第一章 非日常との邂逅 加筆・修正版
〈第一章 非日常との邂逅〉
勇也が夏休みに入ってから非日常ともいえる生活が数日続いた。
その間、常に不安と隣り合わせだったが、とりあえず自分の身に災難のようなものが降りかかることはなかった。そこだけは安堵している。
物語なんかでは女の子との出会いが事件に発展するケースが多々あるからだ。
例えば、ではあるが、悪人から女の子を助けるという展開であれば、物語なら大いに盛り上がるところだろう。
が、それがいざ現実になると一介の平凡な高校生である自分には何もできないとしか言いようがない。
実際に悪人と対峙したりしたら怖くなって逃げ惑うのが関の山だろうし、身を挺して女の子を守るなんて、どう逆立ちしたって無理だ。
現実とは、兎角、厳しいものなのだ。
とはいえ、突然、家の中に転がり込んできた女の子であるイリアとの生活にもだんだん慣れてきて、どこかフワフワしていた浮ついた心も元に戻り始めた。
やはり、慣れというものは恐ろしい。どんなに突拍子もない事態に陥っても冷静に頭が回るようになるのだから。そこには若さ故の心の柔軟さもあるのかもしれない。
でなければ、単にどんなに強い刺激であっても長続きはしないだけか。もし、そうだとしたら何とも味気のない話だ。
一方、ただの居候のくせに遠慮というものが欠如しているイリア曰く、自分は消失した銅像から生まれたらしい。
どういうメカニズムで銅像が本物の人間と見間違うような姿に変貌し、自由に動けるようになったのかはイリア自身にも分からないらしいが。
でも、そこが一番、肝心な部分なのだから、そこが全く分からないとなると、勇也も言い知れぬ不安が込み上げてくる。
まあ、そういった部分については心を強くして耐えるしかない。それもまた慣れだし、その内、判ることも出て来るだろう。
待つのも大切なことだし、焦りは禁物だ。焦りはあらゆる失敗の元だし、今回の件のような明らかに自分の理解の範疇を超えていることでは特にそうだ。
とにかく、勇也としても目の前の少女が本当に上八木イリアその人であると言うのなら、無理に意地を張ってまで同居を拒む理由はない。
手元に置いておけば使えると打算的に考えてすらいたし。
勇也も自分では良識のある一般人だと自負しているが、そこは十六歳の多感な年頃の少年なのである。
いきなり金髪碧眼の美少女が家に住まわせてくれと頼んできたら、断る言葉は持てなかった。
もちろん、漫画やアニメのような心躍る生活が待っているとまでは、さすがに期待していなかったが。
でも、ある種のワクワク感は数日経った今でも抑えきれていなかったし、それは勇也にとって経験したことがないような充実さをもたらす感情だった。
「ご主人様、パンと目玉焼きが焼けたから起きてくださいよー。早起きは三文の徳って言いますし、いつまでも寝ていたら駄目ですよー」
メイド服の上に家庭的なエプロンを身に着けたイリアがベッドで寝ていた勇也の体を何度も揺り動かした。
意識は寝ぼけ半分であったものの、起きることはできない。なので、薄目のまま抵抗をするように寝返りを打つ。
すると、イリアがタオルケットを無理やり引き剥がしたので、惰眠を貪っていた勇也はようやく煩わしそうに目をパッチリと開ける。それから、ゆっくりと上半身を起こすと纏わりつく眠気を振り払うように大きく伸びをした。
「ふぁー、もう朝か。しかも、良い匂いがするし、毎朝、朝食を作ってもらって悪いな」
ここ数日、食事を作るのはイリアの係となっていた。
彼女は居候をさせてもらっている身なので、どんな仕事でも買って出ると気前良く言って見せたのだ。
だから、勇也の方も遠慮なく食事や掃除、洗濯は全てイリアに任せていた。おかげでこの数日はだいぶ楽ができた。
「いえいえ。ご主人様に尽くすのが私の仕事ですし、気になさらないでください。それに私もちゃっかりと、ご相伴に預からせてもらってますからねー」
イリアはニヤニヤと下世話に笑った。
こういう人間味が溢れる表情を見ていると、とても銅像から生まれた存在だとは思えないよなと勇也も心の中で呟く。
試しにイリアの体を躊躇いがちに触らせてもらったら、普通の人間と変わらない柔らかさと温もりがあったし、生身の人間であることは間違いない。
ひょっとしたら、イリアにそっくりの外国人が上八木イリアというバーチャルアイドルの振りをしているだけなのではと勘繰った時もあった。
とはいえ、ここ数日間、一緒に暮らして分かったことだが、目の前の少女はまさしく本物の上八木イリアそのもので、全ての設定を余すことなく踏襲していた。
まさに自分の理想を全て盛り込んだような上八木イリアがそこにはいたのだ。ただのそっくりさんがイリアのコスプレをしているだけとはどうしても思えない。
それなら、しばらく様子を見てみよう、その内に何かのボロを出すかもしれないと勇也も冷静に判断したのである。
その判断が正しいかどうかは、もう少し時間をかけないと分からないだろう。
「そうだったな。お前は無一文だし、食費は俺が出してるんだっけ。なら、その分は働いて見せるのは当然か」
食費が増えたのは勇也にとっても悩みの種だった。
イリアの手料理は文句なしに美味しいが、その前までは食費を削るようにカップラーメン生活を続けていただけに食費の高騰は死活問題だった。代わりに別の部分を切り詰めなければと、勇也も腹帯を締めてかかる。
「その通りです。少ない生活費を切り詰めて、毎日、暮らしているご主人様に多大な負担をかけていることは承知しています。だから、できることなら何でもやりますよ」
イリアはハキハキと威勢の良い声で言った。
「そうか。なら、家計の負担になることはなるべく控えてくれよ。ウチの財政はカツカツなんだから、あんまり高いティーパックは買ってくれるな」
イリアは食料の買い出しにも行ってくれているが、コーヒーや紅茶のティーパックなんかは一番、値段が高くて良いものを買ってくる。そのおかげで、美味しい飲み物に不自由はしないのだが家計へのダメージはでかい。イリアの高級志向には困ったものだ。
「気を付けます。でも、そういうことなら、ちょっと面倒くさいですけど家計簿でも付けましょうか。そうすれば、どこに無駄な支出があるか分かります」
主婦臭いことを言って、イリアはクスッと笑う。
その可愛らしい反応に勇也も不覚だとは思いつつもドキッとしてしまう。
やはり、イリアの可愛らしさは飛び抜けている。例え、本物の上八木イリアでなかったとしても、この可愛らしさはまやかしではない。
そう思った勇也は、手玉に取られてなるものかと自分に言い聞かせながらキリッとした顔をする。
「それは構わないが、俺はお前に自分の家の財政を牛耳らせたりはしないからな。そこはしっかりと憶えておけよ」
「分かってますよ。己の分というものはちゃんと弁えますし、その上で、ご主人様の期待にも応えて見せます!」
「なら良い。そこまでの高い意識があるのなら、俺も安心してお前に家のことを任せることができる」
「はい! ご主人様の信頼は決して裏切りません」
大きく胸を張ったイリアを見て、勇也はどこまでも調子の良い奴だなと呆れる。でも、それくらいでなければ、本物の上八木イリアとは言えないだろう。この調子の良さが上八木イリアの持ち味の一つだし。
「その言葉は信じさせてもらうぞ。ま、何はともあれ、お前の家事には助かってるよ。誰かと暮らすのも案外、悪くないもんだ」
役に立たなければ、イリアみたいな厚かましい女の子は衝動に任せて家から叩き出していかもしれない。
が、今のところはその必要はなさそうだし、家に置いてやっている恩はあるのだから、せいぜいこき使ってやらなければ。
「そう言ってくれると嬉しいです。やっぱり、何事も一人より二人ですね。これから先も力を合わせて頑張って生活していきましょう!」
そう言って、イリアは拳を天井に向かって振り上げる。それを勇也は何という神経の図太さだと思いながらジト目で見た。
「いつまで居座る気なんだ、お前は……」
「いつまでも、ですよ! この家に限らず、ご主人様が行くところなら地の果てまでついていきますし、私から離れられるなんて思わないことですね!」
まるで、ストーカーのようなことを宣うイリアの瞳に星屑のような光が煌めいた。それを見て、勇也も自分の心が怖気立つのを感じる。
自分はとんでもない厄介人と居を共にすることを許してしてしまったのではないかと。まあ、時すでに遅しだし、多少の恐れは克服して見せるしかないだろう。
「それは止めてくれ。いつまでも、お前が俺の人生に張り付いていたら結婚してくれるような女の子が寄ってこなくなる」
「なら、独身を貫けば良いだけの話です。結婚が人生の全てではありませんよ。昨今の世の中では特に」
「何で赤の他人のお前に、そこまで決められなきゃならないんだよ。ただの居候のくせに図々しいにもほどがあるぞ」
「それは言いっこなしですよー」
イリアは泣きつくような声で言ったし、勇也もそんなイリアを睥睨しながら腕を組む。
「お前が自分本位のことばっかり言うから俺だって頭にきているんだろうが。少しは自重しろ」
これが男だったら拳骨をくれてやっているぞ、と憤ったが、イリアは勇也の内心を余所に嫌らしさを感じさせるようにニタリと笑う。
「分かりましたよ。まあ、私だってひょっとしたら、いつかは自分一人で生きていきたくなることもあるかもしれません。自立というものは大切ですし」
イリアはより良い未来を見据えているような面持ちで言葉を続ける。
「可能性は薄いとは思いますけど、もし、一人で生きたいという気持ちになった時が来たら素直にご主人様を開放してあげましょう!」
「呪縛霊みたいな奴だな、お前は」
勇也はイリア鬼の首でも取ったような笑みを見て、そのあまりの奔放さにげんなりしたような顔をした。
「でも、私の性格を作ったのはご主人様ですよ。問題があるとしたら、それはご主人様のキャラクター造りの仕方です」
「そこを突かれると返す言葉がないが……」
「でしょ? ま、私は自分の性格を気に入っていますし、ご主人様に不満など持ってはいませんけどね」
イリアはけろりとした顔で言った。
まあ、自分のことが嫌いな上八木イリアなんて偽物も良いところだからな。自分自身も含めて、誰のことも分け隔てなく全力で好きになれるのが本物の上八木イリアなわけだし。
そう考えると、今のイリアは本物の上八木イリアとして合格点をあげられるような女の子なのかもしれない。それを認めるのはかなり癪だが。
