第二章 神たちへの挨拶 加筆・修正版
〈第二章 神たちへの挨拶〉
現場には三体の焼死体が横たわっていた。
顔の判別もできないほど死体は酷く焼かれていて、見る者の吐き気を催させるような状態になっている。独特の異臭も漂ってくるので、それも鼻を衝く。
数日前に上がった死体とは別のベクトルで酷い状態の死体となっていた。人によってはこちらの死体の方が見るに堪えないと思うかもしれない。焼死体に対する忌避感は特殊な職種の人間にしか分からないだろう。
しかしながら、警察官である以上は、どんなに惨たらしい状態の死体でも、その様子を確認したくないなどという我が儘は許されない。情けなく胃の中の物を吐いて、現場を汚すなど以ての外だ。
こういう凄惨な事件の時にこそ、警察官としての資質が大きく問われることになるのだから現場検証にも動じぬ心で臨まなければ。
それができないというのなら、警察官などは辞めて平和な仕事に従事できる市役所の職員にでもなった方が良い。世の中、適材適所だ。
そう自分に言い聞かせながら、光国は他の刑事たちと共に現場に残されていた遺留物を丹念に調べていた。
「今度もまた酷い殺され方をしていますね。鑑識によると被害者は生きたまま火で焼き殺されたそうです。やっぱり、前の事件との関連性はあるんでしょうか?」
平刑事が口元にハンカチを当てながら光国に尋ねてくる。新米には刺激が強すぎる死体だったらしい。
だが、光国も部下を甘やかすつもりはないので、平刑事の様子にも理解は示しても同情はしない。惨たらしい死体との対面は、刑事であれば避けて通ることはできないのだ。
「あると見て間違いないだろうな。しかも、今度の被害者は三人だし、犯人が単独犯であるという可能性はほぼ消えたと言って良い」
光国はまだ運び出されていない死体を一瞥しながら言った。
「でしょうね。となると、これは本郷警部の睨んだ通り、組織同士の抗争でしょうか?」
「まだ断定はできないが、俺はそう見ている。しかも、被害者の背中にかろうじて残っていた入れ墨は羅刹組の人間が彫るものだしな」
羅刹組の人間が加害者ではなく逆に被害者になるというのは本当に珍しいケースだった。
それだけに、光国も悪寒のようなものを感じる。長いこと刑事をやってきたが、このような感覚に苛まれるのは初めてだ。
とはいえ、この事件を放置しておけば、近い内にもっと大きな事件が起きるような気がするし、刑事としてこれ以上の死人が出ることは絶対に防ぎたい。
だが、現時点では、その方法が見つからない。
警察の捜査が完全に後手に回ってしまっていることは光国も悔しさを感じつつも素直に認めているし。
この状況を打開するには、もっと踏み込んだ捜査が必要だが、腰の重い上の連中がそれを了承するかどうか。
「羅刹組の人間を殺すなんて正気の沙汰じゃありませんね。そんなことをすれば、どんな報復が待っているか……」
警察官でも羅刹組の人間と事を構えるのには大変な勇気がいる。家族や配偶者などがいれば尚更だ。だからこそ、羅刹組絡みの事件に関しては警察もつい及び腰になってしまう。
「羅刹組を恐れない組織に属している人間がやったという線が濃厚だとすると、やはり、外国が発祥の宗教団体が臭いな」
狂信的な信者であれば、例え相手が地元で畏怖の対象になっている暴力組織の人間だったとしても抵抗なく殺してのけられるかもしれない。少なくとも、こういう殺人は普通の精神構造を持っている人間には無理だ。
何せ、今度の死体は見ているだけでベテランの刑事の光国の精神ですら疲弊させてしまっているのだから。であれば、一般人に耐えられるような類の殺人ではない。
「なら、羅刹組や前の被害者が所属していた真理の探究者に対してはもっと踏み込んだ捜査をする必要がありますね。気が重い捜査ですが、我々も逃げるわけにはいきません」
平刑事は警察官としての矜持を滲ませながら言ったし、光国も新米にだけ良い恰好をさせるわけにはいかないと奮起する。
「そういうことだ。これ以上、死人を増やさないためにも警察の威信にかけて、今度の事件は徹底的に調べ上げるぞ!」
光国は自分の心に喝を入れるように言うと、いつものように聞き込みをするために事件の現場を後にした。
カーテンの隙間から差し込んでくる日の光が眩しいダイニングルームで勇也は朝食のパンと目玉焼きを食べていた。
それは優雅な朝食というものを体現したような光景。まるで、高級ホテルのレストランにいるような心地だ。実際には見すぼらしいアパートの一室なのに。でも、そう錯覚させるだけの力が今の光景にはある。
そんなことを思う勇也の傍にはメイド姿のイリアがいて、本物の給仕のように勇也のマグカップに湯気を燻らせるコーヒーを注いでいる。入れたてのコーヒーの苦みも絶妙だった。挽き立ての焙煎豆を使っている喫茶店のコーヒーにも負けてはいない。
また、イリアの作る朝食は簡素なものではあったが、まだ一緒に暮らしていた頃の母親が手をかけて作った朝食に勝るとも劣らない味がした。
どことなくホロっとさせられるようなスパイス染みた愛情も感じるし、イリアはアイドルだけでなくメイドとしても超一流のようだ。
こんなメイドなら金持ちの屋敷などで働かせても、さぞ喜ばれるような仕事ぶりを見せてくれることだろう。イリアの勤勉さは、そうそう真似できるものじゃないし。
それだけに、今いるようなボロアパートにイリアを縛り付けておくのは少し後ろめたさを感じた。
「お食事の最中にすみませんが、ちょっと良いですか、ご主人様?」
イリアはいつものような底抜けの能天気さは見せずに、どこか思い詰めたような暗い顔で声をかけてきた。
これには勇也も眉を持ち上げたし、イリアも宝石のような瞳に影を落としながら勇也の顔を真っすぐ見据える。
その視線に射抜かれた勇也は、思わず目を逸らしたくなったが、どうしてもそれができなかった。
「改まったような顔をしてなんだよ? 言っておくが、金に関しての相談なら受けられないからな」
勇也はコーヒーを啜る手を止めて怪訝そうな顔をする。何となくではなく、絶対に自分にとって歓迎できないような話が始まる予兆を敏感に感じ取っていた。
「ち、違いますよ。私、昨日からずっとなぜ自分が生まれたのかを真剣に考えていたんです。どういう仕組みで神様たちが頻繁に生まれているのかも知りたいと思っていました」
イリアは自分の正直な気持ちを覆い隠すことなく吐露しているようだった。
「そうか……。まあ、そりゃそうだよな。昨日はあんな危険な目に遇わされたし、他の神たちのことも知りたくなるのは当然か」
ここで茶化すほど勇也も無粋な人間ではないし、昨日の恐ろしい激闘が頭の中でフラッシュバックする。
すると、たちまち心胆が寒からしめられたし、イリアの抱く深刻さも如実に伝わってくる。
まあ、何も知ろうとしなければ、事態がもっと悪い方向に転がっていく可能性は決して否定できないからな。それなら何らかのアクションを起こしてみるのも手かもしれない。
「仰る通りです。だから、私はこの町に住む神様たちに挨拶回りをしたいんです。そうすれば、もっと自分のことが分かるかもしれませんし」
イリアの言葉には切実な響きがあった。
こんな殊勝な態度を見せるイリアは初めてなので、斜に構えがちな勇也も少しだけバツが悪そうに頬を掻く。ここは素直な気持ちでイリアの話に耳を傾けるべきだ。
「それは悪くない行動だと思うぞ。自分のことを分からないまま放置しておくのは危険だし、知るべきことは知っておかないと」
もし、自分がイリアと同じ立場だったら、真っ先にその謎の究明をしようと行動していただろう。だからこそ、イリアの言葉を面倒くさいなどと言って却下することはできなかった。
「ですよね、さすがご主人様! いつものことながら正しい状況認識というものができています」
イリアはテーブルに身を乗り出しながら笑う。その勢い余るような態度に勇也も反射的に身を引いていた。顔が近すぎるぞ、イリア。
「お世辞はいい。まあ、俺も昨日の話を聞いてからずっとモヤモヤしていたし、とてもじゃないが、今は金儲けのPR活動に精を出す気にはなれん。だから、お前のやることに付き合ってやるよ」
ソフィアの言葉を全面的に信じるのであれば、ダーク・エイジの組織も勇也たちに対しては当分は大人しくしていてくれるだろう。
ただ、ダーク・エイジのホームページを閲覧したところ、この町には他にも危険かつ過激な行動を辞さない組織が幾つもあるらしい。
あまり目立ちすぎると、そいつらの興味を引いてしまうかもしれないし、そうなればもっと厄介なことに巻き込まれるかもしれない。
それだけに慎重な立ち回りが求められている気がした。
「ありがとうございます。何だかんだ言って、私のことをちゃんと考えてくれていることには感謝しかないです」
「感謝などいらんよ。俺は自分の中の疑問を解消するために、お前の行動の後押しをしてやっているだけだからな」
好奇心に負けただけの勇也は百パーセントの善意なんて、そうそうあるもんじゃないと心の中で毒づいた。
「では、少し心苦しくはありますが、私の自分探しに付き合ってください。そうすれば、ご主人様にも必ず得るものはありますよ」
イリアは勇也に自分の取ろうとしている行動を肯定されて欣然とした表情を見せた。
焚きつけるようなことを言ってしまった勇也もやれやれと苦笑する。イリアのノリの良さは、もはや天然だな。
このある種の純粋さは心が汚れていると自覚している自分には眩しくて仕方がない。まあ、今は敢てその眩しさに引っ張られてやろう。
「だと良いんだけどな。それでどうするつもりなんだ? 神様たちに挨拶をしたいって言っても、そいつらが何処にいるのかなんて分からないだろ」
神は目に見えないが、ソフィアから渡された千里の眼鏡を使えばその姿を確認することができるかもしれない。
とはいえ、上八木市の町は相当広いし、当てもなく歩いたところで神たちを見つけられるとは到底思えない。
貴重な夏休みの時間を無駄にするのは嫌だし、それに関して、何か良い打開策があるなら聞こうじゃないか。
「その辺の心配は無用です。私は自分以外の神気もある程度なら感じ取れますから、それを辿れば神様のいるところにまで行けると思います。ちなみに、明らかに大きな神気を放っているのは、この町では約七人です」
「七人という数字が多いのか少ないのかは、俺には判断が付けかねるな。ま、それも挨拶回りをしている内に自ずと見えてくるだろう」
ごく普通の人間の勇也に神気を感じ取る力は微塵もない。
ただ、ソフィアから渡されたグローブを装着すればグローブの水晶が自動的に神気に反応してくれるらしい。もっとも、距離が遠くなればなるほど水晶の反応は鈍っていくと言うのだが。
ちなみに、グローブの水晶は神気とは異なる力であるマナという力にも反応する。人間の体内に流れる自然なマナを消費して魔術を行使するらしい。
イリアが昨日言っていた自分とは性質の異なる力というのはマナのことを指すのだろう。
