置されていた大きな噴水にぶつかり、全てを蹴散らすような大爆発を生じさせた。

 噴水は木っ端みじんに吹き飛び、周囲にあったベンチも紙屑のように宙を舞って破砕する。まるでミサイルでも落ちたかのような大規模な破壊。

 こんな破壊の力はイリアの全力を込めた光の玉でも見せることはできないだろう。本気を出したヴァルムガンドルの力は並大抵のものではない。

 勇也は羅刹神が繰り出してきた炎の渦などとは比較にもならない強大な破壊の力を目にし、膝が笑い出しそうになった。

 もし、安易に光の刃で相殺しようとしていたら、自分の体も噴水と同じ運命を辿っていたことだろう。恐怖することすらできずに体をバラバラにされて絶命していたはずだ。

 やはり、今のヴァルムガンドルに手加減の文字はない。

 勇也が冷や汗を掻く暇もなく、ヴァルムガンドルは光りの塊を連続かつ怒涛の如き勢いで打ち出してくる。破壊の象徴のような光の塊が幾筋も勇也の傍を目まぐるしく駆け抜けた。

 既に中央広場の石畳は無残な形に蹂躙されて見る影もない。知らない人間が見たら空から爆撃でもされたかと思うだろう。

 まさに、ここは人外の力が振るわれる戦場だ。

 勇也はヴァルムガンドルが繰り出してくる光の塊は例え全力を出しても、相殺は絶対にできないと理解する。となると、避け続けるしか手がないのが実情だと苦々しく悟った。

 ヴァルムガンドルは間断なく、それでいて避ける隙間を与えないように光の塊を打ち出してくる。その攻撃の仕方は実に計算し尽くされていて付け入る隙がない。

 そして、そのあまりの破壊力に勇也の体は良いように翻弄される。光の塊の直撃こそ避けているものの既に体の方はボロボロだった。引き千切れそうな筋肉も大きな悲鳴を上げている。

 光の塊の攻撃は避けるだけでも無視できないダメージを蓄積してくる。このままでは嬲り殺しの状態になるだけだ。

 草薙の剣の光りの刃で応戦してみてもヴァルムガンドルの放つ大きな光の塊に呑み込まれてしまい成す術がない。

 万事休すとはこのことだった。

 勇也はついに力尽きたように両膝を突いてしまう。動けなくなるほどの度重なるダメージを受け、また体力も消耗しきってしまった。打つ手なしだと、勇也は諦観にも似た気持ちで白旗を上げたくなる。

 一方、イリアはというと、宙に浮かんで上空へと逃れていた。

「ここまでだな、少年。ただの人間にしては良く戦った方だが、やはり人間は人間だったか」

 ヴァルムガンドルは失望の念を感じさせるように言った。

 勇也は反論する気力も失い、ドサッと前のめりに倒れてしまった。明滅する視界の中で、自分はこんなところで死んでしまうのかと、絶望の淵に突き落とされたような気持ちになる。

 それでも、勇也は気骨を見せるように顔を上げ、上半身を動かそうとする。

 ヴァルムガンドルはそんな勇也に止めを刺すべく大剣を持ち上げていた。死を宣告するような攻撃が繰り出されようとしている。

 ここまでかと勇也は走馬灯さえ見えた気がした。

 が、ヴァルムガンドルの慈悲のない攻撃の手を止めさせるようにイリアが朗々とした声を投げかける。

「ヴァルムガンドルさん。ご主人様が倒れても、まだ私がいます。そんなに血沸き肉躍る戦いがしたければここまで上がってきなさい」

 イリアはその場から動けない勇也を戦いの余波に巻き込みたくないと思ったのか、誰が考えても苦し紛れの挑発をして見せた。

 それに対し、ヴァルムガンドルはフッと和やかに笑うとイリアの挑発を受けて立つような言葉を発する。

「良かろう。空中戦ができないと侮られては吾輩の沽券に関わる。少年よ、死ぬ前にそこで吾輩の戦い振りをじっくりと見ているが良い」

 ヴァルムガンドルは勇也もイリアも生かして返すつもりはないらしいが、その前にとことん戦いを楽しむような腹積もりを見せた。それから、イリアが待ち構えている空へと浮かんでいく。

 イリアとヴァルムガンドルは距離を保ちながら上空で対峙すると、両者とも敵愾心の火花を散らせるように応戦し始める。

 イリアは激しくスパークする特大の光の玉を放ち、ヴァルムガンドルは空中でも直線状に突き進む光の塊を繰り出した。

 両者の戦いは誰の加勢もできないほど苛烈なもので、まさに本物の神と悪魔が織りなす渾然一体の戦いと言えた。

 勇也は互いに好戦的な性格を持つイリアとヴァルムガンドルの足枷が解き放たれたような戦いを見詰める。

 正直、自分が立ち入れるような余地は全くない。見ているだけがやっとの状況だ。

 だからこそ、何かできることはないのか、そう考えたものの無様に地面を這いつくばることしかできない。

 今の自分はあまりにも情けなく、そして、無力だった。

 勇也は体の痛みが耐え難いほど酷いものだったので、それを何とかするためにポケットから護封箱を取り出す。護封箱の蓋を開けると中から光の球体が出てきて、それはたちまち猫の形を取った。

