序章 事の起こり 加筆・修正版
〈序章 事の起こり〉
表通りから外れた路地の奥まった場所には、何か大きなものによって叩き潰されたような惨たらしい死体があった。
平穏な生活に浸りきっているような普通の人間に正視できる死体ではない。例え、死体を見慣れている人間であっても普通に目を背けるだろう。グロテスクという言葉はこの死体のためにあるようなものだ。
漂ってくる血臭も噎せ返るほどだし、夏という季節も相まって、死体は早くも腐敗を始めている。腐臭を嗅ぎつけたのか、数匹の羽虫も死体の周りを鬱陶しく飛び回っていた。死体に蛆がたかるのも時間の問題と言える。
こんな死体の処理を任せられる人間はさぞかし気の毒だろう。だが、その気の毒なことをやらなければならない人間は確実にいるのだ。
それが警察だ。
その証拠に所轄の刑事や鑑識班は込み上げてくる吐き気を堪えながら懸命に現場検証に勤しんでいる。彼らの表情は皆一様に暗い。仕事とはいえ、このような死体と対面することになるとは気が滅入るにもほどがあると、彼らの顔には書いてある。
が、そんな参っているような警察官たちの中にあって、ただ一人、気骨溢れる顔をしている男がいた。男は紺のスーツを着た坊主頭でやたら肩幅の広い割には足の短い刑事だった。
彼は本郷光国と言って、警察署では警部を務めている強面のベテラン刑事だ。
その風貌を違わず、光国は強引な捜査をすることで知られている。なので、犯罪者だけでなく、警察署内にいる身内の人間からも恐れられていた。
もっとも、光国は正義感の塊のような人物なので、不必要に誰かを傷つけたりはしないが。ただ、部下を容赦なく叱りつける厳しさはある。
さて、光国は第一線で活躍する刑事らしく死体を見るのは別段、珍しくはなかったものの、今、現場に転がっている異様な死体を見て、さすがに顔をしかめる。
どういう力が作用すれば、ここまで人間の体を損壊させることができるのか考えあぐねていたからだ。
はっきり言って、この死体の状況はベテランの光国にとっても初めて見るケースだった。
それが、光国のただでさえ厳めしい顔を更に厳めしくし、周囲の人間に近づきづらい雰囲気を作り出していた。
そこに、光国の気質をあまり知らない新米の平刑事がやって来る。平刑事は無残な死体の上がった現場に立ち会うのに慣れていないせいか、発する声がおかしな感じに上擦っていた。
「本郷警部、こりゃ誰の仕業でしょうね。殺すにしたって、やり方というものが酷すぎますよ。まるで、ハンバーグの挽肉だ」
今にも胃の中のものを逆流させてしまいそうな顔をしている平刑事が頬の筋肉を大きく引き攣らせながら言った。
「俺は肉を食うのが人生の中の数少ない楽しみなんだ。それを奪ってくれるなよ」
光国は忌々しそうに言って、胸ポケットから煙草を取り出した。
が、今は勤務中。
しかも、現場検証の真っ最中だということを思い起こして、ともすれば咥えたくなる煙草を無理に引っ込める。
警察という職業に関わらず、愛煙家には厳しいご時世だ。
「すいません。それで鑑識からの報告によると、死体は何か大きなものを頭上から落とされてこうなったみたいだと言っていました。詳しい死因はもう少し時間をかけないと分からないそうですが」
死体は頭上から股間までが原形を留めないくらい潰されていた。
鑑識班は建物の解体作業などに使うクレーンの鉄球のようなものを落とされればこのような状態になるかもしれないと零していたが、今の捜査段階では定かではない。体の損壊が激しすぎて死亡推定時刻も絞り込めていないのだ。本当に凄惨な死体だ。
「大きなものか。もし、それが本当なら落とされた物も現場に転がってなきゃおかしいんだがな」
凶器にはべったりと被害者の血が付着しているはずだ。それを持って逃げるというのは、精神的にはキツイ作業と言えるだろう。殺人事件の犯人にとって凶器をどう処分するのかは取り分け重要な事柄だった。
「ですよね。凶器が大きなものなら、それを運び出すのも大変でしょうし、人目にもつきやすくなります」
凶器を持ち去るのは苦労に見合うだけの得のある行動だとは合理的な光国には思えなかった。
「状況を鑑みるに単独犯の仕業じゃないだろうな。それで被害者の身元は特定できたのか?」
光国は肝心な部分を思い出し、切り込むように尋ねた。
「まだです。ただ、服の胸の部分に小さなバッヂのような物が着いていました。これは真理の探究者とかいう宗教団体の信者が着けるものだそうです」