マナは日本語で言うと魔力に該当するものらしく神気とは水と油のように反発しあう性質も持っていると言う。
あと、魔法は魔術よりも高位の力とされている。魔法の域に達した力を使うのは人間では無理らしく、神や悪魔のような存在だけが魔法を扱うことができると言う。だから、神であるイリアが行使するのは基本的に魔術ではなく魔法だということになる。
まあ、昨日の今日では難しいことはよく分からない。なので、これからもソーサリストのことについては地道に勉強し、実践していくしかないだろう。
その薫陶こそが自分の平和な生活を守ることにも繋がるのだから。
「でも、危険はないのか? 神だってピンからキリまでいるだろうし、中には悪い奴もいそうだが」
勇也は鬼胎を抱くように尋ねる。
付け焼刃の力しかない今の自分では、イリアの同類である神の相手はとても務められないだろう。
その辺はイリアと実力差のあり過ぎる戦いをしたサングラスの男たちと同じだし、あの男たちも今頃、触らぬ神に祟りなしという言葉を痛感しているはずだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
イリアは確固たる自信を覗かせながら言葉を続ける。
「私の神気はこの町では一、二位を争うほど大きいですし、相手がどんな神様であろうとも、そうそう遅れは取りません。何より、ご主人様は昨日の私の戦いぶりを忘れたんですか?」
「忘れるわけがないだろ。昨日のお前の戦いぶりは目に焼き付いているぞ。特にお前の物騒な横顔は記憶から消そうと思っても消えやしない」
「それは困りましたね。ま、そういうトラウマみたいなものは、きっと時が解決してくれることでしょう」
「そう願いたいもんだし、いざ戦いになっても問題はないということは分かったよ」
勇也は気の利いた反論が思い付かなかったので、仏頂面で言った。
「理解が早くて助かります。とにかく、大きい神気を放っている神様は一人を除いてほとんど移動していませんから、会うのは難しくないはずです」
そんなことまで分かるのか、と勇也もイリアの力に侮り難さを感じる。と、同時に神の動きが把握できるのなら、こちらに危害を加えてくるような危険な神がいても対処は難しくないなと思った。
純粋な力を競う戦いであればイリアはまず負けないだろうという信頼があるし。
「それなら、朝食を食べ終わったら、さっそく、そいつらのいる場所に行ってみよう。俺もお前以外の神様とやらには興味があるし、善は急げだ」
勇也は内心ではヒヤリとしたものを感じていたが、ビクビクしているところを見せるのも男としてはみっともないので表面上は悠々と応じる。
少なくとも、昨日のような情けない狼狽ぶりはもう見せはしない。その時が来たら、例え力不足であっても、イリアと共に命を懸けて戦うつもりだし。
その覚悟がないのなら、危険が伴っていて、どうなるのか分からない神様への挨拶回りも断固として反対すべきだ。
「そうしてくれると嬉しいです。とにかく、神様同士、仲良くできると良いんですが、そういうのは案ずるより産むが易しってやつですね」
イリアも我が意を得たりといった感じでにんまりと笑った。
こうして勇也とイリアは強い神気を放っている場所に赴き、この町にいる神たちに挨拶回りをして歩くことになった。
勇也とイリアはとりあえず川に目標を定めて歩いていた。
二人の傍には茶トラの猫がピッタリと寄り添うようにして歩いている。トコトコト足を動かす姿は何とも愛らしい。
猫は式神のネコマタで見た目は何の変哲もない普通の猫だが、イリア以上に神気を敏感に感じ取れるらしいのだ。
また人間の言葉もよく理解できるし、逆に人間の言葉を発することもできる。どういう舌の構造をしているのかは分からないが、肉声で人間の言葉を紡げるのだ。
その上、発せられる言葉を肉声ではなく思念というもので、直接、人間の頭に響かせることもできる。この感覚はまだ慣れていない勇也にとっては、少々、むず痒い。
とはいえ、人がたくさんいるところなどでは、思念で話しかけてもらえると不審がられずに済むので助かる。
「おいら、和菓子屋さんのお饅頭が食べたいな。特に水月堂のお饅頭は絶品だって聞いてるよ」
ネコマタは人間の言葉を紡ぐのには慣れているのか、そこらの人間では顔負けしてしまうような活舌の良い声を発して見せる。
知能の方も人間と同じくらいありそうだし、猫の姿をしているからといって軽視するのは止めた方が良いかもしれない。
勇也はVTUBEでネコマタを紹介したら、どんな反響がくるかなと冗談染みた考えを巡らせた。
「用事が済んだら、スーパーの饅頭を買ってやるよ。悪いが和菓子屋の饅頭なんて高くて買いきれん」
それでなくてもイリアのせいで食費が四割増しになっているのだ。これ以上の出費は断じて許すわけにはいかない。金銭に対する締めつけは緩めてはいけないのだ。
「ケチ。やっぱり、ご主人様はソフィアの方が良いよ。ソフィアはお饅頭だけじゃなく、他にも美味しい物をいっぱい食べさせてくれたし」
ネコマタは人間のような豊かな表情を見せると、拗ねた声で言った。
「生憎と俺は貧乏なんだ。恨むんならお前を俺のところに寄こしたソフィアさんを恨むんだな」
どうせ使役するのならドラゴンとかの方が格好良くて良かったよ。何が悲しくて和菓子屋の饅頭を強請るような猫を飼わなければならないのか。居候はイリアだけで十分だと言いたい。
「フンッ。どうせ、おいらは人間には逆らえない弱っちいネコマタさ!」
そう不貞腐れたように言うと、ネコマタは猫の姿から宙に浮かぶ光の玉へと変身して見せる。
それを受け、勇也が護封箱を開けると光の玉となったネコマタはあっという間に箱の中に吸い込まれて消えた。この辺は手品の領域だな。
ちなみに、ネコマタは霊体と肉体を自由に行き来できるので、自分の体をある程度、好きなように変化させることができるらしい。
だから、存在するためのエネルギーの消費を抑えられるという小さな護封箱の中を出たり入ったりすることが可能なのだ。
「ご主人様、ネコマタさんを虐めたら駄目じゃないですか。式神は大切な戦力ですし、もう少し優しく接してあげないと」
イリアが窘めるように言ったが、勇也はイリアやネコマタを調子に乗らせないためにも形だけの反発をして見せる。
「そういう気を遣うのはお前だけで十分だ! 実際、お前が来てから心労で胃が痛くなることが多くなったぞ」
勇也は憮然とした顔で言った。
「ご主人様はそこまで私に気を遣ってくれていたんですか。それは気が付きませんでしたし、不甲斐のないメイドですみません」
イリアはわざとらしくシュンとした健気な態度をして見せたし、これには勇也も疲れたように肩を落とすしかない。
やっぱり、自分は女の子の扱いが苦手だ。こんなことじゃ、イリアはともかくクラスメイトの宮雲雫との距離は縮められないだろう。
一時期は、イリアを使って女の子と仲良くなる予行練習をしてみようとも思ったのだが、得られるものはなさそうだったので、すぐに止めた。
なので、勇也も自分の春はまだまだ遠いなと思い、慨嘆するように息を吐いた。
そんなやり取りをしていると二人は上八木市の町を二つに割るようにして流れている上八木川にまでやって来る。車の往来こそあるものの幸いなことに辺りに人の姿は見当たらなかった。
昨日のような怒涛の展開は御免だが、仮に話の流れで神と戦うことになっても周囲の人間を巻き込む危険性は少ないだろう。
ダーク・エイジのサイトでもソーサリストは秘密裏に動かなければならないという鉄則が記されていた。それを怠れば厳しい制裁も待っている。
勇也は組織の人間ではないが、今はソーサリストと同じ力を持っているし、その鉄則には従った方が身のためだ。
「さてと、川には辿り着いたが、何かがいる気配はないな」
勇也は鉄道橋の上から川の水面を眺めていたが、魚一匹、跳ねる様子はなかった。この橋に人が集まるのは花火大会の時だけだろう。何とも言えない寂寞さを感じるな。
「そんなことはありませんよ、ご主人様。私はこの川から体がビリビリと痺れるような強い神気が発せられているのを感じています」
イリアは武者震いでも感じているのか、何かに挑むような目つきをしていた。
勇也も目を凝らしてはみたものの、やはり何も見えない。なので、思い出したようにポケットへと手を伸ばすと、爪に硬い感触がぶつかるのを感じる。これは眼鏡のフレームだ。
「なら、この眼鏡をかけてみるか」
勇也はポケットから取り出した千里の眼鏡をかけ、補聴器も付けてみる。ソフィアの言葉が正しければ、これで神の姿を視認することができるはずだ。
そう期待してみたものの、勇也は特に変わった反応を見ることができなかったので、様子を窺うようにイリアを横目にする。
「この川に住む神様、私の声が聞こえていますかー。私はこの町の歌って踊れる上ご当地アイドル、上八木イリアですし、隠れていないで出てきてください」
イリアが誰もいない川に向かってそう間の抜けたような声を張り上げると、すぐに目に見える変化が起きた。
川の中から群青色の体をした巨大な蛇のような生き物が現れたのだ。否、それはよく見ると蛇ではなく神々しいオーラを纏っている竜だった。
漫画やゲームでしか拝見したことがないような憧れの竜のロマン溢れる姿は勇也の心を強く打った。
ネコマタと話していた時は冗談のように思っていたが、まさか、本当に竜と出会えてしまうとは。はっきり言って、感激も良いところだ。
そんな竜の体長は十メートル以上もあり、その迫力は尋常ならざるものがあった。人型のゴーレムや獣型のホムンクルスが可愛く思えてしまうほどの次元違いの迫力だ。
それを目の当たりにした勇也は金縛りにでもあったように身動きが取れなくなってしまう。いきなり食われないよなと思うと、途端に心の方も情けなくおどおどしてしまった。
「私はこの川を守る水神。上八木市の女神として名高い貴方がこの私に何の用ですかな?」
水神は獰猛そうな見た目に反して攻撃色のようなものは全く見せず、ゆったりした清らかさを感じさせる口調で言った。
「用ってほどではないんですけど、実は私、生まれたのはごく最近で、この町の、取り分け裏の世界の事情については分からないことも多いんです。だから、より深く色々なことを知るためにも、この町にいる神様たちに挨拶して回ろうと思って」
イリアは物怖じすることなく明朗な声で自分の立場を説明する。それに好感を持ったのか水神は怖気を誘うような竜の顔でにこやかに応えて見せた。
「それは感心。とはいえ、私も置かれている状況は貴方とほとんど変わらないのですよ。ある日を境に大量の神気が川に流れ込んできて私は神として生まれました。ですが、それは自然な誕生とは程遠いもので、私も困っているのです」
「なるほど」
「元来、神とは少しずつ神気を吸収することで生まれる存在。神として生まれるには何百年、下手したら千年以上の月日が必要なのです。それなのに、この町では僅かな月日で数多くの神が生まれています。困惑しているのは私だけではありますまい」