「そっか。なら、この話題はひとまず置いておいて、そろそろPR活動の再開について話すか。お前、自分の役割はちゃんと分かっているんだろうな?」
夏休みに入ったらすぐにでもPR活動に力を入れてやろうと思っていたのにイリアの登場のせいで数日を無駄にしてしまった。このロスは今日からの頑張りで取り返すしかない。
「もちろんです、ご主人様。私は本物の上八木イリアですよ。3Dの画像なんかに負けてはいられません。生身の体を持った女神の力、みんなに思い知らせてやりますよ」
イリアは並々ならぬ意気込みを見せながらガッツポーズを取った。これには勇也も小難しいことは忘れて苦笑する。
目の前にいるイリアがその真価を発揮できるかどうかは今日、分かる。
PR活動の中で何の役にも立てなければ、冷たいようだが遠くない日に家から出て行ってもらうしかない。
言葉は悪いが、家事しかできない無駄飯食らいをいつまでも居候させておけるほどの余裕は勇也にはないのだ。
幾ら可愛くても、家族でもない人間を理由なく家に置いておくことはやはりできない。それが一般常識というものだ。
むろん、イリアが自分を本物の上八木イリアだとちゃんと証明することができれば話は違ってくるが。
「その意気だ。お前の頑張り次第で、俺の人生も大きく変わるかもしれないし、期待はさせてもらう。でも、本当に大勢の人間の前に顔を晒す心の準備はできているんだろうな?」
カメラの前に立ったら震えて喋れない、なんてことは言うなよ。本物の上八木イリアは土壇場のような状況にも強いという設定なんだから、撮影くらい軽くこなしてもらわないと。
「はい!」
イリアは曇りのない無病さを感じさせるような顔で返事をした。
「くどいようだが、止めるなら今の内だぞ。ネットで顔を晒せば反響は大きくなるが、その分、あれこれ嫌なことも言われるようになるし」
勇也も世間に自分の顔を知られているのは、ちゃんと承知している。だからこそ、カメラに映る時は不用意な発言をしないように気を付けているし、男ではあるが愛想も欠かさない。
「大丈夫です。テレビに出ているような本物のアイドルになったつもりで頑張らせていただきます」
イリアは不敵な笑みを見せながら言ったし、これには勇也も心強い気持ちで頷く。
「そうか。なら、もう余計な心配はしないし、思う存分、自分がやりたいように、この町のPRをしてくれ」
「分かりました。私も絶対に手は抜きませんし、ご主人様もできるだけ可愛く私を映してくださいね」
「もちろんだ。金がかかっていることだし、俺だって全力でお前の魅力を引き出すような撮影をしてやるさ」
「それは頼もしいお言葉です!」
イリアは花火が打ち上げられた時のようなテンションの高い声で言ったし、それを聞いた勇也も覚悟が決まったような顔をする。
なるようになる、という言葉もあるし、今はイリアの女の子としてのスペックと自分の動画撮影の手腕を信じよう。
「……よし。そうと決まれば、朝飯を食ったらすぐに町に繰り出すからな。3D画像を入れ込む必要はないし、思い切ってライブ配信をやらせてもらうぞ」
勇也もイリアのやる気に触発されて、感情を高ぶらせる。こういう時は大抵、良い動画が取れるものなのだ。どんなものであれ、モチベーションというものは大切だ。
「承知しました!」
イリアも元気が有り余っているような顔で弾けたように笑った。
勇也とイリアは上八木市の商店街に来ていた。
この町の商店街は寂れてはおらず、時間さえ来ればそれなりに賑わう。これも近くに大型のショッピング・センターなどがないおかげだろう。
もし、そんなものができれば、蝋燭の火を吹き消すように商店街はシャッター街に早変わりしてしまうはずだ。
この地域に住む人間として、それは困るので勇也も商店街のPRには殊更、力を入れている。
ただ、今は朝の早い時間帯ということもあってか、周囲の人通りは多いとは言えない。商店街の店も開店し始めたばかりだし、いつもの活気はまだない。
それでも、何人かの通行人はメイド服姿のイリアを見るや、目を見開いて立ち止まっている。通りに面した形で商売をしている八百屋や魚屋の店主も唖然としていた。
やはり生身の体を持ったイリアは注目の的になるしかないらしいし、勇也もそうでなくては困ると心の中で相好を崩す。
動画撮影で最も重視しなければならないのはインパクトだ。インパクトが欠けていてはどんなに良い内容の動画も見てはもらえない。
そういう意味では、イリアの持つインパクトは極めて大きいと言えるだろう。
もちろん、勇也の動画撮影のテクニックも問われるし、あらゆる部分で手を抜くことができない。
でも、今回は小さいことに捕らわれなくても大丈夫だという確信があった。それだけ生身のイリアという素材の良さは際立っている。後はPRの仕方だけだし、それはイリア本人に任せるしかない。
さてと、生身の上八木イリアのお手並みを拝見させてもらうとするかな。
「さあ、皆さん。今日から上八木イリアの新たなバージョンのPR活動が始まりますよー。どしどし視聴しちゃってください」
そう溌溂とナレーションをするイリアを勇也はスマホで撮っていた。視聴回数は平日の朝ということもあってか、驚くような伸びはない。
ただ、勇也のチャンネルを登録している人には通知が届いているはずなので、時間が経てば必ず見てくれるはずだ。ここは焦るようなところではない。
「まずは一番バッターの八百屋さんです。この八百屋さんはスーパーよりも新鮮で美味しい野菜を仕入れているって評判なんですよ。皆さんも安いからって、すぐにスーパーの野菜に飛びついたら駄目ですよ!」
イリアは歩道にはみ出す形で商品を陳列していた八百屋の前でそうPRする。
それを見ていた八百屋の店主は幽霊でも目撃したかのように青い顔をしていた。店主のキャベツを持つ手も小刻みに震えている。それは決して過剰な反応ではない。
「あ、あんたは上八木イリアちゃんだよね。こりゃまたそっくりさんがいたもんだ……」
八百屋の店主はゴクリと生唾を飲み込みながら言った。
勇也もこの珍獣でも発見したかのような反応の仕方は正しいと思った。
金髪の外国人のメイドが朝の商店街にいるのを見て平気な顔でいられる奴がいたら、そいつの頭のネジは少しおかしい。
外国人ということを差し引いても、メイド服はやはり異様だ。
ここが日本ではない外国であっても、通行人には狐につままれたような顔をされていたことだろう。
そんなことを思う勇也ではあるが、ここ数日の自分も頭のネジがかなり緩んでいるような状態だった。
自分の家にイリアがいるのが、ごく当たり前のような感覚を持ってしまっていたから。なので、人のことをどうこう言えたものではない。
「私はそっくりさんではなく正真正銘の上八木イリアです。あんまり変なことを言うと、宣伝してあげませんよ?」
イリアは脅し文句を言いつつも茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。
それを受け、八百屋の店主も下手な言葉を投げかけるのは自分の店の首を絞めるだけだと悟ったのか、ガクガクと頷く。その様子は、蛇に睨まれた蛙の状態だ。
「そ、そりゃ悪かった。にしても、本当にイリアちゃんなんだなー。やっぱり、イラストとかとはインパクトが違うぜ」
八百屋の店主は額に浮かんでいた汗を拭うと感嘆したように言った。
これには勇也も不愉快なものを感じて、こめかみの辺りをピクッとさせる。自分が精魂込めて描いたイラストが軽んじられるのは反発こそしないが、面白くはなかった。
「はい! ですが、ご主人様が描いてくれたイラストも素晴らしものであるのに違いはありません。そちらの方も変わらぬご支持をお願い致します」
イリアも勇也のフォローをするのは忘れない。この辺の気配りが勇也にとっては何気に嬉しかったりするのだ。
自分は美術部にも所属している絵描きだし、絵に対するプライドは少なからず持っている。絵描きにありがちな偏屈な性格だとは自覚しているが、それでも自分の絵が認められるのが嬉しくないはずがない。
一応、普通の大学に進むつもりだが、将来の仕事は美術関係のものが良いなと思っているし、クリエイターなんて呼ばれ方はされてみたい。
そんなことを心の中で呟く勇也はどんどん視聴回数が伸びていき、コメントなども目まぐるしく増えていくのを見て、これが生身の上八木イリアの力かと慄いた。
「さて、お次は魚屋さんですが、やっぱり、鮮度が違いますよ。特にマグロの赤身はねっとりしていてスーパーの物とは味が違います。冷凍ではない本マグロの味は格別ですねぇ」
イリアはテンションを衰えさせることなく次の店の紹介を始める。
すると、通行人の中にスマホを手にして本人の了解を取ることもせずにイリアの姿を撮影する人たちが現れ出した。
その数はどんどん増えていき、人垣も生まれる。カメラのシャッター音も矢継ぎ早に聞こえてきた。
気が付けば、イリアの周りにはたくさんの人が集まり、みんなスマホを片手にイリアの姿を撮影していた。
勇也もライブ配信を始めてから十分たらずで視聴回数が万単位にまで上り詰め、コメント数が千件を超えたのを見て震え出しそうになる。予想を超えた反響だった。
「イリアちゃん、今日は新鮮なアジを仕入れることができたんだ。刺身にしてすぐに食べられるようにしてあげるから待っててくれ」
八百屋の店主よりは順応の良い魚屋の店主がノリの良い声で言った。
「お刺身にして食べられるアジというのは期待が持てますねー。私、アジって聞くと、煮付けやフライを思い浮かべてしまうんですが」
イリアの言葉を聞いて、勇也は生まれてからまだ一週間も経っていないと言い張るお前がアジの煮付けやフライを食べたことがあるのかと突っ込みたくなった。
おそらく、設定を忠実に再現できるようにある程度の知識は最初から備わっているのだろう。そう考えると全て辻褄が合う。
もちろん、イリアの言っていることが真実であればの話だが。
「本当に新鮮なアジは刺身で食べるのが一番、旨いんだよ。みんな分かってないみたいだが、イリアちゃんならきっと俺の意見に賛同してくれるはずさ」
魚屋の店主は手際良く包丁で青光りする鱗のアジをさばいていく。その様子を勇也も欠かすことなくアップで撮影する。
今やっているのはこの町のPRなので、イリアの可愛い姿だけを映せば良いというものではない。映すべきところはしっかりと映さなければ、PRとしては成り立たないのだ。