宗教団体と聞いて光国の顔色が急に変わった。
この上八木市では三年くらい前から幾つもの宗教団体がこぞって支部施設や会館、集会場などを建て始めたのだ。
そのせいで面倒なトラブルも起きている。
特に昔から上八木市にあった羅刹組は羅刹神という鬼の神を芳信している宗教法人なのだが、その組織構造はそこいらの暴力団とそう大差がない。
宗教団体の揉め事とくれば縄張り意識の強い羅刹組が関与しているケースが多々あるのだ。
他にも、羅刹組がバックについている違法なキャバクラや風俗店を検挙したことは記憶に新しい。
「きな臭いな。まあ、後は鑑識に任せて、俺は聞き込みの方に力を入れる。事件とくれば羅刹組が関係している場合が多いし、そっち方面を当たろう」
光国は羅刹組とは何度もやり合ってきた関係だ。それだけに何か事件があれば真っ先に羅刹組の関与を疑うのが恒例となっていた。
もっとも、周囲の人間は決めつけすぎるのは良くないのではないかと苦言を呈してはいたが、光国が自分の捜査方針を改める気配はない。
今までは、それで十分な成果が上がっていたのが大きな理由であり、光国の刑事としての自信にも繋がっていたからだ。
「了解しました」
平刑事は恐縮したように言うと、もっと詳細な情報を得ようと再び鑑識班のいる方に戻って行った。
生徒たちを憂鬱な気分に陥れていた期末テストの返却がようやく終わり、後は夏休みを待つだけになった。
教室は開放的な空気に包まれていて、騒がしい喧噪も耳に心地良い。
窓から見える晴れやかな青空も期末テストを無事に乗りきった生徒たちを祝福しているかのようだった。
とはいえ、あともう少しすれば担任の教師がやってきて、お決まりの定例事項を告げるホームルームを始めるだろう。
夏休みになっても羽目を外しすぎるなよとか、危ない場所には近づくなよとか、注意を喚起するような言葉もいつもの定例事項に付け加えてくるに違いない。
教師たちも夏休みになってまで、生徒たちの面倒を見るのは嫌だろうから、問題を起こさせないように念には念を押してくるのだ。
とにかく、それが終われば、一学期の学校は正式に終了となる。
ホームルームが始まるまでの僅かな時間の合間に、比較的、席の近い柊勇也とその親友の信条武弘が世間話に花を咲かせていた。二人の顔には明と暗がはっきりと分かれている。
特に勇也の顔には曇天を思わせる暗さがあった。
「フッ、勇也。でかい口を叩いていた割には大した点数を取れなかったな。拍子抜けも良いところだ」
勇也が座っている席の傍らに立ち、何やら気障なポーズを取っている武弘は芝居じみた口調でそう言った。
「悪かったな。でも、一教科くらいはお前に勝てると思ってたんだよ。特に化学のテストは会心の出来だったし」
勇也は負け犬の遠吠えのようなことを言って、恨めしそうな目をする。が、いつもクールな武弘はどこ吹く風だ。長い付き合いだが、武弘が慌てたり取り乱したりするところは見たことがなかった。
だから、勇也も武弘をわざと慌てさせるように面当てしてみたくもなる。まあ、自分の面当てが通じる相手ではないことは分かっているが。
「確か、一教科でも俺に勝つことができたなら、今日の昼飯はどんな大食いをしても俺の奢りになるんだったな。だが、その逆の条件はちゃんと憶えているか?」
武弘は意地の悪い問いかけを投げかけると露悪的にニヤリと笑った。時折、見せるこの笑みが無性に癇に障るんだよなと勇也は思う。
もっとも、こんな笑みを形作らせている原因を作ったのは折しも自分なので、あまりでかい態度には出れないが、それでも悔しいものは悔しい。
「分かってるよ。お前にファミレスでプレミアム・ハンバーグとドリンクバーを奢れば良いんだろ。約束を反故にするつもりはない」
勇也は痛い出費だなと思いながら、無謀な戦いを仕掛けてしまった己の不明さを呪った。
「よろしい。では、楽しみにさせてもらうし、ファミレスに行ったら奢りのドリンクバーでとことん長話をすることにしよう」
武弘は額にかかる髪をサラッと払う。この仕草に思わずクラッとしてしまう女の子は多いらしいが男の勇也には理解の及ばないことだった。
ちなみに、武弘は学校では文武両道の秀才として知られていて、ついでに長身痩躯の相当な美男子でもあった。
ただ、自他ともに認める奇異な性格をしているし、本人も恋愛事には興味がないと吹聴しているので女の子と付き合える日は来ていない。
たまに、武弘のことをよく知らない女の子が、外見の良さだけに惹かれてラブレターを出したりするが、それが実ったような形跡はなかった。