水神の哀愁を漂わせるような言葉を聞くイリアは本当に話の内容を理解しているのか疑わしい顔で相槌を打つ。
「私もその神の一人です」
イリアは回りくどい言い方はせずはっきりと答えた。
「でしょうな。とにかく、私が教えられることはほとんどありませんし、詳しいことを知りたければ、元々、この町に古くからいる自然に誕生した神に尋ねるより他はないと思いますぞ。もっとも、古き神が何処にいるのかは私にも分かりませぬが」
その古き神が正真正銘の神に違いないと勇也も理解したし、イリアのようなぽっと出の神とは違うと思いたかった。
「分かりました。そういうことなら、とりあえず他の神様を尋ねてみますね。もしかしたら、その中に自然に誕生した神様もいるかもしれませんし、その方ならあなたの言う通り、もっと詳しいことを知っているかもしれません」
「そうであると願いたいものです。では、私はこれで」
そう穏やかな声色で言って、水神は川の水深を遥かに上回る自らの巨体を水の中に沈めた。水神の体は霊体らしく、水飛沫一つ上がることはない。
水神の体が完全に見えなくなると、まるで最初から何もいなかったような静謐さだけが辺りに漂う。
取り残されたような勇也とイリアはしばし呆けていたが、気を引き締め直すと次の神がいる場所へと向かった。
次に辿り着いたのは商店街の一角に建てられた小さな社だった。
商売が繁盛するようにとの願いを込められて建てられたものらしいが、今は薄汚れていて手入れもされていないように見える。
この社に幾ら願ってもご利益はなさそうだし、何となく蕭然とした感情を抱いてしまう。
ただ、そんな見た目に反してお供え物や花などはたくさん置かれていて、多くの人から愛されているような印象も見受けられた。
社が薄汚れたままになっているのも変に手を加えておかしなものにしたくないという気持ちの表れからかもしれない。
その上、お供え物の中には高価格帯で有名な水月堂の饅頭もあった。ネコマタが見たら例えお供え物でも嬉々として食べてしまうかもしれない。
そんな社の前にイリアが立ち、呼びかけるような声を上げるとモワッと煙りのように人間の老人が現れた。もちろん、普通の人間には見えない霊体である。
「フォ、フォ、フォ。あの上八木イリアちゃんがわざわざ会いに来てくれるとは、このワシもまだまだ捨てたものではなさそうだのー。人間に福を与えるのはよくあることじゃが、ワシ自身が福を感じるのは本当に久しぶりじゃ」
そう言った老人、いや、福神はゆったりとした豪奢な着物を身に纏っていて、いかにも人に福を与えられるような風格を漂わせていた。
勇也も幸の薄い自分にも福を授けてもらいたいと思ったくらいだし。
イリアはそんな福神に自己紹介をして、水神の時と同じ質問をした。が、やはり福神も詳しいことは何もわからないと言う。
しかも、自分は古くからこの社を拠り所として存在していたが、神と呼ぶに相応しい力を得たのは最近になってからだそうで、いきなり大量の神気が自分ところに集まってきたことには戸惑ってさえいると言う。
もっとも、そのおかげでこの商店街により多くの福を授けられるようになったので、迷惑は感じてはいない。ただ、誰が与えてくれた力かは知りたいところだと言う。
話を聞いた勇也とイリアはここにいても得るものはないと判断し、話もそこそこに他の場所に行くことにする。
次にやってきたのは商店街からほど近い駅前だった。駅前のロータリーの真ん中には立派な武者の銅像が建てられている。
何でも、その武者の銅像は鎌倉時代にこの地方で活躍した武士のものらしいが、台座に刻まれている名前を見ても勇也はいつものようにピンとくることがなかった。
この武者の名前は他の場所ではとんと見たことも聞いたこともなかったからだ。歴史の教科書にも載っていないし、時代劇や大河ドラマにも出てこない。
つまり、この武者の知名度はローカル程度のものだということだろう。本当にこの武者が実在したのかも疑わしいところではある。
勇也がそんな失礼なことを考えていると、イリアの声に応えるように神となった武者の霊が銅像の中から抜け出てくるように現れた。
「貴殿が、この町の女神として名高い上八木イリアか。噂通りの美しさだが、異国の女神は拙者には少々、眩しすぎるな。やはり、拙者のような武骨者にはこの辺りを通り過ぎていく日本の生娘の方が良い」
そう言った武者の霊は威風堂々とした馬に乗っていて、手綱を引くと悍馬が大きく嘶いた。その姿からは思わず息を呑み込んでしまうような剛勇さが伝わってくる。
名前こそ他所では聞いたことがなかったが、それなりの強者の武者だったというのは間違いないように思えた。
それを見たイリアは気圧されることなくするべき質問をしたが、予想した通り、詳しいことは何も分からないという残念な答えが返ってくる。
武者の霊は自らの精悍な顔に面目なさそうな表情を浮かべたが、イリアは丁寧にお礼を言って、武者の霊の気分を損なわせないようにした。
それに気を良くしたのか武者の霊は腰から刀を抜き放ち、その切っ先を天へと掲げて自分の武勇を見せつけるようなポーズを取った。
駅前を後にした勇也とイリアは繁華街へと向かった。
そこには繁華街というよりは歓楽街と言っても良い通りがあり、飲食店を始めとして、居酒屋やバー、雀荘や囲碁サロン、スナックやキャバクラや風俗店などが立ち並んでいた。
今はまだ昼間なので人通りはあまり多くないが、夜になるとここはまるでお祭りのように人でごった返すのだ。
もっとも、夜の繁華街には勇也のような子供は滅多なことでは近づかないが。
そんな通りの裏路地に足を踏み入れると、そこにはテナントがガラガラになっている汚らしい雑居ビルが乱立していて、更に奥へと進むと商店街と同じように小さな社があった。
商店街の物とは少し趣の異なる社だ。
繁華街には縁起を担ぐ店が多いと勇也も聞いたことがある。だから、この社は特に大切にされていて、小さくはあるがごみごみした状態にはなっていないのだろう。
イリアが慣れたような足取りで社に近づき声を上げると、艶やかな姿をした女性の霊が浮かび上がるようにして現れる。
普通の日本人にはあり得ないような露出度の高い服を身に着けているので、勇也も少し目のやり場に困る。肌の色も褐色に近いので、何とも言えないエキゾチックさを感じた。
そんな女性の霊が発する空気に当てられ、勇也はドキドキする。
こういう淫蕩な匂いを漂わせている女性は思春期の自分には刺激が強すぎる。脳の快楽中枢が勝手に動き出し、それが更にある種の欲望を掻き立てる。
自分も大人になれば、こういう女性とも、もっと余裕を持った態度で接することができるのだろうか。
であれば、早く大人になりたいものだが、繁華街の店に入り浸るような大人になるのは駄目だな。
それでは遊興に耽って、多額の借金をこさえた落魄の父親と同じになってしまう。
そんなことを考える初心な勇也を見た女性の霊は嫣然と笑う。
勇也もその笑みを見て益々、ドキドキしてしまい、体が頭からつま先までカッと熱くなった。が、女の子であるイリアは何の影響も受けていないのか、平然としていた。
「わらわは水商売の神じゃ。この繁華街で働く女性たちを見守っておる。こんなところに子供がやって来るのは感心せぬが、まあ、今は昼間だし良しとしよう。で、子供がわらわに何の用かの?」
水商売の神の明瞭さを感じさせる問いかけに、イリアも気後れすることなくハキハキと答える。それを受け、ろう長けた水商売の神も興味深そうにイリアの話に耳を傾けた。
そんなやり取りが少しの間、続いたが、結局、イリアの欲していたような情報を得ることはできなかった。これにはイリアも気を落としたような顔をする。
最後に水商売の神は力になれなくて済まぬが、と前を置きをした上で、イリアにこの繁華街にある水商売の店のPRもやってくれと頼んできた。
最近の夜の町は以前のような活気がなくなってきている。それはこの町全体の衰退にも繋がると危惧するように言って。
それに対し、イリアはどんな仕事だろうと自分は働く女性の味方ですと啖呵を切って水商売の神の頼みを了承した。
その後、勇也とイリアは他の神に聞いて回っても結果は同じ事になるのではないかと気落ちしながら、それでも次の神がいる場所へと向かった。
勇也とイリアが歩いていると、不意に思わぬ方向から「おーい!」と声をかけられる。
頭を巡らせて声が聞こえた方を振り向いてみると、そこにはよく見知った少年と少女の姿があった。
それを目にした勇也は咄嗟に間が悪いなと心の中で苦い感情を持つ。この二人にだけは、イリアと一緒にいるところを目撃されたくなかった。イリアの正体が知られたら絶対に面倒なことになるし。
特に鋭い信条武弘の目を誤魔化すのは至難の業だ。これが武弘一人だったら隠している事情を打ち明けるという選択肢もあるが、宮雲雫も一緒ではその選択は選べない。
それだけに運の悪さのようなものを感じた。
「奇遇だな、勇也。学校や家以外の場所でお前と会うことができるとは。これも宇宙が定めた因果の一つか」
悠然とも言える足取りで勇也の目の前までやって来た武弘はいつもの気障ったらしいポーズを取る。それを見て、勇也は思いっきり脱力をしてしまった。
武弘は例え学校の外でも振舞い方を改めたりはしない。裏表がないと言ってしまえばそれまでだが、それが良いか悪いかは親友の勇也にも判断が付けかねている。
まあ、友達としては、こういう性格の方が付き合いやすくて助かるんだけど。
「こんなところでも宇宙の因果か。相変わらずお前は宇宙云々の話が好きだな。でも、残念ながら宇宙の因果なんてものはないと思うぞ」
勇也は数日前にテレビでやっていた宇宙の成りたち、というサイエンスの特番を思い出しながら言った。
「宇宙の因果ならあるさ。ただ、今は科学的に証明されていないだけだ。宇宙の神秘というのは実に奥が深いな」
まるで、詐欺師のような理屈だなと思う。
「そういうのを世間一般ではないって言うんだよ。とんでも科学をさも真実のように吹聴するのは止めてくれ」
勇也はそう突っ込みを入れたが、武弘の顔はどこまでも涼やかだ。そんな親友の様子を見て、勇也もふっと心の緊張感を解すように笑う。やっぱり、武弘はどこで会おうと武弘だ。自分のようにその時々の状況で言動を左右されたりはしない。
「そういった見解があることは理解している。俺とて伊達に学年トップの成績を収めているわけではないし、頭の柔らかさには自信がある」
珍しく衒いを見せるように言った武弘は、この話題については譲れないものでもあるのか、しつこさを感じさせるように言葉を続ける。
「だからこそ、初めから決めつけるようなスタンスで物事を研究していたら分かることも分からなくなると言いたいのだ」
武弘はサイエンティストの鏡のような言葉を口にした。
「説得力だけは無駄にある言葉だな。でも、お前の言うことも一理あるか……」