「ボロボロだけど大丈夫か、勇也!」

 顕現したネコマタがびっくりしたような顔で声をかけてきた。

 さすがのネコマタもいつものようなのほほんとした様子は見せられないようで、その顔には大きな危機感が滲み出ていた。

「大丈夫なものか。とにかく、癒しの法術をかけてくれないか。体中が痛くて死にそうなんだ」

 勇也は血でも吐くように声を絞り出して言った。

「分かった。何とかして治してやるから、待ってろ」

 そう早口で言うと、ネコマタは光り輝く手を勇也の体に向かって翳す。すると、勇也も体の痛みが徐々にだが引いていくのが分かった。癒しの法術の力はちゃんと利いている。

 しかし、いかんせん受けたダメージが大きすぎるので、イリアが時間を稼ぐように戦っている内に傷が治るかどうかは分からない。

 仮に傷が完全に癒えたとしても、本気を出したヴァルムガンドルに対しては何もできないだろう。手も足も出せずに再び叩きのめされるのがオチだし、今度こそ屍にさせられる。

 一方、イリアは最初こそ対等な戦い振りを見せていたが、次第にヴァルムガンドルの力に押され始める。

 ヴァルムガンドルの力は底無しな感じだったし、イリアの力が尽きる方が早いだろう。今のイリアは風前の灯火と言って良い。

 それでも、イリアは最後まで諦めずに戦うはずだ。自分のように、もう駄目だと諦念に支配されて、屈したりはしない。

 それが上八木イリアという名の女神の在り方だし、彼女の設定を作ったのは自分なので、イリアが巨悪を前にして退くことはあり得ない。

 だけど、自分が半ば押しつけてしまっているその設定こそがイリアを死地に追い込んでいるのだ。

 このような事態に陥ることは全く予期できなかったとはいえ、何て軽はずみなことをしてしまったんだと後悔の念に圧し流されそうになる。

 そんなことを勇也が考えている内に、イリアはヴァルムガンドルの攻撃を避けるだけで精一杯になる。

 可憐なメイド服の裾はズタズタに引き裂かれていたし、肌も所々が血を流しながら裂傷している。それは見るからに痛々しく、正視することを躊躇わせた。

 それでもイリアの横顔は凛冽としていて、ヴァルムガンドルへの怯懦に負けるような素振りはこれっぽっちもなかった。

 むしろ、この時ほどイリアの顔が眩く見えた時もない。

 おそらく、イリアは自分の命をこの戦いで使い切ろうとしているのだ。この町の平和を守るために、全てを擲とうとしているのだ。

 何という清冽な覚悟だ。

 ヴァルムガンドルは光りの塊ではかわし続けられ、埒が明かないと思ったのか、急速に間合いを詰めると直接、大剣で切り伏せようとしてくる。接近戦に持ち込まれたらイリアに勝ち目はない。

 その上、ヴァルムガンドルの大剣は輝くだけでなく、紫色のオーラも纏っていて、そのオーラがイリアの服に触れるとその部分が紫色の炎で勢い良く燃え上がった。

 あれは掠るだけでも、かなりのダメージを受けてしまうぞ。

 とうとう逃げられなくなったイリアは迫りくる大剣を華奢な腕で握り締めるステッキで受け止めた。

 余程、頑丈なのか、玩具のようなステッキは折れはしなかったが、ヴァルムガンドルの大剣から発せられるオーラはイリアの手を燃やし始めた。

 イリアは弾かれたようにヴァルムガンドルと距離を取ると、間合いを維持するために弾幕を張るように光の玉を放った。

 が、ヴァルムガンドルは目を見張る神業のような剣技で、向かってくる光の玉を悉く弾き返すと再びイリアと切り結ぼうとする。

 イリアはマシンガンのように光の玉を放ち続けたが、躍動するように進み出てくるヴァルムガンドルを寄せつけないようにすることは叶わない。

 そして、遂にヴァルムガンドルの大剣の一撃はイリアの体を的確に捉えると、肩から胸の辺りまでをバッサリと袈裟懸けに切り裂いた。

 大量の鮮血が宙を舞ったが、それでも傷は思ったよりも浅かったのか、イリアは決死の遁走を計り、またヴァルムガンドルと距離を取った。

「このままじゃ、イリアが殺されちまうし、早く治してくれ、ネコマタ!」

 勇也は痛む体を無理やり動かして懸命に立ち上がろうとした。が、それをネコマタが強い口調で止める。

「無理に動いたら駄目だ、勇也。お前だって相当なダメージを負ってるし、死にたいのか!」

 ネコマタも勇也に負けず劣らずハラハラした顔で上空を見ている。イリアのことを心配しているのは勇也だけではない。

「でも……」

 勇也は焦慮な気持ちに流されつつ口籠った。

「早く体を治して、ここから逃げるんだ。イリアはきっとそのための時間を稼ごうとしている」

 ネコマタの言葉に勇也は目を剥いた。

「俺だけ、ここから逃げろって言うのか! そんなことできるはずがないだろ!」

 勇也の口から喉が腫れ上がるような激情が迸った。が、ネコマタは動じるわけでもなく、どこか達観したような面持ちで首を振る。

 それを見て、勇也はネコマタが本気で逃げろと言っているのだということを激痛の中で理解した。

「でも、勇也が頑張ったって、もう何もできやしない。イリアの気持ちを無駄にしたら駄目だ」

 ネコマタの言葉はやるせない響きに満ちていた。

「そんな……」

 勇也は言葉を失ってしまう。

 イリアを見捨てるくらいなら死んだ方がマシだと言いたかったが、そのイリアが自分を助けるために必死に命を張ってくれている。

 それを無駄にすることはイリアをより悲しませ、不幸にするのではないか。自分のつまらない意地で彼女の思いを踏み躙って良いのか。

 この世には意地やプライドよりも大切なものがたくさんある。イリアの戦う後姿はそのことを象徴しているのではないか。

 それを見てもまだ幼児のような駄々をごねるつもりなのか。

 だが、そうと分かっていても、やっぱり、自分はイリアを見捨てることなんてできない。できるはずがない。

 イリアは孤独に独り暮らしをしていた自分の家族になってくれた女の子だから……。

 それは認めるのは恥ずかしいけれど、本当に嬉しいことだったんだ。態度ではイリアとの生活を迷惑がっていたけど、あれは本心じゃなかった。

 今ならはっきりと言える。本当は彼女との生活が嬉しくて、楽しくてしょうがなかったんだ。もう家族は失いたくない。二度と失ったらいけないんだ!

 父さんも母さんも生きているのに俺の傍からいなくなってしまったから。

 だから、イリアだけはいつまでも俺の傍にいて欲しい。もう二度と俺を一人にしないで欲しい。ずっと俺の心を支え続けて欲しい。

 それが幼児のような我が儘だということは自分が一番、よく理解している。でも、引き下がることはできない。

 ここで引き下がったら、もう二度と胸を張って人生を歩むことはできなくなると思えるから。

 どのみち、ここで逃げてもヴァルムガンドルはモニュメントの秘密を知る自分を殺しにどこまでも追ってくるだろう。

 それなら、死を覚悟してイリアと共に華々しく戦って散った方が後悔しなくて済む。

 最後の最後までイリアと一緒にいよう。それが本当に短い期間ではあるけれど、俺の偽ることのない幸せなんだ。

 その思いだけは誰にも変えられない。変えてはいけないんだ!