視聴者も馬鹿ではない。
もちろん、その程度のことは一年以上もこの町のPR活動に精を出してきた勇也なら当然のように心得ている。
ただ、生身のイリアがいる今はさすがにいつもとは勝手が違った。
「魚屋さんらしい含蓄のある言葉ですねー。これは益々、期待が高まっちゃいますし、私も舌が踊り出しそうです」
そう言って、舌舐りをするイリアの前にアジの刺身が皿ごと置かれる。それを箸で食べるイリアはご満悦な表情を浮かべて見せた。
勇也もその様子をここぞとばかりに拡大して撮影する。イリアのカメラ映りはアイドルを自称するだけあって、かなり良かったし、無理して買った性能の良いスマホで映し出される彼女の横顔は実に栄えていた。
一方、視聴回数の方は既に十万回を超えていて、コメントの方も驚きや様子見のものだったのが、次第に熱狂的な支持を訴えるものに変わりつつあった。
二十八歳の会社員の男性が「すげー、生身の上八木イリアって可愛すぎるだろ!」と感嘆する。
十九歳の男子大学生が「ここまで完璧なコスプレってできるもんなのか?」と大学の食堂で朝のコーヒーを飲みながらスマホ片手に動画を見る。
秋葉原の町をこよなく愛するオタクの男性が「同感、この外人さん、クォリティーが半端じゃないっす」と垂涎する。
高校中退の虐められニートの少年が「ペンより重い物を持ちたくない勇也のイラストなんか目じゃねぇ」と勇也の名声に嫉妬するようにきつめの言葉を吐く。
小学生の少年が「イリアちゃん、萌えー」とマセたことを口ずさむ。
ファミレスで働いているアルバイターの男性が「つーか、イリアちゃん、俺の町にも来てくれないかなー」と熱を帯びた期待をする。
アイドルの追っかけフリーターの男性が「コンサートとか開いたら、武道館が満杯になるって。無理だとは思うけど、開いてくれないかなー、コンサート」と揚々と要望する。
メイド喫茶で店長を務めている男性が「ウチのメイド喫茶で働いてくれたら商売繁盛は間違いなしだな。イリアなら確実に看板を張れる」と本気でイリアをスカウトしたい気持ちになる。
いつもは普通の女子中学生でたまにコスプレイヤーに変身する少女が「私も今日はイリアちゃんのコスプレをしようかな。あの元気は分けてもらいたいし」と動画を見て触発される。
みんな好き勝手なことを言うようにコメントをしているが、その熱の籠り方は今までの勇也が作成したPR動画とは一線を画すものだった。
本物の上八木イリアというものを体現するということが、どれほど視聴者の心を射止めるのか思い知らされる結果になった。
そこに一抹の不安と寂しさを感じた勇也だったが、視聴回数が増えてくれるのならファンたちの多少の暴走は目を瞑ろうと思った。
自分のイラストがお役御免になってしまうのは困るが、そこは二次元好きのオタクたちが跳梁跋扈する日本である。アニメチックなイラストの需要が消えることはないだろう。
むしろ、生身のイリアとの相乗効果でイリアのイラスト入りのグッズの売れ行きも今まで以上に良くなるかもしれない。
そうなれば、また収入が増えるし、今のところは良いこと尽くめだ。
そんなこんなで、商店街のPR活動を済ませた頃には、まるで歩行者天国のように大勢の人が商店街に集まっていた。これでは勇也も思うようにイリアに近づけない。
動画を一旦、止めた勇也はカメラ撮影に気前良く応じているイリアを見て、そろそろ別の場所に移ろうと思う。
地元のテレビ局のような連中も出張ってきたのでここらが潮時だと思ったのだ。テレビ局の手によってイリアが悪戯にクローズアップされると面倒なことになる。
何せ、イリアは身分証明も何もない女の子なのだ。しかも、見かけは外国人。その正体を突き止めてやろうとマスコミが動けば面倒を通り越して厄介だ。
そう思った勇也はイリアに声をかけて、撤収を指示した。
表通りから外れた路地に、無残な死体が見つかった場所を見下ろせる雑居ビルがあった。
その猥雑さを感じさせる雑居ビルにはサラ金の事務所やキャバクラ、風俗店などがテナントとして押し込まれていた。
まだ昼間だと言うのに風俗店の看板には、チカチカとした安っぽさを感じさせる光が灯っている。
あの羅刹組が元締めとしてついているサラ金の事務所の窓もこの暑さのためか盛大に開け放たれていた。
一時期は現場検証をする警察官たちで騒がしかった場所も、今は進入禁止の黄色いテープが張られているだけで静かなものだった。
とても一人の人間が挽肉に変えられた場所だとは思えない。
だが、一日でも早く世間の関心が沈静化してくれなければ困るのが雑居ビルで働く人間たちだ。
事件のとばっちりを大きく受けてしまった風俗店の店内で、二人の男女が青い空に向かって愚痴を零していた。
「事件のせいでお客さんが減っちゃいましたねー、店長。この時期なら昼間でも欲求不満なお客さんが押しかけて来たのに」
けばけばしい服を着た少女がビルの四階の窓から顔を出す。
ここからなら、事件の現場は丸見えだった。アスファルトの地面にこびりついている生々しい血の跡も確認できる。
それを凝視していると消えたはずの血臭も強い刺激として蘇って来た。サービス行為をする室内に漂う汚らしい臭いも、その血の臭いにかき消されそうだ。
「まあな。毎日のように事情聴取の警察官が店に来るのにはホント参った。でも、夏休みが終わる頃には元に戻るさ」
レストランのウェイターのような服を着た、どこか流行りの執事にも見える男がぼやく。
「事件の犯人はどうやって死体をミンチにしたんでしょうね。私だったらその作業の途中で発狂してしまいますよ」
少女は無造作に胸の辺りのボタンを外して、男を虜にするような豊満な胸を外気に晒す。
今日も蒸し暑くてたまらないが、お金を落としてくれる客の相手ができない少女の心は冷えきっていた。
「俺だって同じさ。ま、誰が犯人でも警察が捕まえてくれるだろ。あんな派手な殺しをやらかしておめおめと逃げ果せられるものじゃない」
男は胸のポケットから四角い箱を取り出すと、気だるげな動作で箱から取り出した煙草に火をつけた。燻らせた煙草の紫煙は窓の外へと流れていく。
「だと良いんですけどね。ま、警察の人には税金の分くらいは働いてもらわないと」
少女は煙草の臭いに顔をしかめながら言った。
「その通りだな。でも、気を付けなきゃならないのは羅刹組だ。このビルのオーナーは羅刹組の幹部だし、下手なことを言って、因縁を買わないようにしないと」
風俗店を経営するには、ビルのテナント料だけでなく、その筋の人間にも見かじめ料を払う必要がある。
そして、その筋の人間の代表とくれば、この町なら羅刹組だ。なので、羅刹組のご機嫌を損ねるようなことだけは絶対にできない。
過去に羅刹組の怒りを買ったキャバクラや風俗店は一カ月もしない内に店の内装ごと消えた。警察も動いたようだが、店のオーナーや従業員の行方は知れない。
それだけに、羅刹組の怖さを知っている人間でなければ、この町で夜の商売はできないのだ。
「ですよねぇ。私も大学の学費とか稼がなきゃいけないし、今日は呼び込みをしてでも、お客さんからお金をふんだくらないと」
少女は自身の金銭的の欲望を持て余すようにそう言った。
勇也とイリアはこの町の文化財に指定されている神社に向かって歩いていた。目的は神社のPRだ。
最近は神社も不景気で、積極的にPRをしていかないと建物の維持とかもままならないらしいのだ。
何とも世知辛い話である。
でも、そういう世の中の時ほど重宝されるのが自分のようなネットに携わる人間なので文句は言えない。
だからこそ、不況な世の中に苦しんでいる人たちも逆境をバネにして、頑張ってもらいたいと思っている。
ちなみに、上八木市は何でも霊的に優れた土地だと言われているらしく、霊脈があるという場所には神社や寺が建っていることが多い。
そのせいか他の町よりも明らかに神社や寺の数が頭一つ抜けて多いし、町自体も宗教色が濃いイメージがある。
その上、最近では得体の知れない幾つもの宗教団体が我先にと支部施設を建設しているという話は勇也も耳にしていたし、それには不穏なものを感じていた。
「次は神社のPRですか。おみくじとか興味ありますし、商店街とは違った刺激を感じられそうで、楽しみですー」
イリアはボーカロイドを使って歌わせていた曲を鼻歌交じりに奏でる。この分だと歌ったり踊らせたりすることも十分、可能そうだ。
イリアの歌唱力と踊りのセンスは近い内に計測しなければならないだろうな。
「あんまり調子に乗るなよ。人間、羽目を外しすぎると、必ずどこかでポカをやらかすもんなんだ」
特にネットの世界では致命的なポカが生まれやすいのだ。そのポカで人生を棒に振った人間も少なくない。自分もネットでは痛い目に遇ったことがあるので、そういうことは骨身に染みている。
「随分と生真面目な顔をして言いますね。もしかして、それはご主人様の経験則から出てきた言葉ですか?」
イリアは揚げ足を取るように言って、ニヤッと笑った。
それを受け、勇也も済ましたポーカーフェイスができずに、ムッとしてしまう。もし、これが武弘だったら軽くかわして見せるような言葉を口にできただろうに。
幾ら偉そうなことを言っていても、自分はまだまだ嘴が黄色い。
「まあ、そんなところだ。俺なんてテレビでちょっとペンより重い物を持ちたくないって言ったら、かなり強烈なバッシングを受けたんだぞ」
土木作業員の苦労を思い知れ、とか見当違いなことも言われたな。あの手の理不尽に満ちた批難には腹立たしくもなるが、そこは相手にしないようにするのが吉だ。
「それはご愁傷様です。でも、心の狭い人もいるもんですねー。芸術家とかクリエイターにおかしな言動は付きものなのに」
それは遠回しに自分のことをおかしな奴だと言っているのか、と勇也はイリアの物言いに噛みつきたくなった。
「良くも悪くも、テレビとかネットとかに関連したメディアの世界には色んな類の人間がひしめいているってことさ。俺みたいにメディアに露出する活動を生業にしたければ、そこには理解を示さなきゃならん」
勇也は模範解答のような言葉を口にしたが、それでも、感情面では納得していないことはたくさんある。
まあ、ネットを初めとするメディアの世界には氷炭相容れないことは山のようにあるし、その一つ一つを気にしていたら心身が持たない。結局、どこかで心の矛を収めるしかないのだ。