だから、というわけではないが、意外と義理堅い一面も合わさって敵を作りにくい男子生徒だった。
もっとも、武弘にとって親友と呼べるような人間は勇也くらいなもので、他の生徒たちに対してはどこか一線を引いている節がある。
そのせいか、勇也以外の生徒たちは知り合いという程度のカテゴリーに収まっていた。
一方、勇也はと言うと、武弘とは違いどこにでもいるようなごく普通の男子生徒に見えることだろう。
実際、ほとんど全ての部分において人並みの域を出ていない。没個性とはこのことだ。
ただ、勇也は有名な画家が顧問をしている美術部に所属していて、勇也自身、絵のコンクールでは何度も入賞したことがあるという輝かしい実績を持つ。それが唯一の才能の顕現と言って良い。
事実、学校の校舎の正面玄関には金賞を取った勇也の絵がでかでかと飾られているし、それが勇也の絵が内外から高い評価を受けていることを物語っていた。
その上、勇也はある功績を称えられて、この町の市長と共にテレビに映ったこともあるのだ。それが本来なら冴えない男子生徒にすぎない勇也の知名度を飛躍的にアップさせていた。
「奢らされた上に、その長話にも付き合えって言うのか? 俺には他に考えたいことがあるし気が乗らないな」
勇也は浮かない顔で愚痴っぽい返事をする。が、内心では次の勝負では必ずリベンジを果たしてやると悔し紛れの思いを燃え上がらせていた。
「まあ、そう言うな。ところで、この町で殺人事件があったのは知っているか? そのせいで、今日は学校への居残りが禁止されたと聞いているが」
武弘は新たな話題を切り出す。
彼はミステリーやオカルトなどが大好きなので、この町の不思議については敏感だし、事件が起きたとなれば真っ先に食いついて見せるのだ。
伊達に部員が二人しかいない零細部のミステリー研究会に所属しているわけではない。
校内掲示板に張り出されるミステリー研究会のレポートには熱心な読者もついているし、その活動には気合が入っている。
勇也もたまにだがミステリー研究会のレポートには目を通すし、丹念に調べられた記事の内容には時折、感嘆さえしていた。
「知ってるよ。おかしな事件に巻き込まれない内に、みんな、さっさと家に帰宅しろってことだろ。はっきり言って余計なお世話だが、まあ、心配する気持ちは分からなくもないな」
事件など、平和な日常に浸かっていた勇也にとっては迷惑、以外の何物でもない。
何か事件が起きて喜ぶのはマスコミとネットの住民だけだし、真っ当に生きている自分には関わりのないことだ。
もっとも、そんなことなことを言っている人間ほど厄介な事件に巻き込まれたりするのだから、世の中というのは本当に分からない。
「学校側もそういう狙いらしいな。ちなみに、俺の情報網によると、事件の被害者は本当に酷い状態だったらしい。何せ、体の肉がミンチになっていたというのだからな」
被害者の殺害状況はまだ公開されていないはずなのだが、なぜか数多くの人脈と情報網を持っている武弘にはその事実が伝わっていた。
勇也も武弘に隠し事ができないことは知悉している。それだけに、いつもの生活でも隙は見せられないし、こいつにだけは弱味を握られたくないという思いも強い。
「ふーん」
「ふーん、って興味が沸かないのか? こんな猟奇的な殺人事件の詳細は滅多に聞けるものではないぞ」
学園きっての情報通を自称する武弘はなかなか話に乗ってこない勇也の顔を見て、眉を持ち上げた。
「残念ながら興味なんて沸かないね。俺はこの夏休みにどういうPR活動をしようか、そのことで頭が一杯なんだ。赤の他人が死んだ事件なんてどうでも良いよ」
今の勇也の念頭にはそれしかない。
どういう事件の被害者にせよ、赤の他人に心を砕いている余裕は勇也にはないのだ。
だからこそ、面白おかしく語って聞かせたければ、せめてファミレスに行ってからにしてもらいたいし、それが待てないというなら他を当たれと言いたかった。
「そういうものか。冷たい奴だと言ってしまえばそれまでだが、お前のそういう本心を隠したドライさいつものことだからな」
武弘はへそ曲りなことで知られている勇也の性格に一定の理解を示すように言った。
「別に本心なんて隠してないし、ドライであることも意識したことはないんだけどな」
「なら、我が身の言動をよく振り返ってみることだな。そうすれば、自分のことに対する理解も深まる」
「そんなもんか。まあ、お前の言うことはいつだって的を得ているし、その言葉は素直に受け取っておくよ」