 そう勇也が慙愧の念すら感じるように思ったその時、着ている服の内側の胸ポケットからするりとスマホが落ちた。

 勇也がぎこちなくスマホを手にすると、幸いにもスマホは革のケースに包まれていたので奇跡的に壊れてはいなかった。

 でも、誰かに電話したところで助けに来てくれることはないだろう。

 ソフィアさんなら、と一縷の望みをかけるように思ったが、途中で考えるのを止めた。彼女はこの件については助けることはできないとちゃんと警告したのだから。

 仮に、彼女をここに呼び寄せることができても死人が多くなるだけだろう。あのヴァルムガンドルには誰も太刀打ちできない。

 そう全てを諦めかけたその時、勇也の脳裏に天啓のような刺激が暴れ巡った。

「そうだ、これだ!」

 生き返ったような顔をした勇也はそう叫ぶと、勝利を手繰り寄せる起死回生の一手を打つためにスマホを操作し始めた。


 日曜日のお昼という誰もが一息吐ける時間帯、VTUBEのサイトに一本の動画が上がった。

 動画のタイトルには『上八木イリアがこの町の平和を脅かす本物の悪魔と戦っているから応援してくれ』と表示されていた。

 動画はライブ配信で、イリアと大剣を手にした悪魔が激しい攻防を繰り広げている映像がアップで映っていた。

 それを見た動画の視聴者たちは度肝を抜かれたが、何かの特撮映像ではないかと疑る声も多かった。

 それでも、あまりにも真に迫った戦いの光景に視聴者たちも目が釘付けになる。目の逸らしようのないイリアの奮闘振りが視聴者たちの心を捉えて離さなかった。


 二十八歳の会社員の男性が「おいおい、何だよ、この動画。あの剣を持った化け物はCGかなんかだよな?」とコメント欄で意見を求める。

 十九歳の男子大学生が「CGにしてはやけに気合が入りすぎていないか。どう見ても本物にしか思えないぞ」と恐々とする。

 秋葉原の町をこよなく愛するオタクの男性が「これ、特撮じゃないかもしれない。迫真の映像すぎて、イリアちゃんの痛々しさが半端じゃないっす」とイリアが戦っている映像に心を切られる。

 高校中退の虐められニートの少年が「こんな映像、現実にはありえねぇよ。みんな悪魔なんて本当にいると思っているのか?」と猜疑心を滲ませる。

 小学生の少年が「イリアちゃんが、可愛そうだよ。服とかボロボロだし、血もたくさん出てる」と沈痛さを感じているように零す。

 ファミレスで働いているアルバイターの男性が「つーか、例えこれが現実じゃなくて何かのやらせであっても、俺たちのアイドルのイリアちゃんがこんなに必死に戦ってるんだぞ。なら、このビッグウェーブに乗って応援するしかないだろ」とノリの良い声を発する。

 アイドルの追っかけフリーターの男性が「そうだ。ここはつべこべ言わずに乗るしかない。ここでイリアちゃんを応援できなきゃファン失格だし」と言って額にイリアのイラストが描かれている鉢巻を巻いた。

 メイド喫茶で店長を務めている男性が「あんなに可愛いメイド服をボロボロにするなんて、例えやらせでも俺はあの化け物が憎らしいぜ」と息を巻いた。

 いつもは普通の女子中学生でたまにコスプレイヤーに変身する少女が「そうだよ。イリアちゃんのトレードマークのメイド服があんなに酷い状態なんだよ。どんな事情があっても絶対に許せないよ」と義憤を露にする。


 勇也はイリアの映像を撮影しながら、この上八木市の住民からイリアに対する強い信仰心を集めようとしていた。

 イリアに信仰心から生み出される神気が集まれば、イリアを強化できるかもしれないと苦肉の策を思いついたのだ。

 だが、VTUBEのサイトではイリアをすんなりと応援してくれるようなコメントはなかなか出てこなかった。

 みんな、やらせや特撮の類だと思っているのだ。中には現実だと思ってくれている人もいるようだが、あまり多くはない。

 勇也はなかなかイリアに親身になってくれない視聴者たちのコメントを見てここまでかと大きく肩を落とすも、すぐに心を発奮させる。

 映像だけでは駄目なのだ。力を借りたければ、もっと熱意をもって訴えかけないと。

 それはこの町のPRをしている時と何ら変わらない。ただ、今はPRの対象がイリア自身になったというだけなのだ。

 それなら、自分が今ここで口にするべき言葉は決まっている。

「頼む、みんな! 俺たちのために必死に戦ってくれているイリアを助けてやってくれーーー!」

 勇也はスマホを手にしながら大粒の涙を流し、心、いや、魂を震わせるように絶叫した。


 ソフィアは中央広場からそれほど離れていない喫茶店でシロップたっぷりのパンケーキを食べながら紅茶を飲んでいた。

 暗い組織に身を置くソフィアの安息の時間がそこにはあった。

 特に紅茶を優雅に飲む時間だけは誰にも邪魔されたくない。それが酒も煙草も嗜まないソフィアのささやかなプライベートだった。

 が、ポケットに入れていたスマホが何の前触れもなく振動したので、ソフィアも仕方なくティーカップを口に運ぶ手を止めてスマホを取り出す。すると、VTUBEの新着動画の通知が来ていた。

 それが色々と目をかけている勇也の動画チャンネルだったので、少しだけ煩わしさを感じつつも開いてみた。そして、思わず肩を強張らせて驚愕してしまう。

 イリアがとんでもない化け物と身震いを禁じ得ないような死闘を演じていたからだ。動画の詳細欄にはイリアが戦っている化け物は悪魔ヴァルムガンドルと記されていた。

 それを見たソフィアは顔から血の気が引いていくのを感じた。

 ヴァルムガンドルなんてセインドリクス公国の神話にも出てくるような大悪魔じゃないか、と堰を切ったかのように叫びたくなる。

 何というとんでもない敵を相手にしているんだ、あの二人は!