勇也も武弘の言葉を真っ向から否定しきれるだけの論拠はなかった。
「ああ。俺の言うことは全て事実だし、それを受け入れられないのはお前がこの世の中というものを知らなさすぎるからだ。ま、大学のような場所で勉強するようになれば自ずと分かるさ」
やっぱり、大学に行かなきゃ、真っ当な道は開けないということかと勇也は苦い顔で独りごちる。でも、専門学校という手もあるんじゃないのか。美大はあまりに競争倍率が高くて入るのが難しいし、美術の専門学校があるなら、そこに通うのも全然、アリかもな。
「そうか。まあ、お前の奇妙な言動をいちいち真に受けていたら身が持たないし、因果だろうが何だろうが別に構わないけどな」
そう言って、勇也はそっぽを向いたし、ちょっとムキになり過ぎたかと自省する。
ま、この手の益体のない問答はいつものことだし、武弘の言葉を真剣に取り合うのは止めておこう。
幾ら齷齪しても、心の体力を無意味に消費するだけだし、精神的なタフさを超人のような思考回路を持つ武弘と競うのは馬鹿げている。
「久しぶりに会って距離感が掴めないのなら、素直にそう言え。俺ならそんなお前を見ても気まずくなったりはしないぞ」
「それは嬉しいね」
「フッ、お前の捻くれた性格にも困ったものだな。そんなことでは、雫もがっかりしてしまうぞ」
武弘の言葉を聞いて、勇也もすぐさまハッとする。雫の存在を無視してくだらない言い合いをしてしまうとはなんたる不覚。
いつもならそんなことは絶対にしないし、やはり、注意力を大きく奪う夏の暑さというものは恐ろしいな。でも、ここから挽回してやるぞ。
「こ、こんにちは柊君……。学校じゃない場所でも会えて嬉しいな……」
武弘の斜め後ろにいる雫は小さく表情を綻ばせながら言った。
それを聞いて勇也は心が芯から温かくなるのを感じる。やはり、雫の可愛らしさは学校ではない場所でも変わらない。
この出会いが宇宙の因果なら、自分も宇宙の意志のようなものに感謝すべきなのかもしれないな。でも、イリアがいる瘤つきの今は、それはできそうにない。
そんな勇也の苦い内心など知らないであろう雫はノースリーブのワンピースを可愛らしく着こなしている。ワンピースの柄は雫の清楚さを引き立てていた。
制服を着ていない雫の姿は勇也の目には貴重に思えたが、おどおどした態度は学校にいる時と何ら変わりがない。
そこが惜しいと感じたが、幾ら夏休みとはいえ、垢抜けたような態度を取る雫というのも見たくはなかった。
雫は今のままが一番良いのかもしれないと勇也は密かに思う。
「嬉しいのは俺も同じだよ。学校じゃない場所で会うと何だか新鮮に感じられるし、宮雲さんの言うことも分かるな」
どことなく精彩を欠いているのを自分でも自覚しながら、勇也はリップサービスのような言葉を口にした。
「だ、だよね……。柊君と会えるって分かっていたら、作ったばかりのシフォンケーキも持って来てたよ……」
「シフォンケーキは良いね。前に食べたシフォンケーキは程よい甘さで口溶けも良かったし、あれは是非、もう一度、食べてみたい」
「それなら、今度、作った時はすぐに柊君の家に持っていくね……。シフォンケーキは早く食べないと風味が落ちちゃうから……」
「俺の家まで来てくれるの? それは何だか悪いけど、宮雲さんさえ良ければ、そうしてくれると助かるよ」
雫が家に来てくれるなんて、こんなに心が弾むことはない。事実、夏休みが始まる前だったら喜びのあまり飛び上がっていただろう。でも、今は違う。
家にはイリアが居座っているし、雫と二人きりという甘さを感じさせる状況は作り出せそうにない。
それが本当に残念だし、雫と自然な形で触れ合うことができる学校という場がいかに貴重かは今になって再認識した。
「うん」
雫は太陽よりも輝いているような笑みを浮かべて嬉しそうに返事をする。この笑みが自分を虜にしてしまうんだよなと勇也もしみじみと思った。
勇也がそんな風に心を緩ませていると、すっかり存在を忘れていたイリアが勇也の二の腕を引っ張ってくる。
「あのー、ご主人様。つかぬことを聞くようですけど、この方たちは?」
眉を持ち上げながら尋ねてきたイリアの表情には微かに険のようなものが浮かんでいる。町の人たちや神様に対する態度を見る限り、人見知りをしているというわけでもないだろうに。
「そうだった。お前は二人のことをまだ全然、知らなかったんだよな。蚊帳の外にして悪かったよ」
蒙昧なイリアには自分の交友関係に関する知識も備わっていないらしい。その辺のことについては追々、教え込んでいくしかないだろうな。
ま、ここは目に角を立てるようなところじゃない。
「ご学友ですか?」
「ああ。こいつは俺の親友の信条武弘だ。いつも気障ったらしい態度ばかり取っている変わり者だよ」
勇也のぞんざいとも言える紹介にも武弘は嫌な顔一つしなかった。いつものポーカーフェイスは可愛い女の子を前にしても健在だし、生の感情が表に出ることはない。そこに一種の頼もしさを感じる。
「誉め言葉として受け取っておこう」
武弘は持ち前の端正な顔で、フッと透かしたように笑う。
言葉のフットワークの軽さは相変わらずだし、武弘のこういうところには勇也も日頃から助けられている。
「で、こっちは俺のクラスメイトで武弘の幼馴染でもある宮雲雫さんだ。どうだ、可愛い女の子だろう?」
勇也の紹介に雫は恥ずかしさを押し隠すように下を向いてしまった。
それを見て、可愛いだろうという言葉は余計だったなと勇也は反省する。そんなことを言えば雫は無理に気負ってしまう。
その程度のことは理解できるくらいの付き合いの長さはあるはずなのに、とんだ失言だ。
こういうことがあるから、女の子に対する苦手意識をなかなか克服できないんだよな。もっとも、異性としての意識を全く持てないイリアは別だけど。
どちらかと言えば、イリアは家族という感じなんだよな。だから、一緒にいてもあまり堅苦しくならないし、その辺の関係性は大切に思える。
一方、イリアは武弘と雫の二人を交互に見て、何故か複雑そうに感じているような顔をした。
「学校って良いですよね。私、憧れちゃうな……」
イリアは憧憬を感じているような眼差しで呟いた。
「学校なんてそんなに良いもんじゃないぞ。大抵の奴は将来の就職のために仕方なく通ってるだけだし。ま、学校なんて惰性の極みのようなものだな」
勇也はイリアの寂しげな横顔を見ながら学校に対する虚飾のようなものを剥ぎ取るように言った。
「そうなんですか。それはまた夢がないですね」
「しょうがないだろ。それが現実ってやつなんだから。だから、お前も学校に対して変な幻想は抱かない方が良いぞ。まあ、外国の学校に通うっていうなら話は違ってくるかもしれないが」
勇也の味気ない言葉を聞いて、イリアもどこか肩の力が抜けたように微苦笑した。
「分かりました。では、とにかく自己紹介をしますね。私はこの町の歌って踊れるご当地アイドル、イリア・アルサントリスです。でも、この町の名誉市民にもなったので、気さくに上八木イリアと呼んでくださいね!」
イリアはいつもの自然な明るさではなく、どこか空元気を感じさせるように声を張り上げた。
「これがネットで話題を集めている上八木イリアのコスプレ外国人さんか。この目で見ると何だか神々しいものを感じてしまうな」
武弘はイリアと面と向かい合っても何ら力む様子を見せずに笑った。ここら辺が大物なんだよなと勇也も感心する。自分がイリアを見た時の周章狼狽ぶりは他の人間には見せられない。
「す、すごく、可愛いね……。ほ、本当に柊君の描いたイラストにそっくり……だよ。夢でも見てるみたい……」
雫はイリアの目見麗しい姿を眩しそうに瞼を細めながら見た。
「二人とも私はそっくりさんではなく本物の上八木イリア、って、痛い!」
イリアが余計なことを言い出そうとしたので、勇也はすかさずイリアの足を踏みつけた。これにはイリアも醜態のようなものを感じさせる顔をしながら、涙目になってしまう。ちょっと強く踏み過ぎたか。
「お前は余計なことは言わなくて良いんだ。ところで、二人揃って歩いているところを見るに今日はデートか」
勇也は話題を強引に逸らすようにからかうような口調で尋ねた。
「まさか。俺は色恋などに興味はない。ただ単に本屋に行こうと家から出たら、お菓子の材料を買いに行こうとしていた雫と鉢合わせしただけだ」
武弘の言葉に嘘はないだろう。長い付き合いだが、勇也も武弘が嘘を吐いたところを見たことがない。
自分も必要に迫られない限り嘘は吐かないし、それがお菓子の感想を聞いてくる雫からの信頼にも繋がっているのだが、状況が状況であれば、はぐらかしはたくさんしてしまう。
だからこそ、それすらない武弘からもたらされる情報には常に信が置けるのだ。
まあ、正しく生きることと綺麗に生きることは違うと言うことだ。
武弘が嘘偽りなく正しく生きているのなら、自分は八方美人な態度を取って綺麗に生きているだけだ。
「私と武弘君の家は近いから、よく会うの……。昔は家族ぐるみの付き合いもしてたから、夕食を一緒に食べたりもしたし……」
雫は儚げな顔をすると、消え入りそうな声で釈明するような言葉を言い募った。
その目は常にイリアの顔に注がれているので、女の子としての可愛さで負けたと思ってしまっているのだろうか。それなら全然、負けてないよと言ってやりたくなる。雫には雫の誰にも負けない美点があるのだ。
それを彼女の前で口にしてみろというのは自分でも少しハードルが高いように思えるが。
「そっか。やっぱり、二人は仲が良いんだな」
そう含むように言った勇也はデートではないと知って、心底、ほっとしていた。
武弘が女の子と付き合いだしたら羨むばかりだし、清純な雫が男と付き合っているところなんて想像したくもなかった。
「お前の方こそ、その外国人の子とデートしてるんじゃないのか。ま、いらぬ詮索をするつもりはないが、な」
武弘は意趣返しとばかりに言った。
これには勇也もたちまち返答に窮するが、ここは役者を見せるように惚けた顔をして見せるしかない。
「俺たちは町を見て回っているだけだ。これもPR活動の一環だよ」
まさか神様に挨拶回りをしているとは言えないよなと勇也も心の中で臍を噛む。
理解者は欲しいが昨日のような戦いが脳裏を掠めると、やはり巻き込むわけにはいかないと思ってしまうのだ。
この二人にはいつまでも日の当たる世界にいて欲しいと切に願いたくなる。
「だと良いんだがな。まあ、ここで会ったのも何かの縁だし、みんなでファミレスにでも行かないか。そうすればもっとゆっくり話ができる」
「いや、今日は止めておくよ。色々と事情があって、ゆっくり歓談しているわけにもいかないんだ」
イリアと武弘たちを関わらせたくないという思惑も働いていた。頭脳明晰な武弘を相手にイリアのことをはぐらかし続けるというのは無理があるし、ボロを出さない自信はない。