「それが良いな。俺の言葉は宇宙の因果が吐き出させたものだし、その言葉を忘れなければ不条理に囚われることもあるまい」
武弘は顔に朗笑を拵えながら、遥か遠くにある惑星でも見ているような目をする。それを横目にした勇也は疲れたように息継ぎをすると、会話を繋げるためにツッコミを入れる。
「また、お得意の宇宙の因果か。正直、その言葉は耳タコだし、もっと面白い設定を作ったらどうだ?」
武弘も宇宙云々の話は本気で言っているわけではないのだろうが、それでも、時々、真に迫ったようなことも言うので、勇也も返す言葉に困ることがある。
「それは言ってくれるな。俺は興味を惹くような話をするのは得意だが、面白い話をするのは苦手なんだ。親友のお前なら何となく分かるだろ?」
親友という単語を強調する武弘は理解を求めるようにそう嘯いた。
「まあな。お前のボケたような言動は素だ。意識して面白い話をしなきゃならない芸人には向かないな」
でも、武弘の存在を重荷に感じることはほとんどない。力むことなく自然体で会話ができる相手というのは貴重だし、武弘がいない高校生活なんてイメージできなかった。
「さすがに分かっているな。と、話を変えるが、お前が生み出した上八木イリアの人気は凄まじいものがあるじゃないか。動画サイトの視聴回数も軒並み百万回を軽く超えているし、これなら、PR活動に入れ込んでしまうのも無理のない話だな」
武弘の言う通り、勇也は自分の住んでいる町、上八木市の歌って踊れるご当地アイドル、上八木イリアの生みの親だった。
上八木イリアのイラストを描いたのは勇也だし、設定を作り込んだのも勇也だ。
元々、市役所に務めていた勇也の従兄が町の活性化のためにご当地アイドルを作りたいから、勇也に協力して欲しいと頼んだのがきっかけだった。
勇也は絵を描くのが達者だし、漫画やアニメ方面の知識もそれなりにあったので、苦労はしたが何とかイリアのイラストを描くことができたのだ。
もちろん、魅力的かつ共感できるような設定付きで。
後はイリアのイラストをネット上の有志に3D化してもらい、ボーカロイドで声を付けて、動画サイトのVTUBEで配信する手筈になっていた。
配信の内容は言わずもがな、上八木市のPRだ。
が、その直前になって、従兄は市役所を辞めて東京のゲーム会社に就職してしまい、町の活性化、云々の話は白紙になってしまった。
なので、勇也はせっかく作ったイリアをそのままにするのは勿体ないと思い、自らこの町のPR活動をすることにしたのだ。
すると、それが思っていた以上に成功して、勇也は一躍、時の人となった。
勇也はテレビでも大きく報道されている場で市長に表彰してもらったし、本来はイリア・アルサントリスという名の女神は上八木市の名誉市民になり、より親しまれるように上八木イリアという名前に変更された。
今や上八木イリアの知名度は全国区になり、熱狂的なファンも付いている。当然、この町の老若男女からの幅広い支持も集めていた。
歌って踊れるご当地アイドルというのはイリアのキャッチコピーであり、それはファンたちの心に深く浸透している。
「でも、それに見合う苦労はさせられてるぞ。動画を作るのは意外と神経を使うし、VTUBEももう少し報酬の単価を上げてくれれば良いのに」
VTUBEでは視聴回数に応じて報酬が支払われる。普通は微々たる金額にしかならないのだが、視聴回数が何百万回にもなると結構な額が入ってくるので馬鹿にはできない。
もっとも、お金が欲しければ普通にアルバイトをした方が実入りは良いだろう。
勇也のような高収入を叩き出せる人間はそうはいないのがVTUBEの実情だし、やはり、世の中には簡単に大金を手に入れられるような旨い話は転がってはいない。
「それでも、一動画、万円単位で儲かってるんだろ。学生の身分に不相応な金を得ているのは羨ましいぞ。気分はもう金持ちか?」
「金持ちだって? 冗談だろ? 俺の家は借金まみれなんだ。それを返していかなきゃ大学にも行けやしない。お前みたいにただ勉強していれば大学に入れる一般人とは違うんだよ」
勇也は蒸発した父親が酒とギャンブルで残した多額の借金のことを意識すると、たちまち苦りきった顔をした。
安い賃金のパートで働いて借金を返している母親の苦労がしのばれる。もっとも、父親が酒やギャンブルに溺れるようになったのは母親がのめり込んだ宗教に原因があるので、ある意味、自業自得とも言える。母親の苦労も身から出た錆というやつだ。