 とにかく、勇也が何を意図してこの動画を撮影しているのかは自明の理だ。助けることはできないとは言ったが、このまま何もせずに指を咥えて見ていることはできない。

 甘いと言われようが、自分にとって勇也は弟のようなものなのだ。それを見捨てたら、一生後悔する。

 そう思ったソフィアは急遽、ダーク・エイジの支部施設へと電話をかける。

「私だ。今から、私が視聴している動画を緊急中継ということで、街頭のテレビや普通のテレビのニュース番組でも見られるようにして欲しい」

 ソフィアは明らかに組織の主義に反することを断腸の思いで頼んだ。

「まさか、イリア・アルサントリスと悪魔ヴァルムガンドルが戦っている映像をより多くの人間に見られるように流せというのですか?」

 電話の相手である組織の構成員は既に動画の内容を見ていたのか、たまらず泡を食ったように問いかける。ソフィアの耳にも相手の戦々恐々としている気配が伝わってきた。

「そういうことだ」

 ソフィアは腹腔に重く圧しかかるものを感じながら言った。

「それはいけません! 神や悪魔の存在が表沙汰にならないようにするのも我々の仕事なのですよ! なのに、あなたはそれとは正反対のことをやれと言っている!」

 組織の構成員が異議を唱えるのはもっともだと言えた。

 だが、ここで形振り構っていては間違いなくイリアや映像を撮影している勇也は殺されてしまう。

 あんな子供が大人でも裸足で逃げだすような途方もない悪魔と戦っているのに、人より優れた力を持つソーサリストの自分が何もしない。それだけは絶対に許容できないことだった。