「おいおい、付き合いの悪い奴だな。お前が金欠なのは知ってるし、ドリンクバーくらいなら奢ってやるつもりでいたんだぞ」
「その気持ちはありがたいが、今日はどうしても無理なんだ。悪い」
神様たちへの挨拶回りは今日中にやっておきたいとうのも勇也の偽らざる本音だ。善は急げとも言ったし、やるべきことを後回しにするとろくなことがない。
「し、しょうがないよ、武弘君。柊君にも都合があるんだし」
雫が勇也をフォローをするように言った。
彼女は何かあれば、必ず勇也の味方に回るし、そこが勇也としては擽ったい。でも、今回はそれに救われたし、心の中でありがとうとお礼の言葉を述べた。
「そうだな。この俺としたことが、つい聞き分けのないことを言ってしまったし、これも宇宙が定めた暑さのせいか。何にせよ、すまん」
武弘は遠くを見るような目をした後、軽い調子で謝った。
「気にするなって。とにかく、この埋め合わせは今度、必ずしてやるから今日だけは勘弁してくれ」
勇也はらしくもなく下手に出ながら拝むようなポーズを取る。プライド云々については意識している余裕はなかったし、この場を無難に乗りきれればそれで良い。
「分かった。なら、もう何も言うまい。その代わり、お前の言った埋め合わせとやらには期待させてもらうぞ」
「ああ。最近は金回りも良いし、プレミアムハンバーグ以上のものを奢ってやるから、せいぜい楽しみにしていろ」
実際には大きく儲けを生み出せたのは生身の上八木イリアを披露した昨日だけだが。
「そういうことなら遠慮はいらないな。では、最後に一つだけ聞いておくが、イリア・アルサントリスという名前はお前が付けたのか?」
武弘は急に神妙な顔をして勇也に尋ねた。
こういう時の武弘の洞察力は目を見張るものがあるし、勇也としてもサラッと流すことはできない。
「そうだけど」
勇也は武弘が何を意図してそんなことを尋ねてきたのか分からず眉を顰めた。
「何か理由があるのか?」
「いや、特にないよ。ただ、SNSで知り合った何人かの友達が名前の候補を上げてくれていたから、そこで見た名前かもしれない。イリアの名前をどう付けたかは、あんまり記憶に残ってないんだ」
どこで刷り込まれた名前なのか分からないっていうのは、我ながら抜けている気もするが。
「そうか。なら言っておくが、アルサントリスというのは欧州の裏世界で幅を利かせている魔術学校の名前だぞ。学校がある場所も魔術の世界では有名なセインドリクス公国だし」
「そうなのか?」
またセインドリクス公国か。
昨日の一件がなければ頭に浮かんでくるような国ではなかったが、ここでもその名前が出て来ることには因縁染みたものを感じる。
武弘じゃあるまいし、宇宙の因果なんて本気で信じてはいないが、裏で目に見えない糸のようなものが繋がっている気配はする。考え過ぎだということは自覚しているのだが。
「ああ。まあ、情報の出どころはネットのアングラサイトだから信憑性には欠ける部分はあるが、それでも、この斯界では知る人ぞ知る情報なのは間違いない」
「へー」
勇也はそんな情報にまで通じている武弘に空恐ろしいものを感じた。
「その上、魔術の世界では最も有名な学校であるブリダンティア学院に比肩するほどの学校だとも言われている」
武弘は自分の持っている情報を吟味するように口にしながら言葉を続ける。
「だから、そんな魔術学校の名前を日本のご当地アイドルに付けるのは、あまり適しているとは言えんな」
武弘が語った想像もしていなかった事実に勇也も心の底からドキリとしてしまう。
例え、アルサントリスが得体の知れない学校の名前でも、少し前だったらここまで冷や冷やしたりはしない。が、裏の世界に片足を突っ込みつつある今は話が別だ。
神や悪魔、魔術が現実に存在するのは、勇也もしっかりと受け入れているし、そんな裏の世界で知られている名前を付けたとなると凶兆を招くのは避けられないのではと思ってしまう。
もっとも、この手の指摘をしてきたのは武弘くらいなので、あまり深刻に考える必要はないのかもしれない。名前に問題があるなら、既にネットで騒がれているだろうし。
案外、イリアの名前の候補を上げてくれた友人たちの中にも裏の世界の事情に通じている奴がいたのかもしれないな。世間は狭いとはこのことだ。
そういえば、あのヴァンルフトさんもブリダンティア学院のことについて語っていたな。これは偶然だろうか。
まあ、あれこれ詮索して気を揉むのは嫌だから、自分からヴァンルフトさんにその話を振ったりはしないけど。
「他にも、イリアさんはセインドリクス人の人種的な特徴を色濃く持っている。顔の造形なんて特にそうだし、それらを偶然と片付けるには、少し引っかかることが多すぎるな」
武弘は探偵のように顎に指を這わせながら、持ち前の慧眼を閃かせるように言った。
勇也も武弘の言葉に押されて、ゴクリと生唾を飲み込む。もう誤魔化しの言葉は口にできなかった。
その後、武弘はイリアの名前への疑問をぶつけることができて満足したのか、それ以上、勇也の反応には取り合おうとはせず、今度こそ話を切り上げるように「では、さらばだ!」と爽やかに言った。そして、こちらに向かってぺこりと頭を下げた雫と一緒に勇也の前から去って行く。
残された勇也とイリアは互いに微妙な距離感を持たせながら立ち尽くす。勇也はともかくイリアも何かを深く考えているようだった。
そんな二人の間には何とも居心地の悪い空気が漂っている。
「ご主人様、私って胡散臭い魔術の世界にゆかりのある女神なんですか?」
イリアはしおらしい態度で言うと、勇也を上目遣いでを見た。その目はわざとなのか、それとも自然なのか少し潤んでいる。
「んなわけないだろ。お前は歌って踊れるご当地アイドル、上八木イリアだ。それ以上でもそれ以下でもない」
勇也は言葉を濁すことなく、きっぱりと言った。
「なら良いんですが、ご主人様が安易に付けた名前で評判を落とすのは嫌ですよ、私」
イリアの言うことはもっともだが、今更、周知しきった名前を変えるわけにもいくまい。
「分かってるって。ま、お前の名前の意味を深く考える奴なんて、そうはいないだろうから安心しろ」
勇也はたかが名前だと考え、大した意味はないと楽観していた。この時はまだ……。
一匹の濡れ羽色のカラスが勇也たちを遠くから観察していた。
カラスはビー玉のような瞳から発せられる視線をイリアにピッタリと固定したまま微動だにしない。
その視線には普通のカラスにはあり得ない高度な知性のようなものが感じられる。
事実、カラスは別の場所にいる人物から、あのネコマタも使える思念を何度も受け取っていたのだ。
それはカラスから監視されている勇也やイリアには知る由もないことだった。
「閣下、イリア・アルサントリスに妙な動きはありません。現段階では、この町の真なる秘密について気付いた様子はなさそうです」
思念による言葉を受け取ったカラスはそう恭しく答える。その声には強い服従の念が宿っていた。
「そうか。であればヴァルムザークよ。お前は引き続き、イリア・アルサントリスの監視を続けながら、この町にいるヴァルムガンドルも探せ。私は私で、もう少し様子を見る」
閣下と呼ばれた人物は重々しい声で言った。
「畏まりました。もし、ヴァルムガンドルたちが早まった行動を取った場合、私はどうしたら良いでしょうか?」
ヴァルムザークは自分の同胞であり、同じ地位の高さにいるヴァルムガンドルのことを思い浮かべ、心の中で舌打ちする。
目指すべきものは同じだったはずなのに、そこに辿り着くまでの手段では大きく違いが生じてしまった。
その往々たる事実が悔しくてたまらない。
だが、自分の主に隠れて事を為そうとするのは、さすがに行き過ぎだ。到底、看過できるものではない。
だから、こうして退屈極まりない監視にも精を出しているのだ。それが功を奏すれば良いのだが。
「お前は何もしなくていい。その時が来る前にイリア・アルサントリスを動かして、ヴァルムガンドルをおびき出せば良いだけなのだからな」
閣下と呼ばれた人物の声には少しだけ苦いものが感じられた。
自分たちの都合で何も知らないイリアを動かすことに抵抗を感じているのだろうとヴァルムザークは察する。
普段ならあまり意識しないことだが、自分の主人は人間のように甘いところがある。下手な人間よりもまともな人間性を保持しているというか。
しかしながら、その甘さは《殺戮の魔獣》と称されるヴァルムザークにとっては意外にも好ましく感じられた。
人間であろうとそうでなかろうとやはり情というものは捨ててはいけない。それが上に立つ者なら尚更だ。情を持たないような主人に自分の全てを捧げる覚悟で仕えることはできない。
「御意」
ヴァルムザークは閣下と呼ばれた人物に絶対の信頼を寄せながら、短く返答する。すると、そこで思念での会話はプッツリと切れた。
残されたのは真夏の太陽の暑さだけなので、ヴァルムザークは監視の目を緩めることなく、もう少し日差しの柔らかい場所へと移動することにした。
勇也とイリアはコンビニで満足感の得られない昼食を買って食べた後、一際、立派な神社の境内に辿り着いた。
緩やかな参道を抜けた先にある境内は整然とした石畳になっていて、その上には落ち葉一つなく、思わず感嘆してしまうような壮麗さを見せている。
その奥にある本殿からも荘厳な空気が発せられているし、それをひしひしと感じると自然と身も心も引き締まる。
神の御座す場所としてはこの神社はもっとも相応しく思えた。
ちなみに、上八木市には神社や寺が多いことで有名だが、二人のいる草薙神社はその中でも三本の指に入るほどの建物の大きさと知名度を誇っている。
特にこの神社の本殿にはあの有名な草薙の剣が奉納されているということもあり、その辺も知名度アップに貢献していた。
もっとも、この神社にある草薙の剣は写し、つまり良く出来たレプリカと言われていて、本物はやはり愛知県の名古屋市にある熱田神宮の正殿に収められていると言われている。
ただ、イリアはこの神社の本殿の中から今までで一番、強い神気が放たれているというのだ。
なので、勇也もさすがに本殿の中には入れないと思いつつも、一応、駄目もとで頼んでみることにした。
「やあ、柊君。今日もこの神社の紹介をしてくれるのかい?」
境内の掃き掃除をしていた袴姿の男性が勇也に声をかけてくる。
向こうが勇也の名前を知っていた通り、勇也の方も男性のことを知っていた。男性の名前は憶えていなかったが宮司だったのは間違いない。ただ、それ以外に印象に残るものはなかった。
勇也はどう話せば本殿に入れるのか、心が否応なしに逸るのを感じながらぎこちない笑みを拵える。
「そんなところです。だから、本殿の中にある草薙の剣をちょっと撮影させてもらえませんか? 草薙の剣はPRの目玉にしたいもので」
勇也もこの神社の紹介をしたことは何度かあるのだが、本殿の中に立ち入ったことは一度もない。神聖な場所だけにガードのようなものが堅いのだ。中には勿体振りやがってと不満の声を露にする者もいたが、さすがに自分はそこまでの無遠慮さは見せられない。