「いつになく説得力の感じられるお言葉ですし、私もご主人様の忠告はしっかりと肝に命じておきましょう」
そう言い切ったイリアだが、本当に理解しているのか分からないようなのほほんとした笑みを浮かべていた。
「それが賢明だ。でも、今のところはお前に対する批判的な意見はほとんど出てきてないな。イラストだった時と変わらず、みんなから愛されているみたいだ」
イリアに対する愛情だけは十分すぎるほど感じ取ることができた。生身のイリアのお披露目としては悪くない手応えだ。この人気が末永く続けば勇也の懐も安泰だ。
「それは光栄です。PR活動を始めたばかりの私を、そんなにも愛してくれるなんて、何だか頭が下がる思いです」
イリアは薔薇のような可憐な唇を綻ばせるとクスリと笑いながら言葉を続ける。
「この世の中もまだまだ捨てたもんじゃないですね」
「俺もそう思うよ。あらゆる感情が渦巻くネットの世界で、みんなから手放しで愛されるっていうのは本当に難しいことなんだ」
「分かる気がします。どんなに誠実に振舞っていても、それがネット上なら悪意のような感情を集めてしまうのは避けられないことですから」
「そういうことだな。でも、それに負けるわけにはいかないぞ。お前が本物の上八木イリアなら尚のことだ」
勇也は穏やかな口調で言いながらも、心の中では自分の弱い部分に喝を入れていた。今の自分に必要なのは、心の研鑽だということを熟知していたからだ。
どのような分野にも光と影があるし、人間の負の側面も受けれていかなければ、PR活動での成功も望めない。それは間違いのないことだ。でも、イリアと一緒ならどんな苦境が待ち構えていても立ち向かえる。如何なる悪意に晒されても負けたりはしない。
この時の勇也はそう自得していた。
「まあ、視聴者たちから愛されるのは良いことですが、肝心のご主人様からの愛は足りていないように感じられますねぇ。家事はほとんど肩代わりしているのに感謝の念が少ないです」
イリアは当て擦るように言ったが、勇也はフンッと気色ばむような顔で鼻を鳴らす。
「俺はお前を家に住まわせてやってるだろ。それが一番の愛情表現だ。じゃなきゃ、お前みたいな怪しい奴は警察に突き出してるぞ」
「そうでした。ご主人様はやはり寛大なお方です。これでお金に対するケチ臭いところがなければ、もっと愛情を感じられるんですが……」
イリアはメイド服のポケットからハンカチを取り出すと、それを目元に当ててオーバーな泣き真似をして見せた。
この芸の細かさも生身のイリア故か。
もし、アイドルが駄目になったら、その時はお茶の間を沸かす芸人にでもなれば良い。きっと人気者になれるはずだ。
「ほっとけ。とにかく、お前がどうやって生まれたのかは突き止めておく必要がある気がするな。それが分からなきゃ、現れたのが突然なら、消えるのも突然、なんてことになりかねない」
一生、イリアと一緒に暮らせると思えるほど勇也も楽天的ではなかった。
どんな生活にもいつか終わりは来る。その時になって泣きを見ないためにはやるべきことはやっておかなければ。でないと、後悔、先に立たずという諺が現実のものになるだけだ。
「私も自分が消えるのは嫌です。ご主人様は気付いてないかもしれませんが私だって、自分のことについては色々と考えてるんですよ」
イリアはしおらしい反応を見せる。それを目にし、勇也も少しだけ胸が締めつけられるのを感じてしまった。
イリアはかなり変わった性格をしているが、メンタル面は人間とそう大差はないのかもしれない。なら、あまりキツイことを言うと繊細かもしれない心を傷つけてしまうかも。
やっぱり、女の子はある程度、優しさを持って接しないといけないな。
「そうか。なら、安易な楽観はせずに色々と考えていく必要があるな。お前と少しでも長く生活していくためにも」
「はい。ま、私はちょっとやそっとのことでは、ご主人様の傍を離れたりはしませんけどね。私とご主人様は一心同体です」
「それもまた困るというか……」
勇也はイリアとの生活の先に何が待っているのか思案しながら憂いのある顔で溜息を吐く。その瞬間、背筋に夏の暑さには似つかわしくない寒気が走る。それから、気配を感じ取る暇もなく近くから声が上がった。
「ちょっと、すみません」
勇也とイリアのやり取りに割り込むようにして声をかけてきたのは、夏場だというのに暑苦しいフード付きのローブを羽織ったかなり怪しい男性だった。
最初はアニメ贔屓をしている人間が何かのコスプレをしているのかと思ったが、どうも違うようだ。
男性は彫りの深い顔をしていて、年齢は勇也の目では推し量りにくいが大体、五十歳くらい。更に、明らかに日本人ではない容姿をしていた。
海外からの観光客と考えても、あまりにも変わった風体だし、どこの国の人間なんだと詰問したくなる。
「何でしょうか?」
勇也は胡乱な目をしながら受け答える。相手が突然、現れた外国人ということもあり若干の緊張感が体を支配していた。
「中央広場に行く道を教えてもらいたいのですが……」
男性は意外にも腰の低い控えめな態度で勇也に道を尋ねてきた。
勇也は全く違和感のない日本語を耳にして、少し感心していた。日本語をしっかりと喋れる外国人は貴重だと思ったのだ。
勇也としても外国人が日本を好きになってくれるのは普通に喜んでいる。そこは斜めから構えたりはしない。
「それなら、この道をまっすぐ進んで突き当りを右に行けば、中央広場に辿りつけますよ」
ここからなら迷うような道順ではない。
「ありがとうございます。……ひょっとして、隣のお嬢さんはイリア・アルサントリスさんではないですか?」
徐にフードを取ると男性はなぜか嬉しそうな顔をしながらイリアに視線を移した。
「はい。私は歌って踊れるご当地アイドル、イリア・アルサントリスです。でも、晴れてこの町の名誉市民になったので、上八木イリアと呼んでください」
そうイリアが快活に言うと、男性はどこか寂寥感のある顔をする。
「そうでしたか。やはり、あなたはどんな姿の時でも輝いていらっしゃる。ですが、アルサントリスの名前はもう捨ててしまわれたのですか?」
男性の不思議な色合いを見せる目が少しだけ光彩陸離といった感じの輝きを放った。
「そんなことはありません。でも、上八木イリアと呼ばれた方がこの町に馴染みが深く感じられて嬉しいんです」
イリアは満面の笑みを浮かべながらそう言いきった。これには男性も神妙な顔をした後、ふっと何かを了としたように微笑する。
「なるほど。どうやら、あなたはその名前と共にかけがえのないものを手に入れたようですね。実に喜ばしい」
「はあ」
「それでは、上八木イリアさん。私はあいにくと用事があるので急がねばなりませんが、あなたとはまたどこかで会えることを期待していますよ」
男性は流暢な日本語で言うと、柔和な笑みを浮かべながら軽く頭を下げた。
「はい!」
イリアは相手がどれだけ胡散臭く見えようと、元気良く返事をする。人見知りを全くしないところがアイドルの貫禄かもしれない。
「良い返事ですし、本当に今のあなたは輝いていますね……。では、私はこれで」
そう言うと、男性は太陽の光を避けるようにフードを目深に被り直しながら、ゆったりとした足取りで二人の前から去っていく。その後姿は何となく旅愁のようなものが漂っている。なので、観光客というよりは旅人に見えた。
「この町も外国人が多くなったよな。特に得体の知れない宗教関係の人たちが」
勇也は男性の姿が陽炎に溶けて見えなくなると複雑さを感じているような顔をしながらぽつりと零した。
「そうなんですか?」
イリアは勇也の言葉の意味するところを掴みかねているように問いかける。この辺りの知識はまだ備わってないようだし、家に帰ったら少しずつ啓蒙していこう。
「ああ。日本には外国が発祥の宗教団体が幾つもあるんだが、そいつらが最近になってこの町にこぞって支部施設を置き始めたんだよ。この町に支部を置いたって何か利点があるわけでもないのにな」
勇也は遠い目をしながら、ザリガニやメダカなどが捕まえられた水田を潰して建設された白くて立派な建物を思い起こす。外側を殊更、奇麗に見せている建物は生理的に好きになれない。
そこには町との調和は考えられていない気がするし、どうにも奇妙な印象が先立ってしまっているのだ。
もっとも、宗教というのはどこかしら奇妙なところがあるものだが、ああいう施設を建てられるだけの力があるとなると笑ってはいられない。
宗教団体が起こした過去の事件が頭を過る。ついでに自分の苦い過去も。
「国際化が進んで良いじゃないですか。外国人が自然に受け入れられるようになれば、私ももっとこの町の人たちと打ち解けられます」
イリアは含むようなところは全く見せずに言ったし、こういう楽観ができるところは素直に羨ましい。
「お前の言う通りにいけば良いんだけどな。でも、そうはいかないのが人間の住む町ってやつだし、近い内に問題は必ず表面化するさ。いや、もうしているか……」
勇也はイリアが現れたことで、この町の宗教団体にどこか剣呑な感情を抱くようになってきたことを自覚する。
もし、イリアが本当に銅像から生まれたというのなら、他にもイリアと似たような存在はいるのではないかと。
そこまで考えて、勇也は我ながら馬鹿げたことを考えているなとかぶりを振ったが、やはり、ありえない可能性ではないと思い、少し肝が冷えた。
「そこの二人、ちょっと話を聞きたいんだが良いか?」
今度はスーツ姿の大柄な男が、勇也とイリアのいる方に大股でのしのしと歩いて来る。男の厳めしい顔を見て、勇也はかなりのプレッシャーを感じた。
「あなたは?」
勇也はこういう威圧感たっぷりの男は好きになれないタイプの人間だなと思う。自分の父親も酒やギャンブルにのめり込むまでは、このタイプの男だったし。
その上、自分は父親との折り合いが悪く、恫喝するような言葉を聞くのも日常茶飯事だった。
だからこそ、勇也も父親のような男には屈しないという一種の誓いのようなものも立てていたのだが。
「俺は上八木警察署で警部を務めている本郷光国だ。確か君は市長から表彰されたこともある柊勇也君だったな。顔と名前だけはかろうじて覚えていたよ」
「その通りですが、警察の方ですか?」
勇也は内心では何も悪いことはしていないのにビクビクしていたが、その原因を作っているイリアは馬鹿みたいににんまりと笑っている。これには肘で小突いてやりたくなった。