だが、そのとばっちりを受けてしまった勇也としてはたまったものではなかった。だから、せめて大学に進学するためにも自分にできることをしてお金を稼ぎたかったのだ。
今のところはそれが上手くいっていて、このまま順調に進めば大学の学費くらいは何とかなりそうな塩梅になっていた。
「そのようだな。ま、俺もお前の家庭の事情には同情するし、何か困ったことがあったら言ってくれ。及ばずながら力になる」
武弘もここだけは茶化すことなく理解の色を見せるように穏やかに笑った。それを見ると、勇也の心に蟠っていた鬱屈した気持ちも和らぐ。
武弘はその言動に似合わず、さりげない気遣いができる男子生徒なので、それも勇也が彼を親友と認めている要因の一つとなっている。
そうでなければ、とことん変わった性格の武弘とここまで気安くできるような友情が芽生えることはなかったはずだ。
勇也が武弘と話していると、自分の背後に人の気配が生まれる。漂ってくるフローラルな香りに釣られて背後を振り向くと、そこには見知った顔の女子生徒がいた。
「あ、あの、柊君。家でクッキーを焼いてきたから、良かったら食べてもらえないかな……」
いつの間にか勇也の背後に立っていた可愛らしい女子生徒は、そう舌足らずな感じで声をかけてきた。
彼女の名前は宮雲雫と言って、学校でも指折りの美少女として知られていた。腰まで伸ばした長い射干玉の黒髪に人形のように整った顔立ち、大きくてつぶらな瞳などは彼女を美少女として構成する大きな特徴だ。
性格の方はかなり引っ込み思案だが、それが良いという声も多くあるし、概ね、どんな生徒たちからも好印象を持たれていた。
そんな雫は意外に思う人間も多いが、武弘の仲の良い幼馴染だった。
だが、武弘は雫には恋愛感情は持っていないと断言している。彼女には別に好きな人がいるというのだが、その人物については勇也もよくは知らない。自分は雫にある種の幻想を抱いているし、そんなことは知りたくもなかった。
とにかく、その辺の繋がりがきっかけで勇也も彼女とぎこちなくではあるものの接することができるようになったのだ。
「ありがとう、宮雲さん。クッキーなら俺も好きだし大切に食べさせてもらうよ」
勇也は照れ臭そうな顔でお礼を言った。
自分は高校二年生の男子生徒だが、彼女などはいないし、女の子と付き合ったこともない。なので、唯一、仲良くできている女の子の雫のことは色々と意識してしまうのだ。それが、こそばゆい。
「う、うん。食べ終わったら、いつものように感想を聞かせてもらいたいな……」
雫は勇也にどのような期待をしているのか傍目からでも分かるくらい、もじもじと恥ずかしそうな態度をしている。
それを見て、勇也は褒めてあげれば気が済むのかなと思ったが、それでは毎回のように感想を聞かせている意味がない。
やはり、褒めるのはクッキーの味そのものをちゃんと確かめてからでないと。その結果、美味しくなければその通りに伝えるつもりだ。
それができるくらいの付き合いの長さはあるし、例えお菓子の味に苦言を呈しても雫が自分に悪感情を持ったりしないのは理解している。
「分かったよ。宮雲さんの更なる精進のためにも忌憚のない意見を言わせてもらうから、期待してて」
そう言って、勇也が可愛らしくラッピングされた包みを受け取ると、たちまちクッキー特有の砂糖とバーターの甘い香りが漂ってきた。
これは絶対に美味しいと確信できるし、勇也も込み上げてくる嬉しさで心が蕩けそうになった。
ちなみに、雫が勇也にこのような形のやり取りをしながら手作りのお菓子を渡すのは今回でちょうど十回目だ。
なので、何回も食べてきた分、味の方は信頼しているのだが、ここ最近はお菓子の美味しさに更なる磨きがかかってきたように思える。
別に料理研究会に所属しているわけでもないのに、雫のお菓子に対してのこの熱の入れようは何だろうなと勇也も不思議に思う。
とはいえ、雫のお菓子作りに対する向上心は本物だし、そこは汲み取ってあげないと。
「ありがとう。柊君は優しいけど嘘は吐かないから私も信頼しているよ……」
「そっか。でも、嘘を吐かない、ってだけで味見役を俺なんかに任せて良いのかな。気の利いた感想を言ってくれる奴なんて他にもたくさんいるんじゃないの?」
まあ、他の男子だったら味のことなど度外視して、ただ盲目的に美味しいと言ってしまいかねないからな。
そういう意見は少しもためにならない。だからこそ、勇也も雫にお菓子の感想を聞かせる時は必要以上に苦心してしまうのだが。