「責任は全て私が持つ」

 ソフィアは静かだが強固な覚悟に満ちた声で言った。

「ですが、こういったことはゼルガウスト卿やドルザガート卿の判断を仰がないと……」

 組織の構成員はしどろもどろになってしまう。

 それもそのはず、責任を持つと言われても、事が公になればソフィアの首が飛ぶだけでは済まされない。

 下手をしたらこの町の支部にいる構成員、全てが粛清の対象になりかねない。だが、それでもソフィアは一歩も引かずに自分の猛るような感情をぶつける。

「つべこべ言わずに、さっさと私の言う通りにしろ! その結果、どうなったとしても私は日本の侍のように腹を切って見せる!」

 ソフィアは激しい感情に身を任せるようにバンッと拳をテーブルに叩きつけると有無を言わせない怒鳴り声を上げた。

 その瞬間、喫茶店のウェイトレスや他の客たちが一斉にソフィアの方を向いたが、それを気にしている余裕などなかった。

「わ、分かりました。何とか、やってみます……」

 組織の構成員はソフィアの剣幕に満ちた声に押されて、なし崩し的にそう言ってしまった。

 電話が切れるとソフィアは急き立てられるような気持ちを抑えきれずに勢い良く椅子から立ち上がり、会計も忘れて喫茶店を飛び出す。

 大至急、向かわなければならないのはイリアの神気とヴァルムガンドルの魔力が激烈にぶつかり合っている場所だ。

 ソフィアは間に合ってくれよ、と天にも祈りたくなるような気持ちで日差しの厳しい道路を駆けて行った。


 刑事である光国もまたスマホで勇也たちの戦いを見ていた。

 特にイリアが人間の常識では推し量れない化け物と戦っている姿は目に焼き付いて離れることがなかった。

 もちろん、視聴者たちの言う通り、何かの特撮かもしれない。そう思う方が自然だろう。

 だが、光国は人間の力では不可能に思えるほど破壊された野外広場の一件を知っている。そこが普通の視聴者たちとは違うところだ。

 なので、光国もこの映像が本物であることも視野に入れながら、勇也たちを助けるべく全力疾走で中央広場へと向かっていた。

 だが、幾ら走れど、一向に中央広場に辿り着くことができない。

 気が付けば何度も元にいた場所へと戻って来てしまっているのだ。こんな馬鹿なことがあって良いのかと光国もいつになく厳しい顔をして喉を鳴らす。

 光国の相棒である平刑事も、炎天下の中をひっきりなしに走らされたせいか、ぜいぜいと息を切らせていた。平刑事の顔には困惑を通り越した恐怖さえある。

 光国もどうやっても中央広場に辿りつけない焦りと苛立ちで、こめかみの血管が切れそうだった。

「本郷警部、絶対におかしいですよ! どうして、俺たちは中央広場に辿り着くことができないんですか!」

 汗だくの顔をした平刑事が泣き言にも等しい言葉を発した。

「俺に聞くな! 俺だって訳が分からないし、さっきから気持ちの悪い汗が止まらないんだ!」

 光国は滂沱の如く噴き出してくる顔の汗をスーツの袖で何度も拭いながら怒号を発した。

「道に迷ったとか、この暑さで方向感覚が狂っているとか、そんな言葉では説明できませんよ、この現象は」

 平刑事はスマホを取り出すとそれでマップを確認する。光国もそれに倣ったが、そもそもそんなもので道を確認しなくても中央広場の場所を間違えるはずがない。

 自分はこの町で生まれ育ったのだから、中央広場への道が分からなくなるなど絶対にありえないことなのだ。

 だが、そのありえないことが、今、まさに起こっている。その現実から目を逸らすことはできない。

「分かってる。何か俺たちには想像もつかないような力が働いているんだ。これでは本当に野外広場を破壊した神というのも信じなくてはならなくなる」

 それを認めるのは刑事として負けを認めるに等しいようにも感じられる。だが、こういう状況では致し方ない。

 受け入れるべきことは受け入れて、事態をより良い方向に導くのが刑事の務だ。その務めを放棄することだけは絶対に許されない。

 が、理性ではそう思っても、感情の方はなかなか追いついてこない。

「ですよね。やっぱり、この世界には神様や悪魔がいるんですよ。ただ、俺たちが知らなかったってだけで」

 平刑事の声には底冷えするような怯えが混じっていた。

「そう決めつけるのはまだ早い。俺は中央広場を壊している化け物の姿を直接、拝まなければ信じないぞ!」

 結局、自分の目で見たものが真実なのだ。こんな時でも、長年、染みついたそのスタンスは崩せそうにない。だからこそ、一刻も早く現場に辿り着かなければならない。

「そんなこと言っても……」

 平刑事が言葉に詰まったのを見ると業を煮やした光国はスマホで警察署に電話を掛けた。

「課長、中央広場でガキどもがとんでもない化け物と戦っているんです。いますぐ機動隊を出動させて戦いを止めてください」

 苛立ちがピークに達した光国は電話で警察署の本部にいる課長に応援を要請する。

「そうしたいところなんだが機動隊の出動には上の許可がいるんだよ。でも、上は何の指示も出さずに静観しているし」

 課長の何とも頼りない言葉を聞いて、光国は唇が切れそうなほど歯ぎしりした。

 クーラーの利いた部屋から出ようともしない課長のことを思い浮かべると光国も恨めしくて仕方がなくなる。

 なので、つい事件は現場で起きているんだ、などというドラマのような青臭いセリフを口にしたくなった。

「そんなことを言っている場合ですか! ガキどもが命を張ってこの町を守っているんですよ。市民の安全を守る我々、警察が何もしないというのはどういうことですか!」

 光国は溜まりに溜まった怒りを爆発させながら訴えた。

「そうは言っても、中央広場には人払いの結界が張られているし、抵抗力を持たない普通の人間じゃ辿り着くことすらできないよ」

 課長は弱腰な答え方をする。が、その結界という迷信めいた言葉を光国もしっかりと捉えていた。

「人払いの結界って何ですか!」

 光国は中央広場に辿りつけない原因は不可思議な力が働いているからだとようやく認めることができた。

 課長は少なくともその力を知っている。警察の内部にも人知を超えた力について理解のある者たちがいるのだ。

 なのに、自分は長年、刑事をしていたのにそんなことにも気付けなかった。何という間抜けだと己を罵倒したくなる。

 だが、今は自分のつまらない感情に流されている場合ではない。子供の命が掛かっているのだ。安っぽいプライドなどかなぐり捨てるべきだ。

「とにかく、私も上の方に掛け合ってみる。本郷君も命が惜しければ、その場で待機していることだよ」

 そう忠告すると課長は一方的に電話を切ってしまった。

 掛け合うとは言ってくれたが、状況に流されるだけの課長の言葉を鵜呑みにすることはできない。たぶん、応援は来ないだろう。

 つまり、今回の件では警察の力は全く頼りにできないということだ。こんなにも警察の体質にもどかしさを感じた時はない。

「くそ! 子供の命の危機を指を咥えて見ていることしかできないなんて、何のための警察だ!」

 光国は頭から湯気を立てるような顔で叫ぶと、無駄かもしれないと悟りつつも再び中央広場に向かって走り出した。


 イリアはボロボロになりながらも何とかヴァルムガンドルに食い下がるように死に物狂いの抵抗を続けていた。

 与えられた傷は自己治癒力で塞がりつつあるが、いかんせん、魔法を使うエネルギーの方が底を突きかけていた。

 このままではジリ貧になって、やがては宙に浮いていることすらできなくなるだろう。そうなれば、もう成す術なくヴァルムガンドルの大剣の餌食になるしかない。

 ヴァルムガンドルの剣をかわし続けられたのは偏に空中では逃げ回るスペースがたくさんあったからだ。

 地上での戦いになってしまえば、もうヴァルムガンドルの有利は揺るぎのないものになり、そこから生み出される卓抜とした剣技に対抗することは叶わないだろう。

 イリアはまさしく絶体絶命の窮地に追い込まれていた。

「どうやら、ここまでのようだな。我が主がお前のことについては随分と心を砕いていたから、どれほどの力かと思ったが所詮はこの程度か」

 ヴァルムガンドルは落胆したように言ったし、今のイリアは悪足掻きをしているにすぎない。

 イリアとしてはネコマタの力で勇也の体の傷が癒えたら、彼に逃げの一手を打たせるつもりでいたのだ。

 今までの戦いはそのための時間稼ぎだった。

 自分はここで命尽きても仕方がないが、主人である勇也は駄目だ。

 だが、そんな浅はかな考えなど優れた智謀を持つヴァルムガンドルには初めから見抜かれていたようだ。

 だから、勇也の元に舞い降りる隙すら見つけられない。万策尽きるとはこのことか。

「私は……」

 イリアは言葉に詰まりながらも何とかしてこの状況を打破することができないか考えた。が、何も思いつくことはなく、ただ項垂れるしかなかった。

 やっぱり、自分は頭を使うのが苦手だ。だから、数学の問題も一問も解けない馬鹿なのだ。でも、馬鹿なら馬鹿なりにできることがあるはずだ。必死に智慧を働かせれば、どんな逆境でも乗り越えられるはずだ。そう信じて、今日まで短い生を謳歌してきたのだ。

 それが潰えようとしている。何もかもが無駄になろうとしている。そんなの許せるわけがない。だが、今の自分に一体、何ができるというのだ?

「次の一太刀でお前の命を確実に貰い受ける。何か言い残したいことがあるなら、憚ることなく口にするが良い」

 ヴァルムガンドルは正眼の構えを見せると、大剣の刀身に見ているだけで立ち眩みを引き起こしそうな大量のオーラを纏わせた。

 それと同じくして、心臓を握り潰すような途轍もないプレッシャーも押し寄せてくる。

 あの一撃をまともに食らったら、いかに自己治癒力に優れたこの体であっても一巻の終わりだろう。

 せめて、勇也だけでも生かして逃げ延びさせたかったが、それも叶うまい。

 下手な正義感に突き動かされてモニュメントを破壊しようなどと言ったのがそもそもの失敗だった。

 やはり懸念を滲ませていた勇也の言葉にもっと耳を傾けるべきだった。でも、もう何もかもが手遅れだ。

「…………」

 押し黙ったイリアは初めて自分の前向きな心が頽れるのを感じていた。

 それは今までに経験したことがないような深い挫折と、どうしようもないと思えるほどの敗北感だった。

「言葉は不要か。それも良かろう。では、ゆくぞ!」

 ヴァルムガンドルは力強く空を蹴り上げると神速のスピードで、何の構えも取れずに棒立ちするイリアへと迫る。と、同時に肌を切り刻むような鬼気がイリアの体に浴びせられる。

 そして、ヴァルムガンドルは一切の手加減を捨てたような全力の一撃をイリアの体に向けて叩きつけようとする。

 それは、まさに必殺の一撃!

 イリアはもう駄目だと目を瞑ることしかできなかった。が、その手には先端に付いている水晶の光が消えかけているステッキがあり、己の死を受け入れつつもそれを無意識の内に掲げていた。

 それは無駄な抵抗に等しいし、ヴァルムガンドルの斬撃を受け止めれば間違いなくエネルギーが通わなくなったステッキは切断される。

 だが、ステッキの水晶にエネルギーの光を灯せる力はもうなく、打つことができる手は何もなかった。

 剣を叩きつけようとしたヴァルムガンドルが会心の笑みを浮かべる。その笑みは薄目を開けていたイリアの目にはっきりと飛び込んできた。悪魔にあんな顔をさせるなんて悔しいと一瞬、思う。