「ああ。この町で殺人事件が起きたことは君も知っているだろ。俺はその捜査のために聞き込みをしている」
光国は胸ポケットから警察手帳を取り出すと、権威を嵩にするように勇也に見せつけた。
事実、警察手帳を見せられると、プレッシャーが三割増しになる。悪いことは何もしていないのに心が勝手におどおどしてしまう。
「はあ……」
勇也は連日報道されていたニュースの話を思い出していた。何でも事件の被害者は人間業ではないような殺され方をしていたとか。
それが何だと言ってしまえば身も蓋もなくなるが、それでもイリアの登場で少しだけ考え方にバイアスがかかる。
この町には俺みたいな一般人に隠された何かがあるのか、と。
「二人とも誰か怪しい人物がいたら、警察に連絡してくれ。頼む」
光国は強権的なものを感じさせる警察手帳をしまうと実直な感じで言った。
「分かりました」
勇也はさっき道を尋ねてきた男性なんていかにも怪しい雰囲気を醸していたと思ったが、光国には言わないことにした。
自分のせいであの男性に何か迷惑がかかったりしたら寝覚めが悪いと思ったのだ。
外国人だから怪しいという決めつけは払拭しなければならない。例えどんなに妙ちくりんな服装をしていてもだ。
でないと、イリアに対してもちょっとしたきっかけで、奥歯にものが挟まったような態度を取ってしまいかねない。
それではお互いの信頼関係は、脆くも崩れ去ることになるだろう。
そういう人間の偏見が招くような険悪さは、今のところ何もかもが順調に進んでいる自分とイリアの生活にはあってはならない。なので、もっと心を柔軟にしないとなと思う。
そんなことを考えていると、光国は軽い会釈をして来た道を引き返すように勇也とイリアから離れて行く。
その後姿を見ながら勇也は心の奥底が蠕動するような胸騒ぎを感じた。
「こんにちは、ヴァンルフトです。ユウヤ君がアップしたPR動画は拝見させてもらいました。やっぱり、生身のイリアちゃんは最高ですね」
ヴァンルフトさんもやはり今日のイリアの動画は見ていたか。VTUBEでの話題性も抜群だったから、どこかから聞きつけてきてもおかしくはない。ネットの情報には常に鋭敏なアンテナを張っているのがヴァンルフトさんだし。
イリアのことではヴァンルフトさんに隠し事はできないな。
「僕もバーチャルアイドルの方のイリアちゃんを作り上げる時は、ユウヤ君に色々とアドバイスをしましたが、まさか、そのイリアちゃんと瓜二つの女の子が実在したとは!」
ヴァンルフトさんのアドバイスは大変、参考になった。彼はイリアの影の生みの親と言っても差支えはないかもしれない。なので、生身のイリアのことはもっと前に教えておいた方が良かったかも、と勇也は思った。
「何だか夢でも見ているような気分ですし、PR動画がどういう方向に進化していくのか、楽しみにしています」
ヴァンルフトさんの期待には応えなければならないだろう。上八木イリアというキャラクターを生み出せたのは色んな人たちの協力のおかげだからな。だからこそ、その人たちの期待を裏切っては駄目だ。
「あ、そうそう。英国のブリダンティア学院には行ってきましたよ。やっぱり、僕の学校とは何もかも違いますね。伝統と格式の高さを感じました」
そう言えば、夏休みが始まる前にそんな話をしていたな。イリアの登場で、すっかり記憶から抜け落ちていた。
でも、イリアのせいで魔術云々の話について、バッサリと嘘だと断じることはできなくなってしまった。
もし、本当にイリアが銅像から生まれたのなら、どんな力があってもおかしくはないし。
「ユウヤ君も一度は英国だけでなく欧州の国に足を運んでみたらどうですか? 日本にはない刺激をふんだんに感じ取れますよ」
外国に旅行に行くというのは中々にハードルが高い。そもそも、自分は上八木市の外に出ることすら稀だから。
まあ、今は外国人のイリアもいることだし、思い切って海外に旅行に行ってみるというのもアリかもしれないな。
一人での旅行は怖くても、二人での旅行なら大丈夫そうだ。
本日の全てのPR活動が終了し、勇也とイリアは満足そうな顔で日脚の早い太陽が沈みかけている夕暮れの町を歩いていた。
特に勇也は動画の視聴回数が二十四時間も経たない内に百万回を超えたのを見て、歓喜にも似た感情を抱く。
撮影した動画の数は四つほどあるのだが、その全てが、その日の内にミリオンを達成することなど今まではなかった。
この勢いを失うことなく視聴回数が伸びれば、いつもの何倍もの収入が一気に入って来る。なので、気分はまさに大金持ちだ。
このままイリアの影響力を行使し続ければ今年中に借金を完済することも可能かもしれない。
そうすれば、学費の高い大学にも通える目途がつく。必死にパートで働く母親の苦労も軽減できることだろう。
生身の体を持ったイリアはまさしく金の成る木だし、イリアがいつまでも一緒にいてくれれば人生は順風満帆だ。
今のところはイリアを手放す気には全くなれない。願わくば、この景気の良い状況がいつまでも続いて欲しいと思う。
勇也がそんな甘い期待を抱いていると突如、イリアが緊張を孕んだ顔で身構えた。
「ご主人様、気を付けてください! 何やら怪しいオーラを放つ者たちに取り囲まれています」
イリアの物騒な言葉を聞いて、勇也も蛇の巣でも見つけたかのような顔で周囲を警戒する。
現在、勇也とイリアがいるのは田畑に囲まれた人通りが全くない道だ。建物らしきものはないし、視界も開けている。が、民家などがないだけに何かあっても、駆けつけてくれる人間はいないだろう。しかし、見る限りでは自分たち以外の姿はない。
だとすると、イリアの目には自分の目には見えない何かが映っているということなのか?
「怪しいオーラだと。そりゃ、一体どういう意味だ?」
勇也は今一つ状況が呑み込めずに裏返ったような声で尋ねる。
「詳しくは説明できませんが、私が持っている力とは性質の異なる力を持つ者たちがいるということです」
イリアはすぐには意味が掴みかねるような説明をした。
「何だと?」
それは人間なのかと問いかけたくなったその瞬間、薄闇の中から這い出てくるように黒のスーツを着込んだ男たちが五人ほど現れた。
男たちは日差しの厳しい昼間ではないのに、皆、黒のサングラスをかけている。サングラス越しから放たれている視線も危うさそのもの。
まるで、外国の映画に出てくる人の命の重みなど微塵も感じさせない人殺しをする冷徹なマフィアのようだ。いや、マフィアよりも影が感じられる怖さがある。
そんな男たちの背後にはマントのようなもので自らの顔と体を覆い隠している人物が出現している。その人物の身長は二メートルを優に超えていて、見るからに腕っ節が強そうだった。
更に男たちの傍には大型の犬のような動物も何匹かいた。その動物たちはまるで人間すら殺すこともあるドーベルマンのようだし、飢餓感と攻撃色の強さのようなものを窺わせる。
マント姿の人物と大型の犬のような動物は黒服の男たちとは明らかに異なった雰囲気を漂わせていて、勇也の目には何とも不気味な存在に映った。
兎にも角にも、隠れる場所などどこにもなかったはずなのに、勇也とイリアはいつの間にか異様な空気を発する者たちに取り囲まれていた。退路は完全に塞がれている。
勇也はどう鑑みても友好的な連中には思えない者たちの出現に体中が総毛立つのを感じた。一体、何が始まろうとしているのだろうかと、胸の鼓動が早鐘のように鳴る。
「イリア・アルサントリスだな。痛い目に遇いたくなければ、我々と一緒に来てもらおうか」
スーツ姿にサングラスをかけた物々しい雰囲気を発する男の一人が、そう命令口調で言った。
「何なんだ、あんたたちは?」
突き刺すように問いかけたのは栃麺棒を食らった勇也だ。
男たちからは隠しきれない殺気のようなものが滲み出ているし、下手なことを言えば自分の命がなくなるかもしれない。
とはいえ、退いて見せても男たちの態度が軟化するとは思えないし、拙い駆け引きが通用するような相手ではなさそうだ。
なら、とりあえず強気に出て、男たちの真意を少しでも良いから詳らかにするしかない。だが、そんな短絡的とも言える狙いはまるで通じなかった。
「答える義務はない。もし、我々の意向に逆らうというのなら実力行使をさせてもらうぞ」
そうにべもなく言った男は手に野球で使うグローブに似た物を装着する。それは薄闇の中で鮮やかな光を発していた。
勇也もてっきり拳銃でも取り出すのかと思っていたので、男たちが構える奇怪なグローブに視線が吸い寄せられる。
徒手空拳を繰り出してくるような連中には見えないし、グローブの中にはメリケンでも仕込んでいるのだろうか。
「あなたたちに従うことはできません。実力行使がしたいのなら、どうぞご勝手に。ただし、痛い目を見るのはあなたたちの方だと思いますが」
イリアは一歩も引くことなく豪気に言い放った。
この火に油を注ぐような物言いには勇也も心臓の音が跳ね上がったし、やはり、穏便には事は進まないらしい。
もう野となれ山となれだし、自分も腹を括って抵抗する意思を示すしかない。
悪人から女の子を守るなんてできるはずがないと端から決めつけては駄目だ。世の中には幾ら怖くても逃げてはいけない時がある。それが今なのだ。
その結果、痛い目に遇っても、それはか弱い女の子を守るためだし、男としては仕方がないことだろう。
「なら、お前を強引に捕縛させてもらう」
そう方針を切り替えるように先頭の男が言うと、男たちの背後にいたマント姿の人物が覆い隠していた姿を露にする。
マントをバサッとはためかせて取り払ったその下から現れたのは石でできているような頑強そうな体だ。どう見ても人間の出で立ちではないし、何かの生き物のようにも思えない。
石でできた木偶人形という表現が一番、的を得ていそうだが、そんなものが人間のように動いているのを見ては勇也もとてもではないが正気ではいられない。
続いて、大型の犬のような動物もメキメキと体の筋肉を膨張させて、まるでライオンのような大きさの化け物に変貌する。口の中から見える鋭い牙は、人間の体など簡単に食い千切れるような凄みを兼ね備えていた。
化け物はこの世のどんな肉食獣より凶暴さを感じさせられるし、襲われたら丸腰の人間などあっという間に肉の塊にされてしまいそうだ。
勇也は常識では推し量れないような化け物たちを見て、大きく戦慄してしまう。この非現実的な化け物たちを従える連中は一体、何者だって言うんだ!