「そんなことはないよ! 私は柊君に自分のお菓子の美味しさを認めてもらいたいの! だから、他の人じゃ駄目だよ!」
雫は必死とも言える形相で言ったし、これには勇也も心の地雷でも踏んでしまったかと思いたじろいでしまった。
「そこまで信頼を寄せられても困るけど、そういうことなら、その味見役は喜んで引き受けさせてもらうよ」
「うん。柊君の言う通り、もっともっと美味しいお菓子を作れるように頑張るから応援してくれると嬉しいな……」
雫は白くて造形美すら感じさせる両手の指を組みながら言った。
「応援なら既にいっぱいしているよ。だから、同じことを言うようだけど、俺なんかの意見で良ければ幾らでも聞かせてあげるって」
勇也は頼もしさを見せるように握り拳で自分の胸を叩いた。ここは男としての甲斐性の見せどころだと思いながら。
そんな勇也の放胆な態度を見た雫はどこか羞恥心を感じているような顔で口を開く。
「そう言ってくれると励みになるし、やっぱり、柊君は素敵な男の子だね……」
「素敵な男の子だなんて言われたのは初めてだよ。宮雲さんも見かけによらず、お世辞が上手なんだな」
「お世辞なんかじゃないよ……。私は昔からずっと柊君のことを見てきたし、柊君の良さは知ってるつもりだよ……」
「そっか。捻くれた受け取り方をして悪かったね。なら、俺も宮雲さんの言葉を信じて、もっと良い男になれるように頑張るよ」
こうなったら、雫の評価に値すると思えるような立派な男になってやろう。
そうすれば、雫との距離ももっと縮められるし、嬉しくなるような未来への展望も見えてくるはずだ。
「う、うん……。じゃ、じゃあね、柊君……」
そう恥じらうように言うと、雫は立つ鳥跡を濁さず、といった感じに話を終わらせて自分の席へと戻って行く。それから、近くの席の女子と愛想のある笑みを浮かべながら話し始めた。
一方、雫の後ろ姿を見て呆けていた勇也だが、その意識を武弘が引き戻す。
「雫は俺の大切な幼馴染だし、泣かせたら例え親友のお前でも承知しないからな。それはしかと肝に命じておけ」
武弘は自分がクッキーをもらえなかったことに拗ねている様子もなく、むしろ微笑ましそうな態度でフッと息を吐いた。
言葉とは裏腹に、武弘も雫のことでは自分を信頼してくれているようだし、その信頼は決して裏切れるものではない。
そこには誇りのような感情の機微がある。
まあ、武弘が雫に恋愛感情を持っていないのは間違いなさそうだし、それなら、自分にも雫の心を射止めるチャンスは少しはありそうだ。
そのチャンスを逃さないためにも、今度のクッキーの感想はいつもより気合を入れてみようかな。
きっと良い反応が返ってくるはずだし、雫を彼女にできるような取っ掛かりも見つけられるかもしれない。
そんなことを勇也が考えていると教室の扉が計ったようなタイミングでガラガラと開かれる。
現れたのは快活な感じの担任の教師で、今からホームルームを始めるから全員席に着けと張りのある大きな声で言い渡した。
「こんにちは、ヴァンルフトです。今日からたくさんの学校が夏休みになりますね。やっぱり、夏休みというものには、心が弾むものを感じます」
帰りのホームルームの最中に勇也は担任の教師に見つからないよう、器用にスマホを弄っていた。
普段から利用しているSNSの新着の通知が点灯していたのだ。
担任の教師の長話はまだまだ続きそうだったし、それには、いい加減うんざりしていたので、少しハラハラしながら新着の通知をタップした。
すると、普段からSNSで頻繁に交流している友達のヴァンルフトさんからのメッセージが届いていた。
ちなみに、ヴァンルフトというのはハンドルネームだ。
実際には、日本語を話せる学生ということくらいしか分かっていないので、もちろん本名などは知らない。
どういう人物かも言葉遣いや文章の雰囲気などから察するしかない。
要するに、真実は闇の中にあるとしか言いようがないのだが、SNSでの交流に限るなら、その程度でも十分だ。
相手の素性を必要以上に詮索しないのもSNSでのマナーの一つだからな。
「僕は今年の夏休みは苦手な飛行機に乗ることを覚悟して、英国のブリテンシアという町に行こうと思っています」
ブリテンシアなんて町は聞いたことがないな。でも、英国はグレート・ブリテンとも呼ばれているし、いかにも英国にありそうな町の名前だ。
「ブリテンシアの町にはブリダンティア学院という学校があるんですが、その学院は僕が通っている学校と姉妹校の関係を結んでいるんです」