「それは困るな。基本的に本殿への立ち入りは、特別な行事の時だけしか許してないし」
宮司の男性は頬をぼりぼりと掻いた。
別に勇也の申し出を煙たがっているわけではなく、純粋に宮司としての立場が吐き出させた言葉なのだろう。勇也も無理を押し通すわけにはいかないなと分別を働かせる。
「PRはこの神社のためにもなることですし、そこを何とかできませんか?」
勇也は宮司の男性の立場も尊重しながら心苦しく頼んだ。
「そう言われてもね。それと、柊君は信じないかもしれないけど、最近の草薙の剣は様子がおかしいんだ」
「おかしいとは?」
「触ってもいないのに、剣の鞘がカタカタと震えたり、誰もいないのに剣のある場所から声が聞こえてきたりするんだよ」
宮司の男性は勇也を引き下がらせたいのか、おどろおどろしい声で言った。
「それは怖いですね」
明らかに強い神気の影響を受けているなと勇也は判断した。となると、何とかして草薙の剣を拝見したくなるが、上手い言葉がなかなか見つからない。
「ああ。父さんは自分の一族は神に近しい者だからそういう変化を感じ取れるって言うんだけど私は特別な力みたいなものは信じてないよ。宮司としては罰当たりな心構えだと思うけどね」
宮司の男性は一転して明るく笑うと、おどけたように肩を竦めた。
それを見て、勇也もこの神社にいる神に会うのは諦めるしかないと思った。何事も引き際が肝心だし。そう心の中で呟いたその瞬間、他の声が割って入る。
「その通りじゃ。二人とも信心の足らない息子のことなど気にせず、草薙の剣を大いに拝見していきなさい」
そう言ったのは離れの社務所からやってきた僧服を着た老人だった。
「父さん!」
宮司の男性が弾かれたように声を上げる。すると、老人は自分の息子だという宮司の男性を鋭い眼差しで睨みつける。これには宮司の男性も肩身が狭くなったような顔をした。
「この神社の宝物に興味を持ってくれた若人を追い返そうとするとは狭量な奴め。我が息子ながら嘆かわしいにもほどがある」
宮司の父親と思しき老人は怒気を発散すると、一転してにこやかに言葉を続ける。
「ささ、カギは開けるから、二人とも遠慮せずに本殿の中に入りなさい」
宮司の父親の言葉に促されるまま勇也とイリアは本殿の前に行き、宮司の父親が障子扉の鍵を開けると、その中に入った。
木造の本殿の中は外観の大きさに反してそれほど広くなく、質素な飾り付けがされているだけだった。
勇也も本殿に入ったのは初めてだったが、別に見ていて楽しい場所でもない。
だが、本殿の奥にある古式的な装飾が施された台座には一振りの剣が安置されていて、それは肌が粟立つような神々しい空気を醸し出していた。
ただの剣ではないことは一目で分かる。写しかもしれないとはいえ、やはり伝説に出てくる神剣と謳われるだけのことはあった。
勇也はイリアと共に剣の前に行くと宮司の父親の前でどう神と対話するか考え込む。不思議な力に理解のあるお人のようだが、今までのような会話のスタイルを取って良いものかどうか。
勇也が悩んでいると、剣が何の前触れもなくカタカタと震え始めた。
「良くぞ、我が前に来た」
勇也はいきなり聞こえてきた声に我が耳を疑う。
もう神との会話には慣れているので、腰を抜かすような反応は見せなかったが、それでも体の芯にまで届く轟雷のような声は心臓に悪い。
今までのパターンを踏襲するなら、まず人型の霊が出てきてから話が始まるという感じだったから特にそうだ。そのせいで、意表を突かれてしまった。
「えっ?」
勇也は面食らったような顔をする。人型の霊はいつ現れるんだと身構えていたが、現れる気配はない。代わりに、カタカタと震える草薙の剣から不思議な響きを持った声が聞こえてくる。
「余計なことは語らなくても良い。我はずっと自分を扱うに相応しい人間と、力を振るう必要がある時が来るのを待っていた」
草薙の剣から聞こえてきた声は厳かであり、強い意志の力に満ち溢れていた。
「どういう意味なんだ?」
何だか要領を得ないような説明を聞いた勇也は自らの動揺を押し殺すと不躾な感じに尋ねる。
「この町に自然の流れに反して誕生した神たちが跳梁跋扈しているのは我も感じている。我自身も自然な物ではない神気を身に受け、神として顕現した次第だからな」
「それで?」
「このまま手をこまねいていては、神たちのせいでこの町の平和が失われるやも知れぬということだ。だからこそ、我はお前たちに力を貸そうと思う」
草薙の剣は勇也の身に訪れる困難な未来を見越しているかのように言った。
「でも、俺たちはそんなに大層な理由で動いているわけじゃないし、この町を救う気なんてさらさらないよ」
そう口にする勇也は自分の弱々しさが歯痒かった。
だが、神と戦うということは、イリアのような化け物を相手にするということだ。普通の人間がどうこうできる相手ではない。それは昨日の戦いで身に染みている。
あの力の差を覆させるだけの権能を草薙の剣が自分に与えられるというのなら話は変わってくるが。
「今はそれでも良い。だが、この町のことを真に案ずるのであれば、いずれ戦わなければならない時が来る。我はそのための力になろう」
「そんなことを言われても……」
勇也は一方通行な感じで話が進んでいくことに戸惑いを覚える。が、不思議と引き下がる気にはなれず、恐れつつも無意識の内に一歩、足を前に踏み出していた。ここが勇気の見せどころだぞ。
「さあ、我を手に取るが良い、少年」
勇也が怯懦な態度を見せつつも前に進み出たのを見て取ったのか、草薙の剣はどこまでも高らかな声で言った。
「剣を扱うならイリアの方が良いんじゃないのか? イリアも神だし、その力は俺なんかとは比べ物にならないぞ」
勇也は揶揄するように言ったが、剣から聞こえてくる声は頑迷だった。
「女に剣を取らせるのは我が信念に反することだ。それに、我を手にすればそれだけで鬼神の如き強さを手に入れることができる。その力を欲しているのは、他ならぬお前ではないのか?」
その言葉に勇也は臓腑を掴まれたような錯覚に陥る。
確かに力は欲しい。昨日の戦いのようにイリアに守ってもらいながら何もできずに棒立ちというのは嫌だ。
戦いに身を投じるというのは途轍もなく怖いことだが、昨日のような戦いに再び巻き込まれないという保証はないし、やはり力は必要なのだろう。
ここで逃げていたら、人ならざるイリアとの暮らしは成り立たなくなるかもしれない。それは一番の恐怖のように思えた。
勇也は人間としての真価が試されていることをつぶさに感じながら胸を張る。
「何だかよく分からないが、力を貸してくれるって言うなら、ありがたく借りさせてもらうぞ」
勇也はしがらみを切り捨てるように言って、草薙の剣に手を伸ばす。力はあって困るものではないし、何事も恐れていては始まらない。だから、意を決して剣の柄を握った。
「それで良い」
その澄みきった言葉と同時に勇也は草薙の剣を持ち上げて見せる。それから、自然な動作で剣を鞘から抜き放つと研ぎ澄まされたような刃が目に映ったし、勇也は全身に力が漲るような感覚にも襲われる。
これほどの力の流れを体の中で感じたことは未だかつて経験したことがない。これが鬼神の如き力を得られるという草薙の剣か。確かに尋常ならざる力の迸りを感じ取ることができるな。
勇也は草薙の剣から与えられた万能感にもすぐに慣れる。すると、何とも言えない充足感が胸に広がったし、まるで本物の神様にでもなったような気分だ。この神社の人たちには申し訳ないが、この剣はもう手放したくないな。
そう思ってしまう魅力がこの剣にはあるし、草薙の剣は勇也の手の中にあるのがもっとも自然な状態だと公言しているようにも感じられる。それはまさに清流の如き感情の流れだ。
とにかく、言葉など弄さずともこの剣の力は本物だし、これがあればどんな恐ろしい相手、それが神のような存在であっても立ち向かえる。
そう確信できるだけの力の奔流を感じ取ることができたし、やはり、この剣は紛れもない本当の神剣だった。
勇也は草薙の剣を一振りして、その刀身を本物の侍のような動作でスーッと鞘に納めた。
「ほっ、ほっ、ほっ。まさか草薙の剣に見初められる人物がこの時代にいたとは。久々に良いものを見せてもらったし、剣は持っていっても構わぬぞ。なーに、心配せずとも息子や他の宮司などには何も言わせはせぬよ」
神に近しい一族だという宮司の父親は勇也と草薙の剣のやり取りが全て聞こえていたのか、好々爺とした笑みを浮かべつつ満足そうに言った。
「こんにちは、ヴァンルフトです。現在、僕は日本の上八木市にいます。そこで神社やお寺などを見て回っています」
ヴァンルフトさんはメッセージの途中に神社や寺の写真を差し込んできた。
「やっぱり、欧州の空気を吸い過ぎたせいか、無性に日本の空気が恋しくなりまして。だから、思い切ってユウヤ君もいる上八木市の町を訪れることにしました」
ヴァンルフトさんがこの町にいるなら、直接、会うことも可能かもしれない。ちょっと緊張するが。
「にしても、上八木市は神社やお寺が多いですね。これが欧州だったら大小様々な教会が至る所に立っているようなものですよ」
欧州の町についてはよく知らないから、今一つイメージができないが。
「でも、実際には、そんなことはありません。日本には八百万の神がいるというだけあって、神社やお寺がたくさんあっても不自然さは全く感じないんですよね。そこは改めて凄いと思います」
確かにその言葉には頷けるものがあるな。調和というものを殊更、大切にするのが日本人の国民性なのかもしれない。
「ちなみに、僕はユウヤ君と会っても素性は明かしませんよ。明らかになることで、つまらなくなることもありますから」
でも、ヴァンルフトさんはテレビにも映ったことがある自分の顔を知ってるんだよな。向こうは知っているのに、こっちは知らないというのは、少しもどかしい。
「今後もユウヤ君とは気兼ねのない良好な関係を続けていきたいので、そこら辺は理解してくれると助かります。では、今日はこれで」
ヴァンルフトさんの顔は拝みたいが、その反面、そうすることを恐れている自分がいた。
草薙の剣からも目ぼしい情報が得られなかった勇也とイリアは山にある何とも雄大さを感じる大木の前に来ていた。
この大木は御神木として知られていて、木には標が巻かれていて、根を囲むようにして石の柵が設けられている。
ただ、標はボロボロだし、紙垂も全て取れてしまっているので一見するだけでは御神木とは分からないかもしれない。
もっとも、石の柵の間に作られた供え物をする台にはお菓子や花などが置かれていて、その量は意外なほど多かった。なので、忘れ去られている御神木というわけではなさそうだった。
「すまんな、イリア殿。私にもなぜ神たちが簡単に生まれるようになったのかは分からんのだよ。千年以上も前からこの地を見守ってきた私としては不甲斐ないばかりではあるが」