 だが、やっぱり、自分の命運はここまでだ。

 イリアは内心で自分の我が儘のせいで死なせることになる勇也に心からの謝罪をした。それがイリアにできる唯一の贖罪だった。後は全てを受け入れて棒立ちするしかない。

 イリアがギュッと目を瞑った瞬間、猛烈な勢いを感じさせる衝撃が指先から腕へと這い上がってくる。死が目前に迫っているのをつぶさに感じた。

 これで何もかもが終わりだ。

 ごめんなさい、ご主人様、と心の中で叫んで、約束された死を受け入れようとする。

 が、どういうわけかイリアの掲げたステッキはヴァルムガンドルの強力無比な一撃を食らっても断ち割られることはなかった。待ち受けていた壮絶な痛みも襲ってはこない。

 イリアがはっと目を開けてみると、いつの間にか消え入りそうな光を見せていたステッキの水晶にまるで黄金のような強い輝きが戻っていた。

 そのステッキはヴァルムガンドルの手加減なしの力が上乗せされた大剣を驚くような強度でガッチリと受け止めている。

 それどころか、ステッキだけでなく、エネルギーの尽き欠けていた自分の体にも凄まじい奔流を見せるように力が湧き上がってくるのを感じた。

 大量の神気がどこからかイリアの体に流れ込んでいた。

 それはあまりに信じ難いことで、イリアは「これは一体?」と自分の身に起きていることを理解できず、大きく目を見開いた。


 二十八歳の会社員の男性が「頑張れ、上八木イリア! そんな化け物なんかに絶対、負けるな!」と熱い思いを込めて応援する。

 十九歳の男子大学生が「ここが正念場だぞ、イリア! 歌ったり、踊ったりするだけが能じゃないってことを見せてやれ!」と力強く励ますように言い放つ。

 秋葉原の町をこよなく愛するオタクの男性が「イリアちゃん、僕みたいな男にこんなことを言われても迷惑かもしれないけど、僕はイリアちゃんのことが大好きだ! だから、絶対に負けないでくれ!」とイリアに愛を滲ませた言葉を発する。

 高校中退の虐められニートの少年が「……俺は自分の人生なんてずっとクソだと思ってた。でも、お前の頑張る姿を見ていたら諦めるにはまだ早すぎると気付かされた。だから、そんな化け物はぶっ倒しやがれ! 負けたら承知しねぇからな!」とイリアに激のあるエールを送る。

 小学生の少年が「イリアちゃん、頑張ってよ! イリアちゃんの笑顔を見てるととっても元気が湧いてくるから。だから、どんな時でも諦めずに頑張って!」と純真な思いを言葉に乗せる。

 ファミレスで働いているアルバイターの男性が「もう現実とかそうでないかなんて関係ねぇ! 俺はイリアちゃんが傷ついているところを見たくないんだよ。最後まで、俺たちのような底辺を生きる人間に希望を与えて続けてくれ!」とイリアに救いを求めるような思いをぶつける。

 アイドルの追っかけフリーターの男性が「血を流しながら平和のために戦えるアイドルなんて最高じゃないか! イリアちゃん、あんたは本物だよ。本物のアイドルだよ。だから、絶対にそんな化け物に負けちゃ駄目だ!」と叫んでイリアのイラストが描かれた鉢巻を巻き直す。

 メイド喫茶で店長を務めている男性が「必ずその化け物に勝って東京に来てくれ、イリア! お前みたいな大切な物のために全力で奉仕できるようなメイドが今の東京には必要なんだ! ウチの店にいるような似非メイドたちに、本物のメイドの姿ってやつを見せてやってくれ!」と心を高ぶらせながら更なる息を巻く。

 いつもは普通の女子中学生でたまにコスプレイヤーに変身する少女が「いつも元気いっぱいのイリアちゃんのコスプレをするととっても勇気づけられるの。だから、最後の最後まで私みたいな女の子に勇気を与え続けて! 絶対に化け物なんかに負けないで! 大好きだよ、イリアちゃん!」と心温まる気持ちを吐露する。


 上八木駅前のロータリーにはたくさんの人たちが立ち尽くしながら、ビルに取り付けられている巨大な街頭テレビを見ていた。

 テレビの画面にはイリアとヴァルムガンドルが戦う姿がはっきりと映し出されている。

 その迫力たるや、そこらの映画館の比ではないし、臨場感もかつてないほどの高まりを見せていた。

 それを受け、上八木市の住民たちは、みな熱狂的な声を上げる。

 何が起きているのか分からない人でも、たちまちその場の空気に呑み込まれてしまうような熱の籠りようだ。

 特に小さい子供や女の子はまるで夏祭りの花火が打ち上げられる会場にでも来たかのようにはしゃいでいた。

 その大きな盛り上がりは周囲の大人たちにも伝染していく。

 今や駅前のロータリーでは老若男女のみんながイリアに向かって応援の声を張り裂けんばかりに上げていた。

 しかも、それが町中の至るところで起きていたのだ。それはまさに奇跡のような光景だった。

「頑張れ、イリアちゃん!」

 小学生の少年が小さい喉が壊れそうなほどの大声を発した。

「負けるな、イリアちゃん!」

 五歳になったばかりの女の子が、父親と母親にしっかりと手を握られながら叫んだ。

「フレー、フレー、イリア! 頑張れ、頑張れ、イリア!」

 中学生でチアリーディングの部活をしている女の子が、仲間たちと共に元気の良いエールを送った。

「俺たちは何があろうと、どこまでもお前の応援をするぞ、イリア! ここにいるのは、みんなお前の大ファンだからな!」

 男子高校生のグループが揃って威勢の良い声を上げた。

「そうだぞ、イリア! 俺だってお前のファンだし、そんなクソみたいな化け物には絶対に負けるんじゃねぇ!」

 二十歳くらいの不良のような青年が握り拳を突き上げながら叫んだ。

「ああ。ここで気張らずに、いつ気張るって言うんだ、イリア! もっと根性を見せやがれ!」

 ヤクザのような男性がドスの利いた声援を送った。

「みんなの言う通り、ここが踏ん張りどころだぞ、イリア! あの化け物に、ご当地アイドルの底力を思い知らせてやれ!」

 スーツを着たサラリーマン風の男性が両腕を振り上げた。

「今こそ、本当の正義ってやつを見せてやるんだ、イリア! 正義は必ず勝つ! 絶対に諦めるな! 本官も警察官である以上、決して悪に屈しはしない!」

 警察官の男性が警察手帳の入った胸ポケットに手を添えながら叫んだ。

「女の子だって体を張って戦わなきゃならない時があるんだよっ! 今がその時だし、絶対に負けないで、イリアちゃん! 私もイリアちゃんみたいに自分の人生を一生懸命、戦っていくから!」

 ビジネスウーマンのような女性がイリアを激励するような声を上げた。

「だよね! 女の子だから負けてもしょうがないなんて絶対に思っちゃ駄目だよ、イリアちゃん! 私はイリアちゃんなら必ず勝って、みんなに輝くような未来を見せてあげられるって信じてるから!」