ブリダンティア学院というのも聞いたことがないが、日本の学校と積極的に交流をしているなら、調べればすぐに分かりそうだ。
「だから、話に聞くだけでなく、実際に学院そのものを見てみたくなって。きっと得るものも大きいはずです」
その考えには賛成できるな。見聞を広めるのは人間にとって良いことだし、それが異国の地なら尚更だ。
「そうそう、ブリダンティア学院は秘密裏に魔術の授業もやっているって噂があるんですよ。ユウヤ君はそんな話を信じますか?」
魔術なんて力は信じていない。でも、オカルトマニアの武弘が聞いたら、喜んで話に乗っかってきそうだな。
もしかしたら、武弘ならブリダンティア学院のことや、学院に纏わる噂なども既に知っているかもしれない。
武弘なら何を知っていたとしても驚くには値しない。
まあ、武弘はオカルトの話になると口数がもの凄く多くなるので、勇也もこの手の話題を自ら振ったりはしないが。
「最近は科学の発達が凄まじくて、魔術など古臭い遺物のように思われています。が、それでも、魔術に惹かれる人たちはたくさんいるみたいですね。では、今日はこれで」
そこでヴァンルフトさんのメッセージは終わっていた。家に帰ったら、じっくりと言葉を考えて返信しよう。
にしても、魔術か……。
はっきり言って、自分の人生にはまるで縁のないものだな。でも、魔術を教えている学校なんて話を聞くと心が沸き立つものを感じてしまう。
まるで、ファンタジーの世界だし、やっぱり外国には日本にはないロマンがあるな。
全ての授業が半日で終わり、帰りのホームルームも終了すると、勇也は武弘と一緒に学校帰りのファミレスに寄った。
そこで昼食を済ませ、ドリンクバーの飲み物を片手に長々と世間話をするとファミレスを出る。自宅のある方角が違うので、帰り道の途中で武弘とは別れる。
すると、途端に手持ち無沙汰になった。こういう時間をダラダラ過ごして無駄にするのは勿体ない。時は金なりだ。
勇也は久しぶりに町の中心にある中央広場に建てられたイリアの銅像を見に行こうとする。PR動画でイリアをどう動かすか、そのインスピレーションが欲しかったからだ。
また銅像をよく見ることでイリアの今までとは違った一面や魅力を引き出せるかもしれない。今の自分には夏休みになったことで弛んでいる脳を活性化できるような刺激が必要だ。
そう思って自宅からはある程度、離れてしまう中央広場へと足を向けた。そして、辿り着いた中央広場にはかなりの人がいた。
子供連れの女性や散歩を楽しんでいる老人、若い男女のカップルなどがいて、皆、思い思いの場所でこの中央広場という場所を楽しんでいるようだった。
が、勇也がイリアの銅像の前にまで行くとおかしなことになっていた。
そこには制服姿の警察官が待機していて、驚くべきことにイリアの銅像が影も形もなく消えていたのである。
台座だけが何とも寒々しく残されていて、その前にいる警察官は近づく人間を監視しているような鋭い眼差しをしている。そのせいか、台座の周りに寄りつく人間はいない。
とはいえ、勇也にとっては他人事ではなかったので躊躇うことなく警察官に声をかけた。
「何でイリアの銅像がなくなっているんですか?」
イリアの姿を模倣した銅像はとある芸術家が市に寄贈したものなのだ。市の方もそれなら目立つところに建てようと町の中央広場に置いてくれた。
いつもなら、イリアの銅像の周りには人が絶えない。
それがなくなったとなると、市が何らかの理由で撤去したか、誰かが悪意をもって銅像を盗んだのかのどちらかだ。
「それが本官にも分からないのだ。今日の朝になったら、上八木イリアの銅像がなくなっているという連絡が来てな。それで銅像の行方を追っている」
勇也は銅像が撤去されたのではないと聞いてほっとしていた。自分の不始末でイリアのイメージがダウンするのは避けたかったからだ。
過去にテレビのインタビューでペンより重い物は持ちたくないと発言してイリアのファンたちからかなりの顰蹙を買ったことは忘れてはいない。同じ失敗を繰り返さないのが賢い人間というものだ。
「そうですか。もし、ただの盗みなら心ない人もいたものですね」
「同感だ。とはいえ、全国的に見るとこういう事件は珍しくも何ともないのだ。他の町でもご当地キャラクターのポスターや看板などが盗まれることはよくあるし」
それならテレビのニュースでも頻繁に取り沙汰されていたから知っている。