「人型のゴーレムに獣型のホムンクルスですか。随分と用意が良いようですね。もっとも、そうでなければ私に対抗することなどできませんが」
イリアは男たちに使われているような化け物に関して知識があるのか、こめかみの辺りから一滴の汗を垂らしながら言った。
「殺す気で攻撃しても構わん、行け!」
スーツ姿の男が放った言葉が合図になったかのように、イリアから言われた人型のゴーレムと獣型のホムンクルスが見えない檻から解き放たれたかのようにこちらへと迫ってくる。
その際、普段の生活では絶対に感じ取ることができない本物の殺気が津波のように押し寄せてきた。
が、逃げようにも体は恐怖によって雁字搦めになり、足の方も地面に縫い留められている。
「ご主人様、絶対に私の傍から離れてはいけませんよ! ただ傍にさえいてくれれば、私が全てカタを付けて見せます!」
イリアは何とも涼しげな表情でスタッと前へ進み出る。その横顔に恐怖という名の感情は一欠けらも見受けられない。
「でも、俺だって戦わないと……」
女の子のイリアだけに任せて置ける状況ではない。
「大丈夫っ! 私はとっても強いですから、ご主人様もその強さを大船にでも乗った気持ちで信じていてください!」
勇ましさを見せるイリアが勇也を庇うような態勢でそう言うと、その手にアニメの魔法少女が使うようなファンシーなステッキが忽然と出現する。
ステッキの先端には水晶のようなものが付いていて、それがどれほどの力を秘めているのか淡い光を放っていた。
それを見た勇也もそんなステッキで戦えるのかと不安が倍加する。その証拠に化け物たちが怖気づくような様子は全く見られない。
剣や銃ならともかく、やはり、あのステッキで戦うのは無茶がある。その証拠に黒服の男たちもせせら笑っているではないか。
勇也が固唾を呑んで見守る中、イリアがステッキの先端を襲い掛かって来た獣型のホムンクルスに向けると突如として巨大な火球が生まれる。
それは爪を振り翳し、飛び上がって宙に浮いていた獣型のホムンクルスの体をすっぽりと包み込んだ。
獣型のホムンクルスはあっという間に火だるまになり、悲鳴のような叫び声を上げながら地面をのたうち回る。
炎は生き物のように執拗に絡みついて、獣型のホムンクルスの体を決して逃がさない。それから、獣型のホムンクルスは松明のように轟々と体を燃やしながら動かなくなった。
その光景は凄惨としか言いようがないし、勇也もいつもは愛くるしいイリアにここまでの残酷な所業ができるとは予想だにしていなかった。
残った二匹の獣型のホムンクルスはイリアの力を脅威だと見て取ったのか襲い掛かるタイミングを計るようにイリアの周りを練り歩く。まるで野生の獣のような警戒心に満ちた足取りだ。
そして、勝機を見出したのか、二匹の獣型のホムンクルスは、それぞれ違う角度から絶妙とも言えるタイミングでイリアに飛びかかった。
人間の体など簡単に切断できそうなサバイバルナイフのような爪が猛然とイリアに振り下ろされる。事実、狙われたのが勇也だったら、魚のように三枚に下ろされていたことだろう。
が、イリアはその連携攻撃をひらりと流麗な身のこなしでかわすと、追撃するように果敢に爪を振り下ろしてきた獣型のホムンクルスの攻撃をステッキでガッチリと受け止める。と、同時に獣型のホムンクルスの体を意外な力技を見せるように豪快に投げ飛ばした。
その先には鋭い牙でイリアを咬み千切ろうと迫っていたもう一匹の獣型のホムンクルスがいた。互いに体をぶつからせた二匹の獣型のホムンクルスは縺れ合いながら地面を転がる。
そんな二匹の獣型のホムンクルスに体を離す暇を与えず、イリアは先ほどよりも更に大きさを増した火球を放った。
二匹の獣型のホムンクルスが地獄から呼び出されたような灼熱の炎に包み込まれる。炎は猛り狂うように燃え盛り、二匹の獣型のホムンクルスは見ている勇也が目を背けたくなるくらい藻掻き苦しんだ後、命の糸が切れたように動かなくなった。
勇也はイリアの明らかに手馴れている凄絶な戦い振りを見て、思わず今のイリアは血も涙もない戦士だと言いたくなった。
「やはり大したことはありませんね。この程度の手勢で私を捕縛しようなんて、片腹痛いにもほどがあります」
三体の獣型のホムンクルスを難なく屠ったイリアが自信を漲らせながら言うと、今度は自分が相手だとばかりに人型のゴーレムがイリアに猪突猛進な感じで迫る。
人型のゴーレムは間合いを詰めると巨岩のような拳を突き出してきた。それは形のない空気をも砕くような勢いがあった。
実際、生身の人間がその拳を食らえば肉は潰れ、骨はへし折られるだろう。致命傷は必至。それだけの破壊力を人型のゴーレムの拳は有しているはずだった。
もっとも、イリアは普通の人間ではないし、人型のゴーレムの攻撃は素早く、それでいて華麗な身のこなしを見せるイリアに対してはあまりにも鈍重すぎた。
イリアは当たれば必殺の威力を持つ人型のゴーレムの拳をしなやかな動きで余裕を持ってかわす。それから、すぐさま反撃に移るようにバチバチと火花を散らせながらスパークする光の玉をステッキの先端に作り出した。
光の玉に相当、大きなエネルギーが込められていることは、ここにいる誰にとっても一目瞭然だった。
あのダイナマイトの何倍も威力を生み出して見せそうだし、イリアの力を向けられたのが自分でなくて良かったと勇也も背中で汗を掻く。
イリアはそんな破壊のエネルギーの塊とも言えるような光の玉を人型のゴーレムの胸部目がけて放つ。その速さは閃光の如しで、遅々とした人型のゴーレムが避けられるはずもない。
光の玉の直撃を受けた人型のゴーレムの体はまるで内部から破裂するように爆発し、その体は跡形もなくバラバラに弾け飛んでしまった。
それは頑強さを感じさせた人型のゴーレムにしてはあまりにも呆気ない最後だった。
どうやら、人型のゴーレムも獣型のホムンクルスもイリアにとっては赤子の手を捻るように仕留められる雑魚にすぎなかったらしい。
しかし、イリアにここまでの破格の強さがあったとことには驚きを禁じ得ない。
自分の作った上八木イリアの設定にこんな百戦錬磨の如き強さはなかったはずだ。なのに、この修羅の如き戦い振りは何だろう。
自分が付与した設定以上の何かがイリアには内包されているとでも言うのか。
一方、人型のゴーレムが破壊されたことで周囲に粉塵が舞い散り、イリアの戦い振りを呆けたような顔で見ていた勇也の視界が遮られる。
勇也は人知を超えたイリアの戦い振りを見て、ようやくこれまでに彼女の言っていたことが嘘偽りのない真実だということを悟った。
今なら、イリアが銅像から生まれたという荒唐無稽な言葉も素直に信じられる。変に良識ぶってイリアの言葉に取り合おうとしなかった自分は馬鹿だった。
これからはもう少し畏敬の念を持って接することにするかな、とも思う。
粉塵が微風に乗って消えると、そこにはサングラスの上からでも分かるような狼狽え振りを見せている男たちがいた。
男たちもまさかイリアがここまで強大な力を持っているとは予想していなかったのだろう。イリアへの恐れが、彼らの顔には色濃く浮かんでいる。
そんな男たちは懐から袋のようなものを取り出すと、中にある白くてゴツゴツした塊を地面へとばら撒いた。
何の意味がある行動だと勇也は訝ったが、その答えはすぐに出た。
何と地面に撒かれた白い塊が見る見るうちに大きくなって、塊は不規則な形を作りながらプラモデルのパーツのように組み合わさっていく。そして、とうとう人の形を取った。
それは生身の肉というものが徹底的に削ぎ落された骸骨の人間とでも言うべきか。テレビゲームならモンスターのスケルトンだ。
その上、骸骨の人間は手に中世のヨーロッパにあるような剣と盾を所持していたし、まるで戦場に出る兵士だ。
その表現が的を得ているように、骸骨の人間たちは十体以上も出現していた。みな剣と盾で武装している。
これには勇也も悪い夢でも見ているような気持ちにさせられる。が、勇也の現実逃避を許さないように骸骨の人間たちは剣を振り翳してイリアに殺到するように襲い掛かる。
それに対し、イリアは特に緊張した様子も見せずに、ステッキを横なぎに一振りした。すると、それなりの大きさを持った光の玉が機関銃のように打ち出される。
その光の玉は骸骨の人間たちの剣や盾をボロ屑のように砕き、体の方も木っ端みじんに破壊する。
それは見ているこっちが憐れみたくなるくらいの容赦のない攻撃だったし、その圧倒的な破壊力と全てを蹂躙するような勢いに骸骨の人間たちは成す術なく屠られるしかなかった。
十体以上もいた骸骨の人間たちは、登場してから一分も立たないうちに戦いの場から悉く退場させられる羽目になる。骸骨の人間たちの幕引きはあまりにも外連味のないものだった。
イリアの味方をしている勇也ですら、もう少し見せ場があっても良いのではないかと思えてしまうほどだ。
骸骨の人間たちが殲滅させられたのを受け、スーツ姿の男たちの狼狽える様子もより一層、顕著になる。
その唇は小刻みに震えていたし、どうやら、登場した時に持っていた彼らの強気な態度も所詮は見かけ倒しだったらしい。
勇也も敵ながら男たちの心中はよく理解できた。はっきり言って相手が悪すぎたし、イリアの少女のような外見だけを見てその力量を想像してしまったのは、とんでもないミスだ。
もっとも、勇也もイリアの女神としての力は信じていなかったし、男たちのことをとやかく言うことはできないが。
それでも、男たちは逃げ出さずにその場に踏み留まる。まだ戦意を失わないのはさすがと言いたいところだが、それは男たちの状況を更に悪い方向へと動くように拍車をかけてしまう。
男たちは手に装着している黒いグローブのようなものからイリアが見せたものよりだいぶ小ぶりの火球を放ってくる。
グローブに付いていた水晶もやはり特別な力が備わっているのか赤く光り輝いていた。
それに対し、イリアは何ら表情を変えることなく自分の周囲に薄い光の膜を張って見せる。男たちが放った火球は光りの膜にぶつかり次々と小規模の爆発を引き起こした。
普通の人間なら大怪我どころでは済まないが、あいにくとイリアは普通ではない。
それに男たちが引き起こした爆発は、イリアが人型のゴーレムを破壊した時の爆発とは比べるべくもない弱々しいものだ。
まるで打ち上げ花火を人間に向かって当てているような迫力しかない。
その証拠に、自身を覆っていた爆風と白煙の中から現れたイリアは全くの無傷で、その顔には不適とも言える笑みが浮かんでいた。男たちの攻撃は焼け石に水というやつだったらしい。