御神木から出てきた見窄らしい乞食のような姿をした神の霊は申し訳なさそうに言った。
予想していた答えだが、いざ聞かされると勇也も落胆してしまう。横を見たらイリアも自分と同じような反応を見せていた。
この時ばかりは以心伝心という言葉が通じるような状態だったし、それが落胆の幅を大きくしてしまう。それから、御神木の霊は要は済んだとばかりにスーッと木の中に入って消える。
またしても手掛かりのようなものがなかったことには勇也もイリアも果てしない徒労を感じてしまっていた。
とはいえ、力が大きくて居場所がはっきりしている神への挨拶回りは全て終わった。
やるだけのことはやったし、勇也も草薙の剣を手に入れられたので全くの骨折り損というわけではなかった。
これ以上の情報が欲しければ、やはりダーク・エイジの調査の進捗具合を見計らった方が良いだろう。
今の勇也やイリアにできることはもう何もなかった。
「ご主人様、随分とお疲れのようですけど大丈夫ですか?」
イリアは気遣うように勇也の顔を横から覗き込む。日は傾きかけていたし、自分の汗で濡れた服は冷たくなっていた。すぐにでも着替えたいという衝動に駆られる。
「大丈夫なものか。一日中、歩き通しだったから足が痛くてたまらんよ。明日は筋肉痛になりそうだな」
勇也は基本的に肉体労働が嫌いなタイプの人間だった。でなければ、例え冗談でもペンより重い物は持ちたくないなどとは言わない。
もっとも、運動は苦手ではないし、体育の成績もそれなりに良いのだが。
「それなら、ネコマタさんに癒しの術をかけてもらえば良いんじゃないんですか。ネコマタさんはそういうのが得意なんでしょ?」
イリアはクスッと笑いながら言ったが、勇也は渋面になる。
「そのネコマタを怒らせてしまったのも俺だ。しょうがないから水月堂の饅頭を買って行ってやるかな。背に腹は代えられん」
その代わり今日の夕食はレトルトのカレーにしてやろう。カップラーメンとレトルトのカレーは勇也の生活を支え続けたツートップの食べ物だし、信頼感も高い。
それに、どんなに美味しい手作りの料理だって飽きることはあるのだ。そういう時にカップラーメンやレトルトのカレーは無性に食べたくなる。
「それが良いですよ。ネコマタさんはきっと役に立ちます。でなければ、ソフィアさんも譲ったりはしないはずですよ」
ソフィアは質実剛健のところがあったし、役に立たないものをくれたりはしないだろう。もっとも、過度な期待を持つのは禁物だが。
「だろうな。まあ、今はネコマタが水月堂の饅頭を食わせてやるだけの価値を示してくれることを祈ろう。って、そういうお前は癒しの魔法は使えないのか?」
勇也の何気ない問いかけにイリアががっくりと肩を落とす。このオーバーな反応には勇也も眉根を寄せてしまう。
「使えません。自分でも不思議に思っちゃうんですけど、私の使う力はどれもこれも攻撃的な物ばかりなんです。一応、身を守るバリアなどは使えますし、自己治癒力も備わってはいるんですが……」
攻撃面に特化した女神というのは殊の外、物騒だ。特にテレビゲームとかではそうだし、実は破壊の女神だったなんてことはないだろうな。そんな設定を付けた憶えはないし。
「仮にも女神なんだから、人間を癒せるような力はなきゃ駄目だろ。そんなことじゃ、ご当地アイドルは失格だぞ」
もっとも、勇也の作った設定に癒しの魔法を使えるなんて項目はなかったから、それも仕方がないのかもしれない。
「おっしゃる通りです。他者を癒す力がないというのは割と致命的なことなのかもしれませんね」
「かもしれないな。まあ、そういうことであれば、俺はなるべく傷を負わないような戦い方をするしかない」
もし戦いになったら、ネコマタの力もたくさん借りることになるかもしれない。となると、水月堂の饅頭を買うお金は外せないか。
「ご主人様も戦う気概は持ち合わせていたんですね。さすが、男の子!」
「当たり前だろ。可愛い女の子に戦わせて自分は高みの見物なんて褒められたもんじゃないだろうが」
勇也の発した可愛いという言葉にイリアも静電気にでも触れたかのような反応をしたが、勇也は敢て素知らぬ顔をして見せる。
「やっぱり、ご主人様も私のことは可愛いって思っていてくれたんですね。女の子としての自信が付きました!」
「まあ、さすがにお前の外見を可愛くないなんて言う人間はいないだろうよ」
それくらいは素直に称賛してもバチは当たらないだろう。
「ですよね。でも、その言い方だと内面の方は可愛くないってことですか? それは聞き捨てなりませんよ」
「分かってるよ。お前は外見だけじゃなくて内面も可愛いって。それは生みの親である俺が保証してやる」
「確かに、その言葉には説得力がありますね」
イリアは二ニヤニヤとのろけたように笑う。それを見て、勇也も煽てに弱い奴だなと苦笑する。まあ、それはそれで扱いやすいから別に構わないが。
「とにかく、話を戻すが俺も戦うべき時はちゃんと戦う。だから、あまり俺を甘やかさないでくれ」
強いから戦うのではなく、戦うからこそ強くなれると思うのだ。戦いを避けていたら、自分はいつまで経っても弱いままだ。それでは、自分の身を守ることさえ、ままならない。
「ですが、ご主人様はただの人間ですし、無理は禁物ですよ。もし、ご主人様が死んだりしたら私も立ち直れませんし」
「俺が死んでも、お前は案外ケロッとしていそうだけどな」
勇也は底意地の悪さを見せるように笑った。それを見て、イリアもまるで魚のフグのように頬を膨らませる。
「その言い草は酷すぎますよー。私のご主人様に対する愛は、あの富士山よりも大きいって言うのに」
「そうか、悪い、悪い」
「とにかく、私もネコマタさんに癒しの術の使い方を教わろうかな。ご主人様を癒せないなんて、メイドとして失格です!」
イリアはメイドとしての矜持を見せると奮起するように言った。
「おいおい、お前はあくまでこの町の女神だろ。いつから本物のメイドになったんだよ……」
勇也が草臥れたように嘆息していると、思いがけない方角から声をかけられる。辺りに人の姿はなかったし空耳かなと思ってしまった。
「そこのお二方、ちょっとよろしいかな」
勇也が今度ははっきりと声が聞こえてきた方を振り向くと、そこには狸がいた。丸々と太った豚のような狸である。その上、顔の方は擬人化された動物のような造りを感じさせるし、ただの狸とは思えない。
となると、ネコマタと同じような類の存在だろうか。だとしたら、見かけで判断するのは軽率というものだ。
とにかく、勇也の耳が確かならこの狸が声をかけてきたように見受けられた。
「何だ、お前は?」
勇也は狸に向かって胡乱気な目を向ける。今更、狸が喋ったこところで大きな驚きはないが、それでも警戒するに越したことはない。
「ご主人様、気を付けてください。この狸さんは大きな神気を持つ最後の一人ですよ。でも、この私が神様の接近を許してしまうなんて」
イリアは瞠目したように相撲取りのように太った狸を見る。
勇也はこの狸が神様ねぇ、と、つい軽んじるような視線を向けてしまったが、それを受けても狸は飄々とした顔をしていた。
「なーに。私はこの地に古くからいる正真正銘の神。神気を隠して誰かに近づくことなどお手の物よ」
狸はにんまりと笑うとしわがれた声で言ったし、町を徘徊している最後の神は、こいつで間違いないみたいだなと勇也も合点した。
「なるほど」
イリアは得心のいったよう顔をした。
「イリアちゃんはその強い神気がただ漏れしてしまっている。これでは自分の動きを簡単に気取られてしまうぞ」
狸は神としての年の功を見せるように指摘した。勇也も狸にしては賢朗さを感じさせる言葉だなと思う。これだから神という存在は侮れない。
「それもそうですね。そこまでは気が回らなかったので勉強になりました。でも、あなたの方から現れてくれて、本当に助かりましたよ」
「イリアちゃんの聞きたいことは分かっているが、それに対する回答を私は持たない。残念ながらな」
狸は疲れ切った老人のように首を振った。
それを見たイリアも意気消沈したような顔をする。イリアの内心を見抜いた上で答えを持たないと言うのなら、その言葉通り何も分からないのだろう。そこは疑っても仕方がない。
「確かにそれは残念です」
これで神たちから詳しい事情を聞き出そうとする試みは、完全に失敗に終わった。
勇也も自分の行動が無駄とは思いたくなかったが、それでも虚脱感のようなものが滲み出てくるのを抑えることができない。
もっと効率的に情報を収集する方法はないものかと思ったが、その手のことに関しては既にダーク・エイジの組織が着手しているだろう。
それでも分からないことを勇也たちに突き止められるはずがない。そう思うと益々、虚脱感が強くなった。
「逆に私の方からイリアちゃんに頼みたいことがある。迷惑なことを押しつけるようで嫌だが、どうか私の話を聞いてはくれないか」
狸は畏まったような態度で願い出た。これでは、無下に追い返すこともできないし、案外、この狸は老獪な奴なのかもしれない。
「言ってみてください」
「この町にある二つの宗教団体が過激な対立をしている。その対立というか抗争のせいで死人も出ているのだ。この町で最も古い神としては見過ごすことはできん」
その話を聞き、勇也も真っ先に世間を騒がしている殺人事件のことを思い浮かべる。それから、ダーク・エイジの構成員も事件に一枚噛んでいるのではと思い、一瞬、勇也の脳裏にソフィアの顔が過った。が、あのソフィアが世間で表沙汰になるような無配慮の殺人をするとは思えない。
やはり、杞憂だと勇也は心の中で首を振る。
「それは物騒ですね」
「イリアちゃんもテレビのニュースは見ているだろう。世間を騒がせている猟奇殺人の犯人はあろうことか神なのだ」
一人の人間が挽肉のように潰されたというショッキングなニュースは当然のことながら勇也だけでなくイリアの耳にも届いていた。
スマホで確認した今日のニュースでも三体の惨憺たる焼死体が上がったことは大きく取り上げられていたし、その時は勇也とイリアも最近の世の中は怖いなと話していたのだ。
だが、その犯人が神だというのはイリアも全くの初耳だろう。
「詳しく聞かせてください」
イリアは切迫した状況であることを受け止めたられたのか、勢い込むようにして言った。
「この町には羅刹組と真理の探究者という二つの宗教団体があって、その二つが血で血を洗う抗争を始めたのだ。それを止めて欲しい。私と違い、戦うことに長けたイリアちゃんならできるはずだ」
そう情けを請うように言って狸は深々と頭を下げた。正真正銘の神だけあってイリアの性質も見抜いているようだ。だが、勇也の心を脅かすようにして震わせたのはそれが理由ではない。
「真理の探究者だと……」
勇也は眉間にしわを寄せると、怖い顔をしながら言葉を発した。その反応を見逃すことなく、イリアは勇也の様子を窺うような顔をする。
「どうかしたんですか、ご主人様? いきなりそんな怖い顔をするなんて普通じゃないですし、何かあるなら言ってください」