アニメのキャラクターが描かれたマンホールの蓋を盗む奴がいるのだから銅像が盗まれても何ら不思議なことではない。
盗人というのは、得てして常人には理解できないような物でも平気で盗んだりするものだ。
ただ、中央広場にはイリアの銅像が建てられる前から芸術的かつ宗教的な雰囲気を漂わせるモニュメントも建てられていた。モニュメントの大きさはイリアの銅像と同じくらいだ。
が、それが悪戯されたり盗まれたりしたという話はついぞ聞いたことがなかった。
イリアの銅像よりモニュメントの方が金銭的な価値は遥かに高い。金銭が目的だとしたら、イリアの銅像よりモニュメントの方をどうにかしたいと思うはず。
でも、モニュメントには今日まで何の問題も起きていないのだ。まるで神様にでも守られているみたいに……。
とにかく、イリアの銅像だけが何者かの悪意の標的になったことを鑑みると、やはりアニメや漫画のキャラクターの影響力は強いと言えるだろう。
こういうことが起きるからオタク文化への偏見がなくならないんだろうな。
ただ、イリアの銅像は大きくて重いものだし、それを盗むとなるとかなりリスキーな犯罪になるのではないかと思える。
盗んだ銅像をどう利用する気なのかは、勇也としても知りたいところだった。
「銅像は戻ってきそうですか?」
「そこら辺は何とも言えないな。それよりもこの町の警察は猟奇的な殺人事件の捜査で手一杯なんだ。残念だが、盗まれた銅像の捜査にたくさんの人員は割けんよ」
勇也は武弘も口にしていた猟奇的という言葉に今更ながら興味を惹かれるものを感じたが、追及はしなかった。
警察にあれこれ尋ねても教えてもらえないばかりか、悪感情を抱かれるだけだし、変に疑われても面倒なことになる。
ま、この手の犯罪は盗まれた品が戻ってくるということがなかなかないので、悲しいけれどイリアの銅像は消えたままに終わりそうだ。
銅像を建てるのに自分が何かしたわけではないので、思ったよりも落ち込みが少ないのが救いと言えば救いだが。
「残念ですね。あんなに立派な銅像だったのに……」
勇也はそう言うと蛻の殻といった感じの銅像のあった場所を後にして、トボトボと歩を進めながら自宅へと戻ろうとする。
そして、親戚が経営していて家賃などはタダで住まわせてもらっているアパートの前にやって来た。
ちなみに、母親は仕事の都合上、実家の家で暮らしている。その一方で、勇也は通学との兼ね合いも考えて、このこじんまりとした集合アパートでの独り暮らしを選んでいた。家事なども全て自分がやっている。
でも、家族が恋しいとは思わない。なまじ家族なんかがいるから余計な苦労を強いられたりするのだ。それなら、全ては自己責任ではあるが自由奔放な独り暮らしを満喫した方が良い。
幸いにも必要最低限の生活費は母親から渡されているし、それでも困るようなら何か対策を考えるさ。
そう割りきるように思って、アパートの玄関のドアを開けようとすると、不自然なことに鍵がかかっていなかった。学校に行く前にはちゃんと施錠にも気を付けていたのに。
勇也が恐る恐る玄関のドアを開けると、信じられないものが唐突に目に飛び込んでくる。思わず白昼夢を見ているのかと、自分の視覚を疑ったほどだ。
そこにはセミロングの金髪に宝石のサファイアのような青い瞳、透けるような白い肌に整いすぎているとも言える顔立ち、まるで見る者の心を鷲掴みにするような浮世離れした可愛い女の子がいた。
でも、その服装はなぜか黒と白を基調としたフリル付きのメイド服。当然のことながら、貧乏を地で行っている勇也が使用人を雇った記憶はなかった。
自分の目が確かなら、そこには上八木イリアによく似た、いや、瓜二つの女の子がフローリングの床に両膝を突いていた。土下座にも近い感じで。
これには勇也も自分の正気を疑いながら目をパチクリさせてしまう。
背中からは気持ちの悪い汗がどっと噴き出しているし、頭の方も思考がストップしてしまい、文字通り真っ白な状態になっていた。
「お帰りなさいませ、ご主人様。私はあなたの手によって生まれた、歌って踊れるご当地アイドル、女神イリア・アルサントリスです。これからこの家に住まわせてもらうのでよろしくお願いしますね!」
女の子はそう覇気に満ちた声で言ったし、これにはショックのあまり立ち眩みさえしそうになる。
何のドッキリだと言いたくなったが、生憎とその問いかけに答えられる者はいなかった。
勇也はいきなりメイド服の金髪美少女が現れたことに呆気に取られながら、どうなってるんだこれは、と途方に暮れた。