「あなたたちの力もこの程度ですか。では、こんなつまらない戦いはさっさと終わらせてしまいましょう!」
イリアはそう宣言するように言うと、ステッキの先端に見ているだけで普通の人間なら意識が飛びかねないような特大の光の玉を作り出す。
光の玉は人型のゴーレムを倒した時のものよりも遥かに大きく、それでいて目が眩むような激しいスパークを見せていた。伝わってくる波動のようなものも半端ではない。大気がイリアの力の高まりに呼応するかのように震撼していた。
あんなものを食らったら脆弱な人間の体なんて一溜りもないと勇也も戦々恐々とするしかないし、それは標的にされている男たちも同じだろう。
彼らも最初に持っていた平静さは完膚なきまでに消え去り、口を半開きにして愕然としている。足の方も肉食獣に狙われている小鹿のようにブルブルと震えていた。
その様子は気の毒というより他ない。
それもそのはず、イリアの背後に控えている安全なはずの勇也ですら震えが止まらないのだ。であれば、今のイリアがどれだけ鬼気迫る恐ろしい存在かは口にするまでもないだろう。
そして、イリアが非情さを見せるように男たちに向かって特大の光の玉を放とうとすると、男たちもせめてもの抵抗とばかりに顔を庇うようにして身構える。
それはまさに無駄な抵抗と言えたし、多勢に無勢の戦いを仕掛けてきた卑劣漢の男たちに神の鉄槌のような一撃が叩きつけられようとしていた。
一方、その様子をハラハラと見守っていた勇也は相手が誰であれ人殺しはマズイと思い、イリアを止めようとする。
安っぽい倫理観だとは自覚している。でも、どんな理由があろうと人殺しは駄目だ。イリアのような天真爛漫で可愛い女の子なら尚更だ。
だが、口の筋肉が強張って何の言葉も発せられない。これには心の中で大きく舌打ちするしかなかった。何という肝の小ささだと己を罵りたくなる。
が、そこへ、聞いたこともないようなハスキーな女性の声が響き、それは助け舟を欲していた勇也の耳朶を強く打った。
「そこまでよ。双方とも、攻撃の手を止めなさい」
そう言って現れたのは凛とした雰囲気を漂わせるスーツ姿の女性だった。
長く伸ばした豊かなブルネットの髪が特徴的で、顔の方は明らかな外国人。だが、まごうことなき二十台の美女そのもの。その上、バストは大きくスタイルも抜群とくれば、勇也が先程までの戦いも忘れて見取れてしまうのも無理はないというものだった。
「人払いの結界が張られているこの場所に平然と入って来れるということは、あなたもそこの黒服さんたちのお仲間ですね」
イリアは確信を込めたように言った。
それを聞いて、勇也は結界なんてものが張られていたのかと心の中で呟き、急いで辺りを見回す。
街灯などない田畑に囲まれた道は日が完全に落ちてしまった今、月の光と燃え盛る炎だけが明りとなっていた。
だが、あれだけの破壊音が轟けば、さすがに誰かが駆けつけてきてもよさそうなものだが、それがないとなるとやはり結界のようなものが張られているのだろう。
超常的な現象にはすっかり慣れてしまったし、今更、結界という言葉くらいで誰かの正気を疑ったりすることはない。
とにかく、自分の持っている常識はもう通用しないのだと勇也も痛感した。
「その通りだ。まあ、事情も話さずに強引な手段に打って出たのは謝るし、良かったら、場所を変えて私の話を聞いてみないか?」
女性は男口調でそう提案してきた。
その言葉に勇也も自分が心の底から安堵していることに気付く。自分の身が助かったことよりも、イリアが殺人鬼にならなくて済むことにほっとしていたのだ。我ながら人が良いと思う。
「どうします、ご主人様? 下手をすると敵地に足を踏み入れることになりそうですが……」
イリアの心配はもっともだったが、勇也は不思議とこの女性は信じられるという根拠のない信頼を感じていた。
「あいにくと俺には分からないことが多すぎる。情報をくれるというなら、二度とこういう戦いに巻き込まれないためにも話は聞くしかないだろう」
こんなことが何度も繰り返されたら、特別な力など持たない勇也は成す術なく殺されかねない。話すだけで事が済むなら安いものだろう。
「分かりました。私はご主人様の判断に従います」
イリアは逡巡することなく首肯すると、自らが生み出したスパークする光の玉をあっさりと消失させた。
「話はまとまったようだな。では、駅前のビルの中に相応しい場所があるから、二人とも私についてきてくれ」
女性はそうざっくばらんに言うと更に言葉を続ける。
「なに、取って食うつもりはないから、安心しろ」
女性は堅くなっている勇也の目を見ながらそう言うと、余程の威厳を持っているのか手振りだけで黒服の男たちを下がらせる。それから、何とも軽やかな足取りで駅がある方角に向かって歩き出した。
勇也とイリアは駅前にあるオフィス街のビルの二階に来ていた。
そこには弁護士の事務所のような清潔さや小奇麗さを感じさせる空間があり、その応接室に勇也とイリアは通された。
この応接室を見る限り、身の危険に通じるような気配は感じ取れない。
むしろ、大事な客人として迎えられているような気分にさえなるし、話をするだけが目的というのは本当のようだった。
勇也とイリアが来客用のソファーに腰をかけていると事務員のような女性がテーブルの上に紅茶の入ったティーカップとお菓子のスコーンを運んで来る。
勇也は毒でも入っているかもしれないと警戒したが、耐えがたいほど喉が渇いていたので誘惑には勝てずティーカップに口をつける。
すると、忌憚なく美味しいと思える味が口の中に広がった。無理な緊張を強いられていた心が弛緩するのを感じる。
イリアが現れるまで紅茶にはあまり縁がなかったが、本当に美味しい紅茶は精神を安定させる力があるということをこの時、知った。
「そういえば私の自己紹介がまだだったな。私の名前はソフィア・アーガス。君たちを襲った構成員を束ねる組織、ダーク・エイジの幹部だ」
ソフィアは威圧する風でもなく、淡々と自らの素性を明かした。
「ダーク・エイジなんて実在したんですか。確か、欧州で最も小さい独立国、セインドリクス公国の暗部を体現している組織だと聞いていますけど」
その手の話を勇也もミステリーやオカルト好きの親友、武弘から聞いたことがあった。
ちなみに、セインドリクス公国というのは十八世紀になって欧州で建国された国で、特に独立を支援した英国とは強い結びつきがある。
セインドリクス公国は表向きは戦争には絶対に参加しないという旨を掲げている平和な国だ。
が、その裏では魔術だの悪魔だのという怪異かつ、時代錯誤な力を信奉するきな臭さもある国だった。
そんなセインドリクス公国の裏の実態は各国の諜報機関でも把握できていない部分が多いらしく、魔術や悪魔の力で何か後ろ暗いことをしているのではないかと、もっぱらに噂されることも多い。取り分け、陰謀論のネタとして扱われやすい国でもあるのだ。
それだけに、オカルトに詳しい人間なら一度は《魔術国家》の異名を取るセインドリクス公国の名前は聞いたことがあるはずだった。
「どんなに良いこと掲げている国にも汚れ役を担当する影の部分は存在しているものだよ。人間の国である以上、全てにおいて潔白でいられるはずはない」
ソフィアはリアリストのようなことを言って自嘲気味に笑った。
「なるほど。では、あなたたちのことを詳しく教えてください。そのために俺たちはここに来たんですから」
あれだけのことがあった後なのだ。ここまで来て無駄足を踏んだとは思いたくないし、与えられる情報はその真偽に関わらず手に入れておきたい。それがイリアと自分の今後を占うことにも繋がるだろうから。
「分かった。できるだけ分かりやすく説明するつもりだから頑張って話についてきてくれ」
そう言うと、ソフィアは滔々と説明を始める。
この上八木市は人間の信仰を一定以上集めると神が生まれる町なのだ。神たちは頻繁に生まれていて、この町の至るところで強い影響力を誇示している。
また、上八木市以外ではこのような現象は起こらない。
もちろん、他の町でも神が生まれないわけではないが、この町とは比較にならないほど、その数は少ない。また神が生まれるために必要になる時間も途方もなく長い。
故に短い期間で頻繁に神を生み出すことができる上八木市は二つとない特殊な性質を持った町と言える。
その情報をどこかから聞きつけた宗教団体やカルト教団はこの町の力を利用しようと企んでいる。
この町に支部施設を建てているのもそれが理由で、宗教団体やカルト教団は自分たちが崇める神を誕生、または顕現させようとしているのだ。
宗教団体がこの町にこぞって支部を作ろうとしている原因はそこにある。
ただし、神を誕生させるには全国ではなく、あくまで上八木市の住民の信仰心が必要になるのだ。
だからこそ、この町に支部を作った宗教団体は上八木市の住民の心を掴んで信仰を集めようと躍起になっている。
そもそも、上八木市の住民から信仰を集めるとなぜ神が頻繁に誕生するのか、その詳しい仕組みは今のところ分かっていない。
上八木市は霊的に優れた地なので、それが関係しているのではと言われているが、はっきりとした要因は未だ持って不明だ。だからこそ、ソフィアの属する組織も懸命に調査をしている。
一方、ダーク・エイジとはセインドリクス公国の表沙汰にはできない暗部を体現してきた組織で、魔術や悪魔の力を駆使し、世界中に影響力を持っている。
その上、ソーサリストという極めて攻撃的な魔術を使う人間を構成員として抱えているのだ。
組織は力のない人間でも魔術を使ったり、ゴーレムやホムンクルス、ボーン・ソルジャーなどを使役できる魔導具を持たせている。
中には強大な存在である神や悪魔を使役している者もいるがそれはごく少数だ。
誰にでも使える魔導具の性能程度ではあまりにも強大すぎる力を持つ神や悪魔を制御することなど到底、無理な話だからだ。
それだけに、神や悪魔を使役できる者は組織の中でも高い地位を得ているソーサリストに限られている。
そんなダーク・エイジだが、現在の目的はこの町に生まれた神たちを取り込むことだ。より多くの神たちを味方につけ、組織の力を増大させようとしているのだ。
神がいるのはこの町に限ったことではないが、この町はとにかく神の数が多い。なので、組織も積極的に動いてあらゆる神たちを自分たちのものにしようと企んでいる。
そこまでして力を欲して組織が何を成し遂げたいのかは幹部のソフィアにも知らされてはいない。