 快活な女子高生が眩しい太陽を見上げながら高らかに言った。

「その意見には同感だし、何がなんでも勝つんだ、イリア! そうすれば、お前はアイドルを飛び超えてこの町の英雄だ! みんなの夢と希望のシンボルだー!」

 オタク系の男性が丸めたアニメのポスターを叩いて小気味の良い音を鳴らした。

「思いはみんな一緒だ、イリア! だから、そんな化け物は打ち倒して僕たちのところに帰って来るんだ! 君は死ぬにはまだ早すぎる! その証拠に、こんなにも大勢の人たちが、君が笑顔で帰って来るのを待っているぞ!」

 不治の病と懸命に闘っている青年が車椅子に乗ったまま覇気のある声を響かせた。

「そうだ! この町の人間だけじゃない! 世界中のファンがお前が勝ってくれることを信じているんだ! だから、絶対に、絶対に負けるなぁぁぁぁぁぁーーーーーー!」

 原付バイクから降りたフリーター風の男性が大きく両腕を突き上げながら天にも届くような声を轟かせた。

 今や上八木市にいる人間のほとんどがイリアの戦う姿を見ていた。そして、それぞれのやり方でイリアに応援のメッセージを送っていた。

 それは大きな神気を生み出し、またそれは中央広場に残されていたモニュメントの力で更に増幅され、膨大な神気となってイリアの体に注ぎ込まれた。

 今のイリアはまさしく上八木市を代表する神そのものだった。


 イリアは温かく心地の良い神気が体中を行き巡るのを感じながら、パッチリと目を開く。

 まだ戦える。

 弱り果てていた自分に力を与えてくれる人たちがたくさんいたのだ。自分は今、多くの人のかけがえのない思いを背負って立った。

 絶対に、絶対に負けられないっ!

 一方、ヴァルムガンドルは満を持して繰り出した自分の一撃がいとも容易く受け止められたことに、驚き惑っているようだった。

「どこにこんな力が……」

 ヴァルムガンドルは剣を一旦、引いて、警戒するようにイリアとの間合いを取ると、再び隙のない動作で大剣を構えて見せる。ただ、その目には自らの鉄の意志すら切り崩されているような揺らめきがあった。

「本当の戦いはこれからですよ、ヴァルムガンドルさん。さあ、覚悟はよろしいですか?」

 イリアの口調にはいつものような不遜なまでの自信が戻っていた。

 事実、今のイリアは誰にも負ける気がしなかったし、浮かべている余裕の笑みも単なるこけおどしではない。

 強大な力を持つヴァルムガンドルを前にしても気負うところが全くなく、どこまでも平然としていられる自分自身が不思議に思えてならないほどだ。

 反撃の狼煙を上げるのは今しかない。目にもの見せてやろう。このみんなの思いが詰まった大切な力を。

 イリアは有り余るほど体に満ち溢れているエネルギーを使って、少しでも触れようものならたちまち肉が弾け飛ぶようなスパークをする光の玉を作り出す。

 良い感じにエネルギーが自分の体の中で流動しているのを感じたし、今ならきっとヴァルムガンドルにも通じる力が放てる。

 そして、イリアは自分でもイメージが追いつかないほどの破壊の力が籠った光の玉を目にも留まらないような電光石火の速さで打ち出した。

 当然、ヴァルムガンドルは今までのルーティンの繰り返しのように大剣で光の玉を弾き飛ばそうとする。

 が、ヴァルムガンドルは予想していなかった衝撃を感じたように、グッと苦悶の表情を浮かべる。

 光の玉は振り払われた大剣を強引に押し返すと、そのままヴァルムガンドルの体にまともに命中した。

 その瞬間、光の玉は空間を撓ませると、ヴァルムガンドルの肉体そのものを爆ぜ割って見せるように恐ろしい規模の大爆発を引き起こす。

 その破壊力ときたら激甚たるもので、一目散に逃れるようにして爆発から飛び出たヴァルムガンドルの体からは白煙が立ち上り、また体の至るところからは大量の血が噴き出していた。

 その傷だらけの顔には確かな苦痛の跡が見て取れる。

 初めてヴァルムガンドルの体にダメージらしきものを与えられたので、イリアも手応えはあったと心の中でガッツポーズを決めた。

 今の自分の力なら間違いなく通じる。

 全ては自分の体にたくさんの神気を届けてくれた人たちのおかげだ。

 まだまだ戦える!

「この力は何だ? 吾輩の与り知らないところで何が起きたというのだ?」

 ヴァルムガンドルはイリアの力が目を見張らなければいられないほど唐突に増大したことに困惑を隠しきれないようだった。

 イリアも何の説明もしないでおくのは何だかフェアな精神に反することだと思い、ゆっくりとそれでいて事も無げに口を開く。

「確かに、盤石たる存在のあなたからしたら、やはり、私はぽっと出の神なのかもしれません。ですが、あなたを上回る力を得られる可能性はそこにあったんです」

 イリアは学校の教室で講義でもするかのように説明を始める。それに対し、ヴァルムガンドルは益々、疑念を深めるような顔をして見せた。

「どういうことだ?」

 解せない顔をするヴァルムガンドルは大剣の切っ先をイリアに向けたまま、浮足立っているような声で尋ねた。

「まだ分からないんですか? 神気によって支えられている私のような神は確かにしっかりと定まっているような力を持つことはできません。ですが、やはりそれが大きな可能性なんです」

 イリアはヴァルムガンドルの理解が及ぶように簡潔さを心がけている説明をする。

「お前の体に注ぎ込まれる、この神気の流れは、まさか!」

 合点がいったような声を上げたヴァルムガンドルはここに来てようやく神気の流れを探ったのか、驚き入るような表情を浮かべた。

「そうです。力は定まりませんが、それは人間の信仰心の強さと量次第で、どこまでも力が増大する可能性を秘めているということなんです。力の量というものが完全に定まってしまっているあなたにはできない芸当ですね」

 イリアは勇也がスマホを翳して、自分たちの戦いを撮影しているのを知っている。それが自分の力をこうも檄的に底上げしたことにも気付いている。

 だからこそ、勇也の機転の利いた行動には心の中で拍手と喝采を送るしかなかった。

「なるほどな。道理で手強いはずだし、それがこの町の神の可能性というわけか。神を生み出す仕組みを作った一人の吾輩がそのことを失念していたとは。いやはや、とんだ間抜けにもほどがあったな」