イリアはつぶらな瞳を瞬かせながら、隠し事なんて水臭いとでも言いたそうに尋ねてくる。だが、今の勇也には、イリアの気遣いは鬱陶しく感じられた。
「いや……」
勇也は辛い感情を持て余すような顔をしながら、半年以上も会っていない母親の顔を思い出す。それから、漠然とした不安を覚えながら、虚空を見詰めた。
サラ金の事務所やキャバクラ、風俗店がテナントとして押し込まれ、また一件目の殺人事件の現場を見下ろすことができる雑居ビルに怒号が飛び交っていた。
「おい、ここは羅刹組の島だぞ。どこの国の人間かは知らねぇが、外国人がでけぇ態度を取ってるんじゃねぇよ」
サラ金の事務所では、ヤクザのような男たちが短刀の切っ先をちらつかせて凄んでいた。
そんな男たちと相対しているのはサングラスをかけた黒いスーツ姿の男たちだ。彼らの表情は能面のようで、何の感情も窺えない。
それが、ヤクザのような男たちの神経を逆撫でし、そのせいで、まさに一触即発とでも言うべき空気が事務所の中に充満していた。
「俺たちは連続殺人事件の情報を集めてるんだ。こっちも上からの命令でな。筋が通らねぇこともやらなきゃなんねぇんだよ」
スーツ姿の男たちのリーダ格と思われる男が、肝の据わったような声で言った。
「お前どこのギャングだ?」
二メートル近くの背丈を誇り、スーツの上からでもよく分かる鍛え上げられた筋肉を纏った男の迫力にヤクザのような男たちも気圧される。
あり大抵な脅し文句が通じる輩ではないことはヤクザのような男たちもしっかりと理解しているようだった。
「そいつは言えねぇな。ただ一つ言えることは、素直に事件のことを吐かないとこの汚らしいビルは消えてなくなるってことだ」
巨漢の男はサングラスのフレームを指で押し上げると不敵に笑った。
「正気か、お前? ここは羅刹組のビルだぞ。そんなものをぶっ壊した日には、お天道様の下は歩けなくなるぞ」
ヤクザのような男たちは、目を剥いて言った。
「安心しろ。ビルが無くなる時は、この話を聞いているお前らも死ぬ。この国の警察の手を煩わせるは嫌だから死体も残さずに消してやるよ」
巨漢の男の声に呼応するかのように背後に控えていたスーツ姿の男たちが、どこから生み出したか分からない特大の火球を壁にぶつける。その瞬間、凄まじい爆発が起きて、事務所の中にあるものは残らず舞い上がって破砕した。肌が焦げ付くような熱波も事務所内を荒れ狂う。粉塵もそこにいた全員の視界を遮ったし、もう、全てが滅茶苦茶だった。
煙が消えて、事務所の壁に空いた大きな穴を見たヤクザのような男たちは、さすがにポカンとしてしまう。
ヤクザのような男たちもそれ相応の修羅場を経験してきたのだろう。だからこそ、目の前にいるのが逆らえるような類の人間ではないことを本能的に察したようだった。
「わ、分かった。俺たちが悪かった。だから、物騒なものは閉まってくれよ」
ヤクザのような男たちは爆弾でも使われたのだと勘違いしたらしく、恥も外聞も捨てて下手に出る。これには、巨漢の男もにんまりと子供のように笑った。
「聞き分けが良くて助かるぜ。じゃあ、最近の羅刹組の躍進の理由を教えてもらおうか」
巨漢の男は禍々しい笑みを浮かべながら、ヤクザのような男のたちの一人を足を浮かせるくらい大きく掴み上げる。すると、苦しそうに呻く男は口角泡を飛ばす勢いで、ベラベラと自分の持っている情報を吐き出し始めた。
それは五分ほど続き、尋問が終わる頃には掴み上げられた男の顔は真っ青になっていた。失神寸前だ。
「ドルザガート卿、連中は生かしておいて良かったんですか。しっかりと始末しないと組織のことを嗅ぎ回られる原因になるかもしれませんよ」
詳しい話を聞き終え、雑居ビルから出てきたスーツ姿の男たちの一人が、巨漢の男、ドルザガートにそう進言する。その声は微かに震えていた。
「その時は嗅ぎまわる奴らを残らず消す。俺はゼルガウストのように甘くはねぇし、後先考えないような馬鹿でもねぇ。それは組織の連中にも教えてやらないとな」
ドルザガートは熊のような豪快な笑みを拵えると、ビルの外に止めてあった大型のワゴン車に乗り込む。
ワゴン車の中にはスパイ映画にでも出てきそうな高度な探知機能を持つ機材がところ狭しと詰め込まれていた。
そして、ワゴン車のドアを閉めると、ドルザガートはスーツのポケットから上等な葉巻を取り出してそれに火を付ける。その表情は実に苦い。
「ったく、日本に来てからは情報収集なんていうちまちました仕事ばかり回されるし、思いっきり暴れられた欧州での生活が懐かしいぜ」
そう文句を垂れると、ドルザガートはワゴン車に積んである人知を超えた神気や魔力すらも探知できる機材を起動させ、次の情報を求めて動き出した。
二十八歳の会社員の男性が「やっぱ、水月堂の饅頭は美味しそうだよな。これで値段が安ければ俺も買いに行く気になるのに」と自分の町にもある水月堂の支店を思い浮かべる。
十九歳の男子大学生が「試食の饅頭を食べてるイリアは本当に幸せそうだな。やっぱり、イリアも女の子らしく甘いものには弱いのか」と帰りの電車に揺られながら零す。
秋葉原の町をこよなく愛するオタクの男性が「見た目が外国人のイリアちゃんが、お饅頭を食べてるのはちょっと変わった感覚っすね」と言ってニカッと笑う。
高校中退の虐められニートの少年が「水月堂の饅頭はクソ高いんだろ。なら、俺の口には一生、入る気がしねぇな」と悔しそうに鼻を鳴らす。
小学生の少年が「僕もお饅頭が食べたーい」と夕食の準備ができた食卓に着きながら叫ぶ。
ファミレスで働いているアルバイターの男性が「つーか、イリアちゃんに饅頭はミスマッチだろ。食べるならケーキでないと」といちゃもんをつける。
アイドルの追っかけフリーターの男性が「俺の町には水月堂がないから、味は確かめられないな。ちょっと悔しいぜ」と苦笑する。
メイド喫茶で店長を務めている男性が「今度、実家に帰る時は水月堂の饅頭を買って行ってやるかな。そうすれば、親父とお袋も喜ぶだろ」と郷愁のような感情を持つ。
いつもは普通の女子中学生でたまにコスプレイヤーに変身する少女が「イリアちゃんが食べる物は何でも美味しく見えちゃうな。さすがご当地アイドル」と眩しいものでも見たような顔をする。
水月堂のPRを終えると、勇也は自宅に戻って来る。
元々、足が棒になるほど疲れていたのに、気を張らなければならないPR活動までやったのは心身に堪えた。
イリアが勇也の心を煩わせることなく率先してスムーズなPR活動をしてくれたのは助かったが。水月堂の店員も気前よく試食のお饅頭やお菓子を振舞ってくれたし。
まあ、動画の視聴回数は一時間も経たない内に三十万回を超えたし、今日が終わるころには百万回に届いてくれることだろう。
そうすればまた十万円以上のお金が雪崩れ込んでくる。なればこそ、疲労困憊の体を押してPR活動に励んだ甲斐もあったというものだ。
もっとも、勇也が水月堂に足を運んだのはお金ではなく、ネコマタのためだ。ネコマタが水月堂の饅頭を欲しがらなければ、幾らお金が稼げても今日はPR活動をやる気はなかったし。
勇也は水月堂の饅頭をテーブルの上に置くと、徐にネコマタがいる護封箱を開け放った。
すると、ふんわりとした光の玉が護封箱から出てきて、それはくるくると回転した後、テーブルの下で猫の形を取る。いつ見ても幻想的な光景だ。
そんな風に現れた猫は人間のような豊かな表情でしかめっ面をしている。それがまた滑稽に見えたし、勇也も猫に対しては半畳を打ちたくなった。
「何か、おいらに用でもあるのかよ。言っておくけど、今のおいらは相当機嫌が悪いからな」
ネコマタは昼間のやり取りをまだ根に持っていたのか悪態をつくように言った。
「そんな生意気な口を利いて良いのか。せっかく、水月堂の饅頭を買ってきてやったって言うのに」
勇也はニヤリと口の端を吊り上げた。
「なぬっ!」
ネコマタは雷鳴が轟くのを近くで聞いたかのような反応を見せた。
「一箱、二千五百円もしたんだから、感謝して食ってもらわなきゃ困るぞ。ま、お前のこれからの活躍しだいでは、もっと値の張る饅頭を買ってやるのも吝かではない」
たかが饅頭に二千五百円も出すなんて、昔の勇也だったら正気の沙汰ではないと思っていただろう。でも、今はお金で片が付くのなら、安いものだとも思い始めていた。
「さすが、ソフィアが選んだ新たなご主人様だけのことはあるな。何だかんだ言って、心が広いや」
ネコマタは色づきの良い肉球で鼻の頭を擦りながら笑った。
「そうだぞ。とにかく、全部、食って良いから機嫌を直せ。ついでに玉露の茶葉も買ってきたからお前もお茶を飲むか?」
玉露の茶葉も水月堂で買ったものだ。当然、高価格帯の水月堂の茶葉は目が飛び出るほど値段が高かったし、こんな買い物が続くと金銭感覚が狂いそうだ。
「飲むに決まってるよ! おいらはミルクなんかより、お茶の方が大好きなんだ。水月堂のお饅頭を食べながらお茶が飲めるなんておいらは幸せだな」
ネコマタはまるで天にでも昇りそうなホワーンとした笑みを浮かべた。
「現金な奴め。まあ、そういうところは俺のイメージしていた通りだし、何だかほっとしたよ」
勇也はほのぼのとした気持ちになりながら零す。
「おいらって、そんなに分かりやすい奴かな? ソフィアにも似たようなことを言われたけど自覚は全然ないよ」
ネコマタはムゥと唸りながら言った。
「でも、そういうのは悪くないぞ。腹の底で何を考えているのか分からない奴よりは何倍もマシだからな」
「ソフィアも全く同じセリフを言ったし、やっぱり、お前はただ物じゃないな。……まあ、今朝はお前を侮るようなことを言って悪かったよ」
ネコマタは悪びれたようなシュンとした顔で言ったので、勇也もその湿っぽさを吹き飛ばすように笑う。
「別に良いって。とにかく、お前の要求は呑んでやったんだから、これからは俺のことを主人と認めて役に立ってくれよ」
ソフィアの代わりが務まるとは思えないが、主人としての威厳は損なうことなくネコマタとは接していきたい。
「任せて置けって。おいらもお前のことをご主人様と認めてやるし、おいらにできることなら何でもやってやるさ!」
ネコマタは胸を反り返らすと、勇也の期待に応えるような態度で豪語して見せる。その様子は見栄や虚勢にも感じられたが、それでも勇也にとっては頼もしかった。
「じゃあ、これからよろしく頼むぞ、ネコマタ!」
勇也はネコマタとの絆を強めるように手を差し出した。その手は握手のつもりで出したものだったがネコマタはまるで犬のようにお手をした。それが、勇也の笑いのツボを突く。
何だか、このアパートでの暮らしも賑やかなものになりそうだな。でも、こういう団欒のようなものは悪くない。まだ、家族が一つだった頃の温かさが蘇ったようだし。
「おうよ! こちらこそ、よろしくな、勇也!」
ネコマタは威勢の良い声を上げると愛嬌たっぷりに、にんまりと笑った。