おそらく、他の幹部たちも知らないだろう。知っているとすれば、ほとんど正体が知られていない組織のトップだけだ。
「とまあ、掻い摘んで説明するとこんなところだ。もちろん、他にも語りたいことはたくさんあるが、それだとキリがなくなるので割愛しておく」
ソフィアは黒のストッキングを履いている足を色っぽく組みなおしながら言った。
「はあ……」
ソフィアの話を鵜呑みにしてしまった勇也は薄ら寒いものを感じながら相槌を打つ。随分とスケールの大きい話になってきたなと怯えながら。だが、彼女の話に欺瞞はないし、それは分かる。
「私が君たちに求めるのは一つで、それは組織と衝突するような行動は極力、控えて欲しいということだ」
そう言って、ソフィアは上品な所作で紅茶の入ったティーカップに口をつける。それを見ていると勇也も唐突に怒りが沸々と込み上げてくるのを感じる。
勇也とイリアは普通に暮らしていただけだし、人殺しも辞さないような組織に敵対することは何もしていない。
にもかかわらず、ダーク・エイジの構成員は勇也やイリアの都合など全く無視して襲ってきた。態度を改めるべきなのはそちらではないかと勇也は不満をぶちまけたくなった。
「イリアが狙われたのはどういう理由なんですか?」
そこが一番、肝心なのだ。それを教えてもらえない内は勇也も引き下がれない。
「上八木イリアは、この町で誕生した神の中でも一際、強い神気を放っている。それは隠し通せるものではないし、組織の構成員も何日も前からイリアを監視していたのだよ」
勇也はそんな気配は微塵も感じ取れなかったので忸怩たるものを感じた。
「神気って何ですか?」
「神を生み出したり、神の力を増大させるエネルギーのようなものだと考えてくれれば良い。個々の信仰の強さや、信仰を寄せる人間の数の多さで神気の量も変わってくるし、その点も憶えておいた方が良いだろうな」
「なるほど」
勇也は今一つピンとこなかったが話の腰を折るのも嫌だったので余計な質問はしなかった。
「とにかく、君にはお詫びのしるしに、幾つか役に立つものをくれてやろう」
ソフィアはソファーのテーブルの前に小さなオルゴールのような箱を置く。あと見覚えのあるグローブのようなものに少し変わった形の眼鏡と耳栓のような物も置いた。
「役に立つものですか?」
「ああ。今から私が渡すものを持っていれば、戦いの場でただ突っ立っているだけということもなくなるだろうよ」
「それはありがたいです」
自分もイリアのように戦えるようになれるとしたら、それは心躍ることと言って良いだろう。超常的な力に憧れるのは、普通の人間なら別におかしくもなんともない。もちろん、その力がより大きな危険を招く可能性を孕んでいるのも理解できていた。
剣を取るものは剣によって滅びるというのは有名な聖書の成句だったな。
「最初に渡すのは護封箱だ。この中にはネコマタという私が日本に来たばかりの時に使役していた《式神》が入っている。傷を癒せる簡単な法術も使えるから用途によっては役に立つかもしれん」
ネコマタという名前を聞いて、明らかに強くない奴だなと勇也は思った。
「式神ですか。普通の人間の俺にも使いこなせますか?」
「ああ。ネコマタくらいなら何とか大丈夫だろう。あと本当に簡単な魔術が行使できるようになる魔導具も渡す」
黒い色をしたグローブの掌の部分には透明感のある水晶のようなものが付いていた。黒服の男たちが、その水晶を光らせていたのを勇也も思い出す。
「このグローブには見覚えがありますよ」
イリアを襲った黒服の男たちが装着していたもので、火球を出したりしていた。これを装着すれば自分も魔術を使えるようになるのか、と勇也も手に汗握るものを感じる。
「なら話は早いな。最後に神や悪魔を肉眼で見ることができるようになる千里の眼鏡と声が聞こえるようになる補聴器も渡そう。基本的には神や悪魔は霊体で普通の人間にはまず見えないし、声も聞こえない。中には実体をもって人目に触れられるようにできる神や悪魔もいるが、そういう輩は多いとは言えないな」
ソフィアはかなり変わった形のフレームの眼鏡を指さした。
「色々とありがとうございます」
勇也は礼を言わなければいけない筋合いはないと思ったが、一応、感謝の意は示しておく。それから、眼鏡と補聴器を手に取ると、それを矯めつ眇めつする。
これを身に着ければ自分を取り巻く世界は一変するかもしれないし、それは途轍もなく怖い。
でも、自分は裏の世界の深淵を覗き込んでしまったのだから、もう、引き返すことはできないのだ。なら、ありのままの全てを、しっかりと受け入れるしかない。
勇也は後戻りは許されない人生の岐路のような場所に立たされていることを正確に把捉した。
「他にも分からないことがあったら、ダーク・エイジのサイトにアクセスしてくれ。パスワードを教えておくから、スマホがあればいつでも簡単にこの手の情報を閲覧できる」
ソフィアは胸ポケットにしまってあった手帳を取り出すと、ページを一枚、破ってそこにペンで数字の羅列を書き込む。それから、不安を感じているような勇也にその紙を差し出した。
その紙を受け取ると、勇也も裏の世界の匂いをふんだんに感じ取ることができるようになる。できれば、この匂いに慣れてしまうことがないようにしたい。自分はまだ表の世界の住人でいたいから。
「分かりました。なら、俺たちはそろそろ家に帰ることにします。もう俺たちが襲われることはないんでしょ?」
今日は本当に生きた心地がしなかったし、さっさと家に帰って眠りたい。そうすれば、心の整理もつくことだろう。
「それは保証しかねるな。組織も一枚岩というわけではなくて、上の幹部が考え方を変えればまた一悶着あるかもしれん」
ソフィアは難しい顔をしながらティーカップの中身を空にする。すると、黙って話に耳を傾けていたイリアが口を挟んできた。
「次に襲ってきたら私も手加減などせずに問答無用で叩き潰しちゃいますよ。それは覚悟しておいてくださいね」
一人、出されたスコーンを何の警戒感もなく美味しそうに食べていたイリアは笑顔のまま脅迫めいたこと宣う。
その目は決して笑っていないし、イリアの破天荒な行動にブレーキをかけるのは自分の役目なのだろう。気の重くなるような役目だが。
「ああ。ま、私も幹部の一人だし、私の権限で君たちの平穏な生活を脅かさないようにはできるはずだ。少なくとも、私個人は君たちの敵ではないし、そこは信頼して欲しいものだな」
ソフィアの言葉に勇也はほっと胸を撫で下ろすと、時計を見る。それから、そろそろ家に帰りたいと思い、ちょうど話が一区切りついたところでソファーから立ち上がった。
ソフィアも引き留めるような言葉は発しなかったので、話はここまでということだろう。
その後、勇也とイリアは応接室から出るとダーク・エイジの支部拠点になっているというビルを後にした。
一人、応接室で紅茶のお代わりを飲んでいたソフィアは重々しく息を吐く。
イリアを強引に捕縛するよう命じた幹部に対して、どう出るべきか思案していたのだ。ソフィアも組織の幹部とはいえ、他の幹部の行動を掣肘できるだけの力はない。
ましてや自分は女だ。荒事に慣れている男の幹部たちを窘めるのは容易なことではない。
とはいえ、勇也とイリアには平穏な生活を脅かさないようにすると言ってしまったので、その約束は絶対に守らなければならない。でなければ、次は確実に死人が出る。それが自分の直属の部下だったりしたら目も当てられない。
ソフィアが悩ましげな顔をしていると、組織の構成員である黒いスーツにサングラスをかけた男が話しかけてきた。
「あそこまでする必要はなかったのではないですか?」
イリアを襲った男の一人は力の籠らない声で問いかけた。
「あそこまでしなければ、信頼は勝ち取れんさ。お前ももう一度、上八木イリアを襲えと命じられるのは嫌だろう? なら、私のやり方に口を出すんじゃない」
ソフィアは先程までの余裕を脱ぎ捨てたように苛立たしげに言った。
「ですが……」
「それにあの二人は何かの餌に使えるかもしれない。利用価値がある内は親身に接して損ということはないだろう」
ソフィアも本当に厄介なのはあの二人ではないと考えていた。
重要視すべきなのは上八木市に特殊な力と性質を与えた存在だ。それを突き止めるまでは、下手な動きは見せない方が良い。
でないと、巨大な組織をバックにしているとはいえ、何らかの形で足を掬われかねないし、迂闊に動いてその責任を取らされるのは御免だ。
「そうですか。なら、私から言うことは何もありませんが、今回の一件はあなたの上役であるゼルガウスト卿に報告させてもらいますよ」
そう言うと、男は不本意な顔をしつつも、踵を返してソフィアの前から去って行った。
ちなみに、この支部には、現在、二人の大幹部がいる。
一人はソフィアの上役であり、若輩の女であるソフィアを幹部に抜擢したゼルガウスト卿で、もう一人はイリアを襲ったサングラスの男たちの上役であるドルザガート卿だ。
策略家のゼルガウスト卿と武闘派のドルザガート卿は対立していて、極めて不仲の関係だ。
それだけに、ソフィアとしてもイリアには手を出すなとサングラスの男たちに強く言い含めることはできない。
そこがまた辛いところなのだが、死人すら出かけたこの件で弱腰な対応を取るのは得策とは言えない。全ては組織全体の安寧のためだし、そのためには、やるべきことはやらないと。
そんな煩わしいことを考えていたソフィアはふと組織のことなど全く知らずに普通の生活をしている弟の顔を思い浮かべる。
記憶の中の弟は屈託なく笑っていた。その笑みは実に眩しくソフィアの暗い心に染み渡る。
「こんな世界に足を突っ込んでおきながら家族の思い出に縋るなんて、私もとんだ甘ちゃんだな……」
ソフィアは歪めた唇を噛みながら呟く。
自分の弟は勇也と同じくらいの年齢で、姿形もどこか彼と重なるものがあった。だから、あそこまで親身になってしまったのかもしれないとソフィアも自嘲する。
自分はまだまだ甘い。その甘えは幹部や構成員同士の足の引っ張り合いが日常茶飯事となっている組織の中で生きていくには隙となる。それは到底、許されることではない。
自分は紛いなりにも組織のために人生を捧げると誓ってしまった身なのだから、もう泣き言は口にできないのだ。
ソフィアはこんなことで懊悩しているようでは組織の幹部を務めていくことはできないと思い、胸に燻ぶる甘い感情を断ち切るように厳しい顔をして見せた。