 ヴァルムガンドルは敬服したような顔で言葉を続ける。

「いずれにせよ、そこまでの自信を見せられるほどの力を得たというのなら、吾輩としても相手にとって不足はない。全力でお前を叩き潰しに行かせてもらうぞ」

 ヴァルムガンドルはもはや一欠片の油断も見せずに、大剣の刀身に目が眩むような強い光を纏わせて見せた。

 今のイリアと同じく、ヴァルムガンドルの体から発せられるエネルギーの波動の強さもまた並外れている。

 どんな力を得ようとヴァルムガンドルが手強い相手であることに変わりはない。

 そして、ヴァルムガンドルは雷光の如きスピードで、戦いを仕切り直すようにイリアへと果敢に斬りかかる。が、逃げる気は毛頭ないとイリアは不敵に笑う。

 死を体現したような斬撃が迫るのに対し、イリアはヴァルムガンドルの大剣をさして力を入れていないような細腕で握るステッキで苦もなく受け止めて見せる。

 今までのような体が大きく軋み、耐えきれないような衝撃はもう伝わってはこなかった。それどころか、今のヴァルムガンドルの斬撃は驚くほど軽く感じられる。

 これがみんなの届けてくれた力……!

 ヴァルムガンドルの斬撃を完全に受け止めきれた喜びも束の間、大剣のオーラで手が燃え上がった。

 が、それを上回る自己治癒力がイリアの体をたちまち完全回復させる。炎など痛くも痒くもなかった。

 今の自分に小手先の攻撃は通用しない!

 イリアはヴァルムガンドルの大剣を軽やかにいなして見せると、ヴァルムガンドルの体へとステッキを横殴りに叩きつける。

 そのぱっと見では分からないほどの重みを秘めた殴打はヴァルムガンドルの脇腹にもろに命中する。それから、鋼鉄を遥かに超えるという頑強さを誇る体の肉を圧し潰し、骨を砕いた。

「グハッ!」

 ヴァルムガンドルはたまらず口から血塊を吐き出す。その表情は大きく歪んでいた。

 これほどの苦痛に満ちた反応を見せたのは初めてだったし、絶対に大きなダメージを受けている。

 であれば、畳みかけるのはこの機を置いて他にない。

 イリアは変幻自在の動きを見せながらヴァルムガンドルの体にまるで嵐が巻き起こったかのようにステッキを絶え間なく何度も叩きつけた。

 ヴァルムガンドルは自分に加えられる神速すら超えたスピードを持つ攻撃を受け止めることができずに、体のあらゆる個所に熾烈極まりない殴打を浴びてしまった。

 それはまさに一方的な展開で、ヴァルムガンドルの体には生々しい無数の傷跡が連鎖的に刻みつけられていく。

 そして、とうとうヴァルムガンドルは張り詰めていた力の糸が切れたかのように、頭から地面へと落下していった。

 ズドンッと岩石でも落ちたかのような轟音が辺りに響き渡る。

「お、おのれ、吾輩が剣を交える攻防で、こうも後れを取るとは……」

 悔し気に言葉を吐き出すと、ヴァルムガンドルは地に落ちた体を何とか起き上がらせようとする。

 しかし、すぐにはそれができず、やはりイリアから雪崩を打つように与えられたダメージは大きかったようだ。

 イリアはそんなヴァルムガンドルを見て、これ以上、戦いを長引かせるのは危険かもしれないと思う。

 追い詰められた者は、得てして予想ができないような行動をして見せるものだから。手負いの獅子の力を甘く見てはいけない。

 イリアは一気に蹴りをつけてしまおうと自分が誕生して以来、一番のエネルギーを込めた光の玉を作り出した。

 今なら大きな噴水を破壊したヴァルムガンドルの光の塊以上の威力を生み出すことができる。これが決まれば、この長かった戦いにも確実に決着はつくだろう。

 イリアはヴァルムガンドルに向かって太陽の如き大きさと神々しい輝きを見せるエネルギーの充溢しきった光の玉を放とうとした。

 が、そこで誤算とも言うべきことが起きる。

 ヴァルムガンドルの視線が自分ではなくスマホを翳している勇也の方に向いていたからだ。ヴァルムガンドルの顔には目から鱗といったような感情が生じていた。

 それを見たイリアは全身に震駭するような刺激が駆け巡るのを感じる。思わず心の中でしまったと叫んでしまった。

「貴様だったのか、小細工を弄していたのは!」

 怒号を発したヴァルムガンドルは大剣を大きく振り翳すと勇也に向かって体の傷をものともしないように跳躍し、全てを断裂する勢いで斬りかかる。

 それを止めることはイリアにもできない。

 完全な失態だ!

「危ない、勇也っ!」

 勇也が斬り伏せられようとしたその時、ネコマタがヴァルムガンドルの前に飛び出る。そのままネコマタは大剣による一撃を浴びて、真っ二つになった。

 それを見たイリアは心からサーッと今までの高揚感が消えていくのを感じる。

 と、同時にヴァルムガンドルの大剣から生み出された凄まじい剣風は勇也の手からスマホをもぎ取る。スマホは大きく吹き飛ばされて地面に落ち、液晶の画面はバリンッと割れてしまった。

 が、勇也は壊れたスマホの方には目をくれずに、体の輪郭を霞ませているネコマタの方を見る。

 ネコマタは痛みすら感じ取れないのか、何とも弱々しい笑みを浮かべていた。

「大丈夫か、ネコマタ! しっかりしろ! 絶対に死ぬんじゃないぞ!」

 勇也は二つに分かれ、血の代わりに光の鱗粉を垂れ流しているネコマタの痛ましい体を必死の形相で抱きしめる。

 だが、ネコマタの顔にはくっきりと死相が浮かんでいた。

「……ごめん、勇……也。おいら……弱っちいから、こんなことしか……できなくて……。また水月堂のお饅頭を……一緒に……食べたかった……な……」

 そう切れ切れの声を絞り出すとネコマタは「少しの間……だったけど……勇也と暮らせて……本当に……楽しかったよ……。おいらは……ここで……さよならだ……。でも、勇也は……必ず生きて……イリアと………幸せ…………に……………」と言って、安らかな笑みを浮かべたまま消えてしまった。

「ね、ネコマターーーー! うぅぅぁぁぁぁぁーーーーー!」

 勇也は泣き叫びながらネコマタの体をより強く抱きしめようとしたが、その手は虚しく空を切る。

 ネコマタの体の輪郭はもはやどこにも残っていなかった。ネコマタは勇也の身代わりとなって死に、消滅してしまったのだ。

 その事実に、勇也は血のような涙を流しながら、怒りと悲しみが綯い交ぜになったかのような慟哭を上げた。


〈第五章 死闘の後編に続く〉

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